4話 白い薄さの残る朝

翌朝、数学の教科書を開く前に、私は一度、机の周囲を見回した。

誰も見ていない。窓際では、眠そうな男子が頬杖をつき、前の席では女子が鏡を覗き込んでいる。三枝みのりはまだ来ていなかった。教室の空気は、昨日までと同じように、授業が始まる前の薄いざわめきで満たされている。

私は鞄から教科書を出した。

表紙の角を親指でなぞる。擦れて白くなった部分に、指の腹が引っかかった。

開く。

白い押し花は、昨日と同じページにいた。

花弁は二次関数の罫線に沿うように平らになり、中心の淡い黄色だけが、紙の白さからかろうじて浮かんでいる。指を近づけると、乾いた草の感触がよみがえった。もう触れていないのに、指先へ細い茎が貼りついているようだった。

鼻を近づけるまでもない。紙の匂いの奥に、青いものが残っている。

グラウンド脇の夏草。照り返した土。水道の蛇口からこぼれた水。練習が終わったあと、熱を持ったユニフォームの首元にこもる汗の匂い。

私は息を短く吸い、すぐに吐いた。

昨日までは、花を見るたびに玲先輩の顔が浮かんだ。今日は違った。花そのものより、その花が挟まっていないページを見ることのほうが怖かった。教科書を閉じれば、花は見えなくなる。けれど、見えなくなったからといって、なくなるわけではない。

授業が始まるまで、私は何度もページをめくった。

問題文を読み、式を書き、答えに線を引く。ページを送るたびに、白い花がある場所へ戻ってしまう。数学の教科書は、もともとこんなに薄かっただろうか。紙一枚の向こう側に、昨日までの時間が透けている。

「おはよ」

みのりが、私の机の横に鞄を落とした。

「朝から死体みたいな顔してる」

「寝てないだけ」

「それ、死体もだいたい寝てると思うけど」

「縁起でもないこと言うなよ」

「じゃあ訂正。夏休みの宿題を最終日に全部やろうとして失敗した人の顔」

「まだ夏休みじゃない」

「そういう細かいところだけ正確なんだよね、透真は」

みのりは自分の席へ戻りかけたが、私の教科書に視線を落とした。ほんの一瞬だった。けれど、私には分かった。彼女の目が押し花のページで止まり、すぐに何でもないふりをして離れた。

「開いたんだ」

「授業だから」

「花を見るためじゃなくて?」

「見てない」

「今、見てたじゃん」

「ページを確認しただけ」

「花の位置を?」

私は答えなかった。親指が、また爪の縁を探していた。みのりはそれを見て、少しだけ口を閉じた。昨日のように、すぐ軽口を重ねてはこなかった。

「……今日は、捨てるの?」

「そのうち」

「そのうちって、いつ?」

「知らない」

「便利な言葉だけど、使いすぎると腐るよ」

「花みたいに?」

「花はもう腐らないでしょ。押しつぶされてるから」

みのりは笑ったが、その笑いは短かった。

担任が教室へ入り、みのりは自分の席へ戻った。私は教科書を閉じた。閉じるとき、花を押しつぶさないように、いつもよりゆっくり手を動かした。

ぱたん、と音がする。

玲先輩が部室で教科書を閉じたときと同じ音だった。

その音が耳に残ったまま、一時間目が始まった。

黒板に書かれた数字は、目で追えても頭に入らなかった。教師の声が遠のくたび、廊下の向こうから別の音が混ざった。窓を開ける音。誰かが走る靴音。金属の柵に何かが当たる乾いた響き。

部活の音だった。

昼休み、私は教室を出た。みのりは何も言わずについてきた。昨日と同じ自販機の前で、彼女は甘い缶コーヒーを買った。私は水を選んだ。取り出し口に缶が落ちる。鈍い音が、狭い空間の中で一度だけ跳ねた。

