第9話 校舎裏の対話

夜の校舎裏は、昼間の熱をまだ抱えていた。
講堂の壁に手を触れると、塗装のざらつきの下からぬるい温度が返ってくる。けれど、その表面を海から来た風が撫でていた。風は湿っていて、潮の匂いと、遠くの港で燃える油の匂いを運んでくる。グラウンドには海霧が低く溜まり、白い線も、フェンスの向こうの防波堤も、途中からぼやけていた。
私は講堂の裏手で足を止めた。
手には『夕凪の保健室』のコピーと、舞台写真の束がある。何度も持ち替えたせいで、写真の端が少し曲がっていた。折れないように指で押さえながら、私は霧の向こうを見た。
誰かがいる気配がした。
足音ではない。人がそこにいるときだけ、風の通り方が変わる。そういうことを、私は昔から妙に察してしまう。言葉より先に、間合いを読んでしまう。けれど、分かったふりをしてはいけないと、今日は思っていた。
「悠真」
呼ぶと、倉庫脇の暗がりから白石悠真が出てきた。
以前より少し髪が長い。制服ではなく、濃い色のシャツを着ている。袖口を指で引く癖も、目線を海側へ逃がす癖も、そのままだった。ただ、顔つきだけは三年前より静かになっていた。大人びたというより、笑ってごまかせない時間をいくつか通ってきた顔だった。
「見つかった」
「見つけたのは私」
「そうだった」
悠真は軽く笑おうとした。けれど、口元は途中で止まった。
風が吹き、霧が二人の間を横切った。白い湿気が頬に触れ、汗ばんだ首筋を冷やす。私は手元のコピーを見た。紙の上には、消された役名と、私が書き足した赤い文字がある。
「どうしてここにいるの」
「備品を置きに来た。ついでに、少し風に当たりたくなった」
「嘘」
「早いな」
「悠真は、用事がない場所に来るとき、必ず“ついで”って言うから」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ。忘れていたわけじゃない」
その言葉を口にすると、胸の奥が少し震えた。
悠真は返事をせず、靴の先で地面の小石を動かした。湿った土に、小さな跡が残る。
「何か言いたいなら、言って」
私は続けた。
「私も、今日は聞きたいことがある」
「ずいぶん積極的になった」
「そういう言い方をしないで」
「ごめん」
「謝るなら、軽く言わないで」
悠真は顔を上げた。霧の白さの中で、その目だけがはっきり見えた。
「分かった」
その返事のあと、長い沈黙が落ちた。
私は沈黙を埋めるために、文化祭の進行や照明の話を出そうとした。けれど、喉の奥で言葉を止めた。ここでまた別の話を始めたら、三年前と同じになる。私はずっと、そうやって空気を整えてきた。誰かが困る前に、怒る前に、傷つく前に、話題を変えた。
その結果、何が起きたのかを、今なら知っている。
「町を出たときのことを聞かせて」
私は言った。
「家の事情は、前に話した」
「それだけじゃない話」
「どれ」
「どうして何も言わずに行ったのか。どうして連絡をくれなかったのか。どうして今、戻ってきたのか」
悠真は海側へ視線をやった。霧の向こうには何も見えない。けれど、港のあたりで金属を打つ音がして、遠くの波が防波堤へ崩れている。
「全部、聞く?」
「聞く」
「聞いたら、俺を許さないかもしれない」
「許すために聞くんじゃない」
「じゃあ、何のため?」
「分かるため」
「分かっても、納得できないことはある」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも。分からないまま怒るのは、もう嫌だから」
悠真はしばらく黙っていた。親指の爪を指先へ押し当てる。考え込んでいるときの癖だ。爪の白い部分が皮膚へ食い込み、すぐに離れる。
「家のことは、急に決まった。親が仕事を変わることになって、向こうへ行く話が出た。俺は前からこの町を出たいと思ってたから、行くこと自体には迷わなかった」
「迷わなかった?」
「行くかどうかだけなら」
「じゃあ、何に迷ったの」
「何を置いていくか」
短い言葉だった。
「町を出る人間は、荷物を減らすだろ。持っていけるものには限りがある。俺は、何を持っていくかは決められた。でも、何を置いていくかは決められなかった」
「私たちを、置いていくものにしたの?」
「そういうつもりじゃなかった」
「つもりじゃなくても、そうなった」
「うん」
「約束も?」
「約束は、持っていこうとした」
「持っていけた?」
「持っていけなかった」
私はコピーを握り直した。紙が手の中でたわむ。
「じゃあ、名前を消したのは、約束を捨てるため?」
「違う」
「でも、脚本から悠真の名前を消してくれって、湊に頼んだんでしょう」
「頼んだ」
「それは、捨てることじゃないの」
