4話 削除線の地図

翌朝、教室へ入ると、机の上に置いておいた脚本の表紙が、昨夜とは違う向きになっていた。

誰かが触ったのかと思ったが、紙の角に残った薄い埃の跡はそのままだった。窓から入った風が、閉じた本の表紙を少しだけ動かしたのだろう。そう考えれば済むことなのに、私はしばらく立ったまま、そこから目を離せなかった。

九月の朝は、夏より涼しいはずだった。けれど校舎の壁や廊下の床には、前日の熱がまだ残っている。遠くで椅子を引く音がし、階下では誰かが長い板を運んでいた。潮騒祭まであと五日。学校中が、今日という日に向かって動き始めている。

私の机の上だけが、三年前の時間を抱え込んでいた。

椅子に座り、脚本を開く。

昨夜、家に持ち帰ってから何度も見たはずなのに、朝の光の下で見ると、赤い削除線はいっそう濃く浮かんだ。湊の字は、普段なら軽く跳ねている。けれど消された台詞の周囲だけは、文字の端が潰れ、紙に食い込むほどの筆圧で書かれていた。

私はノートを開き、ページの左端に脚本の頁数を書いた。

十七頁。保健室の扉を開ける場面。

二十二頁。廊下へ出る人物の名前。

二十九頁。最後に誰かが名前を呼ぶ場面。

削除線のある頁を拾っていくと、ばらばらだったはずの線が、ひとつの経路に見えてきた。保健室の入口から始まり、廊下を通り、最後には舞台の外へ向かっている。

誰かが中へ入る。

誰かが残る。

誰かが出ていく。

その間に、名前が消されている。

私は赤ペンを回した。指の間で軸が滑り、机の端に当たって止まる。紙の上に残った線を、私は何度も目で追った。

その道筋の先にいるのが、白石悠真だということだけは分かっていた。

分かっているのに、何があったのかは分からない。

「朝から、ずいぶん険しい顔」

凛が私の机の前に立っていた。片手には、蓋の閉じた炭酸飲料。彼女は教室へ入ると、まず窓を見たらしい。後ろの窓が二枚とも開いているのに、さらに一枚を押し上げてから、私のほうへ来た。

「険しい?」

「紙を睨んでる。紙はたぶん、あんたに何もしてない」

「少し考えてただけ」

「その“少し”が長いんだよ」

凛は向かいの椅子に腰を下ろし、私のノートを覗いた。

「何それ。地図?」

「削除された箇所を並べてる」

「地図みたいに?」

「順番がある気がするから」

「削除に順番なんてある?」

「あると思う。少なくとも、同じ場所を何度も消してる。最初に名前が消えて、そのあと台詞が変わって、最後に立ち位置まで変わってる」

凛は脚本を引き寄せた。紙を雑に扱うように見えて、ページの角だけは指で押さえ、折れないようにめくっていく。そういうところを、私は知っている。凛は大雑把なのではなく、大切にする場所を自分で決めているのだ。

「ここ」

彼女が十七頁を指した。

「扉を開けた人が、最初は外へ出ることになってる。でも、その台詞を消して、代わりに“まだここにいる”って書き足してる」

「うん」

「次の頁では、その人の名前が消えてる」

「うん」

「じゃあ、この人は、出ていくはずだったのに残った。でも名前は消えた。……変じゃない?」

「変だよ」

「それで、誰?」

私は答えなかった。

教室の前方で、装飾係の生徒が模造紙を広げている。青い絵の具の匂いが、糊の甘い匂いと混ざって流れてきた。誰かが笑い、誰かがホッチキスを探し、別の誰かが「その色じゃ海に見えない」と言っている。

日常は、あまりにも普通に続いていた。

私だけが、紙の上の三人を見ている。

「灯里」

凛の声が少し低くなった。

「誰なの」

「……悠真」

名前を口にした瞬間、胸の奥が狭くなった。

凛は驚かなかった。驚く代わりに、脚本の上へ手を置いた。

「やっぱり」

「何が?」

「昨日から、あんたの顔がそう言ってる」

「顔で決めつけないでよ」

「決めつけてない。確認してる」

「確認って、凛もその言葉使うんだ」

「嫌味?」

「少しだけ」

「じゃあ、少しだけ受け取って」

凛は脚本を閉じずに、消された名前のところを見つめた。

「悠真が町を出たことと、この脚本の名前が消えたことは、同じ時期なんだよね」

「たぶん」

「たぶんじゃなくて、いつ?」

「三年前の夏。舞台が終わって、そのあとすぐ」

「で、あんたは何を知ってるの」

「何も」

「それは嘘」

私は顔を上げた。凛は腕を組み、逃げ道を塞ぐように私を見ていた。

「何も知らない人は、そんなふうに削除線の位置を覚えてない。何も知らない人は、名前を見ただけで息を止めない。あんたは知ってる。全部じゃなくても、何かは知ってる」

「覚えてないんだよ」

「覚えてないのと、思い出したくないのは違う」

「同じだよ。今の私には」

「違う」

凛の声は、教室のざわめきの中でもはっきり聞こえた。

「思い出したくないなら、それは思い出したくないって言えばいい。でも、覚えてないって言うと、誰にも手を触れさせないで済む。自分でも触らなくて済む。便利だよね、その言葉」

