8話 戻ってきた名前

凛に「悠真にも」と言われたあと、私はしばらく返事ができなかった。

講堂の机の上には、脚本と舞台写真と音響表が重なっている。紙の端は風に持ち上がり、戻るたびに乾いた音を立てていた。窓の外では海霧がグラウンドへ流れ込み、組み立て途中の看板を白く隠している。見えるものが少なくなるほど、見えないものの輪郭だけが濃くなった。

「……うん」

ようやく答えると、凛は頷いた。

「なら、会いに行く?」

「どこへ?」

「校舎の中にいるんでしょ。備品搬入で来てるなら、まだどこかにいる」

「探すの?」

「探す。あんたは探さないでしょ」

「探したら、何を言えばいいか考えないといけないから」

「考えてから行くと、たぶん卒業しても行かない」

凛は机の上の資料を手早く束ねた。写真はファイルへ戻し、音響表は折れないようにクリアファイルへ差し込む。乱暴そうに見えるのに、紙の角を傷めることだけは避けている。

「灯里、私は悠真を連れ戻したいわけじゃない」

「分かってる」

「約束を守らせたいわけでもない。もう三年前の約束を、そのまま守る方法なんてないから。町を出た人を、出ていなかったことにはできないし、残った人を、待っていなかったことにもできない」

凛はそこで一度、机を指で叩いた。

「ただ、いなくなった人の名前を消したまま、今度の舞台を始めるのは嫌なの。残すなら残す、変えるなら変える。誰かの都合で、いないことにした形だけは、もう見たくない」

私は脚本の表紙へ手を置いた。青いインクで書かれた題名が、手のひらの下に沈んでいる。

「会ったら、怒っていいのかな」

「いいよ」

「行かないでって言えなかったことも、何も聞かなかったことも、責めていい?」

「いい」

「でも、悠真にも事情があったら?」

「事情がある人は、傷つけていいの?」

「そうじゃない」

「なら、怒っていいし、聞いていい。事情を聞いてから許すかどうか決めればいい。最初から分かった顔をする必要はない」

凛の言葉は、乾いていて、逃げ場がなかった。けれど、その逃げ場のなさが、今はありがたかった。私はまた紙を整えて、帰る準備をしようとしていた。脚本を閉じ、資料を揃え、何も決まっていないのに片づけることで、会わずに済ませようとしていた。

凛はそれを見ていた。

「灯里」

「なに」

「片づけるのは、会ってからにして」

私は脚本を閉じる手を止めた。

そのとき、講堂の外で台車の車輪が軋んだ。誰かが長い棒状の照明器具を運んでいるらしい。金属が壁に触れ、軽い音を立てる。凛が扉へ向かった。

「行くよ」

「どこへ?」

「音のしたほう」

返事をする暇もなく、凛は扉を開けた。

廊下は夕方の薄い光に満ちていた。窓の外では、海霧がグラウンドの端から校舎へ這い上がっている。湿った風が入り、汗で貼りついたシャツの背中を冷やした。凛は音の消えた廊下を見回し、講堂の裏手へ歩き出す。

私はその背中を追った。

廊下の角を曲がると、使われていない保健室の前に、古い照明器具が二台置かれていた。コードが束ねられ、台車の上には埃をかぶった箱が積まれている。その脇に、ひとりの男子が立っていた。