「俺には、そうしないと進めないと思った」
「自分が?」
「俺が。名前が残っていると、俺は戻らなきゃいけない気がした。舞台にも、町にも、二人のところにも。行くと決めたあとまで、残る人の顔を見ていたら、俺はたぶん動けなかった」
「動けなくてもよかった」
言葉が出た。
「動けなくても、困っても、迷ってもよかった。私たちに何も言わないで、全部一人で決めなくてもよかった」
「そうだな」
「そうだな、じゃないよ」
声が震えた。怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。
「私は、悠真が行きたいなら行けばいいと思った。そう言えば、悠真が困らないと思った。湊も、私も、いつも通りでいられると思った。だから、行かないでって言わなかった。言っても意味がないと思ったし、言ったら私が困らせると思った」
「灯里は、いつも自分を後ろに置く」
「知ってる」
「知ってたのに、俺も利用した」
「利用?」
「灯里なら、俺を責めないと思った。行きたいと言えば、寂しくても笑って送り出すと思った。だから、灯里に本当のことを聞かなかった」
霧が風に押され、講堂の壁際から少し流れた。フェンスの向こうに、防波堤の輪郭が浮かぶ。海と陸を分けるコンクリートの線が、夜の中で濡れて光っていた。
「それは、私のせい?」
「違う」
「でも、私がそういう人間だったから」
「違う。灯里が黙ることを、俺が都合よく使っただけだ」
「だったら、どうして戻ってきたの」
私はようやく、そこを訊いた。
悠真はすぐには答えなかった。目線が海へ逃げる。けれど、今日はそこから戻ってくるまでが早かった。
「戻らないほうが、簡単だったから」
「簡単?」
「何も知らないままなら、俺は自分の選択だけを見ていられた。出てよかった、間違っていなかった、ここにはもう戻らなくていい。そう思っていれば、向こうで続けられた」
「続けられた?」
「仕事も、学校も、人間関係も。全部、過去と切り離した顔で」
「でも、切り離せなかった」
「うん。名前を消した脚本を、ずっと持ってた」
悠真は鞄から、小さなノートを取り出した。表紙の端は擦れ、角が丸くなっている。三年前に町を出るとき持っていったものだと、私はすぐに分かった。
「これは、捨てたつもりだった」
「でも、持ってる」
「何度も捨てようとした。引っ越すたびに、荷物の一番上へ置いて、次の場所でまた鞄に戻した。俺は、捨てるのも持っていくのも、どっちも中途半端だった」
「それで、戻ったの?」
「今年、実家の片づけをしていて、古い配役表が出てきた。名前が消えているのに、俺の字で、隣に別の言葉が残ってた」
「何て?」
悠真はノートを開いた。
そこには、鉛筆で何度も書き直された一行があった。
――名前を消す前に、呼ぶ。
私はその文字を見つめた。
「これ、どういう意味?」
「分からない」
「悠真にも?」
「書いたときは分かってたかもしれない。でも、今は分からない」
「じゃあ、何で持ってきたの」

「分からないままにしたくなかったから」
ノートの頁を風がめくった。次の頁には、舞台の音響や照明の指示が細かく書かれている。余白の隅に、短い言葉がいくつも残っていた。
扇風機が止まる前に。
灯里が言いかけたら待つ。
湊が赤ペンを置くまで、扉を開けない。
私は三つ目の文を見て、息を止めた。
「これ……」
「当時のメモだと思う」
「湊の字?」
「たぶん」
「たぶんばかりだね」
「確実なことって、意外と少ないから」
「それを言うなら、私たちは三年間、たぶんだけで生きてきた」
悠真はノートを閉じた。
「灯里は、あのとき何を言おうとしてた?」
今度は彼が訊いた。
私は返事をする前に、一拍置いた。いつもの癖だったが、今日はその一拍を隠さなかった。
「行かないでって言おうとしてた」
口にすると、胸の奥にあった固いものが、少し形を変えた。
「でも、それだけじゃない。悠真が好きだって言おうとしたのかもしれない。好きじゃなくても、三人でいる時間が終わるのが嫌だって言いたかったのかもしれない。湊に、私が何を考えているのか聞いてほしいと言いたかったのかもしれない。いろんな言葉が頭にあって、どれを選んでも誰かが傷つく気がした」
「だから、何も選ばなかった」
「うん」
「俺と同じだ」
「違うよ。悠真は選んだ」
「行くことは選んだ。でも、言うことを選ばなかった」
その言葉に、私は顔を上げた。
「選ばなかったことも、選択だと思う」
悠真は静かに言った。
「俺は、行くことだけを自分の決断だと思っていた。言わなかったことは、仕方なかったことにした。でも、言わなかったせいで灯里や湊の時間を止めたなら、それも俺が選んだことになる」
