1話 白い花弁

退部届を出した翌朝、目が覚めても、身体だけがまだ部室の床に転がっているような気がした。

目を開ける前から、鼻の奥に汗の匂いがあった。乾ききらない土と、濡れたタオルと、古い木製ロッカーの内側にこもった黴の気配。もちろん、そこは自分の部屋だった。窓の外では、通学する自転車のブレーキが鳴り、隣の家の室外機が低く唸っている。なのに、布団の中で息を吸うたび、昨日までの部活の時間が肺の奥から戻ってきた。

昨夜、部室の机に退部届を置いた。

白い紙の中央に、橘透真、と書いた。名前を書くときだけは手が震えなかった。書き終えて、二つ折りにして、玲先輩の使っているファイルの下へ差し込んだ。誰かに見つけられるまでの時間を考えたら、胸のあたりが妙に軽くなった。

これで終わりだ、とそのときは思った。

「透真、起きてるなら降りてきなさい。パン、固くなるよ」

母の声が階下から上がってきた。

「今行く」

返事をしてから、声が思ったより普通だったことに少し驚いた。普通に返事ができるなら、普通に学校へ行ける。普通に授業を受けて、普通に帰ってくればいい。部活の時間だけがなくなる。それだけのことだ。

制服に着替え、鞄の中身を確かめた。数学、英語、古典。ノート。筆箱。水筒はもう必要ないと思ったが、母がいつものように入れていた。冷蔵庫の横には、進路希望調査の提出日を書いた紙が貼られている。赤い丸がついていた。

食卓につくと、トーストの焼けた匂いがした。母は弁当箱の蓋を閉じながら、こちらを見ないで言った。

「今日は帰り、何時?」

「いつもくらい」

「いつもって、部活をやめたあとのいつも?」

指に挟んでいたパンの端が、ぱき、と折れた。

「知らない。授業が終わったら帰る」

「じゃあ、六時までには帰れるのね」

「たぶん」

「たぶんで夕飯を作る側は困るのよ」

責める声ではなかった。母は弁当箱を鞄に入れ、空いた場所に小さな保冷剤を押し込んだ。生活のことを話しているだけなのだろう。けれど、生活という言葉には、逃げたあとにも続いていくものが全部詰まっているように聞こえた。

「退部したからって、急に何もなくなるわけじゃないからね」

母はそう言って、味噌汁の椀を私の前へ置いた。

「分かってる」

「分かってる人は、たぶん、って言わない」

湯気が顔に触れた。出汁の匂いの向こうに、昨夜の部室が重なった。汗で湿ったシャツの襟。机の角に残った細かな砂。窓を開けたままにしていたから、夜の風がグラウンドの草の匂いを運んでいた。

私は味噌汁を一口飲み、舌を少し火傷した。

「行ってきます」

「帰る時間、考えてからね」

母の声を背中に受けて、家を出た。

夏の朝は、まだ日差しが強くないのに、道の端から熱を押し返してくる。駅へ向かう道の植え込みでは、名前の分からない白い花がいくつか咲いていた。歩きながら見ないようにした。見ると、昨日のことまで一緒に見えてしまう気がした。

県立北浜高校の校門をくぐると、海のほうから風が入ってきた。潮の匂いは薄く、代わりに、校舎裏の草いきれが濃かった。朝のグラウンドにはまだ誰もいない。白線の跡が消えかけた土の上を、夜露が細く光っている。

部活をやめた人間は、校門をくぐるときに何か変わるのだと思っていた。たとえば、歩き方が軽くなるとか、肩の力が抜けるとか。けれど実際には、靴底は昨日と同じように重く、グラウンド脇を通り過ぎるときには、耳だけが勝手に音を探した。

まだ練習は始まっていない。

そう思った直後、校舎の向こうから金属の触れ合う音がした。誰かが用具を出しているのだろう。私は足を止めずに昇降口へ向かった。止まらなかったことを、決断の証拠にしたかった。

