第9話 みのりの横顔

教室へ戻ると、三枝みのりが当然みたいな顔で隣の席をのぞき込んできた。
「なに、その顔。教科書にでも殴られた?」
窓は開いていたが、風はほとんどなかった。カーテンだけが、誰かの呼吸みたいにゆっくり膨らんではしぼんでいる。扇風機は首を振りながら、ぬるい空気を教室の端から端へ運んでいた。
「教科書は殴らないだろ」
「じゃあ、花に刺された?」
「花は刺さない」
「透真、朝から花の弁護ばっかりしてるじゃん」
みのりは私の机へ手をつき、顔を近づけた。冗談を言うときの距離だった。けれど、目は笑っていない。視線が私の顔から右手へ落ち、親指の爪をなぞっている指先で止まった。
私は手を引いた。
「で、どうだったの。ちゃんと終われた?」
「……何が」
「退部届。昨日置いてきたんでしょ」
声の調子は軽い。けれど、問いの置き方だけが慎重だった。教室のざわめきの中で、そこだけ薄い膜に包まれているように聞こえた。
「終わったよ」
「何が?」
「部活」
「それ、退部届を出した人がよく言うやつ」
「じゃあ、退部届」
「紙が終わっただけじゃない?」
みのりは椅子に腰を下ろした。私の机と自分の机の間に、ほんの少しだけ身体を傾ける。近すぎない。逃げようと思えば逃げられる距離を残している。だが、その距離のせいで、逃げたことまで分かってしまう。
私は教科書を鞄へ入れた。押し花が崩れないよう、ページの端をそろえる。指先が紙を擦るたび、乾いた草の感触が戻ってきた。花は薄い。触れば壊れそうなのに、捨てることはできなかった。
「何それ」
「教科書」
「そっちじゃなくて」
「花なら、まだある」
「見せて」
「嫌だ」
「即答だ」
「崩れるから」
「崩れるのが嫌なのか、見られるのが嫌なのか、どっち?」
私は答えず、机の角を指でなぞった。木の表面には細い傷がいくつも走っている。誰かが何年もここで鉛筆を立て、消しゴムを落とし、机を動かしてきた跡だ。傷は増えていくのに、机は捨てられない。そんなことを思った。
「ねえ、無理に『もう平気』って顔しなくていいよ」
「平気だって」
「そういうとこだよ」
みのりは笑っていた。けれど、声の底に笑いはなかった。
私は窓の外を見た。グラウンドの向こうに、白く霞んだ海が見える。陽射しは強く、校舎の壁は焼けた金属みたいに熱を持っていた。風がないのに、グラウンド脇の草だけが細かく揺れている。
「何が、そういうとこなんだよ」
「平気って言えば、平気になったことにできると思ってるところ」
「別に、そんなつもりはない」
「じゃあ、どんなつもり?」
「何もない」
「それも便利な返事だね」
みのりは私の机の上に置かれていたプリントの束を、わざと乱暴に持ち上げた。端が揃っていた紙がずれ、数枚が床へ落ちる。
「ほら、こういうの。わざと散らかすと、片づける理由ができる」
「何してんだよ」
私は椅子を引き、床のプリントを拾った。みのりもしゃがみ込む。紙の一枚に、進路希望調査の文字が見えた。私は反射的にそれを裏返した。
みのりは、その動きを見た。
「進路も、まだ?」
「関係ないだろ」
「関係あるんじゃない? 部活を辞めた理由と」
「ない」
「ないなら、そんなに早く隠さないでよ」
プリントを拾う手が止まった。
みのりの声は、いつの間にかゆっくりになっていた。いつもなら、冗談を二つ三つ重ねて、私が怒る前に別の話へ逃がす。けれど今は、逃がすための話題を探していない。
「透真さ、辞めるって、そんなに簡単に決められるもんなの」
「決めたんじゃない」
「じゃあ、何」
問いは短かった。
なのに、答えるための言葉が見つからなかった。
退部届を書いた夜のことなら、説明できる。練習がきつかった。レギュラー争いで結果が出なかった。進路のこともあった。時間が足りなかった。どれも嘘ではない。だからこそ、どれか一つを差し出せば、それで済むと思っていた。
私はプリントを机の上へ戻した。
「限界だったんだよ」
「何の?」
「いろいろ」
「いろいろって、何の?」
「だから、いろいろだって」
「その言い方、透真が一番逃げたいときのやつ」
「人の言い方を採点するなよ」
「採点じゃない。観察」
みのりはそう言って、机に頬杖をついた。
「透真が平気な顔をするとき、親指の爪をなぞる。返事をする前に一回だけ黙る。質問されると、最初に机か窓を見る。あと、ほんとうに困ってるときほど、言葉が丁寧になる」
「そんなに見てたのかよ」
「隣の席だからね。毎日見えるよ」
「気持ち悪いな」
「無料だから我慢して」
「有料にしたら、もっと気持ち悪いだろ」
「一回十円。透真の平気な顔なんて、そのくらいの価値」
私は笑おうとした。
けれど、口の端が上がるまでに一拍遅れた。
みのりは笑わなかった。私が笑えたかどうかより、笑おうとしたあとに何が残ったかを見ていた。
