第8話 花を挟む手

廊下の先から聞こえる掛け声に、耳だけが振り向いていた。
身体は昇降口へ向けたままなのに、意識の一部だけがグラウンドに残っている。濡れた土を踏む音。ボールが籠の中でぶつかる音。誰かの名前を呼ぶ、低く短い声。そのどれもが壁を越えて、私の中へ勝手に入り込んできた。
私は足を止めた。
窓の外では、夕立が上がりかけていた。校舎の庇から落ちる雫が、まだ一定の間隔でコンクリートを叩いている。雲の切れ目から差した光が、濡れたグラウンドを鈍く照らしていた。土は黒く、白線はところどころ途切れ、グラウンド脇の夏草だけが雨を抱えたまま重く垂れている。
私は鞄の中の数学の教科書へ手を伸ばした。
表紙を開く。白い花が、二次関数のページの中央にいた。乾いた花弁は薄く、雨の気配に触れてもなお、崩れずに残っている。花の匂いはほとんど消えていた。それでも鼻の奥には、草を踏んだときの青さが引っかかっていた。
私はその匂いを吸い込み、教科書を閉じた。
部室へ戻るつもりはなかった。
ただ、あの花がどこから来たのかを、もう一度確かめたかった。
階段を下り、濡れた通路へ出る。屋根の端から落ちる水が、靴の甲へ細かく跳ねた。空気は急に冷えていたが、シャツの背中には昼間の汗がまだ残っていた。肌に貼りついた布が、歩くたびにじわりと擦れる。濡れた土と草の匂いが、部活をしていた頃よりも近く感じられた。
部室の扉は開いていた。
中から、紙をめくる音が聞こえた。
玲先輩が、棚の下の机に座っている。雨に濡れた髪を後ろで束ね、古い国語便覧と色あせた辞書を机の上へ並べていた。窓から入る湿った風が、紙片の端をわずかに揺らしている。
先輩は私に気づいていたはずなのに、すぐには顔を上げなかった。
便覧の角を指先で撫でる。表紙の擦り切れた部分を確かめるような、いつもの手つきだった。
「何か忘れ物?」
「忘れ物じゃないです」
「そう」
「聞きたいことがあります」
玲先輩は、そこで初めて私を見た。
視線が顔へ来る前に、肩、手元、鞄の順に動いた。私が教科書を持っていることを確かめる。花がまだそこにあることまで、たぶん見抜いている。
「座る?」
「立ってます」
「そう」
先輩は、椅子を引いたままにした。
私は机から少し離れた場所に立った。床には細かな砂が残っている。濡れた靴で誰かが入ってきたのだろう。砂は水を吸って、木の床に小さな黒い点を作っていた。
「見てたんですか」
思ったより声が薄かった。
玲先輩は答えなかった。
便覧を開き、白い紙を一枚取り出す。紙の中央には、乾いた花が挟まれていた。花弁の一枚が欠け、茎の先がわずかに曲がっている。
「何を」
「俺が、辞めること」
先輩は花を紙の中央から少しだけずらした。花弁を傷めないよう、爪ではなく指の腹で触れている。
「見てた」
短い返事だった。
「いつから」
「少し前から」
「レギュラーから外れたとき?」
「その前」
「進路の紙をもらったとき?」
「もっと前」
それ以上、先輩は言わなかった。
私の中で、昨日まで無理やり一つにまとめていたものが、ばらばらにほどけていった。レギュラー争いで結果が出なかった日。練習が終わっても身体だけが熱く、誰とも話したくなかった日。進路希望調査の紙を鞄の底へ押し込み、母に見つからないようにした夜。帰宅しても制服を着替えず、机の前に座ったまま、何も決められなかった時間。
あの全部を、私は「疲れた」と呼んだ。
「俺の教科書に、花を挟んだのは先輩ですよね」
「そう」
「何で」
玲先輩は紙を閉じず、そのまま机の上に置いた。
「置いていったものを、見てほしかっただけ」
言葉が、雨上がりの床へ落ちる水滴みたいに静かだった。
それなのに、胸の奥では大きな音がした。
置いていったもの。
退部届のことだろうか。私の名札のことか。練習ノートに残した文字か。それとも、部員として過ごした時間そのものか。
「それって、引き止めですか」
「違う」
