第1話 黒板に残る輪郭

夏休み明けの市立青葉高校は、窓を開けても熱が逃げなかった。
海沿いの高台に建つ校舎なのに、風は途中で誰かに捕まったみたいに弱く、開け放した窓から入ってくるのは、潮の匂いを薄く含んだ湿気だけだった。教室の扇風機は、机の上のプリントを一枚だけ持ち上げ、裏返すこともできずに落とした。羽根の回る音が、疲れた咳のように低く続いている。
黒板には、文化祭の出し物の候補が残っていた。
喫茶。演劇。展示。
どれも一度は大きく書かれ、そのあと誰かの手で消されている。けれど黒板消しは文字を完全には奪えない。白い粉の筋が、書かれていた場所の輪郭だけを薄く浮かび上がらせていた。消したはずの言葉が、消される前より静かにそこにいる。
私は教卓の脇に置いた名簿を開き、二年B組の名前を上から順番に追った。
出席番号、氏名、担当。欠席者の欄には、朝の連絡で聞いた理由を小さく書き足していく。家の都合。部活動。体調不良。理由を書き終えるたび、赤ペンの先を紙から離し、文字の大きさが揃っているか確かめた。
「雫、そこまで揃える必要ある?」
怜が私の肩越しに名簿を覗き込んだ。
汗で少し湿った髪が頬に張りついている。彼女は自分の席から持ってきた団扇を片手に、私の背中へ風を送っていた。風は涼しくなかったが、怜が何かしているというだけで、教室の空気は少し動いた。
「担当表の欄がずれてるから」
「一段くらい、気持ちで読めるって。ほら、ここなんか名前が斜めになってるけど、人生まで斜めになったわけじゃないし」
「……人生の話はしてない」
「してないけど、するなら今かなって」
怜はそう言って、ひとりで笑った。私は笑うべきだった。いつものように、ほんの少し口元を上げればよかった。
けれど、笑いが一拍遅れた。
怜の笑い声が先に細くなり、団扇を動かす手が止まった。
「今の、笑うところだったんだけど」
「分かってる」
「分かってる人の返事じゃないんだよね、それ」
私は返事の代わりに、名簿の紙を持ち上げた。紙の端が汗ばんだ指に貼りつく。赤ペンの線が、さっきより太く見えた。
怜は私の机の中を覗こうとした。私は反射的に肘を引き、机の奥を隠した。
その動きは、あまりにも早かった。
怜の目が、私の手元に落ちる。
「何か入ってる?」
「名簿」
「名簿の奥に?」
「控えの名簿」
「そのさらに奥に?」
「……何もない」
言いながら、私は机の縁を指で押さえた。
奥には封筒がある。白い封筒。厚みはほとんどないのに、そこだけ机の中が深くなったように感じる。朝、家を出る前に一度取り出し、鞄へ入れようとして、やめた。学校へ持ってくるべきではなかったと思いながら、机の奥へしまうのも不安で、結局、授業の合間に何度も位置を確かめている。
封筒の角が指先に触れるたび、掌の内側が熱くなった。
「雫ってさ」
怜は団扇を机の上に置き、椅子の背に腰を預けた。
「隠すの、下手だよね」
「隠してない」
「じゃあ、守ってる?」
私は赤ペンのキャップを閉めた。小さな音が、教室のざわめきに紛れず残った。
「同じようなものじゃない?」
「全然違うよ。隠すのは、見つかったら困るもの。守るのは、見つかっても困るけど、なくなったらもっと困るもの」
怜の言い方は軽かった。けれど、軽い言葉ほど、時々こちらの手の届かないところまで入り込んでくる。
私は黒板へ向かった。
「候補、消していい?」
「まだ決まってないよ。今日の委員会で決めるんでしょ」
「消してから書き直す」
「それ、決まってないものをいったん消したことにするだけじゃない?」
黒板消しを手に取る。白い粉が指の腹に付着した。
「残ってると見づらいから」
「残ってるもののほうが、大事なときもあるのに」
怜の声が、背中の近くで止まった。
私は振り返らなかった。
黒板の「演劇」の文字を、端からゆっくり消していく。完全に消すには力が要る。力を入れすぎると黒板消しの角が欠け、粉が舞う。弱すぎると、書かれていた文字の白さだけが濃く残る。
手紙も、似ていた。
最初に書いたのは、夏休みに入ってすぐだった。
律へ。
そこまで書いて、三時間動けなかった。名前の二文字が紙の中央にあるだけで、その下に続くすべての言葉が決まってしまうように思えた。好きです、と書いた。けれど次の行に、急にそんなことを言ってごめんなさい、と書いた。消しゴムでこすると紙の表面が毛羽立ち、書き直した文字が前の文字の上で濁った。
それから何度も書いて、何度も破った。
破るときは、二つに折ってから裂いた。細かくすると、書かれていたことまで細かく消えるような気がした。けれど、破片を捨てたあとも、書き出しや結びの言葉だけは残った。自分の頭の中に、読めないほど小さくなった文字がいつまでも居座った。
最後に選んだ便箋は、薄い水色だった。紙の表面が滑らかで、シャープペンシルの芯が引っかからない。封筒も同じ色で揃えた。角を撫でると、ほんの少し丸みがあった。
