第4話 夜明け前の畳

夜明け前の三ツ橋荘は、外壁に張られた赤い立入禁止テープだけが、白みはじめた空の中で鮮やかだった。
建物はまだ眠っているように見えた。だが、眠りとは違う。人の気配を失った部屋が、互いに音を返し合っている。足場の金属が風に鳴り、二階の窓枠がかすかに震え、階段の板が冷えた木の匂いを吐き出していた。
赤城蓮は、一〇一号室の畳に膝をついていた。
窓の外から差し込む光は、壁紙の剥がれた部分だけを白く照らしている。めくれた紙の縁、下地に残る糊の跡、その上から塗られた薄い補修材。壁は一枚の面ではなかった。古い傷の上に新しい傷が重なり、誰かが隠そうとした手つきまで、層になって残っている。
赤城は、壁紙の端から指を離した。
剥がれ方が不自然だった。
表面が乾燥して浮いただけなら、紙はもっと無秩序に裂ける。だがここでは、壁と紙の境目に沿って、細く、長く剥離していた。いったん開けた人間が、あとから元の紙を戻したように見える。
「そこ、やっぱり一度触られてますね」
背後で野口が言った。
若い解体作業員は、手袋の縫い目を親指で確かめてから、壁際にしゃがみ込んだ。日焼けした頬に眠気は残っていたが、道具を手にすると目の色が変わる。小型のへらを取り出し、壁紙の端へ当てる前に、指先で下地をなぞった。
「糊が二種類あります。古いほうは紙の繊維に染みて固まってる。こっちは後から薄く塗り直した跡です」
「補修した人間が、紙を剥がして戻した?」
「たぶん。普通の補修なら、傷んだ部分を切って、新しい壁紙を継ぎます。わざわざ元の紙を戻す必要はないですから」
「見られたくないものがあった」
「そう考えるのが自然ですね」
野口は軽く肩をすくめた。
「ただ、建物ってのは、見られたくないものがあるほど、剥がれ方がきれいになります。急いで塞ぐから、かえって手順が残る」
「壊す側の人間が、そんなことを言うんですね」
「壊す側だから分かるんです。乱暴に壊せば何でも粉になる。けど、粉になったものは、見つかったとは言えないでしょう」
野口の言葉には、若さに似合わない重さがあった。以前、壁の中から重要な痕跡が出たとき、先輩の指示に従って一気に壊し、何があったのか確認できないまま廃材にしたことがあるという。赤城はまだ詳しく聞いていなかったが、野口がへらを扱う手の慎重さは、その後悔から来ているのだろうと思った。
畳の縁を、赤城はもう一度見た。
窓側の一枚だけが、ほんのわずかに沈んでいる。表面に目立った汚れはない。だが、ほかの畳より縁の目が揃いすぎていた。誰かが何度も押さえ直したような、妙な均一さがある。
「畳を動かします」
野口が言った。
「先に写真を撮ってください」
「はい」
野口はメモを取るより早く、作業用の携帯端末で畳の周囲を撮影した。壁紙、柱、畳の角、窓際の床。撮影の順番に迷いがない。
「写真、そんなに要るんですか」
「同じ場所でも、角度が違うと見えるものが変わります。あとで誰かに、最初からこうだったと言われたとき、写真がないと困るんで」
赤城はその言葉を聞き、野口の横顔を見た。
この若い男は、まだ何も知らない。それでも、壊す前に残すということの意味を、自分の手の失敗から覚えようとしている。
野口が畳の縁へ指を入れた。
「持ち上げます」
「ゆっくり」
畳が軋んだ。乾いた藁の匂いが立ち、縁の下から細い紙片が覗いた。
赤城は手袋をつけ、野口の動きを止めた。
「そこから先は、私が」
紙片は便箋の端だった。灰色の埃が表面に薄く付着している。折り目は二本。角は乱れていない。誰かが急いで丸めたのではなく、平らな紙を決められた形に折り、畳の縁へ滑り込ませたのだ。
赤城はピンセットで取り出した。
紙は湿気を吸って硬くなっていた。指先で直接触れなくても、繊維のざらつきが想像できる。藤本の店で見た廃番の便箋と同じ紙質だった。安価で、少し粗い。インクが表面に浮かず、文字の圧力まで残る紙。
