3話 隣席の軽口

翌朝、教室へ入ると、三枝みのりが私の机に座っていた。

椅子を逆向きにして、背もたれへ腕を預けている。窓は開いていたが、風はほとんどなかった。カーテンだけが、誰かの呼吸みたいにゆっくり膨らんではしぼんでいる。黒板の上には昨日の連絡事項が残り、教室の隅では扇風機が首を振りながら、熱い空気を撫で回していた。

「おはよ、退部者」

「その呼び方、定着させる気か」

「だって便利じゃん。名前より事情が一発で分かるし」

「事情なんか分からないだろ」

「分かるよ。昨日まで放課後に消えてた人が、朝から机に座ってる。しかも顔が、部活のない人生をまだ受け入れてない」

私は鞄を机の横へ掛けた。

「朝から人の顔を採点するなよ」

「採点じゃない。観察。無料の趣味」

「趣味にされるほうは迷惑だ」

「じゃあ有料にする。一回十円」

「安いな」

「透真の平気な顔なんて、そのくらいの価値だから」

いつもなら、ここで笑って返せた。みのりの言葉は、だいたい少しだけ意地が悪く、だからこそ受け流しやすかった。けれど、その日は返事が遅れた。

ほんの一拍だった。

それでも、みのりは見逃さなかった。

笑おうとして上がりかけた口の端を、私は途中で止めた。みのりは何も言わず、私の右手へ視線を落とした。親指の爪を、反対の指先でなぞっている。考え込んだときの癖だった。自分では気づかないうちに、何度も同じ場所を擦っていた。

「……何」

「別に」

「今の、私の台詞」

「返しただけ」

「返事が一拍遅い」

「寝不足」

「昨日も?」

「昨日も」

「じゃあ、今日も?」

「たぶん」

言ってから、しまったと思った。

みのりは、わざとらしく目を丸くした。

「お母さんに怒られるよ。『たぶんで夕飯を作る側は困るのよ』って」

「何で知ってる」

「顔に書いてある」

「書いてない」

「透真の顔、分かりやすいよ。普段は分かりにくいふりをしてるだけで」

みのりは机から降りた。スカートの裾を払って、自分の席へ戻る。私の数学の教科書が、机の上で少し膨らんでいるのを見て、彼女は一瞬だけ目を止めた。

押し花は、二次関数のページに挟んだままだった。

昨日、部室で玲先輩から返されたあと、私は教科書を開かなかった。花が崩れるのが怖かったわけではない。ページを開けば、そこに置かれた意味まで見なければならなくなる気がした。

「それ、まだ持ってるんだ」

「何が」

「教科書」

「教科書だからな」

「花のほう」

「……捨てる場所がなかっただけ」

「学校って、ゴミ箱いっぱいあるけど」

「分別が面倒なんだよ」

「花って何ゴミ?」

「知らない」

「じゃあ、調べれば?」

「そこまでして捨てるものでもないだろ」

みのりは笑った。声はいつもの軽さだったが、目は笑っていなかった。

「今、自分で言ったじゃん」

私は返事をしなかった。

朝のホームルームが始まり、担任が出席簿を開いた。名前が順番に呼ばれていく。窓の外では、グラウンドから金属の音が聞こえた。誰かが用具を運んでいるらしい。遠い音なのに、身体の奥では距離が縮まっていた。

出席を取る声が、ひとつ、ひとつ、教室に落ちる。

私の名前が呼ばれた。

「橘」

「はい」

返事だけは、すぐに出た。

みのりが横目で見た。何も言わなかったが、その沈黙のほうが、何か言われるより長く残った。

授業中、私は何度も教科書の角をそろえた。ページが少しずれるたび、指先で直す。押し花の位置が気になる。中心に置いたはずの花が、ほんのわずかに左へ寄っている。玲先輩が挟み直したときから、そうだった。

