第7話 古い紙の匂い

廊下の中央で、私はしばらく動けなかった。
窓の外では、練習が続いている。誰かが走る足音。短く飛び交う声。ボールが金属に当たる、乾いた音。ひとつひとつは昨日まで何度も聞いてきたものなのに、部活をやめた翌日というだけで、すべてが自分の知らない場所から漏れてくる音に変わっていた。
帰らなければならない。
そう思って鞄の肩紐を握り直した。中で数学の教科書が傾く。押し花は、筆箱とノートのあいだに挟んだままだった。教科書へ戻すことも、捨てることもできず、私は花を壊さないためという理由で、ずっと手元に置いていた。
その理由が本当なのか、自分でも分からなかった。
花を壊したくないのか。花に触れたときの匂いを失いたくないのか。それとも、誰かが自分のためにしたことを、捨てるという形で終わらせるのが怖いのか。
「橘」
背後から声がした。
振り返ると、城戸玲が立っていた。
部室へ続く階段の脇で、窓から差し込む夕方の光を背負っている。練習のあとらしく、首筋に薄く汗が残っていた。熱を持ったユニフォームの布地が、彼女の身体の動きに合わせてかすかに擦れている。表情はいつもと変わらない。練習中、誰かのフォームを止めるときの、静かで逃げられない顔だった。
「……何ですか」
返事をするまでに、一拍かかった。
玲先輩は、私の鞄を見た。それから、手元へ視線を落とした。教科書は見えていない。それでも、何かを確かめるような目だった。
「少し、来て」
「帰るところなんで」
「知ってる」
「じゃあ、別に」
便利な言葉だった。傷ついていないようにも、怒っているようにも、何も考えていないようにも聞こえる。言った本人だけが、そこに何も入っていないことを知っている。
玲先輩は、それ以上言わなかった。
ただ、階段へ身体を向けた。
その動きが、命令より強かった。
私は帰る方向を向いたまま、靴底に残った砂の感触を意識した。上履きの裏に、昨日のグラウンドの土がまだ残っている。部活をやめたのに、靴だけが勝手にあちら側へ戻ろうとしているみたいだった。
先輩の背中を追って、階段を下りた。
下の階は、上の廊下より空気が重かった。窓の外から海風が入っているのに、壁と床にこもった熱が抜けきっていない。汗と土の匂いに、古い木の匂いが混ざっている。扉の隙間から流れてくる空気を吸っただけで、昨日の夜が戻ってきた。
退部届を置いた机。
誰もいない部室。
ファイルの下へ紙を差し込み、名前を書いたボールペンを机の上へ置いたときの、妙な手際のよさ。
私は、あのとき自分が何をしているのか、分かっていたつもりだった。
扉の前で足を止める。
玲先輩が振り返った。
「入らないの」
「入る理由がないので」
「理由があるから呼んだ」
「それ、先輩の理由でしょう」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。けれど、玲先輩は眉ひとつ動かさなかった。私の言葉を受け取ったというより、机の上へ一度置いて、裏側まで確かめているような顔をしている。
「そうかもね」
先輩は扉を開けた。
部室の中には、昨日と同じように道具が並んでいた。ボールの籠。記録用のノート。テーピングの箱。壁際には、部員の名前が書かれた札が掛かっている。私の札も、まだそこにあった。
名前の下に、小さな傷がある。練習中にボールが当たった跡だった。何度も触ったせいで、札の角は丸くなっている。
もう部員ではない。
そう思っているのに、その札を外されていないことが気になった。
玲先輩は部室の隅にある小さな机へ向かった。そこだけ、練習道具とは違うものが置かれている。角の擦り切れた古い国語便覧。退色した表紙の辞書。何枚かの白い紙片。細い茎や花弁の影が、紙のあいだから透けていた。
先輩は椅子に座り、便覧の背を指先で撫でた。
