2話 国語便覧の重み

廊下の中央で、私はしばらく動けなかった。

窓の外では、練習が続いている。誰かが走る足音。短く飛び交う声。ボールが金属に当たる、乾いた音。ひとつひとつは昨日まで何度も聞いてきたものなのに、部活をやめた翌日というだけで、すべてが自分の知らない場所から漏れてくる音に変わっていた。

帰らなければならない。

そう思って、鞄の肩紐を握り直した。数学の教科書が中で傾く。押し花はまだ、筆箱とノートのあいだに挟んだままだった。教科書へ戻すことも、捨てることもできず、私は花を壊さないためという理由で、ずっと手元に置いていた。

廊下を曲がろうとしたとき、背後から声がした。

「橘」

振り返ると、城戸玲が立っていた。

部室へ続く階段の脇。窓から差し込む夕方の光が、彼女の肩と髪の輪郭を白くしている。練習のあとらしく、首筋には薄く汗が残っていた。熱を持ったユニフォームの布地が、動くたびにかすかに擦れる。けれど、表情はいつもと変わらなかった。練習中に誰かのフォームを止めるときの、あの静かで逃げられない顔。

「……何ですか」

返事をするまでに、やはり一拍かかった。

玲先輩は私の鞄を見た。それから、私の手元へ目を下ろした。花が見えているわけではない。それでも、何かを確かめるような視線だった。

「少し、来て」

「帰るところなんで」

「知ってる」

「じゃあ、別に」

言いかけたところで、喉の奥が固くなった。別に、という言葉は便利だった。説明をしなくていい。傷ついていないようにも、怒っているようにも、何も考えていないようにも聞こえる。

玲先輩は、それ以上言わなかった。

ただ、階段のほうへ身体を向けた。

その動きが、命令よりも強かった。私は帰る方向を向いたまま、靴底に残った土の感触を意識した。上履きの裏に、昨日のグラウンドの砂がまだ残っている。部活をやめたのに、靴まで勝手にあちら側に残っているみたいだった。

先輩の背中を追って、部室へ向かった。

階段を下りると、空気が湿った。窓の外から海風が入っているのに、ここだけは熱が逃げず、壁や床に溜まっている。部室の扉は半分開いていた。中から、乾いた汗と土、それから古い木と紙の匂いが流れてくる。

昨日、退部届を置いた場所だった。

私は扉の前で足を止めた。

机の上には、昨日と同じように道具が並んでいた。ボール、記録用のノート、テーピングの箱。誰かが使ったものを、誰かが使いやすい向きに戻している。何も変わっていない。変わったのは、そこに自分の居場所があると思えなくなったことだけだった。

玲先輩は、部室の隅にある小さな机の前へ座った。普段、練習メニューを書いたり、部員の記録を確認したりする机だ。その上には、角の擦り切れた古い国語便覧と、退色した表紙の辞書が重ねられていた。

便覧の背には、何度も触られた跡がある。表紙の角は丸く、紙の端には細かな茶色い染みがあった。辞書の背表紙には、昔の持ち主が貼ったらしい透明なテープが黄ばんで残っている。

玲先輩は椅子を引いた。

「座って」

「立ってます」

「そう」

それだけ言って、先輩は便覧に手を置いた。

指先が、本の角をゆっくり撫でる。練習中、ボールを握る手とは別人のように静かな動きだった。何かを急いでいるわけでもないのに、触れられた紙のほうが先輩の手へ形を合わせていくように見えた。

「これ、何ですか」

「本」

「見れば分かります」

「じゃあ、聞かなくていい」

玲先輩は便覧を開いた。

古い紙の匂いが立ち上がった。乾いているのに、少し湿ったような匂いがする。長い時間、閉じられたままの本だけが持つ、薄暗い匂いだった。

便覧の中央には、何枚かの白い紙が挟まれていた。先輩はそのうちの一枚を抜き、さらに辞書を開いた。ページの間から、押し花が何輪か現れる。小さな黄色い花。細い紫の花。名前の分からない草の穂。どれも平らに押され、色を少しだけ失いながら、それでも輪郭を残していた。

私は机の脇に立ったまま、それを見ていた。

「作ってるんですか、これ」

「たまに」

「何のために」

玲先輩は答える前に、辞書のページを一枚めくった。

「残すため」

「残して、どうするんですか」

「どうもしない」

「じゃあ、何で残すんですか」

先輩の指が止まった。

部室の外から、誰かの掛け声が聞こえた。声が窓にぶつかり、少し遅れて戻ってくる。私はその響きの中に、昨日まで自分が出していた声を探した。見つけたくないのに、耳は勝手に拾ってしまう。

