第3話 聞こえない順番

夜の底が、いちだんと冷えていた。
三ツ橋荘の駐車場に停めた車のそばで、森田はまだ缶コーヒーを握っていた。中身はとうに空だったが、指先はその缶を離そうとしない。赤城は少し離れた位置から、男の呼吸の間合いを見ていた。急かせば、この男はまた軽口の後ろへ隠れる。
赤城はポケットから、透明な袋に入った鍵束を取り出した。流し台の下から見つかった、錆びた輪。欠けた歯型を持つ鍵が、街灯の白い光を鈍く跳ね返す。
「これに、見覚えは」
森田の目が、その鍵束に落ちた瞬間だけ、笑みの形が崩れた。缶を握る指の関節が、わずかに白くなる。
「……どこで」
「流し台の下です。台帳と一緒に」
「台帳って、まさか」
「入居者名簿ですよ。水沢さんの退去日が、書き換えられていました」
森田は缶を地面に置いた。ゆっくりとした動作だったが、その分だけ、彼が何かを整理しようとしているのが分かった。
「合鍵を持っていたことは、認めます。あいつが引っ越してくるとき、俺が合鍵を作った。別れたあとも、返さなかった。返せと言われなかったから」
「その鍵は、この束の中に?」
「たぶん」
「たぶん、では困ります」
「森田さん、あなたも言うんですね。久我さんと同じ台詞を」
赤城が静かにそう言うと、森田は苦い顔をした。それは初めて見せる、演技のない表情だった。
「馬鹿にしないでくださいよ。俺は久我とは違う。あの人は、書類の上で誤魔化す。俺は、自分の記憶の中で誤魔化してる。同じ言葉でも、中身は全然違うんです」
「違いを、聞かせてください」
森田は空を見上げた。雲のない夜だったが、街灯の光が邪魔をして、星はほとんど見えない。
「あの夜、俺は三ツ橋荘の前まで来ていた。部屋の前まで行った。中から音がした。壁を叩くような、鈍い音でした。俺は――入らなかった」
「なぜ」
「怖かったからです」
森田の声から、初めて軽さが消えた。
「怖かったのは、里奈が何かに困っているかもしれないという想像じゃない。俺が踏み込んで、また面倒なことに巻き込まれるのが怖かった。あいつと別れるとき、俺はひどい言葉を並べた。お前の抱えてるものなんて知ったこっちゃない、って。だから、あの夜も、聞こえないふりをした方が楽だったんです」
「その後、誰かが出てきた」
「靴音がした。廊下の奥、炊事場の方から。俺は車の陰に隠れて、それをやり過ごした」
「顔は」
「見なかった。見たら、声をかけなきゃいけなくなる。声をかけたら、俺がそこにいたことを、誰かに知られる。俺は――ただ、消えたかった」
森田はそこで初めて、赤城の目をまっすぐ見た。
「あなたは俺を犯人だと思ってますか」
「思っていません」
「なぜ」
「犯人なら、鍵束を見せたときにもっと違う顔をする。あなたがしているのは、罪の顔じゃない。逃げた夜を、今も引きずっている顔です」
森田は小さく笑った。だがその笑いには、いつもの軽さがなかった。
「逃げたことに変わりはない。俺が入っていれば、何かが違ったかもしれない。それを二年間、考えなかった日は一日もありません」
「その靴音の背格好を、もう一度教えてください」
「痩せていて、背は高くない。作業着じゃなかった。ジャケットを着ていたと思う。管理会社の人間に見えました」
「久我さんですか」

「そこまでは、言い切れない」
「言い切れないのか、言いたくないのか」
森田は答えなかった。だが視線を逸らさなかった。それは赤城にとって、答えの一つの形だった。
黒田が三ツ橋荘の門をくぐったのは、それからほどなくしてのことだった。乾いた足音が砂利を踏む音を立てる。所轄の刑事は、コートの襟を立てたまま、赤城の前に立った。
「久我さんから連絡があった。壁から文書が出てきたと」
「文書というより、証言です」
「証言と物証は違う。物証を見せてください」
赤城は台帳、鍵束、便箋の断片を並べた。黒田は手袋を丁寧に直してから、一つ一つを手に取った。台帳のページをめくる指先は、乾いていて、感情の起伏を見せない。
「退去日が書き換えられている。数字の圧痕が残っていますね」
「はい」
「これだけでは、失踪の証拠にはならない。書類の不備は、管理会社の怠慢で説明がつく」
「怠慢という言葉で、片づけますか」
「片づける、とは言っていない。証拠として、まだ弱いと言っている」
黒田の声は乾いていたが、赤城はその奥に、微かな苛立ちを聞き取った。それは赤城を疑う苛立ちではなく、もっと別の場所から来ているものだった。
「黒田さん。あなたは、この案件を最初から知っていたんですか」
「二年前、失踪届は出ている。家族からじゃない。近隣住民からの通報だ。ただ、本人の意思による退去の可能性が高いと判断されて、捜索は打ち切られた」
「誰が判断したんですか」
「俺だ」
黒田はそう言った。感情のない声だったが、その一言だけは、わずかに硬く響いた。
「当時、決定的な証拠はなかった。荷物は運び出されていた。台帳には退去の記載があった。それ以上、追う理由がなかった」
「今は」
「今は、壁から証言が出てきた」
黒田はそう言うと、現場写真をもう一度撮り直した。手袋の指先が、便箋の端をそっとなぞる。
その直後だった。
101号室の方から、鈍い音がした。乾いた木の裂ける音。北条が壁紙の残りをへらで剥がしていた。夜の作業を、赤城が頼んでいたものだった。工事開始の前に、見えるものはすべて見ておく必要がある。
赤城が駆けつけると、北条は壁の前で動きを止めていた。太い指先が、下地の合板をそっとなぞっている。
「もう一枚、あった」
北条の声は低かった。
壁の内側、これまで見えていた文字よりもさらに奥、下地の裏側に貼りついていた紙が現れていた。誰も触れていなかった場所。誰も見ることを想定していなかった深さ。
そこに書かれていたのは、赤城が予想していたような叫びではなかった。
――流し台の下、台帳の後ろ。二〇二の鍵は、久我さんが。
短い文だった。しかし、その短さの中に、恐ろしいほどの正確さがあった。名前が、初めて記されていた。
久我の顔から、色が失われていくのを、赤城は見た。紙の白さと同じ色に、男の顔が近づいていく。
「これは……」
久我は言葉を継げなかった。工程表を抱える腕が、わずかに震えている。
北条は補修の釘を見つめたまま、長く黙っていた。その沈黙は、里奈の失踪について何も知らない人間の沈黙ではなかった。知っていて、深追いしなかった人間の沈黙だった。
風が強く吹き、足場の金属が揺れた。赤いテープが夜の中で鈍く鳴り、三ツ橋荘の壁という壁が、まだ語り終えていない何かを抱えたまま、解体の朝を待っていた。
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