第6話 進路室の沈黙

翌朝、教室へ入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
白い紙の右上に、瀬尾先生の名前が印刷されている。紙の端はきれいに揃えられ、折り目も汚れもなかった。進路希望調査票と、提出期限の一覧。昨日までなら、見ただけで鞄の底へ押し込みたくなる紙だった。
私は椅子を引き、座る前にそれを裏返した。
裏には何もない。
何もないことを確かめてから、紙を表へ戻した。数学の教科書を開くと、押し花がいつものページにいた。白い花弁は、昨日より少し透けて見えた。指先で紙の端を揃える。花には触れない。
「朝から、紙とにらめっこ?」
みのりが隣の席へ鞄を置いた。
「進路のやつ」
「うわ、来たね。高校三年生の現実」
「大げさ」
「透真、紙を見るときだけ顔が大人っぽくなるよ。普段は部活を辞めた中学生みたいなのに」
「意味が分からない」
「分からないなら、今日の放課後、瀬尾先生のところ行ってきな」
みのりは私の返事を待たず、自分の席へ戻った。私は紙の右上へ目を落とした。提出期限は三日後。希望欄には、第一希望、第二希望、未定、と三つの枠がある。
未定だけが、最初から私のために用意された場所のように見えた。
授業中、紙は机の右端に置いた。教師が黒板へ書く文字を写しながら、何度もその紙を見た。第一希望。第二希望。未定。どこへ進むかを尋ねる欄なのに、私には、どこから逃げるかを決めろと言われているようだった。
部活を辞めたことで、放課後の時間は空いた。
空いたはずなのに、何かを考える時間にはならなかった。帰宅してから机に向かっても、参考書を開いて数分すると、グラウンドの音が耳の奥から戻ってくる。冷蔵庫のモーターの音に混じって、金属を打つ音がする。シャワーを浴びれば、湯気の向こうに汗で濡れたユニフォームの首元を思い出す。
部活を切り離せば進路に集中できる。
そう考えていた。
実際には、切り離した場所の匂いが、空いた時間へ流れ込んできただけだった。
放課後、私は進路指導室の前に立った。
廊下の窓から差す光は、昼よりも黄色くなっていた。遠くのグラウンドでは、練習の始まった部員たちが声を掛け合っている。窓は閉まっているのに、汗と土の匂いが薄く流れてきた。私は鼻から短く息を吸い、すぐに吐いた。
扉を二度叩く。
「どうぞ」
中から瀬尾先生の声がした。
扉を開けると、紙の匂いが濃くなった。棚には進路資料のファイルが並び、背表紙の高さが一つずつ揃えられている。机の上には朱色のペンが一本だけ置かれていた。窓は少し開いていて、カーテンの隙間から校舎裏の白い光が差し込んでいる。
瀬尾先生はファイルを閉じ、私を見た。
「座って」
「はい」
椅子に座る。背もたれが固く、肩の力が抜けない。
先生はすぐに話さなかった。
机の上で、進路希望調査票の端を揃える。紙と紙が擦れる音が、部室で聞いた押し花の紙片の音に似ていた。私は膝の上で手を組み、親指の爪をなぞりかけてやめた。
「この紙、見ましたか」
「見ました」
「記入できそうですか」
「まだ」
「提出期限は」
「三日後です」
「期限は知っている」
「はい」
そこで沈黙が落ちた。
先生は私の顔を見ていた。正確には、顔を見ているというより、私がどこへ視線を逃がすかを見ているようだった。私は机の角へ目を向けた。木の表面に、小さな傷がいくつもある。誰かが何年も使い続けた机の傷だった。
「まだ決めていない、ということですね」
「そうです」
「決めるつもりはありますか」
「あります」
「いつまでに」
「……考えます」
声にした瞬間、自分で嫌になった。
考える。便利な言葉だった。まだ決めていないことを、決める気があるように見せられる。逃げているだけなのに、前向きな姿勢のふりができる。
先生は朱色のペンを手に取った。書き込むのかと思ったが、紙には触れず、ペンを机の上で横に置き直した。
「橘さんは、昨日、部活を辞めたそうですね」
「はい」
「顧問から聞きました。退部届は受理されています」
「分かっています」
「部活を辞めたことについて、何か話したいことはありますか」
「ありません」
答えは早かった。
早すぎたのか、先生の視線が一度だけ私の右手へ落ちた。爪をなぞる癖は、いつの間にか始まっていた。
「今の返事は、話したくないという意味ですか。それとも、話すことがないという意味ですか」
「同じじゃないですか」
「違います。話したくない人は、話題を選んでいる。話すことがない人は、自分の中に材料がない。橘さんは、どちらですか」
私は黙った。
窓の外から、グラウンドの掛け声が聞こえた。短い返事のあと、複数の靴が一斉に土を踏む。音の間隔で、練習の内容が分かる。走り込みが始まったらしい。私は見ていないのに、誰が先頭にいるかまで想像できた。