練習中、ボールを握る手とは別人のように静かな動きだった。
「座って」
「立ってます」
「そう」
先輩はそれ以上勧めなかった。
私は机から少し離れた場所に立った。座れば、ここへ戻ってきたことになる気がした。立っていれば、いつでも帰れる。そう思ったのに、足の裏は床へ貼りついたように動かなかった。
「これ、何ですか」
「便覧」
「見れば分かります」
「じゃあ、聞かなくていい」
玲先輩は便覧を開いた。
古い紙の匂いが、ゆっくり立ち上がった。乾いているのに、どこか湿った匂いがする。長い時間閉じられていた本だけが持つ、薄暗くて、少し甘い匂いだった。
便覧の中央には、白い紙が何枚も挟まっている。そのうちの一枚を開くと、押し花が現れた。黄色い花。紫の花。名前の分からない小さな草の穂。どれも平らに押されているのに、花弁の重なりや葉脈の線が消えていない。
私は、思わず一歩近づいた。
「作ってるんですか」
「たまに」
「何のために」
先輩は答える前に、辞書を開いた。
「残すため」
「残して、どうするんですか」
「どうもしない」
「じゃあ、何で残すんですか」
指先が止まった。
部室の外から、ボールが地面を跳ねる音が聞こえた。ひとつ、ふたつ。誰かが拾い上げ、また投げる。窓の向こうでは、部員たちが練習を続けている。
私はその音の中から、昨日まで自分が出していた声を探した。
探したくないのに、耳が勝手に拾ってしまう。
「なくなったものを、なくなったままにしないため」
玲先輩が言った。
声は低く、ほとんど独り言に近かった。
「それ、俺に言ってますか」
「言ってない」
「じゃあ、誰に」
「花に」
冗談ではなかった。
だから、余計に困った。
花を残す。なくなったものを、なくなったままにしない。その言葉が、退部届を置いてきた自分のことまで勝手に含んでいるように聞こえた。
「俺の教科書に入れたの、先輩ですよね」
玲先輩は私の顔を見なかった。机の上に散っていた紙片を、端から順に揃えている。
「そう」
「何で」
「花が余ったから」
「そんな理由で、人の教科書に入れますか」
「人による」
「俺の教科書だったら、入れていいんですか」
「透真のだから、入れた」
名前を呼ばれた瞬間、胸の内側がわずかに縮んだ。
部活の中で、先輩が私を名前で呼ぶときには、いつも何か用事があった。守備位置を変えるとき。練習の順番を伝えるとき。失敗したあと、もう一度やらせるとき。
名前には、その人間をそこへ置く力があった。
「退部届のこと、何も言わないんですね」
「言ってほしい?」
「そういう聞き方、ずるくないですか」
「そうかもね」
「責めるなら責めればいいじゃないですか。勝手に抜けたとか、最後までやれとか。そう言われたほうが、まだ分かりやすい」
自分でも驚くほど、言葉が続いた。
「昨日、退部届を置いて帰りました。誰にも相談してないです。勝手に決めて、勝手に終わらせました。だから、怒られても仕方ないと思ってます。なのに、何も言わないで、こんなの挟んで。引き止める気があるのか、もういらないって言ってるのか、分からないんですよ」
そこで息が切れた。
喉の奥が乾いていた。私は親指の爪をなぞりかけ、途中で手を握った。
玲先輩は、その手を見た。
「退部届を受け取ったとき、顔色が悪かった」
「疲れてただけです」
「そう」
「本当に」
「そういうことにするなら、それでいい」
「何ですか、それ」
「疲れていたのは本当でしょう。でも、それだけで紙を書く人の顔ではなかった」
胸の奥へ、細いものが刺さった。
練習で結果が出ない。名前を呼ばれる順番が少しずつ後ろへ下がる。進路希望調査の紙を前にしても、何を書けばいいのか分からない。部活を続ければ時間がなくなり、辞めれば今度は何もない自分が剥き出しになる。
その全部を、私は疲れたという一語に押し込めていた。
