第10話 第10話「余白に書く名前」

翌朝、私は誰より早く講堂へ入った。
扉を開けた瞬間、夜のあいだに冷えた空気が足元へ流れてくる。舞台の上には白いカーテンが吊られ、保健室に見立てた机と椅子が、まだ誰にも使われていない形で置かれていた。窓から差し込む光は薄く、海霧の名残が校舎の向こうに白く溜まっている。
昨夜、悠真から受け取ったノートは、鞄の中に入っていた。
持ち帰ってから何度も開こうとしたけれど、結局、表紙を指でなぞっただけだった。中に書かれているものが怖かったわけではない。そこに書かれていないものまで、読めてしまいそうだった。
舞台袖の机に脚本を置く。
『夕凪の保健室』。
三年前の紙は、何度も触れられたせいで柔らかくなっている。削除線の重なった頁を開き、私は昨夜書き足した台詞を確認した。
――私は、ここにいた。呼ばれなかったから、いないことにした。
その下に、もう一行加えていた。
――だから、消えた名前を戻すのではなく、今ここで呼ぶ。
書いたときには、これでいいと思った。けれど朝の光の中で見ると、きれいに整いすぎている気がした。言えなかったことを舞台に載せるために、私はまた、言いやすい形へ直してしまったのかもしれない。
「朝から難しい顔」
背後から凛の声がした。
振り返ると、彼女は片手にコンビニの袋をぶら下げて立っていた。髪は少し乱れていて、もう片方の手には炭酸飲料が握られている。
「寝てない?」
「少しは寝た」
「その顔で?」
「凛こそ」
「私はいつもこの顔」
凛は袋からパンを取り出し、舞台袖の机へ置いた。脚本を覗き込んだあと、黙って頁をめくる。いつもなら、読んだそばから何か言う。けれど今日は、削除線の残るところで指を止めた。
「これ、悠真に見せた?」
「うん」
「何て言ってた?」
「読んだ。来るって」
「そうじゃなくて、台詞について」
「……灯里の台詞だって」
「それだけ?」
「それから、自分もここにいたって」
凛は炭酸の缶を机に置いた。金属が木の表面に触れ、乾いた音を立てる。
「それ、台詞に入れないの?」
「まだ分からない」
「また分からない」
「分からないことを、分かったふりで書きたくない」
凛は腕を組んだ。
「じゃあ、今の台本は分かったふり?」
胸の奥が細く痛んだ。
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じでしょ。灯里は、正しいことを書くのが上手すぎる。だから、本人がどこで転んだのか分からなくなる」
「転ぶために舞台を作るわけじゃないよ」
「でも、転ばなかったことにするためでもない」
凛の声は荒れていなかった。その平らさが、かえって逃げにくかった。
「私は、ちゃんと書こうとしてる」
「ちゃんとって何?」
「誰かを傷つけないようにすること。昔のことを勝手に使わないこと。悠真の名前を戻すなら、悠真が戻したいと思える形にすること」
「それで、灯里自身の言葉はどこにあるの」
私は答えられなかった。
講堂の奥で、誰かが椅子を引いた。まだ照明はついていない。窓の外では、グラウンドの白線を覆っていた霧が少しずつ薄くなっていく。消えるのではなく、風に押されて場所を変えているだけだった。
「私、また誰かのために書いてる?」
「そう見える」
「凛は、簡単に言うね」
「簡単じゃない。灯里がずっとそうしてきたのを見てきたから言えるの」
凛は脚本を閉じなかった。消された名前のある頁を開いたまま、紙の端を押さえている。
「私だって、言えば壊れると思って黙ってたことがある」
「凛が?」
「あるよ。言ったら相手が離れると思って、平気なふりして、いつも通りにしてた。そしたら相手は、本当に平気なんだと思って、何も聞かなくなった」
凛は視線を脚本へ落とした。
「黙って守れるものなんて、思ってるより少ない。守ったつもりで、相手から選ぶ機会を奪ってるだけのこともある」
その言葉は、昨夜の悠真の声と重なった。
言わなかったことも、選択だった。
私は赤ペンを取った。消された台詞の下に、新しい余白がある。誰かの筆跡の上へ重ねることにためらいはあった。けれど、ためらったまま何も書かないことも、もう選択なのだと思った。
私は紙へペン先を置いた。
「何を書くの?」
凛が訊く。
「まだ決めてない」