玲先輩は、便覧の上に置かれた白い紙を見た。

「なくなったものを、なくなったままにしないため」

「それ、俺に言ってますか」

「言ってない」

「じゃあ、誰に」

「花に」

先輩の声は低かった。冗談ではない。だからこそ、私には余計に分からなかった。

花を残す。なくなったものを、なくなったままにしない。その言葉は、退部届を置いてきた自分のことまで勝手に含んでいるようだった。

「俺の教科書に入れたの、先輩ですよね」

玲先輩は、私の顔を見なかった。代わりに、机の上の紙片を指で揃えた。

「そう」

「何で」

「花が余ったから」

「そんな理由で、人の教科書に入れますか」

「人による」

「俺の教科書だったら、入れていいんですか」

「透真のだから、入れた」

名前を呼ばれた瞬間、胸の内側がわずかに縮んだ。部活の中で、先輩が私を名前で呼ぶときには、いつも何か用事があった。守備位置を変えるとき。練習の順番を伝えるとき。失敗したあと、もう一度やらせるとき。

名前には、その人間をそこに置く力があった。

「退部届のこと、何も言わないんですね」

「言ってほしい?」

「そういう聞き方、ずるくないですか」

「そうかもね」

「責めるなら責めればいいじゃないですか。勝手に抜けたとか、最後までやれとか。そう言われたほうが、まだ分かりやすい」

自分でも驚くほど言葉が続いた。先輩の前では、いつもならもっと早く黙るはずだった。けれど、玲先輩は急かさなかった。視線を逸らさず、私が吐き出す言葉の形を見ている。

「昨日、退部届を置いて帰りました。誰にも相談してないです。勝手に決めて、勝手に終わらせました。だから、怒られても仕方ないと思ってます。なのに、何も言わないで、こんなの挟んで。引き止める気があるのか、もういらないって言ってるのか、分からないんですよ」

そこで息が切れた。

口の中が乾いていた。喉の奥に、さっきまで飲み込んでいたものがまとめて引っかかっている。私は親指の爪をなぞりかけ、途中で手を握った。

玲先輩は、私の手を見た。

「退部届を受け取ったとき、顔色が悪かった」

「疲れてただけです」

「そう」

「本当に」

「そういうことにするなら、それでいい」

「何ですか、それ」

「疲れていたのは本当でしょう。でも、それだけで紙を書く人の顔ではなかった」

責める声ではなかった。断定もしない。ただ、私が逃げ込もうとした言葉の形を、先輩はそのまま机の上へ置き直した。

疲れていた。それは本当だった。

練習で結果が出ない。レギュラーの名前が発表されるたび、自分だけが少しずつ後ろへ下がっていく。進路希望調査の紙を前にしても、何を書けばいいのか分からない。部活を続ければ時間がなくなる。辞めれば、今度は何もない自分が剥き出しになる。

それを全部、疲れという一つの言葉に押し込めた。

「先輩は、俺が何から逃げたと思ってるんですか」

玲先輩はすぐには答えなかった。

部室の外で、ボールが地面を跳ねた。ひとつ、ふたつ。誰かが拾い上げる音。遠くで佐伯の声がした。明るく、少し裏返った声だった。

先輩は辞書を閉じ、便覧の上へ重ねた。

「それを私が言ったら、透真の言葉じゃなくなる」

「でも、先輩は分かってるみたいな顔をする」

「分かってない」

「嘘でしょう」

「嘘をつくとき、私はもっと目を逸らす」

その言葉に、私は初めて先輩の目を見た。

玲先輩の目は、いつものように静かだった。けれど、完全に何も映していないわけではない。疲れがある。眠れていないような薄い影が目の下に残っている。手元はぶれないのに、指先の皮膚には小さな擦り傷がいくつもあった。

この人も、何かを隠したまま部長をしている。

そう思った。だが、そこへ踏み込む言葉は出てこなかった。

先輩は便覧を開き、最初に私の教科書から取り出した白い花を、紙の上へ置いた。机の上に置かれた花は、教室で見たときよりも小さく見えた。乾いた花弁は薄く、少し力をかければ崩れてしまいそうだった。

玲先輩は花の茎を指先でつまんだ。花弁を折らないように、ほんの少しだけ位置を変える。

「触るなって言っただろ」

「今、触ってるのは先輩です」

「私なら壊さない」

「自信あるんですね」

「壊さないように見てるから」

その言い方が、胸の奥に残った。

見ている。

花だけではない。私の肩の力も、返事の遅れも、鼻から短く吸い込んだ息も、たぶん全部。けれど、それを見ていると言葉にしない。言葉にした瞬間、見守ることが監視や説得に変わると知っているみたいだった。

玲先輩は、花を教科書のページの中央へ置いた。

「ここでいい」

数学の教科書を開く。二次関数の式が並んだページだった。白い花は、数字と記号のあいだに横たわった。勉強の本の中に、土と汗と夏草の記憶が挟まる。進路を決めるためのページと、昨日まで走っていた場所の欠片が、同じ紙の上に並んだ。