残されていた文は、途中で途切れていた。
――あの夜、最初に聞こえたのは、
赤城は紙片を明かりの下へ持ち上げた。
文字の終わりに、乱れはない。筆が滑った跡も、急いで払いを止めた跡もない。文章を途中で断ち切ったのに、最後の一画だけは丁寧に置かれている。
「書きかけでしょうか」
野口が訊いた。
「書きかけなら、続きを書くための紙や筆記具が近くにあるはずです」
「でも、ない」
「ええ。だから、途中で書けなくなったのか、最初からここまでしか書くつもりがなかったのか、そのどちらかです」
野口は壁を見上げた。
「ここに置くために、わざと切った?」
「可能性はあります」
「普通は、最後まで書きますよね」
「普通なら」
赤城は紙片を透明な袋に入れた。
新聞記者だった頃、赤城は文章の途中に残った空白を、しばしば「未整理」と呼んだ。書き手の都合、取材不足、時間切れ。そうした理由をひとまとめにして、記事から切り捨てた。けれど、空白そのものが何かを示していることもあった。書けなかったのではなく、書かないことを選んだ人間がいる。
彼はメモ帳を開き、「急がない筆圧」と記した。
そのとき、階下から紙をめくる音が聞こえた。
赤城が廊下へ出ると、共同炊事場の蛍光灯の下に久我が立っていた。工程表を胸に抱え、空いた手で書類の角を揃えている。朝の湿気は冷たいのに、シャツの襟元には薄く汗が浮かんでいた。指がそこへ伸び、皺をなぞっている。
「まだ作業は始めないでください」
久我は赤城を見るより先に、工程表へ視線を落とした。
「作業員には、予定どおり入ってもらいます。止める理由がありませんから」
「壁の下から便箋が出ました」
「先ほども見せていただきました。古い紙でしょう」
「内容が途中で切れている」
「古い紙なら、そういうこともあるでしょう」
「水沢里奈さんの字に似ています」
久我の指が、工程表の角を押さえた。
「筆跡の判断は専門家に任せるべきです。赤城さんが似ていると思われたとしても、それだけで工事を延期する根拠にはなりません」
「延期ではなく、確認です」
「確認には時間がかかります。工事は時間で動いています。作業員も、搬出業者も、すでに手配済みです。ここで一部だけ止めれば、全体に影響が出る」
「影響が出るのは、会社の工程ですか。それとも、水沢さんの記録ですか」
久我は一度、目を伏せた。
「記録は、感情とは別のものです。住人がいなくなったあと、部屋を確認し、荷物を処分し、鍵を回収する。そういう手順を踏んで、退去として記録される。水沢さんの件も、それに従っただけです」
「誰が部屋を確認したんですか」
「当時の担当者です」
「名前は」
「記録に残っていません」
「鍵を回収した人間は?」
「返却されたはずです」
「はず、という言葉が多いですね」
「二年前のことです」
「二年前だから、確認できないんですか。それとも、確認しないまま処理したんですか」
久我は工程表を閉じた。
「赤城さんは、記録に対して少し厳しすぎる。現場というのは、すべてを一つずつ確定できるほど整っていません。人がいなくなり、荷物がなくなり、近隣から苦情が出れば、管理者は部屋を空けなければならない。空いた部屋を次へ回す。それが仕事です。そこへ、あとから『本当は何があった』と持ち込まれても、当時の人間は答えようがない」
「答えようがないことと、答えなくていいことは違います」
「答えないのではありません。記録がないんです」
「記録がないなら、ない理由を記録すべきでした」
久我の手が襟元へ伸びた。今度は皺を直すのではなく、布を強くつまんだ。
「記録が増えれば、管理が正しくなるわけではありません。記録は、現場を動かすための道具です。増やしすぎれば、かえって何も決められなくなる」
「誰かの不在を、数字ひとつで片づけるのも、現場を動かすためですか」
「そういう感傷的な言い方は困ります」