私は脚本の端を指でなぞった。

「凛は、何でも言えばいいと思ってる」

「思ってる」

「言ったことで戻れなくなることもある」

「戻れないよ。言わなくても」

「簡単に言わないで」

「簡単じゃないから言ってる」

凛は炭酸飲料の缶を机へ置いた。硬い音がして、近くの生徒がこちらを振り返る。彼女はそれを気にしなかった。

「灯里、私はあんたを困らせたいわけじゃない。昔のことを暴いて、面白がりたいわけでもない。だけど、あんたが何もなかったみたいな顔で、また同じことをやろうとしてるのが嫌なの」

「同じことって?」

「消すこと」

「私は消してない」

「自分の手で線を引いてなくても、見なかったことにしたなら同じだよ」

胸の内側を、冷たい指で押されたような気がした。

私は反論しようとした。けれど頭の中には、三年前の一場面が浮かびかけていた。保健室の白いカーテン。止まりかけた扇風機。窓際に立つ悠真。机に向かって台詞を書き直す湊。

そして、何かを言おうとしていた私。

思い出せないのではない。

思い出す直前で、いつも自分から目を逸らしている。

「……約束したの」

声が、自分のものではないみたいに出た。

「三人で、また来年も同じ舞台をやろうって」

「うん」

「悠真が町を出る前に」

「うん」

「でも、私は行かないでって言わなかった」

「言えなかった?」

「言わなかった」

言い直すと、喉がひどく乾いた。

「言えば、悠真が困ると思った。湊も困ると思った。三人でいるために、誰かを止めるのは違うと思った。だから、何も言わなかった」

「それで、三人でいるために一人を消した」

「私が消したわけじゃない」

「でも、消えるのを見てたんでしょ」

私は答えられなかった。

凛の顔から、怒りが少しずつ消えていく。代わりに、疲れたような表情が残った。

「ごめん。言い過ぎた」

「……ううん」

「謝るのも違う気がする。あんたが悪いって決めたいわけじゃないから」

「でも、私は何も言わなかった」

「それは、あんたが自分で考えればいい。私が代わりに判決を出す話じゃない」

凛は一度、開いた窓のほうを見た。外には、まだ海霧の名残がグラウンドの隅に溜まっている。白い霧はフェンスの下を這い、校舎の影に入り込んでいた。

「たださ。黙ってることを、優しさみたいに扱わないで」

「優しさだと思ってた」

「誰に対して?」

「みんなに」

「みんなって、便利な言葉だね」

凛はそう言いながら、私のノートを取り上げた。左端に並べた頁数を見て、空いた余白に新しく線を引く。

「保健室から廊下。それから舞台の外。削除線が人の動きを追ってるなら、最後に消されたものは、名前じゃなくて、残る理由かもしれない」

「残る理由?」

「悠真がいなくなった理由じゃない。悠真をここに残しておきたかった理由」

私は息を止めた。

凛はペン先を止めずに続ける。

「約束って、守るか破るかだけじゃないでしょ。守れないと分かったあとも、どう扱うかが残る。名前を消して終わりにしたなら、それは約束を破ったんじゃなくて、約束の形を勝手に変えたってことだよ。誰か一人で」

「……湊が?」

「まだ決めつけない。先生も言ってたでしょ。記録は全部を残さないって。だったら、残ってるものから見るしかない」

凛はノートを私へ返した。

「放課後、講堂で読む」

「本当にやるの?」

「やる。脚本と進行表と、先生の資料。全部並べる」

「文化祭の作業が」

「先に終わらせる。私が段取りを組む」

凛はそう言って、机の脇に散らばっていた色見本を手早く束ねた。青、灰色、白。端の揃っていない紙を一枚ずつ整え、クリップで留める。

「灯里はすぐ何でも一人で抱えるけど、実行委員は一人でやる仕事じゃないから」

「凛だって、何でも自分で決めるじゃない」

「私は決めたあとで人に押しつける。あんたは決めないまま自分で抱える。似てるようで、ずいぶん違う」

「どっちも迷惑じゃない?」

「迷惑だよ。だから直す」

その言い方が、凛らしかった。

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒たちが一斉に立ち上がり、机が床を擦る。凛は缶を手に取り、まだ開けずに鞄へしまった。