「……何だよ」
「今の間」
「知らない」
「ほら、それ」
「何が」
「本当に知らないときの『知らない』じゃない」
教室の前方で、誰かが机を動かした。椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。私はその音に紛れるように、鞄の中へ手を入れた。数学の教科書の表紙へ触れる。角の擦れた部分が指に引っかかった。
ページの中には、白い花がいる。
押しつぶされた花弁。乾いた茎。淡い黄色の中心。そこへ鼻を近づけていないのに、夏草の青い匂いがする。
「その花、誰が挟んだの?」
みのりが訊いた。
「先輩」
「玲先輩?」
「うん」
「何て?」
「何も」
「何も言わずに花を挟むって、すごいね。会話としては難易度高すぎない?」
「俺に聞くなよ」
「透真が受け取ったんでしょ」
「勝手に入ってた」
「勝手に入ってた花を、こんなに丁寧にしまってるの?」
私は鞄から手を出した。
みのりの視線が、指先に残った草の粉を追った。彼女はそこへ触れようとはしなかった。触れれば壊れるものと、触れなくても届くものを、彼女なりに分けているようだった。
チャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
みのりは自分の席へ戻った。私は教科書を机の中へしまい、授業の準備をした。教師の声が黒板の前から流れてくる。連立方程式の話をしているらしい。私はノートを開き、数字を書き写した。
けれど、さっきの問いが消えなかった。
決めたんじゃない。じゃあ、何。
自分でも分からない。分からないまま退部届を書いた。分からないまま紙を折り、分からないまま眠った。なのに翌朝、教科書の中に花があった。
言葉にしなかった部分だけが、誰かに拾われていた。
昼休みになると、みのりは私の机の横へ来た。
「自販機、行くよ」
「行かない」
「じゃあ、ここで食べる?」
「食べない」
「食欲ないの?」
「ある」
「どっち」
「今はない」
「便利だね、その返事」
みのりは私の机の端を指で叩いた。
「来ないなら、私がここで透真の昼飯を観察する。箸を何回動かすか数える」
「気持ち悪い」
「じゃあ来なよ」
断る理由を探しているうちに、みのりはもう廊下へ歩き出していた。仕方なく、私は財布を取り出して後を追った。
廊下には、昼休みの生徒たちが溢れていた。笑い声、弁当箱の蓋を閉じる音、階段を駆け下りる靴音。窓の外からは、午後のグラウンドに残った熱が押し寄せてくる。
階段の踊り場まで来ると、汗が首筋に浮いた。シャツの襟が肌へ貼りつく。背中にも薄い布が張りつき、歩くたびに熱がこすれた。部活をしていた頃なら、ここから先はもっと汗をかいていた。走って、声を出して、水を飲んで、それでも足りなかった。
今は、ただ歩いているだけで息苦しい。
昇降口脇の自販機で、みのりは甘い缶コーヒーを買った。取り出し口に缶が落ちる。鈍い音が、狭い空間の中で一度だけ跳ねた。
「熱い」
「缶コーヒーだからな」
「そういう意味じゃなくて、外が」
「分かってる」
「分かってない顔」
私は冷たい水を買った。缶を首筋へ当てると、皮膚の熱が少し引いた。プルタブを開け、一気に飲む。冷たさが喉を通り、空っぽの胃へ落ちていった。
みのりは缶コーヒーを手の中で転がしながら、校舎裏を見た。
「ねえ、押し花ってさ」
「何」
「作ったことある?」
「ない」
「私もない。花なんか、摘んだ瞬間にだいたい終わるじゃん。水に挿しても枯れるし、放っといても枯れるし。なのに、わざわざ平らにして残すって、ちょっと変じゃない?」
「知らないよ」
「透真、昨日からそればっかり」
「知らないものは知らない」
「じゃあ、知りたいとも思わない?」
私は缶を握り直した。
アルミの冷たさが、手のひらへじわじわ移ってくる。知りたい。誰が挟んだのか。どういうつもりだったのか。なぜ、あの白い花だったのか。
けれど、知ってしまえば返事をしなければならない気がした。
「先輩が挟んだ」
「うん」
「昨日、部室で聞いた」
「何て言われたの?」
「何も」
「何もって、花を挟んで、無言で帰したの?」
「そんな感じ」
「それ、怖くない?」
「怖いっていうか……分からない」
みのりは缶を両手で包んだ。冗談を探すように目を泳がせ、それから、見つからなかったらしい顔で正面を向いた。
「透真さ、昨日からずっと、辞めたことを説明しようとしてるよね」
「してない」
「してるよ。疲れてたから。時間がなかったから。結果が出なかったから。進路もあるし、続けても意味ないし。そういう理由を、誰かに聞かれる前から並べてる」
「事実だろ」
「事実だけで人は退部届を書かないよ」
「じゃあ、何で書くんだよ」
「それを私に聞く?」
「みのりなら、分かるんだろ」
