5話 試し読みの窓

講堂の扉の外にあった足音は、私たちが振り返ったときには消えていた。

凛が先に廊下へ出た。誰もいない。窓から流れ込む海霧が、床の上で薄くほどけている。私はその背中を見ながら、手にした写真を机へ戻した。紙の裏に残る湊の字が、視界の隅で何度も揺れた。

「行ったみたい」

凛が戻ってきた。

「誰が?」

「知らない。知らないけど、追いかける?」

私は返事をする前に一拍置いた。

「……今は、いい」

「今は、ね」

凛はその言葉を繰り返し、腕を組んだ。机の上の資料へ視線を落とす。脚本、上演記録、配役表、音響表。紙の束は、見つけた順番に並んでいるのに、三年前の時間だけは順番どおりにならない。

私は脚本の表紙を開いた。

さっき書き込んだ《ここは、まだ読めない》という文字が、湊の赤い線の隣に残っている。自分の字は細く、頼りなかった。削除線に勝てないように見える。それでも、消してしまう気にはならなかった。

「続き、読む?」

凛が訊いた。

「うん」

「無理なら、やめる」

「無理かどうか、読んでみないと分からない」

「それ、あんたにしては珍しく前向き」

「そうかな」

「そう。いつもは無理そうなことを、できるように見せてから始めるから」

私は聞き流すふりをして、最初の頁へ戻った。講堂の床は冷えていたが、膝から上にはまだ昼の熱が残っている。シャツが背中に貼りつき、髪の生え際に細い汗が浮いていた。舞台袖のカーテンは窓から入る風に持ち上がり、暗い空間を一瞬だけ見せては閉じる。

「最初の場面から」

凛が舞台袖へ回った。

「私が読む?」

「灯里が主人公」

「それしか読めないから」

「また役に隠れる気?」

「役がないと、声が出ない」

凛はしばらく私を見た。それから、舞台の上に置かれた木枠の前へ立った。保健室の扉に見立てた、三年前の舞台装置の残骸だった。塗装の剥げた木に、古い釘の頭が浮いている。

「じゃあ、役の声でいい。でも、台詞を言うときは、紙じゃなくて私を見て」

「難しい」

「難しいことをやるために、ここへ来たんでしょ」

私は脚本を持ち直した。

声を出す。

「――夕方、海の風が止まるころ、保健室には誰もいない」

天井の高い講堂に、声が遅れて返ってくる。自分の声なのに、少し遠くから聞こえた。

「――誰もいないなら、ここにいる私は、誰に見つけてもらえばいい?」

凛が扉の脇で顔を上げる。

「もう少し、間を長く」

「どこ?」

「“誰もいないなら”のあと。すぐに次を言わない」

「台本には書いてない」

「音響表に一拍ってある」

凛が机から音響表を取り、片手で掲げた。風に煽られて紙がしなる。

「ここ。扇風機の音が入る前に、一拍あける。つまり、誰かが聞く時間を作ってたんだよ」

「誰かが聞く?」

「舞台の上にいない誰か。あるいは、そこにいるのに、いないことにされた誰か」

私は音響表を見た。小さな手書きの数字が、場面転換の欄に並んでいる。湊の字ではない。もっと細く、几帳面な字だった。おそらく当時の音響担当が書いたものだろう。けれど、その一拍が誰のためだったのかは記されていない。

凛が木枠の中へ手を伸ばす。

「ここから入る?」

「主人公は窓側へ移動」

「でも写真だと、主人公は扉の前にいる」

「本番で変えたのかも」

「どうして?」

「分からない」

「またそれ」

凛は木枠から手を引き、私を見た。

「灯里、分からないって言うのはいい。でも、分からないまま元の形にするのは違う」

「元の形にしたほうが、話がつながる」

「話がつながれば、それでいいの?」

「舞台なんだから、観客に分かるようにしないと」

「観客に分かるようにするためなら、誰かの言えなかったことまで消していいの?」

私は脚本を閉じた。

音が急に遠くなった。廊下で誰かが台車を押している。車輪が段差に当たるたび、鈍い振動が床を伝ってくる。講堂の中だけが、取り残された部屋みたいに静かだった。

「消してない」

「じゃあ、なんでさっきから削除線を隠すの」

「隠してない。読みやすくしてるだけ」

「同じことだよ」

「違う」

「何が違うの」

凛の声は大きくなった。怒鳴っているわけではない。けれど、言葉の一つひとつが床に置かれ、動かせなくなっていく。

「削除線を見せたら、観客はそこに意味を探す。書き換えた人の事情とか、消えた名前とか、そんなものばかり気にする。舞台は謎解きじゃない。ちゃんと一つの話として見せないといけない」

