第6話 舞台写真の端

翌日の放課後、藤崎先生から資料室へ来るように呼び出された。
校舎の西側にある資料室は、普段から人の出入りが少ない。廊下を進むほど、文化祭準備の音が遠のいていく。教室では誰かが笑い、講堂では照明の試運転をしているはずなのに、厚い扉を一枚くぐるだけで、それらは水の底から聞こえる音みたいにぼやけた。
資料室の前で立ち止まり、私は一度だけ息を止めた。
扉を開けると、紙と木の匂いがした。湿気を吸った古いファイルの匂いに、藤崎先生が飲んでいる苦いコーヒーの香りが混じっている。窓は少し開いていたが、風は入らず、ブラインドの隙間から細い光だけが机へ落ちていた。
先生は机の上をきれいに片づけていた。ファイルの背表紙を揃え、音響表の束を右端へ置き、最後に色あせた舞台写真を中央へ並べる。写真は十枚ほどあり、どれも同じ向きに揃えられていた。
「座ってください」
先生はそう言って、私の前に一枚の写真を差し出した。
写真には、三年前の講堂が写っていた。
いま私たちが使っている講堂と同じはずなのに、舞台の床はもっと黒く、客席の椅子も古びて見える。舞台中央には、保健室を模した木枠の扉。白いカーテン。窓際に置かれた、家庭科室から借りた古い扇風機。
その前に、湊が立っていた。
少し笑っている。台詞を言っている途中なのか、誰かの声を聞いているのか、顔だけが客席のほうを向いていた。
私は写真を持つ指先に力を込めた。
「この場面、脚本の十七頁です」
「よく覚えていますね」
「何度も見たので」
「そうですか」
先生はそれ以上、褒めなかった。写真の裏側を確かめるように持ち替え、別の一枚を私へ渡す。
そこには、同じ舞台の少し違う瞬間が写っていた。
湊が扉のそばに立ち、私はその斜め後ろにいる。窓際には悠真がいた。三人は同じ舞台にいるのに、互いの視線は重なっていない。湊は私を見ている。私は湊ではなく、扉の向こうを見ている。悠真だけが、舞台の外へ顔を向けていた。
写真の右端には、妙な空白がある。
人ひとり分の立てる場所が、意図的に残されていた。
「ここ、変ですね」
私が言うと、先生は頷いた。
「何が変ですか」
「立ち位置です。三人しかいないのに、四人目が入れるくらい空いている」
「三人しかいなかった、と断定できますか」
私は写真へ目を戻した。
舞台の端には、カーテンの影が落ちている。黒い影の向こうに、何かがあるようにも見える。けれど写真は粗く、誰かの手や肩が写っているわけではない。
「……分かりません」
「分からないところを、分からないまま見られるのは大事です」
先生は音響表の束を私へ差し出した。
「脚本の頁数と、写真の場面を合わせてみてください」
私は音響表を開いた。三年前の紙は薄く黄ばんでいて、端が何度もめくられたせいで柔らかくなっている。場面ごとの音が記され、その中に「扇風機」「廊下の足音」「波音」といった文字が並んでいた。
十七頁の場面には、扇風機の音が入ることになっている。
二十二頁には、扉が閉まる音。
二十九頁には、音響なし。ただし、「間」とだけ書かれている。
私は写真を一枚ずつ並べた。
十七頁。湊が扉の前に立ち、私はその後ろにいる。悠真の姿はない。
二十二頁。私が窓の近くに移動し、悠真が舞台の端へ下がっている。
二十九頁。湊だけが舞台中央に残り、私と悠真は写真の外へ出ている。
写真の順番を追うと、三人が少しずつ離れていく様子が見えた。誰かが一気に立ち去ったのではない。舞台の中で、立つ場所が変わり、声を出す順番が変わり、最後に名前だけが消されている。
私は写真の端を爪で押さえた。
「ここで、悠真が舞台の外へ出ています」
「そう見えますね」
「でも、脚本ではこのあとも、悠真の台詞が残っている」
「残っていますか」
先生の声が低くなった。
私は脚本を開き、二十二頁のコピーを机へ置いた。赤ペンで消された台詞の下に、薄い鉛筆の跡がある。
