2話 台帳の白と、床下の音

夜が更けても、三ツ橋荘は眠っていなかった。

足場の金属が風に鳴り、二階のどこかで窓が細かく震えている。廊下の照明は一つおきに消されていた。明日の解体作業に備え、久我が節電のために落としたのだという。暗い場所が増えたことで、壁紙の剥がれや柱の傷が、昼間よりもはっきり浮かんで見えた。

赤城蓮は一〇一号室の畳に座り、藤本から聞いた言葉を反芻していた。

壁の文字は、走り書きではない。

誰かに見つけさせるために書かれた字だ。

メモ帳を開き、赤城は壁から見つかった便箋の断片を机代わりの畳へ置いた。紙の端には、里奈が書いたと思われる一行が残っている。

――あの夜、最初に聞こえたのは、

そこで途切れた文は、続きがないことによって、かえって部屋の空気を重くしていた。

赤城は紙片の表面を指で撫でた。繊維の粗い紙だった。藤本の店で見せられた便箋の見本帳と同じ、安価なもの。だが、指先に返ってくる感触は、店で見た新品の紙より硬かった。長い時間、壁と畳の隙間で湿気を吸い、乾き、また吸ったのだろう。

書いたあと、誰かがこの紙を折った。

折り目は二本。角は揃っている。急いで隠したなら、もっと折り方が乱れる。紙を丸めて押し込むこともできたはずだ。それをしなかったのは、里奈が最後まで紙の形を崩したくなかったからなのか、それとも、見つける者に触り方まで指定していたからなのか。

赤城はその問いをメモには書かなかった。

書けば、推測が事実の顔をして残ってしまう。

廊下へ出ると、共同炊事場の流し台に久我がいた。帰ったと思っていたが、男は工程表を広げ、鉛筆で何かを確認していた。流し台の蛍光灯だけが点いている。白い光が、久我の顔から血色を奪っていた。

「まだいたんですか」

赤城が声をかけると、久我は工程表の端を揃えてから顔を上げた。

「明朝の作業に変更がないか、確認しているところです。壁紙を剥がす順番を間違えると、廃材の搬出に支障が出ますから」

「一〇一号室を最初に剥がす理由は、搬出の都合だけですか」

「先ほども申し上げたとおりです。作業員の導線、それから安全確認の順序です」

「壁の下から文字が出てきたあとでも?」

久我の指が、工程表の角で止まった。

「文字が出たからといって、工事を止める理由にはなりません」

「理由がないかどうかは、確認してから判断することです」

「赤城さん。建物調査をお願いしている立場の方に、こういうことを言うのは失礼かもしれませんが、古い建物には意味のないものがいくらでも残っています。昔の住人が書いた落書き、子どものいたずら、前の業者が置き忘れた部材。全部を事件のように扱っていたら、いつまでたっても解体は終わりません」

「事件のようには扱っていません。記録しているだけです」

「記録にも、扱い方というものがあります。残す価値があるものと、そうでないものを分ける必要がある」

「その価値を決めるのは、誰ですか」

「管理者です」

「現場を見ていない管理者が?」

久我は答えず、工程表を折り畳んだ。紙の角を合わせる動作が、ひどく丁寧だった。

「水沢さんの退去について、もう一度聞かせてください」

「先ほど説明したとおりです。退去届が出され、荷物が運び出され、鍵が返却された。だから退去として処理した。それだけです」

「退去届は誰が受け取りましたか」

「当時の担当者です」

「名前は?」

「記録に残っていません」

「鍵は?」

「返却されたはずです」

「はず、というのは」

「古い案件ですから、すべてを確実に言えというのは無理があります。水沢さんが自分の意思で出ていった可能性もある。連絡がつかなくなったからといって、管理会社が住人の行き先まで追う義務はありません」

「可能性の話をしているんじゃありません。誰かが水沢さんの部屋へ入り、荷物を運び出した記録があるかを聞いています」

「確認できません」

「確認しなかった?」

「確認できないものは、確認できないんです」

久我の声は穏やかだった。穏やかすぎて、そこに手順の壁が立っているようだった。赤城は男の顔ではなく、襟元へ伸びた指を見た。二度、三度と布をつまみ、皺を伸ばす。汗をかくような暑さではない。それでも指は、形の崩れたものを探していた。