「じゃあ、別れの挨拶?」
「それも違う」
「許したってことですか」
「誰が、誰を」
答えが返ってくるたび、私の考えていた道が一つずつ消えていく。
「俺が勝手に辞めたことを、先輩が許したんじゃないんですか」
「許す必要がある?」
「ありますよ。何も言わずに抜けたんだから」
「透真が自分で出した届を、私が許すの?」
「部長なら、そういうことを言うものじゃないですか」
「部長だから、言わない」
玲先輩は、紙の上の花へ目を落とした。
「人が辞めるとき、残る側はすぐに理由を欲しがる。疲れたのか、嫌になったのか、他にやりたいことがあるのか。理由が分かれば、自分たちの中で処理できるから。でも、辞める本人がまだ自分の理由を扱えていないときに、周りが先に名前をつけると、その人はその言葉から出られなくなる」
「じゃあ、何も言わないほうがいいんですか」
「何も言わないことと、何も見ないことは違う」
先輩は便覧を閉じた。
「私は、透真が辞めたことを見なかったことにしたくなかった」
喉が詰まった。
引き止められたわけではない。必要とされていると、直接言われたわけでもない。なのに、見なかったことにしたくなかったという言葉だけが、私の中へ深く入ってきた。
退部届は、私にとって終わりを作るための紙だった。けれど玲先輩にとっては、私がそこにいた時間を雑に捨てないための紙だった。
「俺のために、花を押したんですか」
「透真のためだけではない」
「じゃあ、誰のためですか」
「私のためでもある」
先輩の声が、ほんの少し低くなった。
「何も言わずに去っていく人を、何人も見てきた。引き止めたこともある。理由を聞いて、続けるように説得したこともある。でも、相手の顔が少しずつ閉じていくのが分かった。残ってくれたとしても、それはその人が選んだ残り方ではなかった」
「先輩は、後悔してるんですか」
「している」
思いがけず、すぐに返ってきた。
「もっと早く気づけばよかったと思うこともある。あのとき声をかければよかったと思うこともある。でも、後悔を理由に相手を縛るのは違う。私が後悔しているから、透真は残れ、とは言えない」
「でも、残ってほしいとは思った」
先輩の指が止まった。
部室の外で、誰かが濡れた靴を引きずった。遠くから湊の声が聞こえる。雨で練習が中断されているのか、部員たちは道具を片づけているようだった。
玲先輩は、しばらく花を見ていた。
「思った」
その一言が、妙にまっすぐだった。
「透真がいなくなるのは、嫌だった」
私は顔を上げた。
先輩は私を見ていない。花の位置を直し、紙の端を揃えている。言葉にしたことを、すぐに手元の作業へ戻してしまう。その逃げ方は、私のものとは違っていた。自分の気持ちを消すためではなく、相手へ押しつけすぎないための逃げ方だった。
「だったら、言えばよかったじゃないですか」
「行かないで、と?」
「そうです」
「言って、透真が残ったら?」
「……残るかもしれない」
「私に言われたから?」
返事ができなかった。
言われたから残る。それは、私が一番避けたい形だった。誰かの期待に応えるために戻れば、また同じ場所で失敗したとき、今度は自分だけでなく先輩の言葉まで裏切ることになる。
玲先輩は、そんな私の沈黙を待った。
「言えなかったんですか」
「言わなかった」
「同じじゃないですか」
「違う。言えなかったのは、私の弱さ。言わなかったのは、透真の選択を私の言葉で上書きしたくなかったから」
先輩は便覧の表紙を撫でた。
「行かないで、と思った。でも、それを透真の足に結びつけたくはなかった」
胸の奥が、遅れて痛み始めた。
言葉にならなかった「行かないで」は、叫び声ではなく、教科書のページに押し込められていた。白い花弁の薄さの中に、先輩が言わなかった声が残っている。
私は教科書を開いた。
花を挟んだページを、先輩の前へ向ける。
「これ、返します」
「どうして」
「俺には重すぎるから」
