2話 削除線の匂い

翌朝、私は教室へ入るなり、机の上に『夕凪の保健室』を広げた。

窓は開いていた。けれど風はほとんどなく、カーテンの裾がときどき思い出したように揺れるだけだった。校舎の外では、誰かが長い板を運んでいる。金属の脚が床を擦る音、階段を駆け下りる足音、遠くの放送室から流れるマイクの試験音。潮騒祭まであと五日。学校中が前へ進もうとしているのに、私の机の上だけ、三年前から動かない紙で塞がれていた。

脚本の端を指でなぞる。

赤ペンの線は、昨夜見たときより太く見えた。何度も同じ場所を往復したせいで、紙の繊維が潰れている。線の下にある文字は読めない。読めないのに、そこに何が書かれていたのかだけは、胸のどこかが知っている気がした。

私はノートを開き、ページの中央に台詞を書き写した。

――夕方、海の風が止まるころ、保健室には誰もいない。

その下に、削除線のある箇所を写す。文字の一部しか見えないため、私は空白を括弧で囲んだ。

――(   )、来年も三人で。

書いてから、ペンを置いた。

空白を空白のまま写すのは、ひどく難しかった。分からないものを分からないまま残すことが、私にはできない。予定表なら空欄に斜線を引くし、作業の遅れなら理由を書き足す。そうやって不足しているものに名前をつけてきた。名前さえつけば、少なくとも管理できると思っていた。

けれど、この空白には、何を書いても違う気がした。

「朝から死んだ顔してる」

凛が私の机の横に立っていた。片手に、蓋の開いていない甘い炭酸飲料を持っている。彼女は教室へ入ると、最初に窓の開き具合を確かめる癖がある。今も私の返事を待つ前に、後ろの窓をさらに十センチ押し開けた。

「寝不足なだけ」

「その台詞、昨日も聞いた」

「便利だから」

「便利な言葉って、だいたい中身がないんだよね」

凛はそう言って、私の向かいの椅子を引いた。机の脚が床を引っかき、乾いた音がした。

「まだ読んでるの」

「確認してる」

「何を?」

「削除された箇所と、書き換えられた部分」

「それ、昨日からずっとやってるよね。確認じゃなくて、掘ってるんじゃないの」

私は返事をする前に一拍置いた。ペンを指の間で回す。回転が速くなり、危うく机から落としそうになった。

「掘ったら、何か出てくるかもしれないから」

「出てきたらどうするの」

「……分からない」

「そこだけは正直なんだ」

凛は腕を組んだ。机の端を指で二度叩く。納得していないときの癖だ。

私は脚本を裏返し、後ろから三枚目のページを開いた。そこには、保健室の扉を開ける場面がある。主人公の台詞の後ろに、別の人物の返答が続くはずだった。その返答だけが赤く塗られ、さらに横に、湊の字で小さく「順番変更」と書かれている。

「ここ、見て」

私は脚本を凛のほうへ押した。

「最初は、扉を開けた人がそのまま出ていく流れだった。でも、あとから台詞を足して、誰かが中に残る形に変えてる」

「誰かって?」

「役名が消されてる」

「だから、誰なの」

凛の声は大きくなった。教室の向こうで、装飾係の男子が一瞬こちらを振り返る。私は無意識に笑おうとしたが、凛が先に言った。

「今、笑って流そうとしたでしょ」

「してないよ」

「した。口の端だけ上がった」

「よく見てるね」

「見てるよ。友達だから」

その言葉が、思いがけず重かった。

凛は脚本から目を上げた。

「灯里、私は別に、あんたの昔の恋愛事情を暴きたいわけじゃない」

「恋愛って決めつけないで」

「決めつけてない。そういうふうに聞こえるって言っただけ」

「でも、そういう話じゃない」

「じゃあ何の話?」

私は答えられなかった。

脚本のページには、削除線の匂いが残っている気がした。赤インクの乾いた匂い。古い紙の甘い匂い。誰かが言葉を消すために力を込めた、その手の汗まで染み込んでいるような匂い。

