2話 封筒をひったくる手

昼休みを少し過ぎても、教室の熱は抜けなかった。

窓の外では、別のクラスが中庭いっぱいに模造紙を広げている。刷毛を洗う水の音、誰かが脚立を引きずる音、のりの甘い匂い。その向こうから、文化祭とは関係のない笑い声まで風に混じって届いていた。校舎全体が明日のために騒がしくなっているのに、二年B組の教室だけは、昼食の終わったあとの眠気が薄い膜のように残っていた。

私は机の上に積んだ資料を、端から揃えていた。

実行委員の名簿、出し物の候補、各係の確認表。紙の角を合わせ、クリアファイルに入れ、赤ペンを右上へ置く。いつもならそれで落ち着くはずだった。

けれど、机の奥には封筒があった。

資料を一枚動かすたびに、白い封筒の位置を確かめてしまう。机の奥、名簿の控えの下。朝から何度も同じ場所を見ているのに、見ないとそこにあることが信じられなかった。

薄い水色の封筒だった。

白だと思っていたのは、教室の蛍光灯の下で見ていたからかもしれない。窓から入る光のなかでは、ほんの少しだけ青い。便箋も同じ色で、紙の表面は滑らかだった。指を置くと、ざらつきのない感触が皮膚に沿ってくる。

そのきれいさが、私には怖かった。

書いた文字だけが、紙の上で逃げられない。

「それ、今日も見てるね」

怜の声が、机の向かいから飛んできた。

私は反射的に机の扉を閉めた。けれど、閉めるには遅かった。怜は椅子を後ろ向きにして座り、背もたれに腕を乗せたまま、私の手元を見ていた。

「何を?」

「何をって言いながらしまうもの、だいたい何かあるじゃん」

「資料」

「資料をそんな顔で隠す人、初めて見た」

「顔は普通」

「普通の顔で、机の扉を二回閉める?」

一度目は勢いが足りず、半分開いていた。私はそれを思い出して、もう一度押し込んだ。金属の留め具がかちりと鳴る。

怜は、口元だけで笑った。

「ねえ、雫。昨日からそれ、ずっと持ってるよね」

「持ってない」

「じゃあ、机が持ってる」

「そういうこと」

「そういうことにするんだ」

怜は笑いながら立ち上がった。教室の後ろでは、数人の男子が段ボールを組み立てている。折り目のついた厚紙がばりばり鳴り、誰かが「そこ逆」と声を上げた。視線をそちらへ向けた怜が、すぐに私へ戻ってくる。

その戻り方が早かった。

私は名簿を開いた。氏名の欄を上から追い、担当表との照合を始める。怜の名前の横には装飾補助と書かれていた。私は赤ペンでその文字の傾きを直した。実際には傾いていない。少しも曲がっていない。けれど、直す理由が必要だった。

「雫」

「今、確認してるから」

「何を?」

「担当」

「私の担当は飾り付け。雫の担当は隠しものの管理?」

「そういう担当はない」

「じゃあ、臨時で作ろうよ。明日の朝までに、雫の机の中にある秘密を全部回収する係」

私は赤ペンを置いた。

「怜」

名前を呼んだだけで、怜の笑いが一瞬止まった。

それでも彼女は、止まったことを見せないように肩をすくめた。

「はいはい、冗談です。そんな怖い声出さなくても、私は雫の秘密なんか興味ないって」

「だったら、触らないで」

言葉が出たあとで、教室の音が遠くなった気がした。

怜はすぐには返事をしなかった。

窓から入った風が、机の上の確認表を一枚だけめくった。紙が浮き、落ちる。扇風機の羽根がその動きを追いかけるように、低い音を立てて回っている。

「……触らないで、って言うんだ」

「言うよ」

「前は言わなかった」

「前と今は違うから」

「何が違うの」

「知らない」

「知らないのに、違うって分かるの?」

私は視線を名簿へ落とした。

名前の並びは整っている。怜の隣に、別の名前が続いている。紙面の上では、誰もが同じ幅で並び、同じ黒さで印刷されていた。そこにどんな声があり、どんな沈黙があり、誰が誰を見ているのかまでは、書かれていない。

