5話 後輩の声が刺さる

放課後の廊下は、練習へ向かう部員たちの気配で騒がしかった。

教室の前を、ユニフォーム姿の一年生が二人、笑いながら走っていく。床に落ちた砂が靴底に踏まれ、細かな音を立てた。窓の外からは、すでにグラウンドへ出た誰かの声が聞こえている。短い指示。返事。金属の柵にボールが当たる、乾いた音。

私は鞄を肩へ掛け直した。

部活の時間が始まる前に、校舎を出るつもりだった。昇降口まで行けばいい。靴を履き替えて、駅へ向かう。今日は六時までに帰ると、朝、母に言った。言ったというより、言わされたに近かったが、言葉にした以上は守るべきだった。

廊下を歩く。

部室のある棟を避けるため、いつもより窓際へ寄った。壁に背をつけたまま進めば、グラウンドから流れてくる匂いを少しは遠ざけられる気がした。

実際には、無理だった。

汗の匂い。土の熱。水道の蛇口からこぼれた水が、乾きかけたコンクリートに残す湿り気。熱を持ったユニフォームの布が、身体に貼りついて離れないときの、あの不快な感触まで、鼻と皮膚が勝手に思い出してしまう。

私は歩く速度を上げた。

そのとき、バックネット裏から打球音が響いた。

カン、と高く、少し外れた音だった。

続けて、誰かの靴が土を擦る。踏み込みが早い。身体の向きが遅れている。打ったあとに腕が残っている。

音だけで、誰の動きか分かった。

「先輩!」

背後から、聞き慣れた声が飛んできた。

振り返らなくても、佐伯湊だと分かった。声が大きい。廊下の端まで届くように出すくせがある。入部したばかりの頃、挨拶だけで顧問に「声はいい」と褒められていた。そのたびに、湊は自分の声が技術の一部であるみたいな顔をしていた。

「先輩、待ってください!」

待つつもりはなかった。

けれど、足は止まった。

湊が追いついてくる。息は少し上がっていた。ユニフォームの胸元を手の甲で乱暴に拭い、首筋に残った汗を肩でこする。布地は熱を含んでいて、走ってきた身体から立ちのぼる匂いが、廊下の空気へ混ざった。

「お疲れさまです」

「……おう」

返事をしたあとで、私は目を逸らした。湊は私の隣に並んだ。以前なら、そのまま部室まで一緒に歩いていた距離だった。肩が触れそうで触れない。先輩後輩というより、少し先を歩く人間の横へ、遅れないようについてくる距離。

今は、その近さが妙に重かった。

「先輩、帰るんですか」

「そうだけど」

「部室、寄らないんですか」

「もう部員じゃないから」

「そうでした」

湊は素直に頷いた。

その素直さが、かえって腹立たしかった。気を遣われるよりはましだと思うのに、気を遣われないことにも傷つく。自分で辞めると決めたくせに、周囲がその決定を受け入れると、置いていかれたような気がした。

窓の外では、選手たちがグラウンドへ散っていく。夏の終わりに近づいているはずなのに、夕方の光はまだ焦げつくほど強い。土の上に伸びた影だけが、少しずつ長くなっていた。

「先輩がいなくて、まだ変です」

湊は前を向いたまま言った。

短い言葉だった。

なのに、喉の奥へ硬いものが落ちたように、私はすぐに返事ができなかった。

「……慣れるだろ」

「慣れると思います。でも、まだ変です」

「同じこと言ってるじゃん」

「同じです。今はそれしか言えないので」

湊は眉を寄せた。考えているというより、言葉を探すときの顔だった。足先が落ち着かず、歩きながら何度も床の同じ場所を踏んでいる。

「今日、守備の順番が変わりました。俺が先輩のいたところに入ったんですけど、全然違いました」

「当たり前だろ。俺とお前じゃ身体が違う」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういう意味」

「先輩がいたところに立つと、次にどこへ行けばいいか分からなくなります」

私は足を止めた。

湊も止まる。窓から入った風が、廊下の掲示物の端をぱたぱたと揺らした。紙の擦れる音が、誰かの小さな呼吸のように続いている。

「場所が分からないなら、聞けばいいだろ」

「聞きました。玲先輩に」

「何て言われた」

「自分で考えろって」

「先輩らしいな」

「でも、考えても分からないです。俺、先輩がいるときは、先輩の動きを見てから動いていたので」

胸の奥が、薄く痛んだ。

湊は、私のほうへ顔を向けた。汗で前髪が額に貼りついている。まっすぐな目だった。下手なものを下手なまま見せる目。自分が足りないことを隠さず、その代わり、足りないから教えてほしいと正面から差し出してくる目。

