第3話 扇風機の羽音

悠真の名前を口にしたあと、私はそれ以上、何も言えなかった。
講堂の扉は開いたままで、廊下から海霧が細く流れ込んでいる。白い霧は床の上を這い、舞台袖に積まれた木箱の脚をぼかしていた。照明の落ちた客席は暗く、けれど完全な闇ではない。高窓から残った夕暮れが、埃の粒を薄く照らしている。
悠真は、私の手の中にある赤ペンへ視線を落とした。
「それ、まだ使ってるんだ」
声の調子は軽かった。昔から、気まずいときほど冗談を言う。そうすれば、何かが壊れる前に話を別の場所へ運べると思っているみたいに。
「……うん」
「物持ちいいな。インク、もう出なさそうなのに」
「出るよ」
「そう」
悠真はそこで黙った。返事の前に一度だけ間を置く癖も、目線を海側へ逃がす癖も、三年前から変わっていない。変わったのは、黙っている時間の長さだった。
凛が舞台中央から降りて、私と悠真の間に立った。
「知り合い?」
わざとらしい言い方だった。凛は全部知っている。けれど、私が自分で言うまで、代わりに名前を置くつもりはないらしい。
悠真は凛を見て、少しだけ口元を上げた。
「かなり昔から」
「へえ。私は真鍋凛。灯里の友達」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「名前は」
「灯里から聞いた?」
「いや、昔」
その「昔」が、講堂の天井へ吸い込まれた。
私は脚本を閉じた。表紙に手を置くと、湿気を含んだ紙がわずかに柔らかく沈んだ。さっきまで、削除線の下にある台詞を読もうとしていた。けれど悠真が立っているだけで、文字はすべて別の意味を持ってしまう。
「備品搬入って、昨日の署名」
私が言うと、悠真は頷いた。
「頼まれた。港の倉庫に置いてあった照明器具を運んだ」
「戻ってきたのは、それだけ?」
「それだけって?」
「……学校に」
悠真はすぐには答えなかった。舞台袖の暗がりへ視線をやり、そこに何か置き忘れたものでもあるように眺めている。
「帰ってきた理由を、聞きたい?」
聞きたい、と言えばいいだけだった。
けれど私は、喉の奥で言葉を三度ほど言い換えた。どうして戻ったの。何をしに来たの。今さら何のために。どれも強すぎて、どれも本当ではない気がした。
「聞きたい」
ようやく言うと、凛がこちらを見た。悠真は、わずかに眉を動かした。
「へえ」
「その反応は何」
「いや。灯里が、聞きたいって言うの、珍しいなと思って」
胸の奥に、小さな刃物を置かれたようだった。
「私だって聞くよ」
「聞かないだろ」
「聞く」
「じゃあ、三年前に聞いてくれればよかったのに」
空気が止まった。
古い講堂のどこかで、木材が軋んだ。凛は何も言わず、腕を組んだ。口を挟めば、この会話が私たち二人のものではなくなると判断したのだと思う。
私は悠真を見た。背が伸びて、肩の線が少し大人びている。けれど、袖口を無意識に引く指だけは、昔のままだった。
「聞けなかった」
「うん」
「何を聞けばいいか分からなかった」
「うん」
「急にいなくなるって言われて、次の日にはもう駅へ行く時間で、湊は何も言わないし、私は……」
声が擦れた。
「私は、聞いたら止めなきゃいけないと思った。止めるなら、行かないでって言わなきゃいけない。でも、行かないでって言う理由を、私は持ってなかった」
悠真は目を逸らさなかった。私の言葉を急かすことも、否定することもなかった。ただ、聞いている。そのことが、逆に苦しかった。
「理由なら、あっただろ」
「何の?」
「三人で来年も舞台をやるって約束した」
「それは、理由になる?」
「俺にはなった」
悠真の返事は短かった。けれど、その短さの奥に、押し込められた言葉があるのが分かった。
「だから、余計に言えなかった。行くって決めたあとで、約束を持ち出されたら、俺は行けなくなるかもしれなかったから」
「行かないでほしかった」
自分の声を聞いて、私は驚いた。
言ってしまった。
講堂の空気が、今度は止まらなかった。高窓から風が入り、舞台の端に置かれた紙を一枚だけ動かした。
悠真はすぐには答えなかった。親指の爪を指先へ押し当てている。痛みを確かめるみたいな仕草だった。
「そう言われたら、困ったと思う」
「困ればよかった」
「困って、それでも行ったかもしれない」
