第1話 倉庫の底の紙

九月の汐見高校には、夏がまだ片づけられずに残っていた。
廊下の窓は開け放たれているのに、風は細く、教室の隅にたまった熱を動かしてくれない。文化祭実行委員の作業場所になっている二年三組には、折りたたみ机と段ボール箱が積み上がり、黒板には「潮騒祭まであと六日」と大きな文字で書かれていた。誰かが運んできた模造紙からは糊の甘い匂いがして、窓の外からはグラウンドで金属の脚立を組む音が聞こえてくる。
私は机の上の進行表を見直し、赤ペンで一か所だけ時間を書き換えた。
「照明の試運転、十六時半から十七時にずらす。講堂の床、まだワックスが乾いてないから」
「了解。じゃあ、音響の子には私から言っとく」
凛が、炭酸飲料の缶を片手に答えた。彼女は話しながらも別の紙をめくり、空いた手の指先で机を小さく叩いている。納得できないことがあるときの癖だ。
「あと、旧演劇部倉庫の整理。誰か行ける?」
委員の一人がそう言った途端、教室の空気がわずかに鈍った。倉庫は校舎の端、講堂の裏にある。使われなくなった衣装や大道具が押し込まれたままで、去年も一昨年も、必要な物を探すたびに何人かが埃まみれになって戻ってきた場所だ。
「私が行く」
口にしてから、少し早すぎたと思った。けれど凛がこちらを見ていたので、取り消す理由もなかった。
「一人で?」
「在庫を確認して、使えそうな物だけ出す。そんなに時間はかからないよ」
「灯里がそう言うときは、だいたい時間がかかる」
凛は缶を机に置き、私の顔をまっすぐ見た。
「何かあっても、勝手に片づけて終わらせないでよ。去年みたいに、壊れた照明を一人で直そうとして感電しかけるとか」
「あれは感電してない」
「指先が三時間しびれてたじゃん」
「……少しだけ」
「少しでも感電は感電」
笑いが起きた。私はつられて笑い、進行表を閉じた。こういうふうにして、私はいつも場を丸くする。誰かが困らないように、話題を次へ送る。笑ってしまえば、その場にいる全員が安心する。私自身がどう思っているかは、そのあとで考えればいい。
旧演劇部倉庫の鍵は、職員室の脇にある鍵箱にかかっていた。手に取ると、金属が昼の熱を吸ってぬるかった。
講堂へ向かう廊下には、文化祭の飾りがところどころ立てかけられていた。青い紙で作った波、魚の形に切り抜かれた厚紙、誰かが書いた「海の町らしい入口」という曖昧なメモ。窓の外では、フェリーが港を離れていた。白い船体が防波堤の向こうへゆっくり滑り、航路の上に細い白波を残している。
私は足を止めなかった。
止まると、見送ることになる気がした。
倉庫の扉を開けた瞬間、古い木と湿った布の匂いが押し寄せてきた。埃は光の中で細かく舞っている。壁際には折れた譜面台、片方の車輪が外れた舞台用の椅子、塗装の剥げた看板が積み重なっていた。
私は鼻の奥がむずむずするのをこらえながら、手近な箱の蓋を開けた。
「衣装、使えそうなのある?」
入口から凛の声がした。
「来たの?」
「来た。あんたを一人にすると、倉庫ごと整理して帰ってきそうだから」
「そこまで器用じゃないよ」
「器用だから困るんでしょ」
凛は腕まくりをし、私の隣にしゃがみ込んだ。彼女が動くと、埃がまた舞い上がる。二人で古い布や紙袋を取り出し、使える物と捨てる物を分けていく。作業そのものは単純だった。けれど、箱の底に残る物には、年月の手触りがあった。
記名の薄れた上履き袋。片方だけの白い手袋。海の絵が描かれた紙皿。どれも、持ち主がもうここにいないことだけを、黙って示している。
「これ、見て」
凛が、衣装箱の脇から古い企画書を引き抜いた。表紙には三年前の日付がある。紙は湿気で少し波打っていた。
「中学の文化祭のやつじゃない?」
