第5話 床下の順路

赤城蓮は、野口とともに一〇一号室の前へ戻った。
廊下の窓は少し開いていて、朝の冷気が細い帯になって入り込んでいた。足場の鉄管が風に触れ、かすかな金属音を返している。工事の開始を待つ建物は、すでに解体される側の静けさに包まれていた。人が住んでいた頃なら、炊事場から味噌汁の匂いが流れ、どこかの部屋でラジオが鳴っていたはずなのに、いまは空気そのものが空室だった。
野口は手袋の縫い目を親指でなぞり、壁紙の端へ小型のへらを差し込んだ。
「昨日のところから、もう一度見ます。剥がす前に、順番を確認したいんで」
「壁紙の順番で、何が分かる?」
「誰が、いつ触ったかまでは分かりません。でも、触った人が急いでいたか、慣れていたかは残ります。糊の量とか、紙の逃がし方とか」
へらが壁紙の裏へ滑る。乾いた糊が、細い音を立てて切れた。
「こっちは後から貼った紙です。下の紙を捨てずに、そのまま戻している。つまり、見た目を戻したかったんでしょうね」
「見られたくないものがあった」
「そうです。ただし、隠した本人が見つからないと思っていたとは限らない。建物を壊す人間なら、どこから壊れるか知っている。だったら、見つかる可能性も知っているはずです」
野口は作業を止め、壁の断面を覗いた。
「隠すためだけなら、もっと奥へ押し込む。これは、見つかるまでそこに置いておくための隠し方です」
赤城は壁に顔を近づけた。
壁紙の内側には、紙片が挟まっていた。昨日見つかったものとは別に、さらに薄い白が覗いている。端は折られていた。折り目の角度が揃い、紙の端が壁の隙間に引っかかっている。
「里奈は、見つける人間がいると考えていた」
「誰が見つけるかまでは、分からないですけど」
「分からないから、手順を残したんでしょう」
野口がへらを抜いた。
「順番を知らないと、次へ行けないように?」
「一つの場所に全部置けば、最初に見つけた人間が全部持っていける。分けておけば、一つが消えても残りが残る」
「それって、かなり怖い考え方ですよ」
「怖かったから、そう考えたのかもしれない」
赤城は紙片の角をピンセットでつまんだ。引き抜くと、細かな埃が舞った。古い紙の匂いに、乾いた糊の臭いが混じる。紙の表には、短い文字があった。
――鍵、流し台。
それだけだった。
赤城は透明な袋へ入れ、袋の外側に発見位置を書いた。壁紙の右端から何センチ、畳の縁から何センチ。数字に置き換えると、里奈の残したものは急に冷たくなる。けれど、その冷たさの奥には、紙を指でならし、折り目を揃え、誰にも見られないまま置いた手の気配があった。
「次は床です」
野口が言った。
二人は一〇一号室から廊下へ出た。野口は床を歩きながら、板の継ぎ目を目で追っていた。彼は足音を立てないようにしているのではなかった。鳴る板と鳴らない板を確かめるため、わざと体重のかけ方を変えている。
「この建物、同じ幅の板でも音が違うんです」
「湿気のせい?」
「湿気だけじゃないです。下地が替わっている。もともと製糸工場の寮だったから、あとから部屋を仕切ってるでしょう。床下の梁も、部屋ごとに位置がずれている。だから、下に空間があるところは、踏めば分かる」
野口は炊事場の前で止まった。
流し台から三枚目の床板を、靴の先で軽く叩く。
音が低かった。
廊下の板が乾いた木の音を返すのに対し、そこだけ、奥に薄い空洞があるような響きがした。赤城はしゃがみ込み、板の隙間に指を当てた。木は冷たかった。だが冷たさの中に、長く人の手が触れてきた場所だけが持つ滑らかさがある。
「外せる?」
「釘は一度抜かれてます。完全には抜かず、板を持ち上げて戻したんでしょう」
「傷が少ない」
「素人なら、もっと縁が割れます。使い慣れた道具が必要です」
野口は道具箱から細い工具を取り出した。赤城は周囲を撮影し、床板の向きと釘穴の位置を記録した。
「ここを外す前に、台帳をどかしてください」
「台帳は、流し台の下です」
「ええ。だから、まず場所を残す。移動させたあとでは、台帳が最初からそこにあったのか、誰かが置いたのか分からなくなる」
野口は小さく笑った。
「赤城さん、写真を撮るとき、建物のほうを人間みたいに扱いますね」
「建物も、触られた順番を覚えている」
「俺は木材が覚えてるとは思ってないですけど、傷は嘘をつかないと思います」
「それなら、似ている」