そのことが、腹立たしかった。
「部活を辞めたのは、疲れたからです」
「はい」
「練習時間も長かったし、成績も落ちてきたし、進路のことも考えないといけないので」
「はい」
「だから、続けるより辞めたほうがいいと思いました」
「そうですか」
先生は否定しなかった。
否定されないと、言葉が宙に浮いたままになる。正しいとも間違いとも言われず、私の前に置かれる。そのままでは、拾って隠すこともできない。
「先生は、何か言わないんですか」
「何を言えばいいでしょう」
「部活を続けたほうがいいとか。辞めるのは早いとか」
「私は、橘さんの生活を代わりに決められません」
「でも、先生でしょう」
「教師だからこそ、決めてはいけないことがあります」
先生は紙の端を揃えた。
「続けることが正しい場合もあります。辞めることが必要な場合もあります。問題は、どちらを選んだかではなく、選んだ理由を自分で扱えるかどうかです」
「理由なら、今言いました」
「疲れた。時間がない。成績が落ちた。進路がある。どれも理由にはなります。ただ、理由として便利すぎる」
胸の奥で、何かが硬くなった。
「便利って何ですか」
「誰にでも説明できるからです。相手も反論しにくい。疲れたなら休めばいい。時間がないなら減らせばいい。進路があるなら仕方がない。そう言われて終わる。けれど、その言葉を自分に向けたとき、橘さんは納得できていますか」
「納得してます」
「では、なぜ、今ここで指を隠したのですか」
私は手を見た。
親指の爪の脇が赤くなっている。いつの間にか、皮膚を擦っていたらしい。私は手を膝の下へ入れた。
「癖です」
「そうですか」
先生はそれ以上追及しなかった。
その引き際が、玲先輩と少し似ていた。踏み込むところまで踏み込んで、崩れる寸前には一歩引く。ただし、逃げ道を完全には塞がない。塞がない代わりに、どこへ逃げたかを自分で分からせる。
「進路について、家では何か話していますか」
「母が気にしています」
「何を」
「家計とか、学費とか。帰る時間とか」
「お母さんらしいですね」
先生はファイルの中から、一枚の資料を取り出した。県内の専門学校と大学の費用、通学時間、入試日程が細かく並んでいる。表の数字は小さく、欄が多い。私はその紙を受け取った。
「これは、決めるための資料ですか」
「比べるための資料です」
「比べても、決められないと思います」
「決めるために比べる必要はありません。決められない理由を、形にするためです」
「理由を形にして、どうするんですか」
「その理由が、自分のものかどうかを確かめる」
私は資料へ目を落とした。
入学金。授業料。交通費。奨学金。数字が並んでいる。どれも現実だった。母が冷蔵庫に貼った予定表も、食卓で帰宅時間を尋ねる声も、きっとこういう数字の上に乗っている。私は部活を辞めれば、その分だけ時間もお金も空くと思っていた。けれど、空いた時間に進路を決める責任が残ることまでは考えていなかった。
「部活を辞めれば、進路のことに集中できると思ってました」
言ってから、先生の顔を見た。
「集中できていますか」
「……できてないです」
「なぜでしょう」
「分かりません」
「本当に?」
その問いに、すぐ答えそうになった。分かりません。いつもの返事。けれど、口に出る直前で止めた。
窓の外から、また掛け声が届いた。今度は湊の声だった。少し裏返っている。失敗したあとに、無理に声を張っているときの声だ。私はその音を聞き分けてしまった。
「部活を辞めたら、次は進路だけが残ると思ったんです」
先生は黙っている。
「部活を続けているあいだは、練習があるから、進路のことを考えなくてもよかった。考えたくないわけじゃなくて、考えても何も決まらないから、時間がないことにしていた。部活が終われば、進路を考えるしかなくなると思った。だから、先に辞めました」
言葉にすると、思っていたより単純だった。
単純だからこそ、認めたくなかった。レギュラー争いに負けたこと。努力しても結果が出ない自分を見られること。将来のことを聞かれて、何も答えられないこと。その全部から一度に離れたかった。
私は、部活を辞めたのではなく、部活と進路を一緒にしたまま、丸ごと切り落とそうとした。
「逃げたんです」
言葉が落ちた。
進路指導室の紙の匂いが、急に強くなった。自分の声が、白い紙の上に書かれた文字のように見えた。消しゴムで擦っても、紙が薄くなるだけで、跡は残る。
「逃げたくて、辞めました。疲れていたのも本当です。時間がなかったのも本当です。でも、一番嫌だったのは、できない自分を毎日見られることでした。練習しても選ばれない。進路を聞かれても答えられない。そういう自分を、部活にいる限り隠せないから、先にいなくなれば、負けたことにならないと思った」
先生は、すぐには返事をしなかった。