先輩は教科書を閉じた。

ぱたん、と乾いた音がした。

その音が、退部届を二つ折りにしたときの音に似ていた。

「これ、返すんですか」

「透真の教科書だから」

「花だけじゃなくて、意味も返してくださいよ」

「意味は自分でつけるもの」

「先輩が挟んだのに」

「挟んだのは私。どう受け取るかは透真」

私は教科書の表紙を見下ろした。擦れて白くなった角。薄い砂の跡。何度も開いて閉じたせいで、中央だけ少し膨らんでいる。

「引き止めないんですか」

「止めてほしいの?」

また同じ問いだった。

今度は、すぐに言い返せなかった。

止めてほしい。そう言えば、何かが決まってしまう気がした。止められたから残る。言われたから戻る。そんな形でしか立てない自分を、認めることになる。

けれど、止めてほしくないと言うのも嘘だった。誰にも何も言われず、誰の手も自分に届かないまま、部活から消えてしまうのは怖い。

玲先輩は、私の答えを待った。

沈黙は長かった。外では練習の音が続いている。誰かの靴が土を擦り、掛け声が風にほどける。私は教科書を両手で持ったまま、押し花の位置を確かめた。

白い花弁は、ページに押しつぶされている。

けれど、折れてはいない。

「……分かりません」

やっと出た声は、自分のものなのにひどく幼く聞こえた。

玲先輩は、少しだけ目を細めた。

「それでいい」

「よくないでしょう」

「分からないまま、分かったふりをするよりは」

「先輩は、何でも分かってるみたいに言いますね」

「分からないことを、分からないまま置いておくのは得意」

「俺には無理です」

「知ってる」

その言葉に、少しだけ腹が立った。

「知ってるって、何を」

「透真は、終わらせるときだけ早い」

胸の奥を、細い針で突かれたようだった。

退部届を書いた夜のことを思い出す。名前を書いた。紙を折った。ファイルの下へ置いた。あまりにも手際がよくて、自分が本当に苦しんでいたのか疑うほどだった。

続けることには、毎日、明日の分の覚悟が要る。終わらせることには、一度だけ手を動かせばいい。

私は、その一度に逃げ込んだ。

「……じゃあ、先輩はどうすればよかったと思ってるんですか」

「何が」

「俺を。止めるとか、話を聞くとか。何か」

「透真が話したくないのに、聞き出す?」

「部長なら、それくらい」

「部長だから、しない」

「責任放棄じゃないですか」

「そう思うなら、そう思えばいい」

「俺が勝手に辞めるのを見て、花一輪挟んで終わりですか。それで先輩は満足なんですか」

声が少し大きくなった。自分でも止められなかった。玲先輩は怒らない。怒らないまま、私の言葉を受けている。そのことが、怒鳴られるより苦しかった。

先輩は、机の上の辞書へ手を置いた。

「満足なんてしてない」

初めて、声の底にわずかな揺れがあった。

「辞める人を見送るたび、何か言えばよかったと思う。もっと早く気づけばよかったとも思う。でも、相手がもう決めたことを、私が正しい形に直して渡すことはできない。残ることが正しいとも限らない。続けることが、その人を壊すことだってある。だから、私は止めない」

「じゃあ、何で花なんか」

「止めないことと、何も見ないことは違うから」

先輩はそこで言葉を切った。

白い花へ視線を落とす。

「透真が置いていったものを、置いていったままにしたくなかった。退部届は紙一枚で終わる。でも、透真がここにいた時間まで、紙一枚にできるとは思わなかった」

私は何も言えなかった。

部室の匂いが、急に濃くなった。汗で湿ったユニフォーム。熱を持った床。窓から入り込む草の匂い。指先には、押し花の乾いた薄さが残っている。もう触れていないのに、花弁の縁が指の腹へ貼りついているようだった。

玲先輩は教科書を私のほうへ差し出した。

受け取るとき、指が触れそうになった。先輩はわざと一拍置いてから、手を離した。

「持って帰って」

「捨ててもいいんですか」

「透真のものだから」

「捨てるかもしれない」

「それも、透真が決める」

「ずるいですよ」

「そうかもね」

先輩は、さっきと同じ言葉を繰り返した。

けれど今度は、少しだけ違って聞こえた。ずるさの中に、私を縛らないための距離がある。何かを決めたあとで、その決断を自分のものにするための、逃げられない余白が残されている。

部室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。

夕立が近いのか、窓の外の空が暗くなっている。遠くの海のほうから、低い雲が流れてきていた。グラウンドの土はまだ熱を持っているのに、風だけが湿っている。校舎裏の草むらから、濡れる前の青い匂いが立ち上がった。

階段を上がる途中、私は足を止めた。

手の中の教科書が重かった。

数学の教科書は、もともとこんな重さだっただろうか。紙と表紙と、押し花一輪。それだけのはずなのに、昨日置いてきた退部届より、ずっと重く感じる。

窓の向こうで、玲先輩が部室の机を整えていた。便覧と辞書を重ね、角を揃え、花びらの落ちた紙片を拾っている。こちらを見ているのかは分からない。

私は呼びかけなかった。

代わりに、教科書を開いた。

白い花は、二次関数のページに押されていた。花弁の中心に残った淡い黄色が、夕方の光を受けてかすかに見える。乾いた薄さの奥に、まだ青い匂いがあった。

私はその匂いを吸い込みかけて、途中で息を止めた。

止めたまま、帰る方向へ一歩だけ足を出した。

それでも、廊下の先から聞こえる掛け声に、耳だけは振り向いていた。

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