私は受け取った。表紙の端に、見慣れた字があった。
蒼井湊。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
湊の字は、いつも少し右上がりだった。急いで書くと、ひらがなの最後が細く伸びる。私は名前を指でなぞり、企画書をめくった。
演目名の欄に、『夕凪の保健室』とある。
その下に、出演者の名前が並んでいた。
蒼井湊。結城灯里。白石悠真。
息が詰まった。
「……悠真?」
凛の声が低くなった。
私は返事をせず、次のページをめくった。企画書の端が、何度も折り返されている。そこに役名のメモが書かれていた。湊が書いたものらしい。役名の横に、誰がどの場面に立つか、どの台詞を誰が読むかが細かく記されている。
そのうち一つだけ、黒い線で塗り潰されていた。
黒というより、何度も何度も赤ペンを重ねた跡だった。紙が毛羽立ち、下の文字が完全には消えていない。目を近づけると、かすかな画数が見えた。
白石悠真。
私は指先を止めた。
三年前、悠真は町を出た。引っ越すと聞かされたのは、その前日の夜だった。理由を尋ねる暇もなく、翌朝にはもう駅へ向かう時間になっていた。私は駅まで行かなかった。行けば何か言わなければならないと思ったし、何を言えばいいのか分からなかった。
そのあと、連絡は途切れた。
町の人は、悠真は海外にいるらしい、と言った。私はそれを聞いて、そうなんだ、とだけ答えた。まるで遠い天気の話を聞いたみたいに。
「灯里」
凛が呼んだ。
私は紙から顔を上げた。
「これ、何?」
「昔の企画書」
「そういう意味じゃない」
凛は黒く塗られた名前を見ていた。彼女は人の顔色を見るとき、目をそらさない。私の肩がわずかに強張ったのも、たぶん見えている。
「悠真の名前、消されてる。誰が消したの?」
「分からない」
「分からないって、あんたも関わってたんでしょ」
「中学のときのことだから、覚えてない部分もあるよ」
言いながら、私は笑おうとした。けれど口元だけが動いて、声にならなかった。
凛は腕を組んだ。
「覚えてないんじゃなくて、思い出したくないんじゃないの」
「そんなこと……」
「あるかないかは、灯里が決めることじゃなくて、灯里の顔が決めてる」
倉庫の奥で、古い金具がひとつ落ちた。乾いた音が、狭い空間の中で長く残った。
私は企画書を閉じた。閉じれば、名前も一緒にしまえると思った。けれど紙の厚みが手のひらに残り、黒く潰された部分のざらつきまで伝わってくる。
「これ、持っていく」
「勝手に?」
「先生に確認する」
「じゃあ、私も行く」
「凛は倉庫の続きがあるでしょ」
「ない。今なくなった。気になるほうが優先」
「文化祭の準備は?」
「それを言うなら、あんたが過去の紙に捕まってる場合でもないでしょ」
凛の言葉は乱暴だった。けれど、置いていかないという意味でもあった。
私は返事をする前に、一拍置いた。
「……脚本も探したい」
「脚本?」
「企画書に書いてある。『夕凪の保健室』って」
「見つけたらどうするの」
私は答えられなかった。
衣装箱の底に敷かれていた古い布を、凛が持ち上げた。布の裏側から、紙の角が覗いていた。
私は膝をつき、そっと引き抜いた。
一冊の手書き脚本だった。
表紙には、青いインクで『夕凪の保健室』と書かれている。その下に、三年前の日付。紙の角は丸く擦れていて、赤ペンの跡が幾重にも重なっていた。
最初のページを開く。
――夕方、海の風が止まるころ、保健室には誰もいない。
その一行を読んだだけで、喉の奥が乾いた。
保健室の古い扇風機が思い浮かんだ。羽根が回るたびに、カーテンが膨らんでは戻る。窓の外には白い雲と、午後の海。湊が椅子に座り、悠真が窓際に立ち、私は何かを言いかけていた。