「先輩は、俺が何から逃げたと思ってるんですか」
玲先輩は、すぐには答えなかった。
窓の外で、誰かが走り出した。土を蹴る音が一定の間隔で続く。少し遅れて、佐伯の声が聞こえた。張り上げすぎて、最後の音が裏返っている。
先輩は辞書を閉じ、便覧の上へ重ねた。
「それを私が言ったら、透真の言葉じゃなくなる」
「でも、先輩は分かってるみたいな顔をする」
「分かってない」
「嘘でしょう」
「嘘をつくとき、私はもっと目を逸らす」
私は初めて、先輩の目を見た。
静かな目だった。けれど、何も映していないわけではない。目の下には薄い影があり、指先には小さな擦り傷がいくつも残っている。暑さの中でも表情を変えない顔の奥に、疲れを押し込めていることが分かった。
この人も、何かを隠したまま部長をしている。
そう思った。
けれど、そこへ踏み込む言葉は出てこなかった。
玲先輩は便覧を開き、私の教科書から取り出した白い花を紙の上へ置いた。花は机の上に乗ると、教室で見たときより小さく見えた。
乾いた花弁。短い茎。縮んだ葉。
それでも、青い匂いだけが残っている。
先輩は花の茎を指先でつまみ、花弁を折らないように位置を直した。
「触るなって言っただろ」
「今、触ってるのは先輩です」
「私なら壊さない」
「自信あるんですね」
「壊さないように見てるから」
その言葉が、胸の奥に残った。
見ている。
花だけではない。私の肩の力も、返事の遅れも、息の吸い方も。けれど、先輩はそれを見ているとは言わない。口にした瞬間、見守ることが監視や説得へ変わると知っているみたいだった。
先輩は花を教科書のページの中央へ置いた。
数字と記号の並ぶ、二次関数のページだった。
勉強の本の中に、土と汗と夏草の記憶が横たわる。進路を決めるための紙と、昨日まで走っていた場所の欠片が、同じ紙の上に置かれている。
「ここでいい」
先輩が言った。
私は何も答えなかった。
教科書を閉じる音が、部室の中に落ちた。
ぱたん。
退部届を二つ折りにしたときの音に似ていた。
「これ、返すんですか」
「透真の教科書だから」
「花だけじゃなくて、意味も返してくださいよ」
「意味は自分でつけるもの」
「先輩が挟んだのに」
「挟んだのは私。どう受け取るかは透真」
私は教科書の表紙を見下ろした。
擦れて白くなった角。薄い砂の跡。何度も開いたせいで、中央だけ少し膨らんでいる。
「引き止めないんですか」
「止めてほしいの?」
今度は、すぐに言い返せなかった。
止めてほしい。
そう言えば、何かが決まってしまう気がした。止められたから残る。言われたから戻る。そんな形でしか立てない自分を、認めることになる。
けれど、止めてほしくないと言うのも嘘だった。
誰にも何も言われず、誰の手も届かないまま、部活から消えてしまうのは怖い。
玲先輩は、私の答えを待った。
外では練習の音が続いている。靴が土を擦り、掛け声が風にほどける。私は教科書を両手で持ったまま、押し花の位置を確かめた。
白い花弁は、ページに押しつぶされている。
けれど、折れてはいない。
「……分かりません」
やっと出た声は、自分のものなのにひどく幼く聞こえた。
玲先輩は、わずかに目を細めた。
「それでいい」
「よくないでしょう」
「分からないまま、分かったふりをするよりは」
「先輩は、何でも分かってるみたいに言いますね」
「分からないことを、分からないまま置いておくのは得意」
「俺には無理です」
「知ってる」
その言葉に、腹が立った。
「知ってるって、何を」
「透真は、終わらせるときだけ早い」
胸の奥を、細い針で突かれたようだった。
退部届を書いた夜のことを思い出す。名前を書いた。紙を折った。ファイルの下へ置いた。あまりにも手際がよくて、自分が本当に苦しんでいたのか疑うほどだった。
続けることには、毎日、明日の分の覚悟が要る。