「じゃあ、決めながら書けば」
ペン先が紙の上を滑った。
――行かないで、と言えなかった。
そこまで書いて、手が止まる。
「続きは?」
「分からない」
「また?」
「うん」
凛はため息をついた。けれど今度は、呆れたように笑った。
「じゃあ、分からないって書けばいいじゃん」
私は凛を見た。
「台詞に?」
「台詞に。分からないから黙った。怖いから見ないふりをした。戻ってきてほしかったけど、戻ってきたら困ると思った。そういうの、全部」
「そんな台詞、長すぎるよ」
「舞台なんだから、削ればいい。でも最初から削るな。まず出せ」
胸の奥で、何かがゆっくり動いた。
私は新しい頁を一枚取り出し、書き始めた。
――行かないで、と言えなかった。 ――戻ってきて、とも言えなかった。 ――何を望んでいるのか、自分でも分からなかった。 ――それでも、いなくなったことにしたくはなかった。
書き終えたとき、講堂の扉が開いた。
悠真が入ってきた。濃い色のシャツの袖を引き、手には小さな工具箱を持っている。その後ろから、藤崎先生が舞台写真の束を抱えて現れた。
「早いな」
悠真が言った。
「そっちこそ」
「扇風機を見に来た」
「舞台に使うの?」
「使えるなら」
彼は舞台袖の古い扇風機へ歩き、しゃがみ込んだ。工具箱を開ける音が、静かな講堂に響く。
藤崎先生は何も言わず、写真の束を机へ置いた。表紙の向きを揃え、私たちの前に一枚だけ差し出す。
三年前の舞台写真だった。
白いカーテンの前に、三人が立っている。湊は赤ペンを持ち、私は少し緊張した顔で笑っている。悠真は客席ではなく、舞台袖のほうを見ていた。
写真の裏に、鉛筆の字があった。
――全員が同じ場所に立たなくても、舞台は始められる。
私はその一文を指でなぞった。
「先生、これ……」
「裏に書いてあった。それだけです」
「誰の字か、分かりますか」
「分かりません」
藤崎先生は写真を見たまま、静かに続けた。
「ただ、誰が書いたかより、今のあなたたちがどう読むかのほうが大事でしょう」
舞台袖で、悠真が扇風機のスイッチを入れた。
羽根はしばらく軋み、やがてゆっくり回り始める。古い風が、紙の束を持ち上げた。書きたての頁が一枚、机から滑り落ちる。
悠真が拾い上げた。
「読んでいい?」
私は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「うん。今の私が書いた台詞だから」
悠真は紙を両手で持ち、声に出して読んだ。
その声は、三年前より低くなっていた。けれど、言葉の途中で一度だけ息を止めるところは変わっていない。
読み終えると、彼は紙を見つめた。
「この続き、俺も書いていい?」
私は彼の顔を見た。
「悠真が?」
「俺が言えなかった側の台詞もあるから」
凛がすぐに口を挟んだ。
「ただし、昔の自分を格好よく書くのは禁止」
「分かってる」
「分かってる人の顔じゃない」
「じゃあ、格好悪く書く」
「それも違う。格好よくするために書くなってこと」
悠真は少し考えた。
「難しいな」
「難しいまま書けばいい」
凛の言葉に、私は小さく笑った。
笑ったあと、胸の奥に残ったものを、そのままにしなかった。
「湊にも、書いてもらいたい」
言うと、講堂の空気がわずかに変わった。
藤崎先生は写真を整え、悠真は工具箱の蓋を閉じた。凛だけが、すぐに頷いた。
「呼ぶ?」
「うん」
「灯里が?」
「私から呼ぶ」
スマートフォンを取り出す。湊の名前を開くまでに、指が二度止まった。送る文面を何度も書き直しそうになったけれど、今度は短くしなかった。
――脚本を書き直しています。 ――消した名前を、元に戻すためではありません。 ――私たちが言えなかったことを、今の言葉で書くためです。 ――湊の言葉も、聞かせてほしい。
送信ボタンを押す。
すぐに返事は来なかった。
それでも、私は画面を伏せなかった。
古い扇風機が回り続けている。風は弱く、音は不揃いで、時々、軸の奥で嫌な軋み方をした。それでも、止まらなかった。
舞台の上には、まだ空白がある。
私は赤ペンを握り直し、その余白を誰か一人の言葉で埋めないように、まず自分の名前を書いた。
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