「先輩が辞める前の日、俺、もっと聞けばよかったです」

「何を」

「何で、あんなに急に帰ったのか」

「急じゃない。前から決めてた」

「嘘です」

即座に返されて、言葉が詰まった。

「先輩、嘘つくとき、右の肩が上がります」

「上がってない」

「今、上がりました」

反射的に肩を下げた。湊はその動きを見ていた。部活では人のフォームを真似ることに熱心なくせに、こういうところだけは妙に細かい。

「俺、先輩のこと、もっと強い人だと思ってました」

「何それ。急に失礼だな」

「悪い意味じゃないです。練習で失敗しても、顔に出さなかったし、誰かがミスしたら先に動いてたし。だから、ずっと続ける人なんだと思ってました」

「勝手に決めるなよ」

「はい。だから、今、違ったんだと思ってます」

「何が」

「先輩も、辞めるんだなって」

その言葉は大きくなかった。けれど、廊下を行き交う音の中でも、はっきり聞こえた。

辞める。

自分で何度も口にしてきた言葉なのに、湊の声で聞くと、別のものになった。自分が選んだ行動ではなく、誰かから見た姿として返ってくる。そこには、格好よさも決意もなく、ただ、いなくなった人間の事実だけがあった。

「辞めたよ」

「はい」

「だから、もういいだろ」

「よくないです」

湊はそこで初めて、声を少し荒らげた。

「よくないです。先輩は、もう部員じゃないから関係ないみたいに言いますけど、俺には関係あります。先輩が教えてくれたこと、まだ使ってるし、先輩が書いたメモも捨ててないです。今日だって、打つ前に先輩が言ってたことを思い出しました。軸を残せって。身体を先に開くなって。なのに、先輩は何も言わずにいなくなって、俺たちはそのあとを普通に続けろってことですか」

「そんなつもりじゃない」

「じゃあ、どんなつもりですか」

答えられなかった。

どんなつもりだったのか。疲れていた。結果が出なかった。進路もあった。全部、本当だ。けれど、それだけなら、退部届を置いて帰ったあとに、教科書の押し花を何度も開いて確認したりはしない。ロッカーの上の花びらを拾ったり、バックネット裏で練習を覗いたりもしない。

私は、終わらせたかった。

同時に、終わったことにされたくなかった。

その二つを、別々のものとして扱えないまま、ここに立っている。

「……悪かった」

ようやく言うと、湊は眉を寄せた。

「何がですか」

「勝手に抜けたこと」

「それだけですか」

「他に何がある」

「分かりません。だから聞いてます」

湊は、そこで視線を落とした。足元の床には、グラウンドから運ばれた砂が細く溜まっている。彼はそれを靴の先でなぞりながら、言葉を続けた。

「俺、先輩に戻ってきてほしいって言おうと思ってました」

心臓が一度、大きく鳴った。

「でも、言ったら、先輩は戻るんですか」

「……戻らない」

「ですよね」

「何で聞いた」

「確認です。俺、先輩に戻ってきてほしいです。でも、戻ってきてくださいって言って、先輩が戻ったら、それは先輩が決めたことじゃない気がします」

湊は不器用に言葉を繋いでいた。ひとつ言うたびに、次の言葉が見つからず、けれど黙ってしまうと余計に伝わらないと思っているらしい。大きな声で話すくせに、肝心なところでは声が裏返る。

「俺は、続けたいです」

その一言だけは、迷いなく出た。

「上手くなりたいし、試合にも出たいです。先輩みたいになりたいって、最初は思ってました。でも、先輩みたいに辞めたくないって思うようになりました」

「それ、俺を責めてる?」

「違います。責めるなら、もっと上手に言います」

「上手に言えないだろ」

「はい。だから、そのまま言います。俺は下手です。今日も打てなかったし、守備も遅れたし、先輩がいた場所に立っても何もできませんでした。でも、続けたいです。できないから、続けたいです」

湊はまっすぐ私を見た。

「先輩は、できないから辞めたんですか」

喉が詰まった。

できないから。そう言われると、否定したくなる。自分はそんな単純な理由で辞めたわけじゃない。疲れも、進路も、レギュラー争いも、積み重なっていた。けれど、もっと底のほうには、できない自分を見られ続けることへの怖さがあった。

「……分からない」

「先輩も分からないんですか」

「分からないものは分からない」

「俺、その返事、嫌いです」

湊は即答した。

「先輩がずっとそれを言うから、俺たちは何も聞けないままになります。分からないなら、分からないって言ってください。でも、知らないとか、関係ないとか、終わったとか、そういう言葉で閉じないでください。俺はまだ、先輩に聞きたいことがあります」

胸の奥に、押し込めていた紙が一枚ずつ開かれていくようだった。

湊は鞄から、薄い練習ノートを取り出した。表紙は土でくすみ、角が擦れている。何度も開いたせいで、背の部分が少し膨らんでいた。

「これ、見てください」

「何」

「先輩が前に書いたところ」

ノートを開く。

ページの中央に、私の字が残っていた。

打撃の練習について、何気なく書いた短いメモだった。軸足を残す。打つ前に焦らない。身体が先に逃げると、目も逃げる。

書いたときは、湊がここまで何度も読むとは思っていなかった。練習の合間に頼まれ、面倒だから適当に書いたつもりだった。だが、その下には湊の字で、いくつもの書き込みが増えている。