「だったら、私が言っても意味がなかった?」
「意味がないとは言ってない」
「でも、行ったんでしょう」
「行った」
その一言は、思ったより重かった。
私は脚本を胸に抱えた。抱えれば、紙の中へ逃げ込めると思った。けれど表紙の硬さは、逃げ道ではなく、逃げたことの証明みたいに腕へ返ってくる。
「どうして、連絡しなかったの」
「最初は、するつもりだった」
「最初は?」
「向こうへ着いたら、落ち着いたら、と思ってるうちに時間が過ぎた。連絡したら、戻れって言われる気がしたし、戻れないって言うのも嫌だった。だから、何も言わないほうを選んだ」
「何も言わないほうが、私たちが楽だと思った?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何?」
声が大きくなった。凛がわずかに身じろぎしたが、止めなかった。
「何も言わなければ、俺の選択だけの話にできると思った。灯里や湊がどう思ったかまで背負わなくて済む。……まあ、実際は逆だったけど」
「逆?」
「いなくなったあとも、二人の時間を勝手に止めたままにした」
私は息を吸った。湿った空気が胸の奥へ入り、肺の内側に張りついた。
「止められたと思ってたのは、私だけじゃなかったの?」
「俺も止まってた」
悠真は舞台の床へ目を落とした。
「動いたのは体だけだった。町を出て、場所を変えて、生活を変えて、それで進んだつもりになってた。でも、あの約束をどうするかは置いたままだった。捨てたつもりでも、捨てきれないものってあるだろ」
その言葉が、脚本の黒い削除線と重なった。
消したつもりでも、紙の下に残る。見えなくしただけで、なくなったわけではない。
「脚本の名前を消したのは、悠真?」
尋ねると、悠真の視線が初めて大きく揺れた。
「……見つけたんだな」
「誰が消したの」
「湊」
凛の指が、腕の上でわずかに動いた。

「湊が?」
「全部じゃない。名前だけ、俺が消した」
「悠真が?」
「そう」
頭の中で、何かの順番が崩れた。
名前を消したのは、湊だと思っていた。湊が怒って、悠真を舞台から追い出したのだと。あるいは、私が何も言わないまま見ていたから、湊が一人でそうしたのだと。どちらにしても、私は自分を傍観者の位置に置いていた。
けれど、消したのは悠真自身だった。
「どうして」
「俺が頼んだ」
「何を?」
「役名から外してくれって。脚本に俺の名前が残ってると、そこへ戻らなきゃいけない気がしたから」
「戻るって、舞台に?」
「町に。二人のところに」
「それで消したの?」
「うん」
悠真は淡々と答えた。淡々としているように見えるだけで、その声の底には濡れたものが沈んでいる。
「消してもらえば、残った二人で続きを作れると思った。俺がいない形に直せば、二人は来年の舞台をやれる。俺がいなくなったことを、俺の不在のせいにしなくて済む」
「そんなの、勝手だよ」
言葉がこぼれた。
「勝手に消えて、勝手に名前を消させて、勝手に私たちが先へ進めると思ってたの?」
「思ってたわけじゃない」
「じゃあ、何なの」
「分からなかったんだよ」
初めて、悠真の声が乱れた。
「行くしかないと思った。行くと決めたら、残していくものを見ないほうが動けた。灯里が何か言いかけてたのも、湊が俺を見ていたのも、全部気づいてた。でも、見たら決められなくなるから、見ないふりをした」
私は何も言えなかった。
悠真が「気づいていた」と言ったことより、そのあとに続いた「見ないふりをした」という言葉のほうが、深く刺さった。
私は同じことをしてきた。
彼が去る前、湊の字が変わったことにも、悠真が私を見る時間が長くなったことにも気づいていた。気づいていたのに、分からないふりをした。三人でいられる形を守るためだと思っていたが、本当は、形が壊れたときに自分が何を選ぶのか怖かっただけだ。
「灯里」
凛の声がした。
私は振り向けなかった。
「今、また一人で全部引き受けようとしてる顔してる」
「してない」
「してる。悠真が自分で消してくれって頼んだなら、あんた一人の責任じゃない。でも、だからって悠真だけの責任でもない。湊も、私も、たぶん全員が、あのとき自分に都合のいい沈黙を選んだんでしょ」
凛の言葉は乾いていた。けれど、責めるためではなく、物事の輪郭を戻すための乾きだった。