「それ、飲まないの?」

「今飲んだら、げっぷが出る」

「そこは気にするんだ」

「人前で出すほど図太くない」

凛は笑った。私も笑おうとしたが、うまくいかなかった。口元だけが動き、胸の奥には別のものが残ったままだった。

放課後、私たちは資料を抱えて講堂へ向かった。

廊下の窓から、潮の匂いが入り込んでいた。風はあるのに、校舎の中の熱を押し流せない。汗がシャツの背中に貼りつき、歩くたびに首筋を細い水滴が下りていく。

グラウンドには海霧が流れ、白い膜の向こうで、組み立て途中の看板が揺れていた。見えるはずのものが半分だけ隠れている。その曖昧さが、今の私には都合がよかった。見えないものを、見えないままにしておけるから。

「遅い」

講堂の前で、凛が振り返った。

「ごめん」

「謝らなくていい。歩く速さを合わせて」

「合わせてるよ」

「なら、もっと早く」

凛は先に扉を開けた。

講堂の中は、廊下より少しだけ涼しかった。木の床には、昼間の光が斜めに差し込んでいる。仮設照明のコードが舞台袖へ伸び、古いカーテンからは埃と乾いた布の匂いがした。

私は机を二つ並べ、脚本、上演記録、音響表、配役表のコピーを順番に置いた。紙の端を揃え、頁数を確認し、赤ペンを右側へ置く。

いつもの段取りだった。

けれど、今日は紙を整えるほど、何かが崩れていった。

「ほら」

凛が舞台袖から声をかける。

「脚本だけ見てないで、写真も横に置いて」

「写真は、あとで」

「その“あとで”は禁止」

彼女は色あせた舞台写真を、私の手元へ滑らせた。写真の中には、三年前の保健室のセットが写っている。白いカーテン。古い扇風機。机の前に立つ湊。その少し後ろに、悠真。私は二人の間にいる。

だが、写真の端には妙な空白があった。

人ひとり分の立ち位置が、不自然に空いている。

「ここ、誰か立ってた?」

凛が訊いた。

「分からない」

「写真には、分からないって書いてない」

「……たぶん、立ってた」

「じゃあ、音響表」

私は音響表を開いた。場面転換の欄に、扇風機の音を流す指示がある。けれど、その直前にだけ、手書きで「一拍あける」と書かれていた。

誰が、何のために。

写真の空白。

音響の一拍。

削除された台詞。

それらが、細い線でつながっていく。

私は脚本の該当頁を開いた。消された台詞の下には、黒い線に押し潰されて、わずかな文字が残っていた。

――ここにいるなら、名前を呼んで。

読み取れたのは、それだけだった。

その先は、赤インクが何層にも重なっている。

「灯里」

凛が舞台の上から呼ぶ。

「読める?」

私は返事をする前に、一度だけ息を止めた。

「……まだ」

「まだ、ね」

「全部は読めない」

「じゃあ、読めないところを読めないままにして、次へ進もう」

凛の言葉に、私は顔を上げた。

「それでいいの?」

「いい。分からないことを、分かったことにするよりはずっといい」

私は赤ペンを手に取った。削除線の横へ、小さく書き込む。

《ここは、まだ読めない》

書いた文字は、湊の赤い線の隣で頼りなく見えた。それでも、私の字だった。

「それ、残すんだ」

「うん」

「消さない?」

「消さない」

言ったあとで、胸の奥のどこかがわずかに緩んだ。答えを出したわけではない。ただ、分からないものを分からないまま紙に置いた。それだけのことなのに、息が少し深く入った。

講堂の高窓から風が入り、写真の束をめくった。

一枚の写真が床へ落ちる。

凛が拾おうとするより先に、私はそれを取った。

写真の裏には、湊の字で短く書かれていた。

《名前を消す順番を、間違えた》

私はその一文を見つめた。

何の順番を間違えたのか。

誰の名前を。

誰が、誰のために。

答えはまだ、紙の下に沈んでいる。

講堂の外では、海霧が校舎の壁をゆっくり上っていた。白い霧が窓の向こうを隠し、夕方の光を薄くしていく。遠くで、港へ戻る船の汽笛が鳴った。

凛は写真を覗き込み、眉をひそめた。

「これ、先生に見せる」

「うん」

「悠真にも」

その名前を聞いた瞬間、指先が強張った。

「……うん」

今度は、逃げずに返事をした。

けれど、講堂の扉の外に誰かの足音が近づいていることには、そのときまだ気づいていなかった。

← 横にスクロールして読み進められます

削除線の地図 - 消えた名前 - 誰でも作家life