何を言おうとしていたのかは、思い出せない。
ただ、言わなかったことだけは分かった。
「灯里、そこ」
凛がページの隅を指差した。
台詞の一つが、太い線で消されている。その周囲だけ、紙が黒ずむほど赤ペンが重なっていた。削除された台詞の下には、かすかに文字が透けている。
――来年も、三人で。
私は息を止めた。

隣のページには、別の台詞が残っていた。
――同じ舞台を、もう一度。
そのすぐ横に、湊の字で小さな書き込みがある。
《言う順番を変える》
凛は何も言わなかった。いつものように余計な一言を足す代わりに、紙の上へ視線を落としている。彼女が黙ると、倉庫の空気は急に広くなった。
「これ、誰が書いたの」
「湊」
「湊が消したの?」
「分からない」
「灯里」
「本当に分からないんだよ」
声が思ったより大きくなった。凛の眉がわずかに動く。
「三年前のことなんて、全部覚えてない。悠真が出ていったことも、湊が何を書き直したかも、私は……」
そこで言葉が止まった。
自分の名前を呼ばれたときに肩がこわばるのと同じように、悠真という名前を口にすると、胸の奥にしまったものが動く。私はそれを長いあいだ押さえつけていた。触れなければ、存在しないものとして扱えると思っていた。
凛は、責める代わりに脚本を私の手元へ戻した。
「忘れてるなら、今から見ればいいじゃん」
「見たら、何か変わるかもしれない」
「変わるよ。紙を見たんだから」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる。分かってるけど、変わるのが嫌だからって、なかったことにするのは違うでしょ」
凛の声は乾いていた。けれどその乾きは、冷たさではなかった。湿った倉庫の空気を割って、奥まで届く声だった。
「灯里はいつもそう。誰かが困らないように先に片づけて、誰かが怒らないように笑って、自分の分だけ後ろに置く。でも後ろに置いたものって、消えないから。見えなくなるだけで、ずっとそこにある。今回の紙みたいに」
私は脚本の端を指でなぞった。
「……凛は、何でも言えるよね」
「言えるんじゃなくて、言わないと気持ち悪いの」
「言って、壊れることもある」
「黙ってても壊れるよ。むしろ、黙って壊れたものは、いつ壊れたか分からないから、あとでずっと自分を疑う」
その言葉に、凛自身の記憶が混じっている気がした。けれど私は尋ねなかった。彼女が話さないことを、勝手に開ける権利はないと思った。
ただ、凛は私の閉じた扉を、いつも遠慮なく叩く。
「先生に見せよう」
「うん」
「それから、これが今年の文化祭で使えるか考える」
「再演するの?」
「決めるのは灯里じゃないでしょ。私たちで決める」
その言葉が、なぜか怖かった。
資料室へ向かう廊下は、倉庫よりずっと明るかった。けれど目が慣れるまで、私は何度も瞬きをした。窓の外では海霧がグラウンドの端へ流れ込み、白い帯になってフェンスを隠している。
藤崎先生は資料室の机で、古いファイルの背表紙を揃えていた。私たちに気づくと、眼鏡越しに脚本を見た。すぐには手を伸ばさない。私はその一拍を待ってから、机の上へ本を置いた。
「倉庫で見つけました。三年前の脚本です」
先生は表紙を見て、指先で紙の角を確かめた。
「蒼井君の字ですね」
「知ってるんですか」
「当時、舞台の記録を預かりましたから」
先生は脚本をめくった。削除線のあるページで指を止めたが、そこを開いたまま私には見せなかった。代わりに、棚から薄いファイルを取り出し、表紙の向きを揃えて机へ置く。
「上演記録です。舞台写真と音響表も入っています」
「これを見れば、何があったか分かりますか」