工具の先が釘の頭へ入った。野口は手首を返し、力を一気にかけず、木の抵抗を確かめながら少しずつ板を浮かせた。釘が抜ける音は小さかった。床下から冷えた空気が上がり、湿った土と古い木の匂いが混じった。
空洞の底に、薄い合板が見えた。
合板の端には、紙を差し込んだような擦り傷がある。
「ここ、前に一枚入っていたはずです」
「紙片は?」
「抜かれています。でも、紙の繊維が残ってる」
野口がライトを向けると、合板の上に白い粉が浮いた。埃ではない。紙の端が擦れてできた細かな繊維の塊だった。
赤城はその粉を見つめた。
「紙は、あとから抜かれた」
「しかも、急いでない」
「なぜ分かる?」
「急いで抜けば、もっと繊維が散ります。これは、折り目に沿って引き抜いた跡です。隠した人間か、見つけた人間かは分からないけど、紙を破らないようにした」
赤城は、里奈の手つきを思い出した。紙の端を押さえ、封筒の口を何度も整える指先。彼女は残すときだけではなく、見つけられるときのことまで考えていたのだろうか。
流し台の下へ移ると、台帳は昨日の位置にあった。表紙には薄い白い粉が付着している。赤城はそれを拭わず、写真を撮った。
台帳を開く。
水沢里奈の名前の横には、退去日の修正跡と、空欄の鍵番号がある。赤城は別のページを繰った。二〇二号室の退去欄には、返却された鍵と、紛失した鍵の番号が並び、その下に「共用予備へ」と記されている。
「この鍵束、二〇二号室の番号が抜けている」
野口が輪を覗き込んだ。
「じゃあ、誰かがその鍵を持ち出した?」
「持ち出したまま返していない。あるいは、返したことにした」
「鍵って、部屋を開けるだけじゃないですよね」
「記録も開ける」
野口は意味が分からないという顔をした。赤城は台帳の欄を指でなぞった。
「水沢さんの退去日は、秋になっている。でも工事記録では、その前に部屋の補修が行われている。つまり、現場では彼女がいないことになっていたのに、台帳の上ではまだ住人だった。誰かが記録を後から合わせた」
「現場と帳簿が、別の時間を持っていた」
「そう。問題は、どちらが先だったかだ」
足音が近づいた。
久我が共同炊事場へ入ってきた。手には工程表があり、紙の端は三度揃えられていた。彼は台帳を見るなり立ち止まり、襟元へ指を伸ばした。
「作業前に、確認をお願いします。床板を外す許可は出していません」
「許可を求める前に、管理会社が何を把握していたか確認しています」
「その確認は、こちらで行います」
「いつですか」
「必要な手続きが済み次第です」
「解体が始まる前に?」
久我は工程表を開いた。午前の予定が赤い線で区切られている。
「一〇一号室の壁紙剥離は、予定を変更できません。作業員を待たせています」
「台帳の空白と鍵束の欠番があります」
「古い管理資料です。すぐに正確な状態へ戻せるものではありません」
「正確な状態へ戻すつもりはあるんですか」
「もちろんです」
「では、確認者の欄が空欄のままなのはなぜです」
久我は台帳を見なかった。紙の上に目を置きながら、紙の中身を見ていない。
「当時の担当者が記入を省略したのでしょう」
「誰ですか」
「前任者です」
「名前は?」
「退職しています」
「退職した人間の名前も記録にない?」
久我の指が工程表の角を押さえた。
「赤城さん、管理会社の記録は、警察の捜査記録とは違います。担当者が代われば、古い書類が整理されることもある。すべてを残すことが、必ずしも適切とは限りません」
「記録を整理することと、記録を消すことは違います」
「消したとは言っていません」
「なら、なぜ水沢さんの退去日だけ、上から重ねて書かれているんですか」
「日付の訂正です」
「訂正するなら、訂正者と訂正日が必要でしょう」
「当時の運用では、そこまで厳密ではなかった」
「けれど、鍵の番号は厳密に管理していた」
久我の視線が、鍵束へ落ちた。
「鍵は、紛失すれば交換する。共用予備として管理することもある。二年前の一本が、いまどの部屋に使われているかまで、私には分かりません」
「分からないのに、里奈さんが自分で退去したと判断した」
「判断ではなく、処理です」
「処理すれば、人が消えても問題にならない」
久我の顔から、わずかに血の気が引いた。
「言葉を選んでください」
「選んでいます。だから、あなたが使った言葉をそのまま返している」