少し伸びた髪。濃い色のシャツ。見慣れない服装なのに、袖口を無意識に引く指だけが、記憶の中と同じだった。

彼は私たちの気配に気づき、顔を上げた。

「まだ使ってる?」

声を聞いた瞬間、胸の奥が固くなった。

忘れていたわけではない。忘れたふりをして、音の形だけを遠くへ置いていたのだ。けれど声は、紙よりも早く、三年前の場所を連れ戻した。

凛が私を見る。

「知り合い?」

わざとらしい問いだった。私は脚本の題名も、配役表も、削除線のことも、凛に話している。なのに、彼女は私の口から名前が出るのを待っている。

私は一度、息を止めた。

「……悠真」

白石悠真は、少しだけ目を細めた。

「久しぶり、灯里」

「久しぶりって言えるんだ」

思ったより先に言葉が出た。悠真は軽口を返そうとしたらしい。口元がかすかに動き、けれど笑いにはならなかった。

「言わないほうがよかった?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

私は答えを探した。どうして戻ったの。何をしに来たの。今さら何を話すつもりなの。どの言葉も喉の手前で形を変え、結局、薄い問いにしかならなかった。

「昨日の進行表に、名前があった」

「見たんだ」

「うん」

「名前、残ってた?」

「残ってた」

「じゃあ、消えてなかったんだな」

その言い方に、胸の奥が痛んだ。

「悠真が消えたんじゃないの?」

「町からは消えた」

「私たちからも」

「そうだな」

悠真は否定しなかった。軽口で逃げるには、廊下が狭すぎた。保健室の前には古い扇風機が置かれている。羽根は止まっていたが、窓から入る風に、カバーの内側でわずかに揺れている。

凛が腕を組んだ。

「灯里、私は向こうで備品の確認してる。五分だけ」

「凛」

「五分で戻る。逃げるなら、逃げたって言って」

凛は悠真へ視線を移した。

「こいつ、話したくないとすぐ作業の話にするから。何か運ぶものがあったら、先に全部片づけておいて」

「了解」

「軽く返事しないで」

「了解」

凛は眉をひそめたまま、廊下の向こうへ歩いていった。彼女の足音が階段のほうへ消えると、窓から入った風が急に大きく感じられた。

私は保健室の扉に手をかけた。鍵はかかっていない。扉を開けると、使われていない部屋の匂いがした。消毒液と古い木と、布団を長くしまっていたときの乾いた匂い。窓際には、三年前の舞台で使ったものと同じ型の扇風機が置かれていた。

羽根は止まっている。

「ここ、まだあったんだ」

悠真が言った。

「保健室だから」

「そういう意味じゃない」

私は部屋へ入り、窓を少し開けた。海の匂いが流れ込んでくる。遠くで、講堂の作業音が続いていた。誰かが笑い、板を運び、放送の試験をしている。学校は三年前のことなど知らないまま、今日の作業を進めている。

「帰ってきた理由を聞いてもいい?」

私は窓の外を見たまま言った。

「聞きたいなら」

「聞きたい」

「灯里が聞きたいって言うの、珍しいな」

「その言い方、やめて」

悠真は黙った。窓の外へ視線を逃がしている。海霧の向こうに港がある。防波堤も、フェリーの航路も、今は白い霧に隠れていた。

「町を出たとき、家のことがあった」

「家?」

「親が仕事を変えることになって、向こうへ行く話が急に決まった。急だったけど、俺は前からこの町を出たいと思ってた」

「聞いてない」

「言ってなかったから」

「どうして言わなかったの」

「言えば、灯里は止めると思った」

私は振り返った。

「私が?」

「うん」

「止めたことなんてない」

「だからだよ」

悠真の声は静かだった。

「灯里は、誰かが困ると、先に自分が引く。俺が行きたいと言ったら、きっと笑って、大丈夫って言う。行かないでほしいと思っていても、行っていいよって言う。そういうのが分かってたから、聞くのが怖かった」

「勝手に決めないでよ」

「決めた。勝手に」

「私が何を言うか、聞きもしないで」

「聞いたら、俺は行く決心が鈍ったと思う」

「それでも聞けばよかった」

「うん」

短い返事が、かえって重かった。

「俺は、行くことを選んだ。だから、行かないでと言われても、たぶん行った。でも、言われたかった。言われて、それでも行きたかった。なのに、誰にも何も言わせないまま、俺は出ていった」

扇風機のコードが床に垂れている。私はそれをまたいだ。

「脚本の名前を消したのも、悠真なの?」

「俺が頼んだ」

「湊に?」

「うん。名前が残ってると、俺が戻らなきゃいけない気がした。脚本に書かれた場所へ戻って、約束を守らなきゃいけない気がした。でも、俺は行きたかった。だから、名前を消せば、残った二人で続けられると思った」

「続かなかった」

「分かってる」

「私たちは、続けられなかった。湊は何も言わなくなって、私は何も聞かなかった。毎年、文化祭の時期になると、別の企画を探した。脚本のことを思い出しても、古いからって言い訳した」

「俺も、連絡しようとしてやめた」

「何回?」

悠真は窓の外を見たまま、親指の爪を指先へ押し当てた。

「数えてない」

「数えてよ」

「最初の一年は多かった。送る文面を作って、消した。灯里にだけ送るのは違うと思って、湊にも送ろうとして、三人に送る文章にして、長すぎて消した。短くすると嘘みたいで、また消した」