「分からないけど、触られたくないものはある」

「私が触った?」

「まだ触ってない」

「まだ、ね」

怜の声から、少しずつ笑いが抜けていた。

私はそこで、言い過ぎたと思った。けれど謝る言葉を探す前に、怜が机へ手を伸ばした。

動きはいつもと同じだった。

近くにあるものを、考えるより先に取る。人のペンを借りるときも、消しゴムを拾うときも、怜はそうだった。手が先に出て、あとから「いい?」と聞く。私たちのあいだでは、それが長いあいだ許されていた。

だから、封筒に伸びた手を見た瞬間、私は一拍遅れた。

怜の指が、机の奥から水色の封筒をつまみ出す。

「怜」

呼んだ声は、自分のものとは思えないほど小さかった。

「なにこれ。雫、こういうの持ってたんだ」

「返して」

「え、なに。見せてくれないの?」

「返して」

「そんなに慌てると、余計に気になるんだけど」

怜は封筒を顔の横へ掲げた。光が水色の紙を透かし、封の部分に貼った小さな丸いシールが見えた。私はそれを選ぶのに、文房具店で二十分近く迷った。目立ちすぎず、子どもっぽくなく、でも無機質すぎないもの。そんな基準をいくつも並べて、最後には自分でも理由が分からなくなっていた。

「返して。今すぐ」

私は立ち上がった。

椅子の脚が床を擦り、近くの机に当たった。男子の一人が振り向いたが、怜が「ごめん、ちょっと資料落としただけ」と笑って手を振る。誰もそれ以上気にしなかった。

私だけが、息の仕方を忘れていた。

「雫、そんな顔するなら、最初から見せてくれればいいのに」

「見せるものじゃない」

「じゃあ、何? 提出物? ラブレター?」

怜は笑いながら言った。

その言葉が教室の中央に落ちた。

私は手を伸ばした。封筒に触れる前に、怜の指が封の端へ滑った。

「やめて」

「はいはい、開けないって。中身を当てるだけ」

「怜」

「だから、そんな本気で呼ばなくても――」

封の端に、怜の爪が入った。

紙が裂ける音は、思っていたより小さかった。

けれど私には、教室のすべての音を押しのけるほど大きく聞こえた。胸の内側に細い刃物を差し込まれ、そのままゆっくり引かれたようだった。

怜の笑顔が、そこで初めて崩れた。

封筒から便箋を取り出す。水色の紙が、怜の手のなかで一度だけ震えた。

「……ごめん、これ、ほんとに開くと思わなかった」

「返して」

「うん、返す。返すけど……」

怜の目が、便箋の上を動いた。

私は何を書いたか、見なくても分かる。

律へ。

この二文字を紙のいちばん上に置くまで、私は何度も書き直した。大きすぎる。小さすぎる。左に寄っている。丁寧すぎて他人行儀に見える。名前を書くだけなのに、そこへたどり着くまでに何枚も破った。

その下には、好きです、と書いてある。

けれど、その後ろには、急にこんなことを言ってごめんなさい、と続けた。迷惑だったら忘れてください、と書き、すぐに消した。忘れてほしいのに、忘れられるのは嫌だった。返事はいりません、と書いて、その次の行に、できれば今まで通り話してほしい、と書いた。

告白というより、逃げ道の多いお願いだった。

怜の視線が、最後の行で止まる。

私は自分の手を見た。指先が固まっている。伸ばしたままの右手が、便箋と怜の間で宙に浮いていた。

「律、なんだ」

怜が言った。

声は小さかった。それでも、名前を聞いた瞬間、便箋の上にあった文字が声を持ったように感じた。

「返して」

「雫、律のこと……」

「返して」

「分かった、返す。でも、これ、いつ渡すつもりだったの?」

「返して」

「焼くつもりだった?」

私は答えなかった。

怜の顔に、驚きと困惑が重なった。彼女は私の沈黙を、いつもなら冗談のきっかけにする。けれど今度は、すぐに笑えなかった。

その代わり、無理に笑った。

「なにそれ。告白して、燃やすの? 雫、順番が独特すぎない?」

笑い声がひとつ、乾いて響いた。

私は手を下ろした。

怜は笑いながら、便箋を持つ手を引かなかった。返す気がないのか、返し方が分からないのか、私には判断できなかった。彼女の指が紙の端を押さえている。その押さえ方が強く、便箋に新しい折り目がつきそうだった。