できた日。できなかった日。焦ったときの感覚。足の裏に残った土の重さ。

文字は大きく、ところどころ線が曲がっていた。それでも、ページの隅から隅まで、続けようとした跡が残っていた。

「この前、先輩が書いたところ、やっと少し分かりました」

「そうか」

「でも、分かるまで時間かかりました」

「普通だろ」

「先輩は、すぐ分かってました」

「俺だって、すぐじゃない」

「でも、すぐ分かったみたいに言いました」

私はノートから目を上げた。

湊は、少し困った顔をしていた。

「先輩は、できる人みたいに話すから。俺、ずっと、先輩は迷わないんだと思ってました」

「そんなわけないだろ」

「じゃあ、迷ってたんですか」

また答えられなかった。

グラウンドから、玲先輩の声が聞こえた。短く、低い指示だった。続いて、湊の名前を呼ぶ声。湊は振り返りかけたが、すぐには動かなかった。

「行けよ」

「はい」

ノートを閉じる。

けれど、湊はまだそこにいた。

「先輩」

「何」

「先輩が辞めてから、俺、先輩のことを悪く言う人がいると、少し嫌です」

「誰も悪く言ってないだろ」

「言ってないです。でも、いなくなった人のことって、だんだん話さなくなるじゃないですか。俺、それが嫌です」

湊はノートの表紙を親指で擦った。

「先輩がいた時間を、俺が覚えててもいいですか」

馬鹿みたいな質問だった。

なのに、私はすぐに笑えなかった。

「勝手にしろよ」

「はい。勝手にします」

「俺が辞めたことも?」

「それもです」

「じゃあ、俺が戻らなくても?」

湊は少し黙った。

初めて、返事を急がなかった。いつもなら思いついたことをすぐ口にするのに、今回は床の砂を見つめたまま、長く考えている。足先も動かなかった。

「戻ってきてほしいです」

やがて、湊は言った。

「でも、戻らなくても、先輩が辞めたことをなかったことにはしません。俺が続けることと、先輩が辞めたことは、たぶん別です。先輩がいなくても練習は続きます。でも、先輩がいたから今の俺がいることまで、なくなるわけじゃないです」

その言葉は、押し花に似ていた。

薄く、乱暴に扱えば崩れてしまいそうなのに、そこに置かれると動かせない。誰かの手が残した形が、言葉より先にこちらへ届いてくる。

私はノートのページを閉じる湊の手を見た。指の関節に土が入り込んでいる。爪の際は黒く、手のひらには新しい擦り傷があった。下手でも、うまくいかなくても、何度も同じ動きを繰り返した手だった。

「そのメモ、まだ使ってるのか」

「はい」

「じゃあ、少し書き足す」

「いいんですか」

「見せろ」

湊がノートを開いた。

私はペンを借り、書き込みの下へ新しい言葉を加えた。

焦ったら、足元を見る。

書いてから、ペンを止めた。以前なら、もっと具体的な技術を書いただろう。身体の向きや腕の使い方。けれど、今の湊に必要なのは、そういうことだけではない気がした。

「これ、どういう意味ですか」

「お前、焦ると上ばかり見るから」

「先輩もですか」

私はペンを返した。

「俺は、見ないようにしてた」

湊は書かれた文字を見つめた。分かったのか、分からないのか、顔には出ていない。ただ、ノートを閉じる手つきが、いつもより丁寧だった。

「先輩」

「今度は何だよ」

「また、教えてもらえますか」

「部員じゃないから、毎日は無理」

「毎日じゃなくていいです」

「気が向いたら」

「先輩、気が向くの遅いですよね」

「うるさい」

「でも、来てくれるなら、俺、続けます」

「来ることと、お前が続けることは関係ないだろ」

「俺には関係あります」

湊はそう言って、今度こそグラウンドのほうへ走っていった。

廊下に、汗と土の匂いが残った。

私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。湊の背中が角を曲がり、見えなくなる。遠くで玲先輩が何か言い、湊が大きな声で返事をする。返事は少し裏返っていたが、すぐに二度目の声が重なった。

今度は、さっきよりもまっすぐだった。

私は手の中に残った練習ノートの紙の感触を思い出していた。あのページには、私が書いた短い助言と、湊が続けてきた時間が並んでいる。自分では何気なく置いたものが、誰かの手元で何度も開かれ、別の意味を持っていた。

退部届も、同じなのだろうか。

私が終わらせるために置いた紙を、誰かは別の形で受け取った。怒りでも、説得でもなく、花びらやノートや、名前を呼ぶ声として。

廊下の窓から、風が入ってきた。

グラウンド脇の夏草が揺れ、青い匂いがした。私は反射的に息を止めかけたが、今度は止めなかった。胸いっぱいに吸い込むほどではない。ただ、逃げるために浅くするのをやめた。

鞄の中で、数学の教科書がわずかに傾いた。

押し花は、まだページのあいだにいる。

私は昇降口へ向かうはずだった足を、グラウンドの見える窓のほうへ向けた。戻るつもりはない。少なくとも、今すぐ部員として立つつもりはない。

それでも、湊がもう一度打つ音を聞くまで、帰ることができなかった。

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