尋ねてから、私は早すぎたと思った。
先生はファイルに手を置いたまま、私を見た。
「記録は、起きたことを全部残してはいません」
静かな声だった。
「ただ、残らなかったものの形を、想像する手がかりにはなります」
「先生は、誰が名前を消したか知ってるんですか」
凛が先に尋ねた。
先生は凛へ視線を移し、それから私へ戻した。
「知っていることと、言えることは別です」
「それ、答えになってない」
「そうですね」
先生は否定しなかった。
「ですが、私が先に答えを置くと、あなたたちが見つけるはずだったものまで、私の答えになってしまう」
凛は腕を組んだ。けれど今度は反論しなかった。
私はファイルを開いた。古い紙の甘い匂いがした。舞台写真の中に、三年前の私たちがいる。保健室を模したセットの前で、湊が少し笑い、悠真が窓のほうを見ている。私は二人の間に立っていた。
写真の中の私は、笑っている。
けれど目だけが、誰かから逃げていた。
その日の帰り、家の玄関を開けると、味噌と焼いた魚の匂いがした。台所では姉の綾乃が、鍋の蓋を少しずらして湯気を逃がしている。テーブルの端には、進路希望調査票が置かれていた。紙の白さが、夕方の家の中で妙に目立つ。
「学校、遅かったね」
「倉庫の整理」
「そう」
綾乃はそれだけ言って、味噌汁を椀によそった。私が鞄から脚本を出すと、綾乃の手が一瞬止まる。
「昔の?」
「うん。中学のときの舞台の脚本」
「そう」
綾乃は椀を私の前に置き、進路調査票を少しだけ横へずらした。
「提出、今週だっけ」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて、紙に書いてある」
「分かってる」
「なら、今日は見なくてもいい。でも、明日になれば締め切りが一日近づく」
責めているわけではない。それが分かるから、余計に逃げにくかった。
「お姉ちゃんは、どうやって決めたの」
綾乃はすぐには答えず、鍋の火を弱めた。
「どうやって、というほど立派じゃないよ。調べて、比べて、払えるか考えて、最後に一つ残っただけ」
「残ったものを選んだの?」
「選んだつもりでも、あとから違うものに見える日はある」
綾乃は食卓の端を指で揃えた。
「残るのも出るのも、決めた瞬間に正解になるわけじゃない。決めたあとも、生活が続くだけ」
私は進路調査票に手を伸ばしかけ、やめた。
「じゃあ、決めなくても生活は続く?」
「続くよ」
綾乃は短く答えた。
「ただ、決めなかった分を、あとで誰かのせいにすることになるかもしれない」
味噌汁の湯気が、視界の前でゆっくりほどけた。
部屋に戻ると、机の上へ脚本と上演記録を並べた。窓の外では、港の灯りが一つずつ点いている。古い扇風機を回すと、羽根が一度止まりかけ、それから重たく回り始めた。
私は最後のページを開いた。
そこには、台詞のない空白があった。余白の下端に、湊の赤ペンで一行だけ書かれている。
《ここで、誰かが名前を呼ぶ》
誰の名前なのかは、書かれていなかった。
翌朝、私は進行表を貼り替えるため、校舎裏の掲示板へ向かった。海霧がまだグラウンドに残り、フェンスの向こうが白くぼやけている。新しい紙を画鋲で留めていると、前の進行表の端に、見覚えのある署名があることに気づいた。
白石悠真。
潮騒祭の準備補助、備品搬入。
日付は昨日だった。
私は紙に触れたまま、動けなくなった。
遠くで、フェリーの汽笛が鳴った。海霧の向こうでは姿が見えない。ただ音だけが、こちらへ届いている。
町を出たはずの名前が、三年ぶりに同じ校舎の紙の上へ戻ってきていた。
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