「分かんないよ。透真の頭の中に入ったことないし」
みのりは缶を口元へ運びかけたが、飲まずに下ろした。甘い匂いが熱い空気の中でほどけていく。
「でも、分かることはある。透真は、辞めたことを後悔してるっていうより、後悔してる自分を見られたくないんだと思う」
「……勝手に決めるな」
「決めてない。見てるだけ」
「同じだろ」
「違うよ。決めつけるなら、もっと簡単な言葉を使う。『本当は戻りたいんでしょ』とか、『みんな待ってるよ』とか。そう言えば透真は怒るし、私も言った気になれる。でも、そんなの透真の中身を、私の都合で片づけるだけじゃん」
みのりの声は、いつの間にかゆっくりになっていた。
「だから、戻れとも、戻るなとも言わない。透真が辞めたことを、きれいな決断にも、ただの逃げにもしたくない。逃げたなら逃げたで、どこから逃げたのかくらい、自分で見たほうがいい。疲れたなら疲れたで、誰に何を言われるのが怖かったのか、そこまで見ないと、また別の場所で同じことをするよ」
「説教?」
「友達からの有料観察結果」
「十円のくせに重い」
「安いから重いんじゃない?」
私は笑いかけた。
今度は、少しだけ早く笑えた。
みのりはそれを見て、ようやく缶コーヒーを飲んだ。眉をしかめる。甘すぎたのだろう。
「まずい」
「自分で買ったんだろ」
「透真がちゃんと返事しないから、味が分からなくなった」
「人のせいにするな」
「じゃあ、返事して」
「何を」
「何でもいいよ。今日、帰るのか。部活の前を通るのか。花を捨てるのか。玲先輩に聞くのか。全部じゃなくていいから、一個」
問いが並んだ。
どれも大げさなものではない。けれど、一つ選べば、残りの選ばなかったものまで浮かび上がる。
「……帰る」
「どこへ?」
「家に」
「それは知ってる。時間」
「六時までには」
「お母さんに言われたから?」
「そう」
「じゃあ、透真の意思は?」
私は答えなかった。
自販機の中で、冷却機が低く唸っている。遠くでチャイムが鳴り、昼休みの終わりを知らせた。グラウンドから、誰かの大きな声が届く。音は校舎の壁にぶつかり、少し欠けた形でこちらへ戻ってきた。
みのりは、私の返事を急かさなかった。
ただ、私の右手を見ていた。親指の爪をなぞる動きが、いつの間にか止まっていることに気づいたのだろう。
「ねえ、透真」
「何」
「平気じゃないなら、平気じゃないって言っていいよ」
「……簡単に言うな」
「簡単じゃないよ。私だって、言えないからこうやって喋ってる」
「みのりが?」
「私だって。誰かが黙って消えるの、嫌いなんだよね。あとから『気づいてた』って言う人も嫌い。気づいてたなら、そのとき言えばいいじゃんって思う。でも、実際その場になると、言えない。言ったら余計に壊れるかもしれないし、嫌われるかもしれないし、自分の言葉が間違ってたら恥ずかしいし」
みのりは、缶の表面を親指でゆっくり撫でた。水滴が爪の脇へ入り、細い筋になって流れていく。
「だから、軽口を言う。笑わせて、少し横へずらして、それでも残ったものだけを見る。私にできるのは、それくらい」
教室の窓から差す光が、彼女の髪の端を白く照らしていた。いつもなら、明るさが先に目へ入る。けれど今は、その明るさの下にある疲れが見えた。誰かの沈黙を見つけるたび、自分までそこへ立たされているような顔だった。
「……悪かった」
言うと、みのりはすぐに笑った。
「何が?」
「分かんないけど」
「便利だね、その謝り方」
「十円でいいだろ」
「安すぎ。今日は缶コーヒー代込みで百二十円」
「高いな」
「でも、返事はもらった」
予鈴が鳴った。
私たちは並んで校舎へ戻った。階段を上がる途中、窓から風が入り、草の匂いがした。私は反射的に息を止めた。けれど、昨日のように完全には止めなかった。
匂いは胸の奥へ入り込んだ。
グラウンド脇の夏草。熱を持った土。練習後の水。汗の残ったユニフォーム。みのりの甘い缶コーヒー。その全部が混ざり、簡単には名前をつけられない空気になっている。
教室へ戻る前、私は廊下の窓からグラウンドを見た。
部活へ戻るつもりはなかった。退部届を取り消すつもりもない。ただ、見てはいけない場所のように扱うことだけは、少し違う気がした。
みのりが先に教室へ入っていく。
「透真、置いてくよ」
「分かってる」
返事をすると、みのりは振り返らず、片手だけを上げた。
私は窓辺に残った。
グラウンド脇の草むらは、風に揺れている。白い花は、ここからでは見えなかった。けれど、あの花が摘まれた場所だけは、なぜか分かるような気がした。
鞄の中で、数学の教科書がわずかに傾いた。
押し花は、まだページのあいだにいる。
私はそれを捨てずに、教室へ戻った。
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