赤城は流し台の下へ目を向けた。

配管の脇に、昨日見つけた古い台帳が置かれている。久我はその存在を知っているはずなのに、見ないふりをしていた。

「この台帳を、持ち帰ってもいいですか」

「会社の資料です」

「警察に提出する可能性があります」

「警察?」

久我の声が初めて揺れた。

「壁の文字が水沢さんの筆跡なら、二年前の失踪について確認が必要です」

「失踪と決まったわけではありません」

「では、なぜ退去した日と原状回復の日が一致しないんですか」

久我は工程表を胸に抱えた。書類が盾になると信じている人間の抱え方だった。

「原状回復の日付が、実際の退去日とは限りません」

「台帳では退去日が秋になっている。工事記録では、その三日前に部屋へ作業員が入っている。壁紙の補修は、誰も住んでいない部屋でしかできないはずです」

「一時的に部屋を空けてもらった可能性があります」

「水沢さんに?」

「そうです」

「その記録は?」

「残っていません」

「住人に部屋を空けてもらったのに、記録がない」

「当時の担当者が、記載を省いたのかもしれません」

「省いたのか、消したのか。そこを確かめたいんです」

久我は赤城を見た。目が合ったのは一瞬だけだった。

「赤城さんは、事実を記録する仕事をしていたそうですね」

「昔の話です」

「なら、分かるでしょう。記録は万能ではありません。現場で起きたことを全部書けるわけではない。書かれたものだけが事実になるわけでもない」

「ええ。だから、書かれなかった部分を見ています」

久我は沈黙した。

その沈黙の中で、二階の床が鳴った。

乾いた、短い音だった。

赤城が顔を上げると、久我も同じ方向を見ていた。音は一度では終わらなかった。少し間を置いて、もう一度、今度は一〇一号室の前あたりから響いた。

久我の手が工程表を強く握る。

「建物が古いだけです」

「そうでしょうか」

「湿気や温度の変化で木材が鳴ることはあります」

「音の説明をしているんじゃありません。あなたが、いま何を聞いたのかを訊いています」

久我は答えなかった。

赤城は階段へ向かった。暗い廊下を進むと、床板は足裏に微かな弾力を返した。踏む場所によって鳴り方が違う。澄江が言っていた。雨の前は二〇二号室の前が鳴る。里奈が消えた夜、一〇一号室の前だけ二度鳴った。

一〇一号室の前で、赤城はしゃがみ込んだ。

板の隙間から、小さな釘の頭が覗いている。ほかの板よりわずかに沈み、表面に擦れた跡があった。誰かが一度、床板を外そうとしたのかもしれない。

しかし、釘穴の周囲に新しい傷はない。

床板を外したあと、元に戻したのではなく、板の下へ何かを滑り込ませたあと、上から押さえつけたように見えた。

赤城は写真を撮り、時刻を書き込んだ。

午前零時十三分。

その数字の並びを見ていると、遠くで扉の開く音がした。赤城が振り向くと、階段の下に篠原澄江が立っていた。古いエプロンのポケットから、裁縫箱の角が覗いている。

「夜中に床を剥がすのは、あまり感心しませんね」

「剥がしてはいません」

「似たようなもんです」

澄江はゆっくり階段を上がってきた。床鳴りのする板を避け、壁際の狭い部分だけを選んで歩く。赤城は、その足取りが単なる習慣ではなく、建物の中の音を管理するためのものだと感じた。

「水沢さんの部屋で、何か見つかりましたか」

「いくつか紙片が」

「そう」

「ご存じだったんですか」

「何をです」

「里奈さんが紙を隠していたことを」

澄江は裁縫箱の留め金に指を置いた。開けることはせず、そこにある感触だけを確かめている。

「隠していたかどうかは知りません。あの子は、物を置く場所にうるさかった。醤油差しの向きまで直す子でしたからね。紙を雑に扱うこともなかった」

「だから、見つけさせるために隠した可能性がある」

「若い人は、すぐに意味をつけたがる」

「意味がなければ、壁の下に文字を書く必要もないでしょう」

「壁に字を書く人間が、みんな何かを訴えているとは限りませんよ。腹が立って書くこともある。暇つぶしに書くこともある。寂しくて、誰にも読ませるつもりなく書くこともある」