――まだ、ここにいる。
その台詞の前には、悠真の役名が書かれていた。けれど役名だけが、何度も塗り潰されている。
「台詞は残っているのに、名前が消されている」
「そうですね」
「それは、誰かが悠真をいないことにしたということですか」
先生はすぐには答えなかった。眼鏡を外し、布でレンズを拭く。その動作は落ち着いていたが、私は先生が答えを選んでいるのだと分かった。
「名前があると、人はその名前の持ち主を探します」
「だから、消した?」
「そう考えることはできます」
「先生は、誰が消したか知っているんですか」
「当時の記録を預かっていたことはあります」
「知っているかどうかを聞いています」
自分でも驚くほど強い声が出た。資料室の狭い空間に、言葉がぶつかって戻ってくる。
先生は私を見た。
「知っていることと、今のあなたに渡せる答えは、同じではありません」
「また、それですか」
「ええ」
「私たちは、三年間ずっと何も分からないままでした。悠真がどうして町を出たのかも、湊がどうして名前を消したのかも、私は何を見て見ないふりをしたのかも。そこに先生だけが答えを持っているなら、教えてくれてもいいじゃないですか」
「教えれば、あなたは納得できますか」
「……分かりません」
「分からないのに、答えを求めている」
「分からないから求めているんです」
声が震えた。怒りなのか、焦りなのか、自分でも判別できない。写真の中の私は笑っている。今の私より幼く、髪も短い。けれど、その笑顔は作りものだった。
「写真の中の私は、何を知っていたんでしょう」
先生は写真へ目を落とした。
「あなたは、何を知らないふりをしていたと思いますか」
質問を返されて、私は黙った。
写真の中の自分は、舞台の中央に立っている。けれど体はわずかに湊から離れ、視線だけが悠真のほうへ向いている。悠真は窓の外を見ている。その視線の先に、港があるのか、それとも舞台の外にいる誰かがいるのか、写真からは分からない。
分からない。
けれど、私は見ていた。
悠真が何かを言いかけるたび、私は先に湊のほうを見た。湊が台詞を直すたび、私はその手元を覗き込んだ。三人の間に小さな変化が起きるたび、私は気づかないふりをして、別の台詞を読んだ。

そうしていれば、三人の形は保てると思っていた。
「私は、誰かが傷つく前に話題を変えていたんだと思います」
言葉が、紙の上へ落ちていく。
「悠真が何かを言おうとしたときも、湊が怒っているときも。私は二人の間に入って、別の話をした。次の場面のこととか、扇風機の音が大きすぎるとか、客席から見たら立ち位置が変だとか。そうやって、三人でいられるようにしていたつもりでした」
先生は黙って聞いている。
「でも、三人でいられるようにしたかったなら、私はもっとちゃんと見ればよかった。悠真が出ていくことも、湊が名前を消すことも、私が何も言わなかったことも。全部、見えていたのに、見えていないふりをした」
言い切ると、喉の奥がひどく熱くなった。
先生は写真の束を整えた。端を揃え、机の上で軽く叩く。紙と紙が触れ合う音が、妙に規則正しく響いた。
「舞台写真は、演技の記録ではありません」
先生が言った。
「その瞬間に、誰がどこを見ていたかの記録です」
「見ていたか」
「ええ。台詞は、あとから書き換えられます。名前も消せます。立ち位置も変えられる。しかし、写真に写った視線までは、完全には直せない」
「だから、写真を見せたんですか」
「写真だけではありません」
先生は音響表の二十九頁を開いた。
そこには、場面の終わりに「扇風機停止」と書かれていた。さらに、その下に細い鉛筆で追記がある。
――止めたあと、誰かが名前を呼ぶまで待つ。
私はその一文へ顔を近づけた。
「この字……湊じゃない」
「そうですね」
「誰が書いたんですか」
「記録には、書いた人の名前までは残っていません」
「でも、音響表を書いた人は分かるでしょう」