悠真が凛を見る。
「相変わらず、容赦ないな」
「知らない。三年前の私は、もっと言えばよかったと思ってるから」
「何を?」
「三人で舞台を続けるなら、誰かがいなくなっても、約束を勝手に解釈するなってこと。行く人は行く人で言えばいいし、残る人は残る人で怒ればいい。好きだったなら好きだったでいいし、嫌いになったなら嫌いになったでいい。なのに、みんな黙って、きれいな形だけ残そうとした」
「きれいな形なんて、残ってないよ」
私が言うと、凛は私を見た。
「うん。だから、これからどうするかでしょ」
悠真は紙袋から、折り畳まれた紙を取り出した。古い配役表だった。角が擦れ、端に海水を吸ったような波打ちがある。
「これ、持ってた」
私の前へ差し出す。
そこには、三年前の役名が並んでいた。蒼井湊、結城灯里、白石悠真。悠真の名前だけ、赤い線で消されている。その線は脚本に残っているものより薄く、途中で何度も途切れていた。
「消すなら、もっときれいに消せばよかったのに」
悠真が言った。
「きれいに消せなかったんだと思う」
「誰が?」
「私たち全員」
口にしてから、怖くなった。けれど撤回はしなかった。
その夜、家へ帰ると、綾乃はテーブルの上の書類を種類ごとに分けていた。紙の端がそろい、ボールペンが一本、書類の横に平行に置かれている。
「遅かったね」
「学校で、悠真に会った」
綾乃の手が止まった。けれど顔は上げない。
「帰ってきた子?」
「うん」
「そう」
綾乃は一枚の紙を封筒へ入れた。糊の剥がれる音が、静かな居間に小さく響く。
「何か言ってた?」
「町を出た理由とか、戻ってきた理由とか」
「聞けたんだ」
「聞いた」
自分で言ってみて、まだ現実味がなかった。
綾乃は封筒の口を閉じ、進路希望調査票を私の前へ置いた。
「それで、灯里はどうするの」
「進路?」
「それも。悠真のことも」
私は椅子に座った。紙の白さが、昼間の講堂で見た削除線と似ていた。
「まだ分からない」
「そう」
「でも、分からないままにしたくない」
綾乃はすぐには答えなかった。台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスの中で氷が触れ合い、乾いた音を立てた。
「分からないままにしたくないなら、分からないって書けばいい」
「書く?」
「進路の欄じゃなくても。自分で分かるように」
綾乃は私の前へグラスを置いた。
「決めるって、最初から迷わないことじゃない。迷ってる場所を、自分で見えるようにすることだと思う」
「お姉ちゃんは、迷ってないように見える」
「見せてないだけ」
綾乃はそう言って、空いた封筒を引き出しへしまった。
「時間は戻らないよ。悠真がいなくなる前にも、名前を消す前にも戻れない。だから、戻れないことを理由にして、今の自分まで消さないほうがいい」
私は麦茶を飲んだ。甘くない冷たさが、喉を通っていく。少しだけ、息がしやすくなった。
部屋へ戻り、私は脚本を机の中央に開いた。
最後のページには、台詞のない空白がある。湊の赤ペンで、《ここで、誰かが名前を呼ぶ》と書かれている。その下へ、今日初めて、自分の字を重ねた。
《呼ばれた名前は、戻るためではなく、進むために残る》
書いたあと、しばらく見つめた。
それが本当に自分の言葉なのか、まだ確信はなかった。けれど、誰かの書いた台詞をきれいに復元するよりは、少なくとも今の私の手から出たものだった。
古い扇風機のスイッチを入れる。
羽根は一度、ぎこちなく揺れた。止まりかけ、軸の奥で低く唸り、それから重たく回り始める。風が紙の端を持ち上げ、削除線の下に残った文字をわずかに震わせた。
私は赤ペンを握り直した。
明日、凛に見せる。藤崎先生にも見せる。悠真にも、いつか見せる。
その順番を考えたところで、また段取りを作ろうとしている自分に気づいた。私は一度、ペンを置いた。
まずは、言葉を書く。
誰に渡すかは、そのあとで決めればいい。
扇風機の羽音が、部屋の隅にたまった空気を少しずつ動かしていた。消された名前は、まだ紙の上にある。消えたのではなく、呼ばれるのを待つように、削除線の下で息をしている。
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