「持てない?」
「持つと、戻らなきゃいけない気がする」
「戻りたい?」
また、同じ問いだった。
私は花を見た。乾いた薄さ。欠けた花弁。中心に残った淡い黄色。もう咲いているとは言えない。けれど、完全に失われたとも言えなかった。
「分かりません」
「そう」
「でも、分からないまま返すのは違うと思う」
「なぜ」
「先輩が、置いていったものを見てほしかっただけなら、俺も見たことを返さないといけない気がするから」
玲先輩の目が、初めてわずかに揺れた。
私は続けた。
「俺は、部活が嫌いになったから辞めたわけじゃないです。練習がきついのも、結果が出ないのも、進路が怖いのも本当でした。でも、それを全部まとめて、疲れたってことにした。そうすれば、誰にも責められないと思ったからです。できない自分を見られる前に、自分からいなくなれば、負けたことにならないと思った」
言葉にすると、喉が焼けるようだった。
「だから、退部は俺の選択です。でも、きれいな選択じゃない。逃げたくて切ったものがある。それを認めないまま戻るのも、忘れるのも、たぶん同じことになる。……先輩に戻れって言われたからじゃなくて、俺が自分で、何を残して、何を置いてきたのかを考えたいです」
玲先輩は、すぐには答えなかった。
雨上がりの風が部室へ入り、紙片を一枚だけ床へ落とした。先輩はそれを拾おうとしたが、途中で手を止めた。私が先にしゃがみ、紙片を拾った。
紙の裏には、薄い鉛筆の跡があった。
誰の字かは分からない。短い線と、消しきれなかった文字の残骸だけがある。
私はそれを便覧の上へ置いた。
「これも、残すんですか」
「残す」
「何が書いてあったか分からなくても?」
「分からないから、残す」
「先輩は、そういうのばっかりですね」
「透真も、似てきた」
「やめてください」
玲先輩は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったというより、笑いそうになるのを許した顔だった。
私は教科書を閉じた。花は、ページのあいだで音もなく押されている。けれど、今度はその薄さを、私を縛る重さとは感じなかった。
「持って帰っていいですか」
「最初から、透真のもの」
「捨てるかもしれない」
「それも透真が決める」
「……ずるいですね」
「そうかもね」
先輩は教科書を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて、視線だけを上げる。
「ただ、捨てる前に、もう一度だけ見て」
私は頷いた。
約束とは言えないほど小さな動きだった。それでも、先輩はそれを見届けた。
部室を出ると、雨は完全に上がっていた。グラウンドには薄い霧のような水蒸気が立ち、濡れた土から泥の匂いが上がっている。夏草の葉先には雫が残り、夕方の光を細く返していた。
バックネットの向こうから、湊の声が聞こえた。
「玲先輩、これ、どこに置きますか!」
「自分で考えて」
「またそれですか!」
湊の不満そうな声に、私は少しだけ笑った。
玲先輩は部室の中から出てこなかった。けれど、私が通路を歩き始めると、背中へ視線が触れた気がした。
校舎へ戻る途中、私は立ち止まった。
グラウンド脇の夏草から、青い匂いが立ち上がっている。私は息を止めずに、その匂いを吸い込んだ。濡れた土と、汗と、古い紙の匂いが混ざる。胸の奥に残っていた空白へ、ゆっくり沈んでいく。
部活へ戻るとは、まだ決めていない。
戻らないとも、決めていない。
ただ、今日の私は、帰るために足を動かしているのではなかった。置いてきたものを、置いてきたままにしないために、教科書を鞄へしまった。
ページのあいだで、白い花弁がかすかに擦れた。
その音は、返事というより、まだ返事を待っている音に聞こえた。
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