凛は、返事を急かさずに見ていた。彼女は沈黙が嫌いだと言うのに、私が本当に言葉を失ったときだけ、すぐには口を挟まない。

「……三年前、私たちは三人で舞台をやったの」

ようやく言った。

「湊と、悠真と、私。中学の文化祭で。それで、終わったあとに、また来年も同じ舞台をやろうって約束した」

「高校に入ったら?」

「うん」

「でも、悠真はいなくなった」

私は頷いた。

「そのあと、脚本から名前が消えた」

「誰が消したの」

「分からない」

「灯里も知らない?」

窓から風が入り、机の上の紙を一枚だけ持ち上げた。私は慌てて押さえた。白い紙の裏に、色見本の青が薄く透けている。

「……私は、見ていたはずなんだと思う」

「何を?」

「名前が消えるところ。湊が書き直していたことも。たぶん、悠真が何か言っていたことも。でも、覚えてない」

「覚えてないんじゃなくて、思い出さないようにしてるんじゃない?」

「凛まで、そう言うの」

「までって、誰かに言われた?」

「言われてない。ただ、自分でもそう思うことがある」

そこまで話すと、胸の奥が狭くなった。息を吸っても、肺の手前で止まる。言葉は頭の中にいくらでもあるのに、口へ運ぶ途中で形を変える。

私は笑おうとした。

「でも、三年前のことだよ。細かいところまで覚えてるほうがおかしいって」

「細かいところじゃないでしょ」

凛の声が平らになった。怒っているときほど、彼女の口調は妙に静かになる。

「三人で約束したこと。ひとりが町を出たこと。その名前を、脚本から消したこと。これは細かいところじゃない。あんたはそれを、ずっと“昔のこと”って箱に入れて、箱ごと見ないようにしてきたんじゃないの」

「見ないほうが、みんな困らないから」

「みんなって誰?」

「湊とか、悠真とか……」

「悠真はもういないじゃん」

「だから」

「いないから、勝手に消していいの?」

言葉が、胸の奥へまっすぐ入った。

私は脚本に手を置いた。黒く潰れた名前の部分が、指の腹にざらついている。

「消したのが私かどうかも分からない」

「分からないなら、調べればいい」

「調べて、もし私だったら?」

「それで?」

「……嫌だよ」

「何が」

「私が、誰かを消した人だったら」

凛はすぐには答えなかった。机を叩いていた指が止まる。開いた窓から、潮の匂いが入ってきた。夏の終わりの海は、明るいのにどこか濁っている。遠くで波が崩れる音がする。

「自分が悪者になるのが嫌なんだ」

「そうじゃない」

「じゃあ、何が嫌なの」

「私が何もできなかったことが分かるのが嫌なの。悠真がいなくなる前も、名前が消えるときも、私はたぶん何か言えた。でも言わなかった。言って、変な空気になったり、誰かに嫌われたりするのが怖くて、笑って、別の話をした」

そこまで言ったところで、声が途切れた。

凛は私を見ていた。責める目ではなかった。ただ、逃げ道の位置を確認するような目だった。

「それ、私にもやってるよね」

「え?」

「今も。私が近づくと、文化祭の話にする。備品が足りないとか、進行表が遅れてるとか。あんたは何でも作業に変える。作業なら失敗しても、やり直せるから」

「……凛」

「でも、人の気持ちはやり直せない。少なくとも、同じ形には戻らない」

私は何も言えなかった。

凛は脚本を閉じなかった。消された台詞が見えるまま、手のひらでページを押さえている。

「再演するなら、元通りにするだけじゃ駄目だよ」

「再演するなんて、まだ決まってない」

「決めればいい」

「そんな簡単に言わないで」

「簡単じゃない。だから決めるんでしょ。決めないままなら、脚本も約束も、ただの古い紙になる。私はそれが嫌」

「凛は、どうしてそこまで……」

凛は視線を逸らさなかった。

「見てるのが嫌だから」

「何を?」

「誰かが黙ったまま、あとで一人で壊れていくのを」

彼女はそこで初めて、ほんの少しだけ目を伏せた。

「昔、何でも言えると思ってた相手がいた。ある日から、急に何も言わなくなった。私は腹を立てて、もっと言えって怒鳴った。そしたら、本当に何も言わなくなった。離れてから、あれは黙ってたんじゃなくて、言えなかったんだって分かった。でも、分かったときには遅かった」

私は凛の顔を見た。彼女の声は平らだったが、机の下で膝が小さく揺れていた。

「だから、灯里が黙ると腹が立つ。優しく待ってるふりをして、結局何も聞かない人間にはなりたくない。でも、踏み込みすぎて壊すのも怖い。だから、言ってることが矛盾してるのは分かってる」

「……凛は、壊したくないから怒るの?」

「怒らないと、私も黙るから」

その答えに、私はしばらく顔を上げられなかった。

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。教室のあちこちで椅子が引かれ、紙袋の音が重なる。凛は立ち上がり、脚本のページを指で軽く押さえた。

「放課後、講堂で読もう。削除線も含めて」

「誰かに見られたら」

「見られたら、昔の脚本を読んでるって言えばいい」

「それで済まないかもしれない」

「済まないものを、済む顔で隠すから余計にまずいんでしょ」

凛は自分の机へ戻りかけ、振り返った。

「それと、先生に資料を借りる。舞台写真とか、当時の配役表とか」

「もう借りてる」

「だったら使う。飾るためじゃなくて、見るために」

放課後、私たちは講堂へ向かった。

廊下には、昼間より濃い海霧が入り込んでいた。窓の外のグラウンドは白く霞み、フェンスの向こうが途中から消えている。湿気がシャツの背中に貼りつき、歩くたびに首筋へ細い汗が流れた。

