7話 削除線の上に残る字

写真をファイルへ戻さずに持ち帰ったせいで、鞄の中がいつもより重かった。

紙一枚の重さなど、たかが知れている。けれど、階段を上がるたび、鞄の底に入れた写真が体の内側へ沈んでくるようだった。廊下の窓は開いていた。海からの風が入り、掲示板に貼られた進路説明会の紙を浮かせている。画鋲の一つが外れかけ、紙の端が何度も壁を叩いていた。

私は足を止め、浮き上がった紙を押さえた。

進学先の一覧。出願期間。必要書類。締め切り。

整然と並んだ文字を見ていると、未来まで誰かが先に配役しているような気がした。私は紙の端を折り、すぐに伸ばした。折り目は薄く残った。

教室へ戻ると、凛が机を二つ並べていた。机の上には、実行委員のバインダーと、飲みかけの甘い炭酸飲料が置かれている。彼女は私を見るなり、腕を組んだ。

「遅い」

「写真を持って帰ってた」

「それは見れば分かる。顔が資料室に置いてきたみたいになってる」

「どんな顔?」

「聞くまでもない顔」

私は鞄から写真を出し、机の上へ置いた。凛はすぐには触れなかった。紙の周囲に残った湿気まで読もうとするように、しばらく見つめている。

「先生、何か言った?」

「言わなかった」

「また?」

「うん」

「先生も、灯里も、黙るのが好きすぎる」

凛は写真を裏返した。湊の字で書かれた一行が、昼間より濃く見える。

《名前を消す順番を、間違えた》

「これ、どういう意味だと思う」

「まだ分からない」

言った瞬間、凛の眉が上がった。

「それ、昨日までなら聞き流したけど」

「今日は?」

「今日は、聞き流さない。分からないなら、分からないところまで言って」

私は写真の端に指を置いた。

「名前を消す順番って書いてある。でも、名前を消したのは悠真だって、本人が言ってた。湊に頼んで、役名から外してもらったって」

「うん」

「だったら、湊が間違えたのは、悠真の名前を消した順番じゃない。もっと前に消えた名前があるのかもしれない」

凛は写真を持ち上げ、窓の光へ透かした。裏の文字が、表面の舞台写真に薄く重なる。

「灯里の名前?」

胸の奥がひやりとした。

「どうしてそう思うの」

「写真の中で、あんたが誰も見てないから」

「関係ないよ。役名は残ってる」

「役名が残ってても、本人がそこにいないことはあるでしょ」

凛は写真を机へ戻した。

「私はさ、名前って、書いてあるかどうかだけじゃないと思う。呼ばれるかどうかだよ。あんた、三年前に誰かの名前を呼んだ?」

喉の奥に、古い扇風機の軸が引っかかったようだった。

呼んでいない。

悠真の名前も、湊の名前も。どちらか一人を選ぶことになるのが怖くて、私は二人を同じ距離に置こうとした。けれど、同じ距離というのは、誰にも近づかないことと同じだった。

「……呼ばなかった」

「誰も?」

「誰も」

「それが、たぶん最初の削除なんじゃない」

凛の言葉はいつもまっすぐで、だから時々、こちらが見ないようにしていた場所へ簡単に届く。

「名前を消したのは悠真かもしれない。台詞を消したのは湊かもしれない。でも、名前を呼ばなかったのは灯里でしょ」

「そうだね」

「認めるの早いな」

「もう、言い訳を考えるのに疲れた」

凛は目を見開いた。驚きはすぐ消え、代わりに、何かを確かめるような表情になった。

「じゃあ、どうする?」

「書き直す」

「脚本を?」

「うん。元に戻すんじゃなくて」

私は鞄から『夕凪の保健室』を取り出した。表紙の角は、何度も触れたせいで柔らかくなっている。凛が息を呑み、机の上の空いた場所を作った。

「何を書くの」

「まだ決めてない」

「決めてないのに、書き直すって言ったの?」

「決めてないから、書く」

自分で言いながら、その言葉が少し不思議だった。これまでの私は、決めてから動くふりをしていた。実際には、失敗しない順番が見つかるまで動かなかっただけだ。

凛が炭酸飲料を一口飲み、顔をしかめた。

「甘っ」

「好きで飲んでるんじゃないの?」

「好きだけど、今日は甘さが刺さる」

彼女は缶を置き、脚本を開いた。

「ここから?」

「最後の場面から」

「いきなり終わり?」

「三年前、終われなかったから」

最後の頁には、台詞のない空白が残っている。下端に湊の字で、《ここで、誰かが名前を呼ぶ》とある。その横には、私が書いた《呼ばれた名前は、戻るためではなく、進むために残る》という一文があった。