「里奈さんは、寂しくて書いたんですか」

澄江は答えず、廊下の窓を見た。

ガラスの向こうで足場が風に揺れている。金属の棒がぶつかり、鈍い音を返した。澄江はその音を聞き分けるように、しばらく目を細めていた。

「里奈は、助けてくれとは言わない子でした」

「なぜですか」

「言っても、助ける人間がいないと思っていたんでしょう。そういう顔をしていました」

「篠原さんは、助けなかったんですか」

「助けるというのは、手を引くことだけじゃありません。相手が何も言わないのに、勝手に腕をつかむのが親切とは限らない」

「でも、何も言わない人間が、何も望んでいないとは限らない」

「分かっていますよ」

澄江の返事は低かった。

「分かっているから、余計なことをしなかった。あの子が自分で決めて、自分で置いたものなら、私は勝手に動かすべきじゃないと思ったんです。誰かに見つけてほしいものと、見つけてほしくないものくらい、本人が決めるでしょう」

「見えやすい場所に隠すのは、里奈さんのやり方ではない?」

澄江の視線が赤城へ向いた。

「どうしてそれを」

「いま、あなたが言ったことから推測しました」

「推測ばかりで人を見ないことです」

「だから、見せてください。あなたが知っている場所を」

澄江はしばらく赤城の顔を見た。やがて目を逸らし、階段の下を指した。

「炊事場の床。流し台の前から三枚目。そこだけ鳴りが違う」

「何か隠されていますか」

「私が知っているのは、床の音だけです」

澄江はそれ以上を言わなかった。

赤城は階下へ戻った。久我は流し台の前に立ったまま、こちらを見ていた。台帳を持ち帰ることも、床板を調べることも、男にとってはすでに工程表の外に出た行為なのだろう。

赤城は床に膝をつき、澄江が示した板を爪先で軽く叩いた。

音が違った。

ほかの床板が乾いた木の音を返すのに対し、その一枚だけ、わずかに低い。板の下に空間がある。赤城が古いペンの先を差し込むと、久我が一歩近づいた。

「許可を取ってください」

「誰の?」

「所有者です」

「所有者は、ここにいません」

「だからといって、勝手に壊していいわけではありません」

「壊すのではなく、確認します」

「確認のために壊すなら、結果は同じです」

赤城は久我を見た。

「この板の下に何があるか、あなたは知っていますか」

「知りません」

「なら、なぜそこまで止めるんです」

久我は襟元を触った。指が布をつまみ、すぐに離れる。

「予定外の作業は、事故につながります。古い床下には配線や配管が残っているかもしれない。赤城さんが責任を取れるんですか」

「責任を取るべきなのは、見つけたものを放置することではありませんか」

「そういう言い方は、簡単です。現場には、時間も費用もあります。何かが出るたびに全部を止めていたら、誰も建物を維持できない。記録に残らない小さなことまで、いつまでも掘り返していたら、暮らしそのものが動かなくなります」

「暮らしを動かすために、誰かの不在を退去として処理するんですか」

久我の顔から、最後に残っていた事務的な笑みが消えた。

赤城はそれ以上追わなかった。答えを急げば、久我は自分の殻へ戻る。人は、追い詰められたとき真実を話すとは限らない。話しやすい形に整えた嘘を差し出すだけのこともある。

赤城はペンをしまい、代わりに小型のレコーダーを取り出した。床板を指で叩く音を録音する。低い音が機械の中へ吸い込まれていく。

「そんなものまで記録するんですか」

久我が言った。

「音は、台帳に書かれませんから」

翌朝、野口が現場へ来るまで、赤城は炊事場の隅で台帳を調べた。

ページをめくるたび、紙の乾いた匂いが立った。住人の名前、入居日、退去日。簡単な数字の列が、かつてここに暮らしていた人々を押し込めている。名前の横にある小さな欄には、鍵番号と確認者の印が記されていた。