「折らないで」

「折ってないよ」

「指、そこ」

怜は慌てて手をずらした。

「ごめん。ごめんって。そんな大事なものだと思わなくて」

「大事じゃない」

「大事じゃないなら、なんで焼くの」

言葉が詰まった。

大事ではないと言った口で、大事だった理由を説明することはできなかった。

私は便箋を見た。滑らかな紙の上に、私の文字が並んでいる。丁寧に書こうとして、かえって震えた線。消しきれずに残った薄い跡。何度も書き直したせいで、紙の一部だけがわずかにへこんでいる。

「見られたくなかったから」

やっと出た声は、自分でも驚くほど平らだった。

怜は黙った。

「好きって書いたから?」

「それもある」

「じゃあ、何が違うの」

「書いたものを見られるのと、言うのは違うから」

「同じじゃない?」

「違う。言うなら、そのときの自分で言える。でも書いたものは、書いたときの自分がそのまま残る。直したところも、消したところも、迷った時間も、全部その紙に残る。私がどれだけ変なことを考えて、どれだけ怖がって、どれだけ自分を嫌いになったかまで、紙を見れば分かる」

怜の手が止まった。

私は続けた。止めたら、もう二度と話せない気がした。

「だから返して。読むなら、せめて私が渡すまで待って。渡すかどうかを決めるのも、燃やすかどうかを決めるのも、私がすることだった。怜が悪気なく取ったことくらい分かってる。いつもの冗談だったことも、私を困らせるつもりじゃなかったことも分かってる。でも、分かってるから怒れない。怒れば簡単だから。勝手に触らないでって言えば、私は正しい側に立てる。でも今は、正しいかどうかより先に、見られたくなかった。見られたら、こういうふうにしか思えない自分まで知られるから」

最後の言葉が落ちると、喉の奥が急に狭くなった。

教室の後ろで、段ボールの底が抜けた。誰かが笑い、誰かが「大丈夫」と言った。扇風機は変わらず回っている。窓の外から、のりの匂いが入ってくる。

怜は便箋を見たまま、長い息を吐いた。

「……雫、ごめん」

その言葉のあとに、いつもの軽口は続かなかった。

怜は便箋を封筒へ戻した。端を合わせようとして、二度失敗する。紙の角が少しずれ、怜の指がそこを何度も撫でた。

「本当にごめん。読んだ。読んじゃった。途中でやめようと思ったけど、もう見えたからって、そのまま読んだ。たぶん私、雫ならあとで笑って許してくれると思ってた。いや、許してくれるっていうより、雫が怒れないのを知ってて、そこに甘えた。いつも何でも言えるから、何をしても大丈夫だと思ってた」

「……」

「でも大丈夫じゃなかった。分かってる。雫がさっき言ったこと、たぶん全部その通り。私、雫が黙ると、考えてる時間だって待てなくなる。何か言えば元に戻ると思ってる。笑わせれば、前と同じになると思ってる。でも、戻らないものもあるんだね」

怜の声は、ところどころ掠れていた。

「これ、返す。もう勝手に見ない。誰にも言わない。律にも、もちろん言わない。……いや、そういう約束だけで済む話じゃないけど。雫が私を信用できなくなっても、仕方ないと思う。明日から話したくなかったら、話さなくていい。隣に座りたくなかったら、座らない。私が勝手に昔みたいにしようとしない」

そこまで言って、怜は封筒を差し出した。

私はすぐには受け取れなかった。

怜の手と、私の手の距離はほんの数センチしかない。便箋を挟んだ紙の厚みより、ずっと近い。それなのに、その間に昨日までなかった何かがある。

「……読んだところ、忘れられる?」

怜は目を伏せた。

「たぶん、無理」

正直な答えだった。

「でも、他の人に渡したり、笑い話にしたりはしない。私の中に置く。雫が嫌なら、置き方も考える」

「置き方なんてあるの」

「分からない。でも、捨てるとか、なかったことにするとか、そういうのは違う気がする。だって雫が書いたものだから」

その言葉が、胸の奥に引っかかった。

怜はようやく封筒を私の手のひらへ乗せた。紙が触れた瞬間、冷たいはずの封筒が熱く感じられた。怜の指が離れる。触れそうで触れないまま、二人の手のあいだにわずかな空気が残った。