「当時の担当者は、もう卒業しています」
「聞けないんですか」
「聞くことはできます。ただ、聞いた答えが、その人の記憶であることは変わりません」
先生はそう言って、音響表を私の前へ置いた。
「記録も記憶も、完全ではありません。だからこそ、いくつかを重ねて、自分で読む必要がある」
私は音響表の端を指でなぞった。古い紙は冷たかった。
「じゃあ、先生は私に何を読ませたいんですか」
「私が決めることではありません」
「でも、ここへ呼んだ」
「あなたが写真を見る必要があると思ったからです」
「どうして」
先生は少し間を置いた。
「脚本を直す手つきが、きれいすぎたからです」
胸の奥に、薄い刃が入った。
「削除線の周りまで整えて、読みやすい形へ戻そうとしていた。けれど、あの台本に必要なのは、読みやすさだけではない」
「分かっています」
「本当に?」
先生の声は穏やかだった。だからこそ、逃げられなかった。
「あなたは、紙を整えることで、過去も整えられると思っている。けれど、過去は台本のように頁を入れ替えられません」
窓の外で、誰かが校庭を走っている。靴音が遠ざかり、資料室はまた静かになった。
私は写真の端に写る自分を見た。
笑っている。
けれど、その笑顔のすぐ隣に、誰かひとり分の空白がある。
「この空白は、悠真がいた場所ですか」
「かもしれません」
「それとも、私が見なかった場所ですか」
先生は答えなかった。
答えないことが、先生の答えなのだと思った。
私は写真を裏返した。裏面には、鉛筆で日付と場面番号が書かれている。その下に、小さな走り書きがあった。
――扇風機が止まる前に、言う。
誰が何を言うのかは、書かれていない。
けれどその言葉を見た瞬間、私は三年前の保健室を思い出した。白いカーテンが風で膨らみ、扇風機の羽が軋み、悠真が窓際で袖を引いていた。湊は机に向かい、赤ペンを握っている。私は二人を交互に見ながら、何かを言おうとしていた。
言う前に、扇風機が止まった。
そのあと、誰かが名前を呼んだ。
誰の名前だったのかは、まだ思い出せない。
資料室を出ると、廊下の窓から潮の匂いが流れ込んできた。夕方の光は薄く、校舎の壁に残った熱だけが、手のひらへぬるく返ってくる。
私は写真と音響表のコピーを抱えて歩いた。階段を下りる途中、掲示板に貼られた進路説明会の案内が目に入る。大学名、締め切り、必要書類。整った文字が並び、誰かの未来を予定表のように見せていた。
机の引き出しには、まだ進路希望調査票が入っている。
私は足を止めた。
行き先を決められない自分と、行く場所を決めて町を出た悠真。その違いを、私はずっと勇気の差だと思っていた。けれど、写真の中の悠真も、扉の前で一度だけ立ち止まっている。動いたのは、そのあとだった。
迷わなかったのではない。
迷っているところを、写真に残さなかっただけだ。
校舎裏へ出ると、グラウンドに海霧が流れ込んでいた。フェンスの向こうが白くぼやけ、港のほうから船の汽笛が聞こえる。姿は見えない。ただ、音だけが霧を抜けてくる。
私は写真の束を胸に抱え直した。
そのとき、一枚の写真が風にあおられて足元へ落ちた。
拾い上げると、裏面に湊の字があった。
《名前を消す順番を、間違えた》
私はその一文を見つめた。
名前を消す前に、何を言うべきだったのか。
誰の名前を、誰が呼ぶべきだったのか。
霧の向こうで、フェリーが進んでいる。見えない航路の上を、船だけが音を残して遠ざかっていく。
私は写真をファイルへ戻さず、そのまま手に持って歩き出した。紙の端は湿気で少し柔らかくなっていたが、折れないように指で押さえた。
きれいに整えられないものを、きれいに整えないまま持っていく。
それが今の私にできる、最初の読み方だった。
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