「それで三年?」

「三年」

「私たちが、待ってるかもしれないとは思わなかった?」

「思った」

悠真の返事は、ほとんど息のようだった。

「だから、戻れなかった。待たせているかもしれないと思うほど、何も言わずに戻るのが怖くなった。連絡を絶った理由を説明できないまま、戻った顔をするのが嫌だった」

「じゃあ、どうして今?」

「今年の文化祭の資料が、実家の荷物から出てきた」

悠真は鞄から小さなノートを取り出した。表紙の角が擦れ、紙の端が何度も折られている。

「これ、町を出る前に持っていった。捨てたつもりだったけど、ずっと残ってた。中に、あの舞台のことが書いてある」

「見せて」

悠真はノートを開いた。最初の頁には、三年前の日付と、舞台の進行が細かく書かれている。扇風機の音、扉の開閉、照明を落とす時間。その下に、鉛筆で何度も書き直された一行があった。

――名前を消す前に、呼ぶ。

私は息を止めた。

「これ、湊の字?」

「たぶん」

「たぶん?」

「俺が持って出たから、確かめられない。でも、あいつの書き方に似てる」

「名前を消す前に、呼ぶって、どういう意味?」

悠真は答えなかった。

静かな部屋で、扇風機の羽根が風に押されてかすかに揺れた。カバーが鳴り、すぐに止まる。その小さな音が、三年前の保健室へ続く入口のように思えた。

「湊は、俺の名前を消したかったんじゃない」

悠真が言った。

「俺に、消させたかったんだと思う」

「どういうこと?」

「俺が出ていくことを決めたあと、湊は何度も、考え直せって言った。俺は聞かなかった。灯里は黙ってた。最後の日、俺は湊に頼んだ。脚本から俺の名前を外してくれって。そうしたら、二人は俺を待たなくて済む。俺のせいで、舞台を止めなくて済む」

「湊は、すぐ消したの?」

「すぐには。何度も線を引いて、何度も消して、最後まで書ききれなかった」

「だから、あんなに赤ペンが重なってた」

「うん」

「そのとき、私は何をしてたの」

「保健室にいた」

「それだけ?」

「灯里は、何か言おうとしてた」

胸の奥に、古い熱が戻ってきた。

白いカーテン。窓際の悠真。机へ向かう湊。扇風機の羽音。私は二人の間に立っていた。何かを言おうとして、言えなかった。言えば、三人の形が変わる。変わったあと、自分がどこに立てばいいのか分からなかった。

「私は、何を言おうとしてた?」

悠真は私を見た。

「俺には、分からなかった」

「分からなかった?」

「灯里は、最後まで俺を見なかったから」

その言葉が、まっすぐ胸に入った。

「見てたよ」

「見てた。でも、俺じゃなくて、俺の向こうを見てた」

「そんなの……」

「俺も同じだった。灯里のことを見ていたのに、灯里に見られるのが怖くて、窓の外ばかり見てた」

息が詰まった。

近すぎたから、言葉にできなかった。互いに相手の沈黙を読み、読み違えたまま、分かったふりをしていた。幼なじみという距離は、何でも知っている距離ではない。知っていると思い込むことで、聞かなくても済ませてしまう距離だった。

「戻ってきたのは、私に何か言うため?」

「それだけじゃない」

「じゃあ、何?」

「自分が出ていったことを、正しかったことにしたくなかった」

悠真はノートを閉じた。

「正しかったか間違ってたかは、今でも分からない。出たから見えたものもあるし、出たせいで失ったものもある。戻ってきたからって、失ったものが戻るわけじゃない。でも、何もなかった顔で先へ行くのは、もう無理だった」

「それで、文化祭に来たの?」

「資料に名前があったから。潮騒祭の準備補助。俺が使えるなら、使ってもらえばいいと思った」

「舞台に出るつもりは?」

「ない」

「どうして」

「俺が出たら、また昔の続きを演じることになる。灯里も湊も、俺が戻ったから元通りにしなきゃいけないと思うだろ」

「私は思わない」

「今は?」

言葉に詰まった。

悠真は、そこへ逃げ道を置くように続けた。

「出なくていい。戻らなくていい。灯里が舞台をやりたいなら、俺のいない形でやればいい。残る人が残り、行く人が行く。それぞれが自分で選べばいい。ただ、名前だけを消して、最初からいなかったことにはしないでほしい」