終わらせることには、一度だけ手を動かせばいい。
私は、その一度に逃げ込んだ。
「……じゃあ、先輩はどうすればよかったと思ってるんですか」
「何が」
「俺を。止めるとか、話を聞くとか。何か」
「透真が話したくないのに、聞き出す?」
「部長なら、それくらい」
「部長だから、しない」
「責任放棄じゃないですか」
「そう思うなら、そう思えばいい」
「俺が勝手に辞めるのを見て、花一輪挟んで終わりですか。それで先輩は満足なんですか」
声が大きくなった。
玲先輩は怒らなかった。怒らないまま、私の言葉を受け止めている。そのことが、怒鳴られるより苦しかった。
先輩は辞書へ手を置いた。
「満足なんてしてない」
初めて、声の底に揺れがあった。
「辞める人を見送るたび、何か言えばよかったと思う。もっと早く気づけばよかったとも思う。でも、相手がもう決めたことを、私が正しい形に直して渡すことはできない。残ることが正しいとも限らない。続けることが、その人を壊すことだってある。だから、私は止めない」
「じゃあ、何で花なんか」
「止めないことと、何も見ないことは違うから」
先輩の指が、便覧の紙面をゆっくり撫でた。
「透真が置いていったものを、置いていったままにしたくなかった。退部届は紙一枚で終わる。でも、透真がここにいた時間まで、紙一枚にできるとは思わなかった」
私は教科書を見下ろした。
白い花弁の中心に、淡い黄色が残っている。もう咲いているとは言えない。けれど、死んでいると言い切るには、匂いが残りすぎていた。
「……先輩は、こういうの、いつから作ってるんですか」
「一年の頃から」
「そんな前から?」
「花は毎年咲くから」
「それだけですか」
「それだけで十分」
「俺には、まだ分からないです」
「分からなくていい」
「またそれですか」
「分からないものを、すぐに分かったことにすると、あとで困る」
その言葉は、私の中に残った。
花を押しつぶす。紙に挟む。重しを置く。時間をかけて乾かす。急げば形が崩れる。強く押しすぎれば、匂いまで消える。
玲先輩が扱っているのは、花だけではないのかもしれなかった。
私は教科書を受け取った。
先輩の指が離れるまでに、一拍あった。
「持って帰って」
「捨ててもいいんですか」
「透真のものだから」
「捨てるかもしれない」
「それも、透真が決める」
「ずるいですよ」
「そうかもね」
同じ言葉なのに、さっきとは違って聞こえた。
ずるさの中に、私を縛らないための距離がある。戻れとも、戻るなとも言わず、ただ自分の選択を自分で見ろと、教科書ごと返されている。
部室を出る。
廊下の空気は、少し冷たくなっていた。窓の外の空が暗い。遠くの海のほうから、低い雲が流れてきている。グラウンドの土はまだ熱を持っているのに、風だけが湿っていた。
校舎裏の草むらから、濡れる前の青い匂いが立ち上がる。
階段を上がる途中、私は足を止めた。
手の中の教科書が重い。
数学の教科書は、もともとこんな重さだっただろうか。紙と表紙と、押し花一輪。それだけのはずなのに、昨日置いてきた退部届より、ずっと重かった。
窓の向こうで、玲先輩が部室の机を整えている。便覧と辞書を重ね、角を揃え、落ちた紙片を拾っている。こちらを見ているのかは分からない。
私は呼びかけなかった。
代わりに、教科書を開いた。
白い花は、二次関数のページに押されていた。花弁の中心に残った淡い黄色が、夕方の光を受けてかすかに見える。乾いた薄さの奥に、まだ青い匂いがある。
私はその匂いを吸い込みかけて、途中で息を止めた。
止めたまま、帰る方向へ一歩だけ足を出す。
それでも、廊下の先から聞こえる掛け声に、耳だけは振り向いていた。
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