教師の声が黒板の前で続いている。私はノートを取った。数式を書き、途中式を揃え、答えに下線を引く。そうしていれば、何も考えずに済むはずだった。

けれど、白い花弁は数字の間に横たわったまま、消えなかった。

昼休みになると、みのりは当然のように私の机の横へ来た。

「自販機、行くよ」

「行かない」

「じゃあ、ここで食べる?」

「食べない」

「食欲ないの?」

「ある」

「どっち」

「今はない」

「便利だね、その返事」

みのりは私の机の端を指で叩いた。

「来ないなら、私がここで透真の昼飯を観察する。箸を何回動かすか数える」

「気持ち悪い」

「じゃあ来なよ」

断る理由を探しているうちに、みのりはもう廊下へ歩き出していた。私は鞄から財布を取り出し、仕方なく後を追った。

廊下には、昼休みの生徒たちが溢れていた。笑い声、弁当箱の蓋を閉める音、階段を駆け下りる靴音。窓の外からは、午後のグラウンドに残った熱が押し寄せてくる。階段の踊り場まで来ると、汗が首筋に浮いた。シャツの襟が肌へ貼りつき、歩くたび、背中に薄い布の感触が擦れた。

昇降口脇の自販機には、何人かの生徒が並んでいた。みのりは甘い缶コーヒーを買い、取り出し口から落ちた缶を手のひらで受けた。

「熱い」

「缶コーヒーだからな」

「そういう意味じゃなくて、外が」

「分かってる」

「分かってない顔」

私は冷たい水を買った。缶を首筋へ当てると、皮膚の熱が少しだけ引いた。プルタブを開け、一気に飲む。冷たさが喉を通り、胃のあたりへ落ちた。

みのりは缶を持ったまま、校舎裏のほうを見ていた。

「ねえ、押し花ってさ」

「何」

「いや、別に。押し花って、作ったことある?」

「ない」

「私もない。花なんか、摘んだ瞬間にだいたい終わるじゃん。水に挿しても枯れるし、放っといても枯れるし。だったら、わざわざ平らにして残す意味って何なんだろうね」

「知らないよ」

「透真、昨日からそればっかり」

「知らないものは知らない」

「じゃあ、知りたいとも思わない?」

私は缶を握り直した。

アルミの冷たさが、手のひらへじわじわ移ってくる。知りたい。誰が挟んだのか。どういうつもりだったのか。なぜあの花だったのか。けれど、知ってしまえば、返事をしなければならない気がした。

「先輩が挟んだ」

「うん」

「昨日、部室で聞いた」

「何を?」

「別に」

「またそれ」

みのりは私の顔をのぞき込もうとしたが、私はグラウンドのほうへ視線を逃がした。バックネットの向こうに、夏の白い光が広がっている。校舎裏の草むらは、風がないのに細かく揺れていた。

「玲先輩、何て?」

「何も」

「何もって、花を挟んで、無言で帰したの?」

「そんな感じ」

「それ、怖くない?」

「怖いっていうか……分からない」

ようやく口にした言葉は、思ったより低かった。

みのりは缶を両手で包んだ。冗談を探すように一度目を泳がせ、それから諦めたように正面を向いた。

「透真さ、昨日からずっと、辞めたことを説明しようとしてるよね」

「してない」

「してるよ。疲れてたから。時間がなかったから。結果が出なかったから。進路もあるし、続けても意味ないし。そういう理由を、誰かに聞かれる前から並べてる」

「事実だろ」

「事実だけで人は退部届を書かないよ」

「じゃあ、何で書くんだよ」

「それを私に聞く?」

「みのりなら、分かるんだろ」

「分かんないよ。透真の頭の中に入ったことないし」

みのりは一度、缶コーヒーを口へ運びかけた。だが、飲まずに下ろした。甘い匂いが、熱い空気の中で薄くほどける。

「でも、分かることはある。透真は、辞めたことを後悔してるっていうより、後悔してる自分を見られたくないんだと思う」

「……勝手に決めるな」

「決めてない。見てるだけ」

「同じだろ」

「違うよ。決めつけるなら、もっと簡単な言葉を使う。『本当は戻りたいんでしょ』とか、『みんな待ってるよ』とか。そう言えば透真は怒るし、私も言った気になれる。でも、そんなの透真の中身を私の都合で片づけるだけじゃん」