「ねえ」

みのりが缶の蓋を開ける。

「今日、部室の前、通ってみたら?」

「何で」

「別に。通学路じゃないけど、透真は用事がない場所へ行くの、昔から好きじゃん」

「行かない」

「即答だ」

「帰るから」

「帰るって言いながら、昨日も窓から見てたよ」

「見てない」

「じゃあ、あのときグラウンドを見てたのは誰?」

「知らない」

みのりが缶を持ったまま、こちらを見た。笑っていなかった。

「それ、私には使わないでよ」

「何を」

「その『知らない』。透真が本当に知らないときの言い方じゃないから」

缶の表面についた水滴が、みのりの指の間を滑った。彼女はそれを拭わず、手のひらの中で転がしている。

「私、透真を戻したいわけじゃないからね」

「分かってる」

「分かってない。戻れって言われるのが嫌なのは知ってる。だから言わない。でも、辞めたことを、最初から何もなかったみたいに扱うのも違うでしょ」

「別に、なかったことにはしてない」

「じゃあ、何してるの」

私は水の缶を首筋へ当てた。冷たさが熱を持った皮膚へ染み込んでくる。シャツの襟が汗で貼りつき、背中には薄い布の感触が残っていた。

「終わらせようとしてる」

「終わってないのに?」

「終わった」

「誰が決めたの」

「俺」

「退部届を書いたから?」

「そう」

「紙一枚で?」

みのりは、手の中の缶を見た。

「そういうところ、玲先輩に似てるよ。物に入れれば、気持ちまで片づくと思ってる」

「先輩と一緒にするな」

「じゃあ違いを言ってみてよ」

私は言葉を探した。玲先輩は花を押しつぶす。私は退部届を折る。どちらも、形を変えることで、そのままでは扱えないものを扱おうとしている。

花は薄くなっても、匂いを失わなかった。退部届は折りたたんでも、書いた名前を消せなかった。

「……俺は、片づけたかったんだよ」

やっと出した声は、思ったより低かった。

「部活も、レギュラーのことも、進路も。全部いっぺんに来て、どれもどうにもならなくて、何か一つ切れば楽になると思った。だから退部届を書いた。書いた瞬間だけ、明日の練習に行かなくていいって思えた。誰かに抜かれる心配もしなくていい。次の進路を聞かれて、何も答えられない自分を見なくてもいい。そう思ったら、少しだけ息ができた」

みのりは何も言わなかった。

「でも、家に帰ってから、何もすることがなくなった。いや、勉強とかはあるけど、そういう意味じゃなくて。部活の時間だけ、そこにいた自分が抜け落ちたみたいになった。抜け落ちたのに、匂いとか音だけ残ってる。変だろ」

「変じゃないよ」

「分かるのかよ」

「分からない。でも、そういうのを変だって言って笑うほど、子どもじゃない」

彼女は缶コーヒーを一口飲み、顔をしかめた。

「甘い」

「いつも飲んでるだろ」

「今日は特に甘い。透真が変な話をするから」

「俺のせいにするな」

「じゃあ、飲んでみる?」

「いらない」

「こういうときだけ遠慮する」

みのりは缶を差し出した。受け取らずにいると、彼女は肩をすくめて自分の手元へ戻した。

「私さ、前に友達が急に学校来なくなったことがある」

「……聞いたことない」

「言ってないから。毎日一緒に昼食べて、帰りも途中まで一緒だった子。ある日から来なくなって、みんな最初は心配した。でも、一週間もすると、席が空いてることに慣れるんだよ。先生が名前を呼ばなくなって、机が片づけられて、誰もその子の話をしなくなる」

みのりの声は、いつものように明るくなかった。

「私も慣れた。慣れた自分が嫌だったけど、嫌なままでも普通に笑えた。だから、誰かが黙って消えると、残った側も勝手に慣れるんだって知ってる。透真が辞めても、たぶん部活は続く。みんな走るし、声も出すし、空いた場所には別の誰かが立つ。そうやって日常になる」