その沈黙は、玲先輩のものとは違っていた。玲先輩の沈黙が、目の前に立たされるためのものだとしたら、先生の沈黙は、自分の言葉を自分の耳で聞き直すためのものだった。
「今の言葉は、退部を取り消す理由になりますか」
「なりません」
「なぜ」
「辞めたことが逃げだったとしても、戻れば全部解決するわけじゃないからです」
声にしたあと、胸の奥がわずかに開いた。
「戻ったら、また選ばれないかもしれない。進路のことも残る。だから、戻るかどうかは別に考えます。でも、辞めた理由を『疲れたから』だけにしておくのは、違うと思います」
先生は初めて、少しだけ頷いた。
「それで十分です」
「十分なんですか」
「今日のところは。進路は、今日一日で決めるものではありません。ただし、決めないままにしておくことも、選択の一つです。その場合は、何を先送りにしたのかを記録しておいてください」
先生は朱色のペンを取り、進路希望調査票の未定の欄を指で示した。
「未定に丸をつけても構いません。ただ、未定と書いたら、次にいつまでに何を調べるかを書いてください。曖昧さを選ぶなら、曖昧なまま放置しないことです」
「……はい」
「それから、部活についても同じです。戻る、戻らない、別の形で関わる。今すぐ決めなくてもいい。ただ、決めていない状態を、終わった状態と取り違えないでください」
その言葉が、押し花の薄さと重なった。
終わったように見えても、匂いが残っている。平らに押されても、形が消えない。私は鞄の中の数学の教科書を思い出した。
「先生は、辞めることを悪いと思わないんですか」
「悪いかどうかで考える必要はないと思います」
「でも、周りには迷惑がかかります」
「かかることはあります」
「それでも?」
「それでもです。共同体にいる以上、誰かの不在は影響を残します。だからといって、影響を残さないために自分を壊してまで残る必要はありません。残る人にも、去る人にも、それぞれ引き受けるものがあるだけです」
先生は資料を閉じた。
「橘さんが今すべきなのは、部活に戻ることでも、きれいに忘れることでもありません。自分が何を恐れていたのかを、もう一度、別の言葉で書いてみることです」
「別の言葉で?」
「疲れた、以外の言葉で」
私は紙を受け取った。
進路希望調査票の余白に、朱色のペンで小さな線を引く。先生はそこへ何も書かなかった。書く場所だけを示して、ペンを私の前へ置いた。
私はしばらく迷い、それからシャープペンシルを取り出した。
選ばれない自分を、見られ続けるのが怖かった。
そう書きかけて、手が止まる。
その下へ、もう一行加えた。
何も選べない自分を、知られるのが怖かった。
書き終えると、文字がひどく幼く見えた。けれど、消さなかった。
進路指導室を出るころには、廊下の光がさらに薄くなっていた。窓の外では、夕立が始まっている。大粒の雨がグラウンドの土を叩き、乾いた表面を一気に濃く染めていく。雨の匂いと泥の匂いが、開いた窓から校舎へ流れ込んできた。
私は昇降口へ向かうつもりで歩き出した。
だが、階段の手前で足が止まった。
雨の向こうから、部員たちの声が聞こえている。練習を中断したのか、誰かが用具を運ぶ音がする。金属の音。濡れた靴が床を打つ音。玲先輩の低い指示。湊の大きな返事。
進路希望調査票を鞄へしまう。
未定の欄には、まだ何も書いていない。余白に残した二行だけが、紙の上で乾きかけていた。
私は階段を下りた。
校舎裏へ続く通路は、雨で薄暗い。軒下から落ちる水が、一定の間隔で地面を叩いている。グラウンド脇の夏草は濡れ、葉の先から細い雫を落としていた。泥と草の混じった匂いが、胸の奥まで入り込んでくる。
私は息を止めなかった。
バックネット裏へ向かう道の途中で、足元に白いものが落ちているのを見つけた。
花びらだった。
雨に濡れたコンクリートの上で、薄い白が一枚だけ貼りついている。拾おうとしてしゃがみ込み、指先を伸ばす。濡れているせいか、乾いた押し花より柔らかい。
拾った花びらを、掌にのせた。
誰が落としたのかは分からない。玲先輩が摘んだものか、風に運ばれたものか、それとも誰かがロッカーの上へ置いたものが雨で流れてきたのか。
分からないまま、私は花びらを捨てなかった。
バックネットの向こうで、湊がまた声を上げた。失敗したらしい。続いて、玲先輩の声がした。何を言ったのかは聞き取れない。ただ、湊が一度黙り、それからもう一度、返事をする。
私はネットの外側に立った。
帰ることもできる。部室へ行くこともできる。どちらも、まだ決めなくていい。
それでも、雨に濡れた草の匂いの中で、私は初めて、自分の迷いを「何も決めていない」とだけ呼ばずに済んだ。
掌の白い花びらは、水を吸って少し重くなっていた。
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