講堂の舞台には、仮設の照明が二台だけ置かれていた。電源を入れると、古い機械が低く唸り、埃の匂いが明かりの中へ浮かび上がる。

私は舞台中央に立ち、脚本を開いた。

「最初の場面から」

「灯里が読む?」

「うん」

「主人公の役?」

「それしか読めないから」

「逃げ道を作ってる」

「役だから」

「役に隠れてる」

凛はそう言ったが、それ以上は追及しなかった。代わりに、舞台袖へ回り、保健室の扉に見立てた木枠の前へ立った。

私は台詞を読み始めた。

声が天井へ上がり、少し遅れて返ってくる。文章は古びているのに、削除されたところだけが、今書かれたように鮮明だった。

――夕方、海の風が止まるころ、保健室には誰もいない。

ページをめくる。

――誰もいないなら、ここにいる私は、誰に見つけてもらえばいい?

その後に続く台詞は、赤い線で消されていた。

私は黙った。

「続けて」

凛が舞台袖から言う。

「読めない」

「読めないんじゃなくて、読まないんでしょ」

「下が見えないから」

「見えないなら、想像して読めばいい」

「勝手に変えたら、脚本じゃなくなる」

「もう変わってるよ。三年前の時点で」

凛の声が講堂の奥から返ってきた。

「削った人がいる。書き換えた人がいる。立つ場所を変えた人がいる。なのに、灯里だけが元の形に戻そうとしてる。それは復元じゃなくて、もう一度消すことだよ」

私はページから顔を上げた。

「凛は、私に何をしてほしいの」

「私に聞かないで」

「聞いてるんじゃなくて、確認してるだけ」

「またそれ。確認、整理、段取り。そういう言葉で自分の気持ちを遠くへ置かないで」

凛が舞台へ上がってくる。靴音が板の上で一つずつ響いた。

「灯里が悠真を好きだったかどうかなんて、私はどうでもいい。湊が嫉妬してたかどうかも、今すぐ答えを出さなくていい。でも、あんたがあの約束を大事にしてたことだけは、もう分かる。大事だったから、壊れるのが怖くて、最初からなかったことにした」

「……大事だったよ」

声に出すと、思ったより簡単だった。簡単だったことが、かえって怖かった。

「三人でいる時間が好きだった。湊が台詞を直して、悠真が勝手に立ち位置を変えて、凛が後ろから怒鳴って。来年も続くと思ってた」

「うん」

「続くと思ってたから、続かなかったとき、どうしていいか分からなかった。悠真がいなくなったあと、湊は何も言わなくなった。私は、二人とも困らせたくなくて、私も平気なふりをした。平気なふりをしているうちに、本当に何を言いたかったのか分からなくなった」

「だから、紙に残ってるんだよ」

凛の声が少しだけ揺れた。

「口で言えなかったことが、字になって残ってる。消そうとしても、線の下から出てくる。だったら、読めばいい。怖くても」

私は削除線の上へ指を置いた。

「もし、ここに私の言いたかったことが書いてあったら?」

「読む」

「読んで、取り返しがつかなかったら?」

「もう取り返しはついてない」

凛は、はっきりと言った。

「三年前と同じには戻れない。だから、戻すんじゃなくて、今どうするか考えるんでしょ」

講堂の高窓が、風に押されて軋んだ。海霧の冷たい匂いが入り込み、汗ばんだ腕に触れる。私は赤ペンを取り出した。使い古した軸の表面が、指に馴染んでいる。

削除線の横に、小さく書いた。

《ここは、まだ読まない》

凛が覗き込む。

「何それ」

「今日の私には、読めないってこと」

「逃げてるじゃん」

「うん。でも、逃げてるって書いたから」

凛は一瞬黙った。それから、鼻から短く息を吐いた。

「……それなら、昨日よりはまし」

「褒めてる?」

「半分だけ」

そのとき、講堂の裏手で扉が閉まる音がした。

私たちは同時に振り返った。

誰かが廊下を歩いている。足音は近づき、途中で止まった。霧の向こうから、低い声がした。

「まだ使ってる?」

私は赤ペンを握ったまま、動けなくなった。

声を聞いただけで分かった。忘れていたわけではない。忘れたふりをして、音の形を奥へ押し込めていただけだった。

凛が私を見る。

「誰?」

私は答えられなかった。

講堂の扉が開き、白い霧を背にして、白石悠真が立っていた。制服の袖口には夜の湿り気がまとわりつき、片手には古い紙袋を提げている。以前より背が伸びたように見えた。けれど、気まずいときに視線を海側へ逃がす癖だけは、三年前のままだった。

「久しぶり」

悠真は軽く笑った。

私は返事をする前に、一拍置いた。

それでも、名前だけは、逃げずに口から出た。

「……悠真」

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