久我は答えなかった。襟元を触る指が、今度は皺を伸ばさず、皮膚を掻くように動いた。
その沈黙を、野口が破った。
「久我さん。この床下、紙を入れた跡があります。ここを知っていたんですか」
「私は建物の構造を把握していません」
「でも、工事の順番は決めてる」
「工程を決めるのと、床下を知っているのは別です」

「壁の補修を北条さんに頼んだのも、あなたですよね」
久我の口元が固くなった。
「北条さんは工事業者です。依頼することに不自然はありません」
「不自然なのは、補修が水沢さんの失踪と同じ時期だったことです」
野口の声は、普段より低かった。道具を持ったときの彼は、明るい青年ではなく、材料の傷を見逃さない作業員になる。
「壊すなら、壊す順番を決める。塞ぐなら、塞ぐ順番も決める。そこを決めた人間が、何も知らないとは思えないです」
「作業員の推測に、管理責任を問われても困ります」
「推測じゃない。糊の跡と釘穴を見て言ってる」
野口が床下を指した。
「ここは、誰かが紙を入れた。入れてから板を戻した。紙を破らないように抜いた跡もある。手順が残ってるんです」
久我は工程表を閉じた。
「工事を遅らせるなら、所有者に報告します。赤城さんの調査費用にも影響するでしょう」
「費用で話を終わらせるつもりですか」
「現実の話をしているだけです。建物は壊れます。住人は退去します。管理会社は次の入居者を入れなければならない。過去の事情をいつまでも抱えていたら、誰も新しい生活へ進めません」
「新しい生活へ進むために、古い人間を記録から外すんですか」
久我の目が初めて赤城を捉えた。
「外したのではありません。残った記録に従っただけです」
「誰かが作った記録に?」
「記録は、誰かが作るものです」
「だから、作った人間の都合で事実も変わる」
「赤城さんは、記者だったからそう考えるんでしょう。文章にすれば、誰かが読む。記事にすれば、誰かが責任を取る。けれど、管理の現場では、読まれない記録のほうが多いんです。誰も見ない欄に、誰が署名したかを追及して、何が変わるんですか」
「見ないから、残すんです」
「残せば救われるとは限らない」
「救うために残しているんじゃありません。見なかったことにしないためです」
久我は長く黙った。
その顔に、怒りよりも疲労が浮かんだ。彼は何年も、似たような空欄を埋めてきたのだろう。埋めたことで誰かが助かることもあった。だが、埋めるべきでない空白まで埋めてしまえば、紙の上では整っても、現場には取り返しのつかない穴が残る。
久我が炊事場を出ていくと、野口は工具の柄を親指でこすった。
「悪い人に見えないのが、いちばん嫌ですね」
「悪い人でなければ、問題が起きないわけじゃない」
「じゃあ、何なんですか」
「見ないことを、仕事だと思い込んだ人間です」
野口は床下へ視線を戻した。
「俺も似たようなもんになるのかな」
「どうして?」
「言われた順番で壊して、出てきたものを廃材にして、あとで誰かが『そこに何かあった』って言っても、知らないって答える。そういう仕事ですから」
「仕事がそうさせるとは限らない」
「でも、手を止めるには理由がいる」
「理由は、いま見つかっています」
赤城は床下の空洞を見た。
「見つかったものを、見つからなかったことにしない理由が」
野口はしばらく黙っていた。それから、細いライトを空洞の奥へ差し入れた。
合板の裏側に、別の傷があった。紙を押し込むための細い道具が、同じ方向から何度も当たった跡。傷は床板の縁から流し台の下へ向かって伸びている。
赤城は床へ視線を落とした。
壁。畳。押し入れ。炊事場。
断片は一〇一号室の内側だけで終わっていない。里奈は部屋から廊下へ出ることができなかった、あるいは出なかった。その代わり、部屋の中と共用部分を、紙の置き場所でつないでいる。
「野口さん。紙を置いた順番を、逆に辿れますか」
「逆に?」
「最後に見つかる場所から、最初に書いた場所へ」
「理屈では。けど、何が最後か分かりません」
「場所の使われ方を見る」
赤城は一〇一号室へ戻った。畳の上に紙片の袋を並べる。壁紙の裏、畳の縁、押し入れの板、床下、流し台の下。紙に書かれた言葉は短い。名前、時間、鍵、場所。だが発見された位置を地図の上に置くと、線が生まれる。
まず、壁。
次に、畳。
押し入れ。
廊下。
炊事場。