封筒の端には、怜の爪がつけた浅い傷がある。

私はそれを指で撫でた。

「……私、これ、渡すつもりだった」

「律に?」

「分からない」

「渡すつもりだったのに、分からないの?」

「渡したいと思った。でも、渡したあとにどうなるか考えたら、渡したくなくなった。律に嫌われたくないとか、困らせたくないとか、そういうのもある。でも、一番怖いのは、律に見られたあとで、私が私をどう見ればいいか分からなくなることだった」

怜は黙って聞いていた。

今度は、沈黙を埋めようとしなかった。

私は封筒を両手で持った。紙の薄さが、かえって重かった。

「だから焼こうと思った。焼けば、少なくとも自分で終わらせられるから」

「終わる?」

「終わると思ってた」

「今は?」

私は答えられなかった。

焼却炉へ持っていくために、封筒はここにある。けれど、怜に読まれたあとでは、燃やしても元には戻らない。読まれる前の紙には戻れない。怜の目に触れた文字は、もう私だけのものではない。

その事実が、遅れて体の中へ入ってきた。

怜が、机の端に置いてあった缶ジュースを取った。冷蔵庫から出したばかりなのか、表面には水滴がびっしり浮いている。彼女はそれを私へ差し出した。

「飲む?」

私は見た。

銀色の缶から水滴が一つ落ち、机の上に小さな輪を作った。

「いらない」

「うん。そう言うと思った」

「だったら聞かないで」

「聞かないと、私が何もしてないみたいになるから」

怜は自分で缶を開けた。ぷし、と炭酸の抜ける音がする。ひと口飲んで、顔をしかめた。

「ぬるい」

「冷たいって言ったじゃん」

「手に持ってるあいだにぬるくなった。雫のせい」

「私のせいにしないで」

「ごめん。今のは冗談」

怜はそう言って、笑おうとした。

笑いは途中で止まった。

私は封筒を制服のポケットへ入れた。薄い紙なのに、布越しに存在が分かる。怜の視線がそこへ落ちたが、もう手を伸ばさなかった。

「帰り、旧館へ行く」

私が言うと、怜は缶を持ったまま顔を上げた。

「焼くの?」

「たぶん」

「一人で行く?」

「そのつもり」

「そっか」

怜は一度だけ頷いた。

それから、すぐには何も言わなかった。以前なら、危ないよとか、怖いよとか、じゃあ私も行くとか、いくつも言葉を重ねただろう。けれど今は、缶の水滴を親指で拭っている。

私はその沈黙を、初めて怜のものとして見た。

怜も、何を言えばいいのか分からないのだ。

「……ついてきてもいい」

私が言うと、怜の指が止まった。

「いいの?」

「分からない。でも、勝手についてくるよりは、聞いてからのほうがいいと思う」

怜はしばらく私を見た。

目が合いそうになり、私は黒板へ視線を逃がした。そこには、朝に消したはずの「喫茶」「演劇」「展示」の輪郭が、白い粉の筋として残っている。消された文字は、もう読めないほど薄い。それでも、そこにあったことだけは分かる。

「じゃあ、聞く」

怜の声がした。

「一緒に行ってもいい?」

私は一拍置いた。

「……うん」

「分かった」

怜はそれ以上、喜ばなかった。ほっとした顔も、冗談も出さなかった。ただ、缶を机の隅へ置き、私の資料の束から落ちていた紙を拾った。

紙の角を揃え、クリアファイルへ戻す。

いつもなら、私がやる仕事だった。

「それ、順番違う」

「え、そうなの?」

「名簿の控えが先」

「はい、書記さん」

「ふざけないで」

「ごめん。……書記さん」

私は思わず、息を漏らした。

笑いではなかった。けれど、怜はそれを笑いに変えなかった。拾った紙を持ったまま、少しだけ口元を緩める。

教室の時計が、午後一時を過ぎていた。

外では、誰かが明日の舞台の名前を叫んでいる。廊下を走る足音が近づき、また遠ざかる。私たちのあいだには、封筒一枚分の沈黙が残っていた。

私はそれをポケットの上から押さえた。

夕方になったら、旧館へ行く。

焼却炉の火の前で、今度こそ燃やすのか。それとも、まだ決めないのか。自分でも分からなかった。

ただ、封筒を机の奥へ戻すことだけはしなかった。

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