「……分かってる」

「うん。透真は、そういうのだけは分かってる」

言い方が少し刺さった。

「だから余計に、先に自分を消そうとするんだよね。忘れられる前に、自分からいなくなったことにする」

私は缶を握る指に力を込めた。

アルミが小さくへこんだ。

「違う」

「じゃあ、違うって言える?」

答えられなかった。

校舎の中で予鈴が鳴った。生徒たちが一斉に動き出し、階段のほうから足音が押し寄せてくる。みのりは人の流れを避けるように壁際へ寄り、空になりかけた缶を見た。

「今日、帰る前にロッカー見てみなよ」

「何で」

「花びらが落ちてるかもしれないから」

「また?」

「昨日もあったんでしょ」

私はみのりの顔を見た。

「何で知ってる」

「透真が昨日、帰り際にロッカーのほうを見てた。見てないふりしてたけど、あれは見てた」

「……見てたなら、言えよ」

「言ったら、透真はまた『知らない』って言うから」

「言わなくても言うだろ」

「じゃあ、言わないほうがまし」

その返事には、玲先輩に似た沈黙があった。誰かのために踏み込まないことと、見捨てることの境目が、私にはまだ分からない。

午後の授業が終わるころには、空が白く濁っていた。窓の外の光が薄い。海から湿った風が入り、教室のカーテンを膨らませている。

私は鞄へ教科書をしまった。花がずれないように、ページの端を指でそろえる。

昇降口へ向かう廊下は、夕方の部活へ向かう生徒たちで混んでいた。ユニフォームの背中が行き交い、汗の匂いが重なる。誰かが笑い、誰かが大きな声で呼び合う。その中に、私の名前はない。

ないことに、少しだけ安心した。

その安心が、すぐに胸の底を冷たくした。

個人ロッカーの前まで来る。自分の鍵を取り出し、扉を開ける。中には、替えのシャツと、古びたタオルと、使いかけのテーピングが入っていた。どれも、もう使わないつもりで置いてあるものだった。

ロッカーの上を見る。

一枚の花びらが落ちていた。

白い。押し花の花弁より小さく、端が乾いて薄茶色になっている。風が通る場所でもないのに、金属の上に静かに伏せていた。

私は手を伸ばした。

指先が触れる寸前で、止まる。

誰かの悪戯かもしれない。部室から風に運ばれただけかもしれない。そもそも、昨日の花びらと同じものかどうかも分からない。

それでも、手を引くことができなかった。

背後を生徒が通り過ぎる。笑い声が遠ざかる。階段の向こうから、グラウンドへ向かう掛け声が聞こえた。

私は花びらを拾った。

乾いた感触が指の腹に残った。匂いはほとんどしなかったが、鼻の奥にはもう、夏草の青さが戻っている。

ロッカーの扉を閉める。

帰るなら、昇降口へ向かえばいい。校門を出て、駅へ歩けばいい。母に言われた時間には間に合う。今日は六時までに帰れる。

けれど、足は反対側へ向いた。

部室ではなく、グラウンドでもない。バックネット裏へ続く、細い通路のほうだった。人目が少なく、校舎の影が長く伸びている。夏草が壁際まで張り出し、湿った風が葉を擦っていた。

私は一歩進んだ。

その先から、打球音が聞こえた。

乾いた音。少し遅れて、誰かの短い声。

立ち止まる。

戻るために出した足は、最後まで動かなかった。

バックネットの向こうで、誰かが走っている。土を蹴る音が、一定の間隔で続いていた。その走り方を、私は見なくても分かった。誰かが焦っている。踏み込みが半歩早く、腕がわずかに遅れている。

身体が先に判断していた。

私はネットの陰へ移動した。フェンス越しに、グラウンドの端が見える。佐伯湊が、何度も同じ動きを繰り返していた。失敗しても止まらず、靴底で土を削り、また構える。胸元のユニフォームは汗で濃く変色し、首筋には細い汗が流れている。

その少し離れた場所で、玲先輩が腕を組んで立っていた。

先輩は湊の動きを見ている。ときどき手を上げ、短く指示を出す。声は聞き取れない。けれど、湊がそのたびに姿勢を直し、また走り出すことは分かった。

私はネットの外側にいた。

近づけば、声をかけられるかもしれない。気づかれれば、何かを聞かれるかもしれない。退部届のこと。花のこと。これからのこと。

だから、ここで帰ればいい。

そう思った。

それなのに、足は動かなかった。

掌の中で、拾った花びらがわずかに折れた。力を抜くと崩れそうで、握ると壊れそうだった。

グラウンド脇の夏草が、湿った風に揺れている。

その匂いが、ネット越しに流れてきた。私は息を止めなかった。胸の奥へ入ってくる青さを、今度は途中で追い返さなかった。

練習は続いている。

私がいなくても、部活は続いている。

けれど、続いているからといって、私がいた時間まで消えるわけではない。そんな当たり前のことを、白い花びらを握ったまま、ようやく少しだけ考えられた。

玲先輩が、こちらを見た。

距離がある。ネットがある。夕方の光が二人のあいだに薄く溜まっている。

先輩は何も言わなかった。

私も、何も言えなかった。

ただ、足だけが、帰る方向から離れたままになっていた。

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