水沢里奈の欄だけ、確認者の印がない。

退去日の数字は後から書き換えられている。だが、鍵番号の欄は空白のままだった。

赤城は別のページを開いた。二〇二号室の住人が退去した記録には、鍵番号が二つ並んでいる。一つは返却、一つは紛失。さらにその下に、手書きで「共用予備へ」と記されていた。

鍵の管理は、部屋ごとではなかった。

住人が返した鍵と、管理会社が持つ予備の鍵が、同じ輪の中で使い回されている。

そこへ、作業着姿の野口が入ってきた。日焼けした頬に朝の冷気が赤く残り、手袋の縫い目を指で確かめながら辺りを見回す。

「赤城さん、もう始めていいって言われました。壁紙、予定どおり剥がします」

「その前に、ここを見てほしい」

赤城は一〇一号室へ野口を案内した。

野口は壁際にしゃがみ込み、道具箱から小さなへらを取り出した。壁紙の浮いた端へ差し込む前に、彼は指先で下地をなぞった。乱暴に剥がさず、紙の剥離に合わせて力を変えている。

「ここ、貼り直してますね」

「分かる?」

「糊の乾き方が二種類あります。こっちは古い。こっちはあとから塗った。しかも、全面じゃなくて端だけ」

「誰かが一度、開けた?」

「開けたというより、開けかけて戻した感じです。壁紙を剥がして、何かを見て、また塞いだ。新しい紙を上から貼ったんじゃなく、元の紙を戻している」

野口は壁に顔を近づけた。

「このやり方、普通の補修じゃないですよ。普通なら、傷んだところを切って、新しい壁紙を継ぎます。これは中を見られたくない人が、元どおりに見せようとした剥がし方です」

赤城は何も言わず、壁紙の端を見た。

そこには、細い線がいくつも重なっていた。里奈の筆跡の一部。上から貼られた紙の裏に残る糊の跡。そして、別の場所にある、紙を押さえつけたような浅い凹み。

「この下に、まだ何かある」

野口はへらを置いた。

「剥がしますか」

「慎重に。文字を傷つけないように」

「了解です。ただ、剥がす順番を間違えると、下の紙が壁紙と一緒に持っていかれます」

「順番がある?」

「あります。上から一気にやると、下地まで剥がれる。端を残して、逃げ道を作るんです。壊すときも、見えるように壊さないと、見えたはずのものが粉になります」

野口は作業を始めた。

へらが紙の下へ滑るたび、乾いた音がする。ぱり、ぱり、と小さな音が続く。壁紙の裏に溜まった埃が落ち、朝の光の中で細かな粒になって漂った。赤城はその粉塵を吸い込まないよう口元を覆いながら、野口の手元を見つめた。

紙の下から、白い便箋の端が現れた。

折り目がある。

だが、そこに書かれていた文字はまだ半分しか見えなかった。

野口が息を止めた。

「引き抜けそうです」

「待って」

赤城は手袋をはめた。便箋の端に触れると、紙は壁に貼りついているのではなく、壁紙と下地の間に挟まれていた。誰かがあとから上から押さえたのではない。最初から、見つかるまで動かないように置いたように見える。