凛はそれを読んで、指先で紙の端を二度叩いた。

「これ、きれいすぎる」

「そうかな」

「そう。あんたが考えたにしては、少し賢そうすぎる」

「失礼」

「だって、本音ってもっと格好悪いでしょ。言いたいのに言えないとか、選びたいのに選べないとか。そういうところを、急にきれいな言葉で包むから、また逃げ道になる」

私は赤ペンの蓋を外した。

「じゃあ、凛なら何て書く?」

「私に振るなよ」

「聞いてるだけ」

「それがもう、いつもの逃げ方」

凛は私の手元を見た。

「自分で書いて。下手でも、長くても、途中で消してもいいから。誰かに見せるためじゃなくて、まず自分が読めるように」

ペン先が紙へ触れた。

書き始める前に、三度ほど言い換えを試した。

私はここにいた。

私は、ここにいる。

私は、ここにいたかった。

どれも違う。どれも少しずつ本当で、だから一つに決められない。

窓の外で、グラウンドの看板が風に揺れた。作業を終えた生徒たちが、板を抱えて校舎へ戻ってくる。誰かが「明日には塗り終わる」と叫び、別の誰かが「明日じゃ遅い」と言い返す。文化祭は、決めたことだけでできているわけではない。遅れたもの、やり直したもの、途中で色を変えたものが、最後には同じ場所へ並べられる。

私は書いた。

《私は、ここにいた。あなたたちが先へ行くのが怖くて、呼ばれないふりをした。》

そこで手が止まった。

「読める?」

凛が訊いた。

「まだ」

「じゃあ、読めるところまで」

私は声に出した。

「私は、ここにいた。あなたたちが先へ行くのが怖くて、呼ばれないふりをした」

自分の声が、教室の壁に当たって戻ってきた。舞台ほど広くない場所なのに、言葉の行き先が分からない。

「続きは?」

「ない」

「ないなら、今作る」

「凛は簡単に言う」

「簡単じゃないって、何回言わせるの。ないものを作るんじゃなくて、あんたが今まで書かなかったものを書くの」

私は紙にもう一行重ねた。

《だから、今度は自分で名前を呼ぶ。》

そこまで書いて、悠真の顔が浮かんだ。海霧の向こうで、視線を海側へ逃がしていた。行かないでほしかったと言ったとき、彼は困ったように黙った。それでも行った。私はその事実を、拒絶としてしか受け取れなかった。

けれど、行くことを選ぶ人にも、残ることを選ぶ人にも、選んだあとの生活がある。悠真の選択を否定しなければ、私の痛みまで消えるわけではない。痛いまま、別の場所へ置き直すことはできる。

私は名前を書いた。

白石悠真。

その文字の下に、蒼井湊の名前を書く。最後に、自分の名前を書いた。

結城灯里。

三つの名前を、消された役名の隣へ並べる。紙の上では、黒い線と新しい赤い字が重なった。きれいではない。けれど、今まででいちばん嘘が少なかった。

凛はその頁を覗き込んだ。

「三人とも書いたんだ」

「うん」

「誰を一番に呼ぶの」

また、喉が狭くなった。

「……分からない」

凛はため息をついたが、今度は笑った。

「それでいいんじゃない。順番を決めないと呼べないなら、三人一緒でいい。昔みたいに」

「昔と同じにはできない」

「同じじゃなくていい。昔は三人で黙ってた。今度は三人の名前を、順番なんかつけずに舞台へ置く。それだけでも違う」

そのとき、廊下から藤崎先生の足音が近づいた。先生は開いた教室の扉から中を覗き、机の上の脚本と写真を見た。眼鏡越しの視線が、赤い文字の上で止まる。

「書きましたね」

「はい」

「読めますか」

「まだ、全部は」

「では、全部でなくていいでしょう」

先生は教室へ入り、私たちの机の脇に立った。手には、劣化したクリアファイルがある。表紙の向きを揃えたまま、私へ差し出した。

「三年前の音響表の控えです。最後の場面に、変更前の指示が残っていました」

私はファイルを受け取った。薄い紙の端に、湊の字ではない書き込みがある。

――扇風機を止める。誰かが名前を呼ぶまで、照明を落とさない。

その下に、別の筆跡で小さく付け足されていた。

――呼ばれなくても、残っている人を見失わない。

私は文字を指でなぞった。

「これ、誰が書いたんですか」

「記録には残っていません」

「先生は知っている?」

先生は一拍置いた。

「当時、音響を担当していたのは蒼井君です」

胸が跳ねた。

「じゃあ、湊が?」

「そうかもしれません。けれど、今のあなたに必要なのは、書いた人の特定だけでしょうか」

私は返事をしなかった。

先生はファイルを机へ戻した。

「記録は、過去を正しく固定するためにあるのではありません。別の読み方をするために残ります。あなたが今日書いた文字も、いつか誰かに読まれるでしょう。そのとき、その人があなたと同じ意味を受け取るとは限らない」