それは里奈が逃げた道ではない。隠すために動いた道でもない。誰かが後から探すために、彼女が作った道だった。
赤城はメモ帳に、こう書いた。
――見つける人間の手順。
その下へ、里奈の紙片から拾った言葉を並べた。
名前。時刻。鍵。流し台。
紙片の一つに、まだ読めない文字が残っている。インクが糊に押し潰され、線が重なっていた。赤城は袋の上からその部分を指でなぞった。ざらつきはない。けれど、折り目の深さが指先に返ってくる。
里奈は何かを一度に書かなかった。
書けなかったのではなく、書かないことで守ろうとした。
その考えが浮かんだとき、廊下の奥で扉が閉じる音がした。
赤城が振り向くと、篠原澄江が立っていた。彼女は裁縫箱を抱え、床鳴りのする板を避けてこちらへ近づいてくる。手には、古い便箋の端があった。
「それは?」
赤城が訊くと、澄江は紙をすぐには渡さなかった。角を揃えたまま、指の腹で何度も押さえている。
「里奈が、前に置いていったものです」
「どこに?」
「私の部屋の戸棚です。あの子は、私に渡したつもりだったのかもしれない。でも、私は受け取らなかったことにした」
「なぜですか」
「受け取ったら、読まなければならない。読んだら、誰かに言わなければならない。私は、言わないで済むように、戸棚の奥へしまった」
「それを、今になって?」
「壁を壊す音を聞いていたら、紙のほうが先に口を開きました」
澄江は便箋の端を差し出した。
そこには、一行だけ記されていた。
――二〇二の鍵は、返っていない。
赤城は文字を見た。
里奈の筆跡だった。けれど、これまでの紙片より筆圧が浅い。誰かに見られることを恐れながら、それでも書かずにはいられなかった字だ。
「二〇二号室の鍵が、失踪当夜に使われた?」
澄江は首を横に振った。
「そこまでは知りません。ただ、あの夜、二〇二号室は空いていました。退去した住人の荷物も、もうなかった」
「台帳には、鍵が紛失したと」
「ええ。でも、鍵がなくなった音はしなかった」
「音?」
「鍵束を外した音です。私は、あの音を知っています。流し台の下にある輪から、一本だけ抜くと、金属が二度鳴る。里奈が消えた夜、炊事場でその音がした」
赤城は鍵束を見た。
欠けた輪が、蛍光灯の下で鈍く光っている。
「なぜ、そのことを黙っていたんですか」
「言えば、誰かが困ると思ったからです」
「久我さんが?」
「あなたはすぐ、名前にしたがる」
「名前がなければ、責任もなくなる」
「名前があっても、責任を取るとは限らないでしょう」
澄江の声は静かだった。静かなぶん、逃げ道がなかった。
「私は、里奈が戻ってくると思っていたんです。あの子は黙っていなくなるような子じゃない。何かを置いて、誰かに見つけさせて、それから戻るつもりなのだと思った。だから、余計なことを言わずに待ちました」
「二年も?」
「二年は、待つには長い。でも、忘れるには短いんですよ」
赤城は返事をしなかった。
澄江は窓の外を見た。赤い立入禁止テープが風に煽られ、細い音を立てている。
「明日、この建物はなくなる。だから、あの子が戻らなくても、せめて置いていった順番だけは壊さないでください」
彼女が去ったあと、赤城は紙片を見つめた。
名前。時刻。鍵。流し台。
その四つは、言葉ではなく、移動の指示だった。部屋の中から共用部分へ。目につかない場所から、誰もが使う場所へ。里奈は自分の証言を一つの文にせず、建物そのものへ分けて埋め込んだ。
赤城は、最後に見つかった便箋の端を袋へ入れた。
久我は二〇二号室の鍵を「紛失」と記録した。
しかし澄江は、流し台の下から鍵を抜く音を聞いている。
誰かが入った。
誰かが出た。
そして、その出入りが、別の人間の退去として記録された。
赤城は立ち上がり、炊事場の床板を見下ろした。まだ空洞の奥に、見えていないものがある気がした。床下から上がる冷気が、ズボンの布を通して膝に触れる。
野口がライトを向ける。
奥の合板に、紙とは違う黒いものが貼りついていた。
「赤城さん。あれ、何かあります」
光が奥へ届く。
黒いものは、古い封筒の背だった。封は閉じられていない。表には宛名がなく、ただ、折り目だけがきれいに揃っていた。
赤城は手を伸ばした。
指先が封筒に触れたとき、遠くで足場が鳴った。三ツ橋荘のどこかで、まだ誰かが歩いているような音だった。
← 横にスクロールして読み進められます
