10話 第10話「返事の期限」

その日の放課後、私は教室を出る前に、机の中を二度確かめた。

数学の教科書は鞄のいちばん下に入っている。ページのあいだに挟まった押し花も、まだ崩れていない。表紙を閉じたままでも、薄い花弁の存在だけは分かった。鞄を持ち上げると、かすかに重さが偏る。

花一枚で変わるほど、教科書は軽くなかった。

廊下へ出ると、窓の外から部活の音が流れてきた。乾いた打球音。掛け声。誰かが靴底で土を蹴る音。昨日までなら、聞こえないふりをして昇降口へ向かっていた。

今日は、足が止まった。

止まったことを、すぐに後悔した。背中から誰かに見られている気がして、私は窓から離れた。けれど、離れたあとも耳だけはグラウンドに残っていた。

階段を下りる途中、職員室の前で瀬尾先生に呼び止められた。

「橘くん。少し時間、ありますか」

「帰るところです」

「知っています」

先生は、手にしていたファイルから一枚の紙を抜いた。白い紙の中央に、進路希望調査と印刷されている。

見ただけで、喉の奥が狭くなった。

「提出、明日までです」

「分かってます」

「分かっている人は、紙を受け取るときに目を逸らしません」

「先生まで観察するんですか」

「三枝さんの影響ですか、その言い方」

私は紙を受け取った。指先が触れた瞬間、乾いた音がした。職員室の中では、印刷機が動いている。誰かが電話で話し、別の誰かが椅子を引く。学校は、私が何を選ぶかなど知らないまま、いつも通り音を立てていた。

「部活を辞めたことと、進路希望は別に考えていいです」

先生が言った。

「でも、別々にしたままではいけません」

「どういう意味ですか」

「辞めた理由が、進路を考えたくなかったからなら、別の紙に逃げただけです」

私は返事をしなかった。

紙の端が指に食い込んだ。

「部活を続けるかどうかは、もう決めました」

「そうですか」

「戻るつもりは……まだありません」

「戻れとは言っていません」

先生はファイルを閉じた。

「あなたが何を選ぶかより、何を避けるために選んでいるのかを確認してください」

「確認したら、何か変わるんですか」

「変わらないかもしれません」

先生は淡々と答えた。

「ただ、変わらないことと、考えなかったことは別です」

それだけ言って、先生は職員室へ戻った。私は廊下に残された進路希望調査を見下ろした。

第一希望の欄は空白だった。

空白は何も書かれていないだけなのに、決めたくないという意思だけは、はっきり見える気がした。

家へ帰ると、母は台所で魚を焼いていた。醤油と焦げた皮の匂いが、玄関まで流れている。テーブルには冷たい麦茶と、回覧板のように整えられた郵便物が置かれていた。

「遅かったね」

「先生に呼ばれた」

「何か悪いことした?」

「してない」

「なら、鞄を床に置かない」

私は鞄を椅子へ掛けた。

母は魚を裏返し、火を弱めた。こちらを見ないまま言う。

「進路の紙?」

「うん」

「明日まで?」

「そう」

「書けるの」

「書くよ」

「書けるかと聞いたの」

私は冷蔵庫の横に貼られた予定表を見た。母の字で、面談の日付や支払いの期限が並んでいる。数字はきれいに揃っていて、迷いの入り込む隙間がない。

「まだ決めてない」

「決めてないのに、書くって言ったの」

「仮でいいだろ」

「仮で書くなら、仮だと分かるように考えなさい」

「分かってるよ」

母は火を止めた。

焼けた魚の脂が、皿の上で小さく弾けている。

「その言い方をするときは、分かってないことが多いね」

「母さんまで、それ言うのかよ」

「誰かに言われたの?」

「別に」

「なら、私が先に言っておく。部活を辞めたことを責めるつもりはない。でも、辞めた分だけ時間ができたなら、その時間を何に使うかは考えなさい。時間ができたことを、考えなくていい理由にはしないで」