「それでも、書くんですか」

「書いた時点で、もう自分だけのものではなくなりますから」

先生はそう言って、机の上の埃を指先で払った。

私は脚本を閉じた。閉じた表紙の内側に、さっき書いた三つの名前がある。紙の中へしまったのに、今度は隠した感じがしなかった。

帰宅すると、綾乃は台所で洗った食器を拭いていた。窓の外はすでに暗く、港の灯りが水面に細く揺れている。私は鞄を置き、脚本をテーブルへ出した。

綾乃は布巾を畳み、脚本の横へ進路希望調査票を置いた。二枚の紙が、同じ白さで並んだ。

「学校の?」

「うん。明日、舞台の改稿を出す」

「進路の提出も、明日」

「知ってる」

「どちらから書くの」

私は赤ペンと黒いボールペンを見比べた。

「お姉ちゃんは、こういうとき、どうしてた?」

「こういうとき?」

「決めたら誰かが困るかもしれないとき。残っても、出ても、誰かを置いていくかもしれないとき」

綾乃は布巾を流しへ置いた。蛇口から落ちる水が、一定の間隔でシンクを叩く。

「困る人はいると思う」

「それでも決めたの?」

「決めた。困らせない選択を探していたら、何年経っても何も選べないから」

「怖くなかった?」

「怖かったよ」

綾乃は短く答え、それから椅子を引いた。

「ただ、怖いことと、間違っていることは別だから」

私は調査票へ目を落とした。

「まだ、地元に残るか出るか決められない」

「それは聞いてる」

「脚本のことも、悠真のことも、湊のことも、全部まだ分からない」

「それも聞いてる」

「でも、分からないまま、書いてみようと思う。残るか出るかを決める前に、私はこうしたいっていうことを、誰かに言える形にしたい」

綾乃は黙っていた。いつもなら、何かを片づける音が先にする。けれど今日は、手を動かさず私を見ていた。

「それでいいと思う」

思いがけず、言葉が返ってきた。

「ただし、書いたら提出して。書くだけで生活が変わるわけじゃないから」

「うん」

「舞台の台詞も?」

「うん。明日、出す」

「誰に?」

私は脚本を開いた。削除線の上に並んだ三つの名前を見る。

「まず、凛に。先生に。それから、悠真に」

「湊には?」

心臓が、一度だけ大きく打った。

「湊にも」

綾乃は頷き、進路調査票を私のほうへ押した。

「なら、順番を書けばいい」

「順番?」

「今できることの順番。気持ちは後からついてくることもある」

私は黒いボールペンを手に取った。第一希望の欄は、まだ空白のままだった。空白を埋めることはできなかったが、以前のように斜線を引いて終わらせる気にもなれなかった。

私は欄外へ小さく書いた。

《明日、相談する。自分で決める。》

それから、脚本の最後の頁へ戻る。

赤ペンを握り、削除線の上に残った字の隣へ、もう一度書き足した。

《ここにいるなら、名前を呼ぶ。呼ばれなくても、消さない。》

古い扇風機を回す。

羽根は低く唸り、何度か軸を揺らしたあと、風を送り始めた。机の上の紙がめくれ、書き込んだばかりの頁が浮き上がる。綾乃が手を伸ばして押さえ、私は反対側を押さえた。

二人の手の間で、三つの名前が風に震えている。

消された線は、もう消えない。消さなくてもいいと思えた。

明日の舞台で、私は過去を再現するのではなく、いま書いた言葉を読む。声が震えても、誰かが困っても、言わなかったことには戻らない。

窓の向こうで、港の灯りが一つ消えた。フェリーの航路は暗く、海と空の境目も見えない。それでも、船がどこかへ進んでいることだけは、遠い汽笛の音で分かった。

私は進路調査票を閉じ、脚本を開いたままにした。

ページの上で、赤い字がまだ乾いていなかった。

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