「灯里は、舞台を失敗させたくないんだね」

「当たり前でしょ」

「違う。文化祭を失敗させたくないんじゃなくて、自分が失敗した人に見られるのが嫌なんでしょ」

胸の奥が急に狭くなった。

私はいつも、失敗を避けるために先に整える。誰かが困る前に予定を変え、言い争いになる前に話題を移し、足りないものが見つかる前に余分を用意する。そうしていれば、少なくとも人前で崩れずに済む。

けれど脚本は、整えるほど崩れていった。

「……失敗したくないよ」

私は言った。

「失敗したら、私が何も分かっていなかったことになる。悠真がいなくなるときも、湊が名前を消したときも、私は何か気づいていたはずなのに、何も言わなかった。もし今度も間違えたら、私は三年前から一度も変わっていないことになる」

凛は黙っていた。

私は言葉を止められなかった。頭の中で増え続けたものが、ようやく出口を見つけたみたいに溢れてくる。

「だから、せめて脚本だけは正しくしたい。誰が何を言って、どこに立って、どう終わるのかを決めれば、私にも分かる気がする。決めたとおりに進めば、途中で誰かがいなくなっても、今度は置いていかれない気がする。でも、それは無理なんだよね。人は台本みたいに動かない。行く人は行くし、残る人は残る。私はそれを知ってるのに、紙の上だけなら戻せると思ってた」

凛は腕を組んだまま、目を逸らさなかった。

「戻せないよ」

「うん」

「三年前の立ち位置も、悠真が出ていく前の時間も、灯里が何も言わなかった瞬間も、戻せない。でも、戻せないからって、全部捨てる必要はない」

「どうすればいいの」

「知らない」

凛が言った。

「私だって知らない。だから、元通りにするなって言ってる。分からないものを分からないまま置いて、今の私たちがそこに立つしかない。脚本がきれいじゃなくても、声が震えても、観客に伝わらなくても、そこで何を言うかを自分たちで決める」

「伝わらなかったら?」

「伝わらないかもしれない」

「それでも?」

「それでも。舞台って、伝わる保証があるから立つものじゃないでしょ。言わなかったら何も残らないから、立つんだよ」

凛の声が講堂の奥へ伸びた。高窓から入った風が、彼女の髪を頬へ貼りつける。凛は気にせず、机の上の脚本を指差した。

「灯里が怖がってるのは、台詞が下手だからじゃない。自分の言葉が、相手に届かなかったときのことだよね」

私は答えなかった。

「届かなかったら、どうするの。もう一度言うしかない。言い方を変えて、場所を変えて、相手が聞けるまで。黙ってたら、届かなかったのか、言わなかったのか、それすら分からなくなる」

その言葉は、胸の底に沈んだまま動かなかった。

私は脚本を開いた。凛が示した場面には、保健室の扇風機の前で交わされる短い台詞がある。主人公が窓の外を見て、もう一人がその背中へ問いかける。問いかけの台詞だけが消されていた。

私は紙を傾けた。斜めから見ると、赤い線の下に鉛筆の跡が浮かぶ。

――ここにいるなら、名前を呼んで。

その一文を、私は小さく読んだ。

「聞こえた?」

「聞こえた」

「誰の台詞だと思う」

「……悠真」

「どうして?」

「ここに立つはずだったから」

「それだけ?」

凛の問いに、私は指先を止めた。

台詞は悠真のものかもしれない。けれど、その言葉を聞きたかったのは、私だったのではないか。そこにいることを確かめたかったのも、名前を呼ばれるのを待っていたのも、実は私自身だったのではないか。

紙の上では、役名が消されている。だから、誰の言葉か分からない。分からないまま、私たちは三年間、その声を聞かなかったことにしてきた。

「私の台詞でもあると思う」

言うと、凛は何も挟まなかった。

「私はずっと、誰かに気づいてほしかった。でも、自分から名前を呼ばなかった。悠真にも、湊にも。呼べば、私はここにいるって言わなきゃいけなくなるから」

「うん」

「ここにいるって言ったら、どこにいるのかも決めなきゃいけない。三人の中なのか、悠真の隣なのか、湊の隣なのか、それともこの町に残る場所なのか。だから、私は黙っていたほうがいいと思った」