「私も、黙ったことを仕方なかったことにしてた」
「だから、今ここにいる」
「戻ってきても、三年前には戻れないよ」
「分かってる」
「約束も、同じ形では守れない」
「分かってる」
「それでも、脚本を読む?」
悠真は私の手にあるコピーを見た。
「今の脚本?」
「書き直したところがある。私が言えなかった台詞を、少しだけ」
「見せて」
私は紙を差し出した。
悠真は受け取る前に、私の顔を見た。その間が、妙に長く感じられた。やがて彼は両手でコピーを受け取り、紙の端を確かめるように持った。
「ここにいるなら、名前を呼んで」
悠真が読む。
声は低く、霧の中でもよく届いた。
「私は、ここにいた。呼ばれなかったから、いないことにした」
読むほどに、彼の声から軽さが消えていく。
「だから、今度は自分で名前を呼ぶ。ここにいる私を、私が見つけるために」
読み終えた悠真は、しばらく紙を見つめていた。
「灯里の台詞だな」
「そう思う?」
「思う」
「悠真の台詞でもあると思う」
「そうかもしれない」
「また、たぶん?」
「今のは、たぶんじゃない」
彼は紙を私へ返した。
「俺も、ここにいた。いなくなったあとも、いないことにしただけだった」
その言葉を聞いたとき、胸が痛んだ。三年前の彼を許したわけではない。私自身を許せたわけでもない。けれど、痛みを一つの判決にまとめなくてもいいのだと思った。
行った人には、行った人の理由がある。
残った人には、残った人の傷がある。
どちらかを正しくすれば、もう片方が間違いになるわけではない。
「明日、打ち合わせに来て」
私は言った。
「舞台の?」
「うん。出るかどうかは、まだ決めなくていい。音響でも、照明でも、客席の端でもいい。でも、名前を消したままにはしないでほしい」
「分かった」
「湊にも話す」
「湊は、戻ってくるのかな」
「分からない。でも、私から呼ぶ」
悠真は、ほんの少し目を伏せた。
「灯里は、変わったな」
「変わってないよ」
「変わった」
「どこが?」
「前なら、呼ぶ前に相手が来るのを待ってた」
私は答えられなかった。
風が強くなり、霧の向こうからフェリーの汽笛が聞こえた。姿は見えない。ただ、低い音だけが海と陸の間を進んでくる。船は見えない航路を知っているのかもしれない。見えないから進めないのではなく、見えないままでも進む方向を決めている。
講堂の裏口から、照明の白い光が漏れていた。中では藤崎先生が、まだ音響表を整理しているらしい。紙の擦れる音が、風に混じって聞こえる。
悠真が私の持つ写真を見た。
「先生に、それも見せる?」
「うん。もう隠さない」
「俺の配役表も?」
「見せて」
「分かった」
悠真はノートを私へ差し出した。
「これは、灯里が持ってて」
「また、しまうのが怖いから?」
「うん。俺が持ってると、次に捨てたくなるかもしれない」
私はノートを受け取った。表紙は長い時間、彼の手の中にあったせいか、少し滑らかになっている。紙の匂いに、かすかな潮の匂いが混じっていた。
「悠真」
「なに」
「私は、行かないでって言えなかったことを、まだ後悔してる」
「うん」
「でも、行ったことを止めたいわけじゃない」
「うん」
「戻ってきてくれてよかったとも、まだ簡単には言えない」
「言わなくていい」
「それでも、明日来てほしい」
悠真は黙った。
私はその沈黙を、昔のように不安になりながら待たなかった。答えを急かさず、けれど自分の言ったことを取り消さずに立っていた。
やがて悠真が顔を上げた。
「行く」
短い言葉だった。
けれど、三年前の「行く」とは違っていた。誰かを置いていくためではなく、残してきた場所へ一度戻るための言葉だった。
保健室脇の古い扇風機が、風に押されてかすかに回った。電源は入っていないのに、羽根が一周し、カバーが低く鳴る。白いカーテンが膨らみ、すぐに萎んだ。
私はその風を頬に受けた。
「明日、あの台詞を読む」
「紙を見ないで?」
「できるか分からない」
「分からないまま、やればいい」
悠真が言った。
「俺も、そうする」
私は頷いた。
校舎の角を曲がると、霧の切れ目から防波堤が見えた。海は暗く、航路も、そこを進む船も見えない。ただ遠くで、フェリーの灯りが一つだけ揺れていた。
私は悠真と並んで歩き出した。
三年前と同じ場所へ戻るためではない。戻れない場所を、戻れないまま持っていくために。紙の上で消された名前を、今度は自分の声で呼ぶために。
手の中のノートが、歩くたびに小さく揺れた。
その揺れは、止まっていた時間の音ではなかった。まだどこへ行くのか決まっていない、これからの足音だった。
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