赤城は紙の位置を撮影し、周囲の壁紙の重なりを記録した。

「この紙、普通の手紙じゃないですね」

野口が言った。

「なぜ?」

「書いた人が、ここに置かれることを分かっていた。端が破れてない。へらが当たっても動かないように、折って引っかけてあります」

赤城は便箋をゆっくり引き抜いた。

そこには、短い言葉が残っていた。

――一時四十分、鍵は、

また、そこで切れている。

赤城は紙を袋へ入れた。背後から、久我の声がした。

「それ以上は、警察を呼んでからにしてください」

「もう呼んだほうがいいと思います」

「まだ、何も確定していません」

「確定していないから、壊す前に止めるんです」

「工事を止めれば、損害が出ます」

「損害より、消える証拠のほうが大きいかもしれない」

久我は工程表を見下ろした。紙面には、予定された時刻が整然と並んでいる。七時、八時半、十時。数字だけなら、何も起きていない朝に見える。

しかし一〇一号室の壁には、剥がされた順番が残っていた。

床下には、鳴りの違う板があった。

台帳には、確認者のいない退去記録がある。

赤城は便箋の断片を並べた。

名前。時刻。鍵。流し台。

ばらばらの言葉が、部屋から共用廊下へ、そして炊事場へ向かう線を描き始めていた。

それは、里奈が逃げた道なのか。

誰かが里奈の部屋へ入った道なのか。

赤城にはまだ判別できなかった。

ただ、里奈が何かを見て、それを一カ所に残すことを諦めたのだけは分かった。押し入れ裏、畳の下、壁の中。誰かが一つを見つけても、すべてを消せないように、証言を分けている。

野口が、壁の奥を見ながら言った。

「この建物、変なところに空間があります」

「空間?」

「壁の内側です。部屋ごとに厚みが違う。昔の寮を無理に仕切ったせいで、使われてない隙間が残ってる。人が入れるほどじゃないけど、紙なら入る」

「そこへ、何かを隠せる?」

「紙なら。でも、隠すには道具がいる。手で押し込むだけじゃ、奥まで入らない」

「道具を持っていた人間」

「それか、壁を一度開けた人間ですね」

野口は壁紙の端から目を離さなかった。

「壊す順番を知ってる人なら、どこを触れば何が出るかも分かる」

赤城は、北条の工務店で見た太い指と、磨かれていた差し金を思い出した。

同時に、久我が工程表の角を揃えていた姿も浮かんだ。

どちらも、建物の内側へ手を入れることができる。

どちらも、過去の処理に関わっている。

そして、どちらも水沢里奈が消えた夜について、十分なことを語っていない。

赤城は台帳を閉じた。

表紙の端に、薄い白い汚れがついていた。流し台の下の埃だろう。指でこすると、粉は簡単には落ちなかった。

記録は紙の上だけで完結しない。

触れた場所の汚れ、踏んだ床の音、剥がした壁紙の順番。帳簿からこぼれたものが、建物のあちこちに残っている。

その日の夕方、篠原澄江が赤城を廊下で呼び止めた。

老女は裁縫箱を膝に置いたまま、周囲を見た。廊下にはもう、作業員の姿はない。赤い立入禁止テープが窓の外で揺れ、夕陽の色を細く反射している。

「さっきの床板、外すなら今夜にしなさい」

「外していいんですか」

「いいとは言ってません。明日になれば、業者が上から踏み抜く。そうなったら、何があったか分からなくなる」

「篠原さんは、下に何があると思っていますか」

「思うだけなら、いくらでも思えますよ」

「では、何を知っているんです」

澄江は裁縫箱を開けた。中には糸巻きと針、それから小さな白いボタンが一つ入っていた。彼女はボタンを取り出し、掌の上で転がした。

「里奈が消えた夜、私は床が二度鳴るのを聞いた。一度目は、誰かが入った。二度目は、誰かが出た。けれど、その間に何があったかは見ていません」

「見なかったのではなく、見ないようにした」

「そうです」

「なぜですか」

澄江はボタンを裁縫箱へ戻し、糸巻きの位置を整えた。

「見たら、知ってしまうからです。知ったら、言わなければならない。言えば、ここで暮らす人間の誰かが壊れる。私は長くここに住みすぎました。壊れたものを見てきた。人も、壁も、記録もね」

「守りたかったんですか」

「ええ」

「誰を?」

「それが分からなくなったから、いま困っているんでしょう」

澄江は立ち上がった。床鳴りのしない板を選びながら、炊事場の方へ歩いていく。

「見えやすい場所に隠すのは、里奈のやり方じゃない。あの子は、見つける人間の手順まで考える子でした。だから、紙があるなら、紙だけを探しても見つかりません」

「手順を探せということですか」

「順番を間違えたら、残るものも残らない」

澄江はそこで振り返った。

「それだけは、覚えておきなさい。壊すのも、読むのも同じです」

彼女が去ったあと、赤城はしばらく廊下に立っていた。

足場の影が、夕暮れの壁をゆっくり横切っていく。

やがて三ツ橋荘の奥で、低い床鳴りがした。

今度は一度だけだった。

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