きれいな紙だった。
きれいだからこそ、そこに自分の文字を置くのが怖かった。
私は黒板の端に残った「展示」の輪郭を見つめた。消したあとに残る白い影は、失敗した文字に似ている。なかったことにしたいものほど、形だけが長く残る。
「雫」

怜の声で、私は振り向いた。
彼女は机の上に置いた名簿を指で叩いていた。
「今日、律が舞台のほうから来るって。出し物、演劇寄りになるかもしれないから、担当表また変わるよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないけど」
「顔は関係ない」
「あるよ。雫は顔に出ないぶん、手に出るから」
私は手を見た。
赤ペンを握ったまま、指先に力が入っている。爪の脇が白くなっていた。
怜はその手を見て、何か言いかけた。けれど、いつものように冗談へ逃げる代わりに、団扇を拾い上げた。
「暑いね」
「うん」
「帰り、何か買って帰ろうか。炭酸とか。雫、最近ずっと水しか飲んでないでしょ」
「いらない」
「遠慮?」
「違う」
「じゃあ、いらない顔?」
「顔で決めないで」
そこまで言うと、怜は一度だけ目を瞬いた。
私の言葉は、思っていたより鋭く出た。怜の笑顔が少しだけ遅れて戻る。戻ったけれど、目の奥までは戻っていない気がした。
「ごめん。顔で決めない」
「……私も、ごめん」
「雫が謝るところじゃないよ」
「でも」
「でも、って言い始めると、だいたい雫が悪くないことまで雫のせいになるから」
怜は、いつもの軽い調子を保とうとしていた。けれど最後のほうは、声がうまく笑いに乗らなかった。
教室の外から、段ボールを引きずる音がした。誰かが廊下を走り、別の誰かが「危ない」と叫ぶ。文化祭まであと二日しかない。みんな、自分の担当を遅らせないために動いている。照明、脚立、模造紙、食券、音響。役割は細かく分かれ、名前がそれぞれの場所に割り振られていく。
私は名簿を閉じた。
閉じる前に、怜の名前の横へ目が止まった。装飾補助。律の名前は舞台係。私の名前は記録・進行補佐。
紙の上では、私たちはきちんと並んでいる。
けれど、名前と名前の間には、書かれていない距離がある。その距離を測る道具を、私はまだ持っていなかった。
怜が窓の外を見た。
高台の下に、港が見える。昼の海は白く光り、住宅街の屋根は湿気の向こうでぼやけていた。夕方になれば、あそこに一つずつ灯りがつく。誰かの家の灯り。誰かが帰って、食卓を囲み、今日のことを話す場所。
「雫、帰らないの?」
「まだ仕事がある」
「仕事って、名簿をあと三回並べ替えること?」
「二回」
「減った!」
怜が笑った。今度は、私も少しだけ笑えた。笑ったあとに、胸の奥に小さな痛みが残る。笑えてしまったことが、かえって苦しかった。
怜が窓を閉めようとしたとき、風が一度だけ強く吹いた。
机の上のプリントがめくれ、黒板の下に置いていた紙片が床へ滑った。私はすぐにしゃがみ込んで拾う。紙片には、出し物候補の走り書きがあった。
『朗読劇にするなら、読む人が必要』
誰が書いたのか分からない。けれど、文字の癖で律のものだと気づいた。
私はそれを黒板の端へ戻した。消すべきか迷い、結局、消さなかった。
机へ戻る途中、封筒の角が膝に触れた。
制服の布越しでも、その存在が分かる。
帰りに旧館へ行こうと思った。
焼却炉が使えるかどうか、昼休みに用務員の人から聞いていた。文化祭前の紙ゴミが増えているから、古い焼却炉を一時的に開けることがあるらしい。そこで燃やせば、便箋は灰になる。書いた言葉も、何度も書き直した跡も、誰にも読まれずに済む。
私は黒板を見た。
喫茶。演劇。展示。
消された文字の下に、さらに古い線が残っている。何を書いて、何を消したのか、もう誰にも分からない。それでも輪郭だけは、消えずに浮かんでいる。
封筒の中身も、そうなるのだろうか。
燃やせば、なくなるのだろうか。
私は机の奥へ手を伸ばし、封筒を指先で確かめた。滑らかな紙の感触が、熱を持った皮膚に貼りついた。
そのとき、怜が私の手元を見た。
「雫」
呼ばれただけなのに、心臓が一度、強く鳴った。
私はすぐに机の扉を閉めた。
「なに?」
「……いや」
怜は言葉を止めた。言いたいことがあるのか、ただ名前を呼んだだけなのか、私には分からなかった。
分からないまま、私は封筒を握っていた。
白い蛍光灯の下で、黒板には消しきれない文字の跡が残っている。教室の外では、誰かがまた私の名前を呼んだ。文化祭の段取りが、明日の予定が、まだ片づいていない紙の束が、私たちを同じ場所へ引き戻そうとしていた。
私は返事をする前に、一拍だけ長く息を止めた。
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