「それは、私に言ってるの?」

「俺にも言ってる」

窓の外で、霧が少し薄くなった。フェンスの向こうに、グラウンドの白線が見える。遠くの港で、船の汽笛が鳴った。姿はない。けれど、どこかへ向かう音だけが、霧の中を進んでくる。

「悠真」

「うん」

「私は、あのとき行かないでって言えなかった」

「うん」

「今でも、行ってほしくなかったと思ってる」

悠真の指が、ノートの表紙の上で止まった。

「うん」

「でも、戻ってきてほしかったとも言えなかった。戻ってきたら、私は何か答えを出さなきゃいけないと思ったから。好きだったのか、ただ三人でいたかったのか、町に残りたいのか、外へ出たいのか。全部決めなきゃいけないと思って、だからまた黙った」

「決めなくていいとは言わない」

「うん」

「でも、今すぐ一つにしなくていい。俺も三年かかった」

「三年かけても、まだ分からないんだ」

「分からない。でも、分からないままでも戻ることはできた」

悠真はそこで、初めて私の目をまっすぐ見た。

「灯里も、分からないまま言えばいい。分からないから、聞きたい。怖いから、怒ってる。そういう言い方でも、言わないよりは残る」

私は返事をしようとした。けれど、その前に廊下から凛の声が飛んできた。

「五分過ぎた!」

扉の向こうで、凛が腕を組んでいる姿が見えた。

「長い」

「ごめん」

「謝るのはあと。灯里、顔がすごい。泣くならここで泣いてもいいけど、私は見ないふりしないから」

「泣いてない」

「泣く一歩手前」

「そう見えるだけ」

「そういうところ」

凛は悠真の持つノートへ視線を落とした。

「それ、資料?」

「昔の記録」

「先生に見せて。灯里にも」

「もう見せた」

「なら、灯里が持って」

悠真はノートを私へ差し出した。

「持ってて」

「いいの?」

「俺が持ってると、またしまうから」

ノートの表紙は、長く使われた手の油で滑らかになっていた。受け取ると、紙の重さが手のひらへ移る。脚本と同じように、誰かが捨てきれなかったものの重さだった。

「明日、舞台の打ち合わせがある」

凛が言った。

「悠真も来る?」

「備品なら」

「舞台のことを話す」

「分かった」

「逃げない?」

悠真は少しだけ笑った。

「逃げるなら、先に言う」

「それなら許す」

「許すんだ」

「まだ許してない。逃げるって言うことを許すだけ」

凛はそう言い、保健室の古い扇風機を指差した。

「これ、舞台で使える?」

悠真が羽根を覗き込む。

「動くなら」

凛がスイッチを入れた。羽根は一度だけ揺れ、軸の奥で低く唸った。止まりかけたあと、ゆっくり回り始める。風がカーテンを持ち上げ、古い消毒液の匂いを部屋の外へ押し出していった。

私はその風に頬を撫でられた。

三年前、扇風機が止まる前に、誰かが名前を呼んだ。誰の名前だったのか、まだ思い出せない。けれど今は、少なくとも一つ、呼べる名前がある。

「悠真」

もう一度呼ぶと、彼は顔を上げた。

「なに」

「明日、脚本を見せる」

「分かった」

「まだ、全部は書き直せてない。でも、私が言えなかったことを、少し書いた」

「読む」

「嫌だったら、嫌って言って」

「言う」

「途中で帰らないで」

悠真は視線を海側へ逃がした。けれど今度は、すぐに戻した。

「帰らない」

その言葉に、約束の形を重ねることはできなかった。三年前の約束は、同じ形では戻らない。戻ってきた名前も、戻ってきた人も、以前の場所にそのまま置くことはできない。

それでも、名前が呼ばれたあとに誰かが残ることはできる。

私は悠真から受け取ったノートを胸に抱え、保健室を出た。廊下の窓の向こうでは、海霧が少しずつほどけている。グラウンドのフェンスが現れ、その向こうに、暮れかけた海の色が見えた。

講堂へ戻る途中、私はノートの表紙を指でなぞった。

消えた名前は、消えたままではなかった。

誰かが呼ぶまで、時間の底で待っていた。

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