「感傷ではありません。退去日と原状回復の日が食い違っている。確認者の印がない。鍵番号もない。これは感情ではなく、不整合です」
久我の顔が、ゆっくり硬くなった。
「台帳の扱いについては、会社で確認します」
「工事が始まる前に?」
「できる限り」
「できる限りでは、壁が先に壊れます」
久我は返事をしなかった。
その沈黙の中で、二階の廊下が鳴った。
短く、乾いた音だった。
赤城と久我が同時に階段を見た。少し間を置いて、もう一度鳴る。音は一〇一号室の前から返ってきた。床板が沈み、釘が木の中でわずかに動く音だった。
「建物の収縮です」
久我が言った。

「そうかもしれません」
「なら、現場を騒がせる必要はない」
「音の説明をしているのではありません。あなたが、いま何を聞いたのかを訊いています」
久我の視線が、赤城から逸れた。
赤城は階段を上った。野口が一〇一号室の前で待っている。彼は廊下の床に片手を置き、板の継ぎ目を見ていた。
「いまの音、聞きました?」
「二回」
「澄江さんも、二度鳴ったと言っていました」
「同じ音かどうかは、まだ分かりません」
野口は床板の端を指した。
「ここだけ、釘の頭が少し出てます。抜いた形跡はない。でも、一度持ち上げて、下へ何かを入れてから押さえたような沈み方です」
「工具を使わずに?」
「薄い紙なら、釘を完全に抜かなくても入れられる。こじって、隙間を作って、差し込む。けど、素人がやると縁が傷つく」
赤城は床を見つめた。
里奈は紙を折り、畳の縁へ入れた。壁にも文字を残した。誰かが見つけることを想定しているなら、隠し場所は一つではない。見つける順番も、紙そのものの位置も、彼女が決めている。
「野口さん、押し入れの裏側を見られますか」
「見ます。ただし、剥がすなら先に、どこまで残すか決めてください」
「残す?」
「全部を保存するのは無理です。壁紙も下地も、解体すればなくなる。ただ、境目を残せば、あとから誰かが見直せる。最初に手を入れた場所を壊すと、後の人間は何が新しくて、何が古いのか分からなくなるんです」
「つまり、痕跡を残すために、壊す」
「壊さないと見えないものもあります」
野口はそう言って、押し入れの板へ手を当てた。
赤城は部屋の隅に目を向けた。柱の下部に、細い擦り傷がある。家具を動かした跡に見えるが、傷の高さが不自然だった。人が暮らしていた頃の家具なら、もっと広い範囲に擦れが残る。これは、何か細いものを何度も差し込んだような傷だった。
「ここも撮ってください」
「分かりました」
野口が端末を向ける。
赤城はメモ帳へ、単語を並べた。
壁。畳。押し入れ。柱。床鳴り。
それぞれ単独では、ただの古い部屋の傷にすぎない。だが、紙が移動した順番を示しているとしたら、部屋の中に一本の道ができる。書き手は何かを一カ所へ集めたのではない。誰かが一つを見つけても、別のものが残るように分けた。
そこへ、廊下の奥から篠原澄江が現れた。古いエプロンのポケットから裁縫箱の角が覗いている。彼女は野口の作業を見て、しばらく何も言わなかった。
「朝から壁を剥がすと、粉が立つよ」
「まだ本格的には始めていません」
野口が答えると、澄江は赤城を見た。
「本格的に始める前に、見つけたものは分けておきなさい。紙と紙を重ねると、あとでどちらの汚れか分からなくなる」
「里奈さんも、そうしていたんですか」
「里奈は、紙を重ねるとき、必ず角を少しずらした。見た目は揃っているのに、触れば順番が分かるようにね」
赤城は紙片の袋へ目を落とした。
「そういうことを、なぜ知っているんですか」
「隣に住んでいたからです。毎日見ていれば、分かることもある」
「壁に文字を残したことは?」
「知らない」
「紙を隠していたことは?」
「知らない」
「では、何を知っているんです」
澄江は裁縫箱を開けた。中には糸巻きと針、小さな白いボタンが入っている。彼女はボタンを指先でつまみ、元の位置へ戻した。