「部活を辞めたら、すぐ次を決めなきゃいけないのかよ」

「すぐじゃない。明日までに、今の自分がどこに立っているかを書くの」

「そんなの分からない」

「分からないなら、分からないと書けばいい」

母は箸を並べた。一本ずつ、向きを揃えていく。

「ただし、分からないままにしておくのと、分からないと認めるのは違うよ」

夕飯のあいだ、私はほとんど話さなかった。

母もそれ以上は聞かなかった。味噌汁をすする音と、箸が茶碗に触れる音だけが、狭い食卓に残った。責められているわけではない。けれど、何も言われないぶん、自分で考えるしかなかった。

部活を辞めた。

そのあとにできた時間を、私は何に使っただろう。

教科書の中の花を何度も見て、グラウンドの音を聞き、帰宅時間だけを気にしていた。辞めたことを受け入れるためではなく、辞めた自分を見ないために、別のものばかり見ていた。

食後、自室で進路希望調査を机に置いた。

第一希望の欄の下に、理由を書く小さな枠がある。

私はシャープペンを持ち、しばらく紙の上で止めた。

将来やりたいこと。

そんなものは、最初からなかった。正確には、あったのかもしれない。けれど、口に出した瞬間に現実と比べられる気がして、早い段階で諦めた。部活で結果が出なかったときも、同じだった。やりたいと言わなければ、できなかった自分を見られずに済む。

私は理由の欄に、何も書かず紙を伏せた。

そのとき、鞄の中で教科書がずれた。

白い花が、ページの隙間から少しだけ顔を出している。

私は教科書を開いた。花弁の端に、細いひびが入っていた。触れていないのに、時間のせいで崩れ始めている。

捨てるなら、今のうちかもしれなかった。

私は花を挟んだページを閉じた。

翌朝、個人ロッカーの上には花びらが三枚落ちていた。

一枚は白く、二枚は薄い緑色だった。誰かが意図して置いたのか、風に運ばれただけなのか、見分けはつかなかった。

私はそれを拾い上げた。

指先で触れると、花びらは簡単に折れた。けれど、捨てることはできなかった。

背後から、湊の声がした。

「それ、先輩のですか」

振り返ると、湊が部活用の鞄を肩に掛けて立っていた。まだ朝なのに、髪が少し跳ねている。いつも通り、挨拶だけは大きかった。

「知らない」

「またそれですか」

「うるさいな」

「先輩、今日来ますか」

私は花びらを握り込んだ。

「どこに」

「練習に」

「俺はもう部員じゃない」

「でも、来るかどうかは聞けますよね」

湊は一歩近づいた。言い方を考えたらしい。眉間にしわが寄っている。それでも、結局出てきた言葉はまっすぐだった。

「俺、先輩に聞きたいことがあります。来ないなら、来ないって言ってください」

「それを聞いて、どうするんだよ」

「練習します」

「来ても?」

「来ても、来なくても、練習はします。でも、分からないままなのは嫌です」

その言葉が、胸の奥に残った。

分からないままなのが嫌だ。

私がずっと選んできたものと、正反対だった。

湊は手にしていた練習ノートを開いた。ページには、私が以前書いた走り方のメモが残っている。乱れた線の横に、湊の字で新しい書き込みが増えていた。

「これ、間違ってますか」

「……少し」

「どこが」

「足を出す順番じゃなくて、身体の向き。そこが遅い」

「見てくれますか」

反射的に断ろうとして、声が止まった。

廊下の窓から、グラウンド脇の夏草が見えた。朝の光を受けた葉先が揺れている。その匂いはまだ遠いのに、鼻の奥へ届いた。

私は握っていた花びらを、ロッカーの上へ戻した。

「放課後、少しだけなら」

湊の顔が明るくなった。

その表情を見て、私はすぐに付け足した。

「練習に戻るって意味じゃない」

「分かってます」

「本当に?」

「分かってなくても、来てください」

湊はそれだけ言って、先に階段へ向かった。

私はロッカーの上の花びらを見た。

返事には、期限があるのかもしれない。

今日までに決めろという意味ではなく、いつまでも答えないままではいられないというだけの、薄い期限。

私は鞄の中の教科書を確かめた。

押し花は、まだそこにいた。

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