みのりの声は、いつの間にかゆっくりになっていた。普段なら早口で転がしてしまう言葉を、一つずつ選んでいる。

「だから、戻れとも、戻るなとも言わない。透真が辞めたことを、きれいな決断にも、ただの逃げにもしたくない。逃げたなら逃げたで、どこから逃げたのかくらい、自分で見たほうがいい。疲れたなら疲れたで、誰に何を言われるのが怖かったのか、そこまで見ないと、また別の場所で同じことをするよ」

「説教?」

「友達からの有料観察結果」

「十円のくせに重い」

「安いから重いんじゃない?」

私は笑いかけた。今度は、少しだけ早く笑えた。

みのりはそれを見て、ようやく缶コーヒーを飲んだ。眉をしかめる。甘すぎたのだろう。

「まずい」

「自分で買ったんだろ」

「透真がちゃんと返事しないから、味が分からなくなった」

「人のせいにするな」

「じゃあ、返事して」

「何を」

「何でもいいよ。今日、帰るのか。部活の前を通るのか。花を捨てるのか。玲先輩に聞くのか。全部じゃなくていいから、一個」

問いが並んだ。

どれも大げさなものではない。けれど、一つ選べば、残りの選ばなかったものまで浮かび上がる。

「……帰る」

「どこへ?」

「家に」

「それは知ってる。時間」

「六時までには」

「お母さんに言われたから?」

「そう」

「じゃあ、透真の意思は?」

私は答えなかった。

自販機の中で、冷却機が低く唸っている。遠くでチャイムが鳴り、昼休みの終わりを知らせた。グラウンドから、誰かの大きな声が届く。音は校舎の壁にぶつかり、少し欠けた形でこちらへ戻ってきた。

みのりは、私の返事を急かさなかった。

ただ、私の右手を見ていた。親指の爪をなぞる動きが、いつの間にか止まっていることに気づいたのだろう。

「ねえ、透真」

「何」

「平気じゃないなら、平気じゃないって言っていいよ」

「……簡単に言うな」

「簡単じゃないよ。私だって、言えないからこうやって喋ってる」

「みのりが?」

「私だって。誰かが黙って消えるの、嫌いなんだよね。あとから『気づいてた』って言う人も嫌い。気づいてたなら、そのとき言えばいいじゃんって思う。でも、実際その場になると、言えない。言ったら余計に壊れるかもしれないし、嫌われるかもしれないし、自分の言葉が間違ってたら恥ずかしいし」

みのりはそこで息を継いだ。

「だから、軽口を言う。笑わせて、少し横へずらして、それでも残ったものだけを見る。私にできるのは、それくらい」

太陽の照り返しで、彼女の頬が薄く赤くなっていた。明るい顔の奥にも、言わずに飲み込んだものがある。そのことを、私は初めてはっきり見た気がした。

「……悪かった」

言うと、みのりはすぐに笑った。

「何が?」

「分かんないけど」

「便利だね、その謝り方」

「十円でいいだろ」

「安すぎ。今日は缶コーヒー代込みで百二十円」

「高いな」

「でも、返事はもらった」

予鈴が鳴った。

私たちは並んで校舎へ戻った。階段を上がる途中、窓から風が入り、草の匂いがした。私は反射的に息を止めた。けれど、昨日のように完全には止めなかった。

匂いは、胸の奥へ入ってきた。

グラウンド脇の夏草。熱を持った土。練習後の水。誰かの汗が残ったユニフォーム。みのりの甘い缶コーヒー。その全部が混ざり、簡単には名前をつけられない空気になっている。

教室へ戻る前、私は廊下の窓からグラウンドを見た。

部活へ戻るつもりはなかった。退部届を取り消すつもりもない。ただ、見てはいけない場所のように扱うことだけは、少し違う気がした。

みのりが先に教室へ入っていく。

「透真、置いてくよ」

「分かってる」

返事をすると、みのりは振り返らず、片手だけを上げた。

私は最後にもう一度、グラウンド脇の草むらを見た。白い花は見えなかった。けれど、その花が摘まれた場所だけは、なぜか分かった。

教科書の中で押しつぶされた白い花弁が、鞄の中で静かに重さを持っている。

私はそれを捨てずに、教室へ戻った。

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