「でも、黙ってても選ばされる」

「うん」

凛は舞台中央へ歩いてきた。靴底が板を踏むたび、乾いた音がする。

「じゃあ、今ここで読む? 消された台詞」

「今?」

「今。観客はいないし、失敗しても講堂の床しか聞いてない」

「床は聞いてるの?」

「知らない。でも、古い床は人間より記憶力ありそう」

凛らしい冗談だった。私は少しだけ笑った。今度は口元だけではなく、声が出た。

脚本の赤い線の上へ、私は指を置いた。

「――ここにいるなら、名前を呼んで」

声は震えた。けれど、最後まで言えた。

凛は扉の前からこちらを見ていた。

「続けて」

「台詞がない」

「じゃあ、今書けばいい」

「ここで?」

「ここで」

赤ペンを持つ手が止まる。紙の上には、湊が消した文字と、私が書いた小さな注記が並んでいる。新しい言葉を置けば、もう元の脚本には戻れない。

私はペン先を紙へ下ろした。

《私は、ここにいた。呼ばれなかったから、いないことにした》

書き終えると、文字がひどく裸に見えた。

「読む?」

凛が訊いた。

「……読む」

私は紙を見たまま、声にした。

「私は、ここにいた。呼ばれなかったから、いないことにした」

言葉が講堂の奥へ広がり、遅れて返ってくる。返ってきた声は、私のものなのに、別の誰かが言い直しているようだった。

凛は舞台の床へ視線を落とした。

「それ、今の台詞?」

「うん」

「だったら、今の舞台に入れる」

「勝手に?」

「勝手じゃない。灯里が書いた」

「でも、湊の脚本を変えることになる」

「三年前から変わってる。湊だけじゃなく、悠真も、灯里も、時間も変えた。今さら紙だけ昔のままにしておく意味なんてないよ」

私は書き込んだ文字を見つめた。

「凛は、これを本番で読める?」

「読める」

「恥ずかしくない?」

「恥ずかしいよ。私だって、言いたいことを言うときは恥ずかしい。でも、恥ずかしいから言わないでいたら、ずっと自分だけが知ってる話になる」

凛は一度息を吸い、舞台の上で声を張った。

「私は、ここにいた。呼ばれなかったから、いないことにした。でも、本当は呼ばれるのを待っていた。誰かが私を見つけてくれるまで、ここに立っているつもりだった。けれど、待っているあいだにも、みんなの時間は進んでいく。だから私は、自分で名前を呼ぶ。ここにいる私を、私が見つけるために」

声が、古い天井にぶつかって返ってきた。

その瞬間、脚本の上の削除線が、線ではなくなる。誰かが消した痕ではなく、私たちがそこへ立つために残された細い道に見えた。

私は何か返そうとした。けれど喉が塞がり、息だけが漏れた。凛はすぐには近づかず、舞台の中央で待っている。

私は台本を閉じた。

「今日は、ここまでにする」

「うん」

「まだ、全部は読めない」

「読めないところは、読めないままでいい」

「でも、次は続けたい」

凛は頷いた。

「じゃあ、続けるために片づける。照明の使用申請、私が出す。灯里は台詞の改稿。明日の朝まで」

「明日の朝?」

「文化祭まで五日しかないんだから、急ぐところは急ぐ」

凛はいつものように机の上を片づけ始めた。写真をファイルへ戻し、音響表を折らずに揃え、脚本の頁へ小さな付箋を貼っていく。付箋には、乱れた字で「要相談」「残す」「凛が読む」と書かれていた。

私はその字を見ながら、赤ペンを握った。

講堂を出ると、廊下の窓の向こうで海霧がさらに濃くなっていた。校舎の熱が夜気に押し返され、汗ばんだ首筋へ冷たい空気が触れる。霧はグラウンドの半分を隠し、組み立て途中の看板をぼんやりと白く包んでいた。

見えないものは、まだ多い。

悠真が戻ってきた理由も、湊が最後に何を言おうとしたのかも、私自身が三年前に誰を見ていたのかも、分からない。

それでも、私は脚本を閉じたまま抱えなかった。凛へ渡し、二人で持った。

校舎の角を曲がると、保健室の窓だけがまだ明るかった。中から古い扇風機の羽音が聞こえる。止まりかけては回り、回っては軋む音。その音に押されるように、カーテンがふくらみ、窓の隙間から海の匂いが流れ出していた。

凛が隣で言った。

「明日、あの台詞をもう一回読むから」

「うん」

「今度は、紙を見ないで」

私は返事をする前に、一拍置いた。

「努力する」

「努力じゃなくて、やる」

「……分かった。やる」

その言葉を口にすると、胸の内側に張りついていたものが、ほんの少し剥がれた。

講堂の奥では、まだ仮設照明が一台だけ点いていた。白い光が床に細く伸び、私たちの影を長く引き延ばしている。影は霧の手前で途切れ、そこから先は見えなかった。

私はその境目を越えて歩いた。

戻れない場所へ進むのではなく、戻れないことを知ったまま、次の一歩を選ぶために。

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