「知っていることを全部言う人間は、たいした記憶を持っていません。大事なものほど、言葉にすると形が変わるからです」
「言わないことで、形を守ることもある」
「そうです」
「言わないことで、誰かを消すこともある」
澄江は赤城を見た。鋭い目だった。老女の目は、怒っているというより、測っていた。
「あなたは、里奈のために調べているんですか。それとも、自分のために」
「どちらも、かもしれません」
「正直ですね」
「正直というより、分けられないんです。以前、取材で見つけた小さな証言を、記事の都合で外したことがあります。後になって、それが一番重要だったと分かりました。だから今度は、紙切れ一枚でも、こちらの都合で意味を決めたくない」
「それで、何でも残すつもりですか」
「残せるものは」
「残したものが、誰かを傷つけることもある」
「それでも、残すかどうかを決める前に、まず見る必要があります」
澄江は長く息を吐いた。
「里奈はね、見えやすい場所にものを隠す子じゃなかった。見つけてほしいものほど、見つける人間が少し手間をかけなければ届かない場所へ置いた」
「なぜですか」
「本当に読む人間なら、手間を惜しまないと思っていたんでしょう」
その言葉に、赤城は答えなかった。
澄江が去ったあと、野口が小さく口笛を吹いた。
「厳しい人ですね」
「優しい人でもあります」
「どっちですか」
「たぶん、どちらもです」
野口は笑いかけたが、すぐに壁へ視線を戻した。
「押し入れの裏、見ます。けど、見つけたものは触らずに呼びます」
「お願いします」
野口が板を外しはじめる。へらの先が木と木の隙間へ入り、乾いた音が続いた。ぱり、と糊が切れ、古い埃が落ちる。朝の光の中で埃は薄い煙のように漂い、空になった部屋をゆっくり横切った。
板の裏から、小さな紙の角が現れた。
今度は野口が手を止めた。
「ありました」
赤城は近づき、壁と紙の位置を確認した。便箋は折り畳まれ、板の裏側へ引っかけられている。紙の上には、短い語句がいくつか並んでいた。
――一時四十分。
――鍵。
――流し台。
それ以外は、剥がす際に破れたのか、残っていなかった。
赤城は紙を見つめた。
時刻。鍵。場所。
そこには、助けを求める言葉がない。誰かの名前もない。けれど、生活の中で見落とされる場所だけが、順番を持って並べられている。
「どう読むんですか」
野口が訊いた。
「まだ、読みません」
赤城は紙を袋に入れた。
「先に、どこからどこへ移ったのかを確かめます」
「言葉より、場所が先?」
「この人は、そういう残し方をしている」
廊下の向こうで、久我が何かを言った。工事を始める、という声だった。けれど赤城には、途中の言葉しか聞き取れなかった。語尾が木の壁に吸われ、その前に金属の擦れる音が重なった。
赤城は部屋を見回した。
壁紙の端。畳の縁。押し入れの裏。柱の傷。どれも、誰かの暮らしが残したものに見える。だがその中には、暮らしを装って置かれたものもある。
里奈は、何かを見た。
そして、それを一つの手紙にまとめることができなかった。誰かに見られていたのか、時間がなかったのか、それとも、まとめれば一度に消されると分かっていたのか。
赤城は、便箋の袋を指で押さえた。
紙はもう冷たかった。それでも、折り目だけは指先に確かに残った。書いた人間が、紙の角を揃え、置く場所を選び、最後の一画を丁寧に止めた感触だった。
部屋の外で、足場が低く鳴った。
空は明るくなりはじめていた。三ツ橋荘の朝が来る。やがて壁紙が剥がされ、畳が運び出され、ここにあった暮らしは廃材の名で処理される。
赤城はメモ帳に、三つの言葉を書いた。
名前。時刻。鍵。
その下へ、まだ意味を持たない四つ目の言葉を置いた。
順番。
そして、野口とともに部屋の奥へ進んだ。
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