教室には、窓際の席から順に朝の光が溜まっていた。三枝みのりは、私の机に頬杖をついていた。勝手に座るな、と言おうとしたが、声にする前にみのりが顔を上げた。

「おはよう、退部者」

「朝から嫌な呼び方すんな」

「じゃあ、元部員。あ、これも過去形か。元・元部員?」

「どっちでもいい」

「便利だね、その返事。今日一日それで通すつもり?」

みのりは笑いながら、自分の席へ戻った。机の上には、蓋の派手な色をした小さなゼリー飲料が置かれている。いつもなら、そんなものを朝から飲むなと言ってやるところだった。けれど私は鞄を机の横に掛け、椅子を引いた。

教科書を出す。ページの端を指でそろえる。数学の教科書は、昨夜、部室へ行く前に鞄へ入れたままだった。表紙には薄い砂の跡がついている。いつついたのか分からない。練習のあと、グラウンドに置いた鞄を蹴ったときかもしれない。

チャイムが鳴る前に、教科書を開いた。

その瞬間、ページの間から、何かが落ちた。

机の上に、白いものがひらりと着地した。

最初は、消しゴムの紙くずだと思った。細く、薄く、中心に淡い黄色の影がある。指でつまみ上げようとして、触れる直前に手を止めた。

花だった。

小さな白い花弁が、押しつぶされて平らになっている。茎は短く、葉は乾いて縮んでいた。紙に挟まれていたせいで、花の形だけが不自然なほどきれいに残っている。

鼻を近づけるつもりはなかった。それでも、指先に乗せた瞬間、青い匂いがした。

刈られていない夏草の匂い。熱を含んだ土の匂い。練習の終わりに、グラウンド脇で飲んだ水が喉を通るときの、少し錆びたような匂い。

息が止まった。

教室のざわめきが、急に遠くなった。誰かが椅子を引く音も、廊下を走る足音も、窓の外の鳥の声も、厚いガラスの向こう側へ押しやられたみたいだった。

「透真?」

みのりの声だけが近かった。

私は返事をしなかった。できなかった。花を机の上に置き、数学の教科書をもう一度開いた。けれど、そこには何もない。ページの折り目に、細い青緑色の粉が残っているだけだった。

「何それ」

「……花」

「見れば分かる。どこから出てきたの」

「知らない」

口から出た言葉は、自分でも驚くほど早かった。知らない。そう言えば済むと思った。だが、みのりは花を見たあと、私の顔ではなく右手を見た。親指の爪をなぞっていたからだ。

「知らないって、教科書から落ちてきたのに?」

「誰かが入れたんだろ」

「誰かって、だいぶ雑な犯人探しだね」

「犯人じゃないだろ」

「じゃあ、送り主?」

みのりは花に手を伸ばしかけ、途中でやめた。

「触っていい?」

「やめとけ。崩れる」

返事が思ったより強くなった。みのりは目を細めたが、からかいは続けなかった。花は、薄い紙片ほどの重さしかない。それなのに、机の上で私のほうへ向けられたまま、逃げ道を塞いでいるように見えた。

誰かがこれを挟んだ。

私の教科書を開き、ページを選び、花を置き、何食わぬ顔で閉じた。そんな手順を、誰かが踏んだ。

退部届を置いたことは、部室の中だけで終わるはずだった。私は誰にも何も言わなかった。玲先輩にも、瀬尾先生にも、後輩たちにも。紙を一枚置いて帰れば、それで話は済むと思っていた。

なのに、返事が来た。

言葉ではなかった。責める文章も、引き止める声もない。白い花が一輪、教科書のページの間にいるだけだった。

「それ、持って帰るの?」

みのりが小さな声で尋ねた。

「捨てる」

「そっか」

みのりはそれ以上言わなかった。言わないことが、かえって気になった。いつものみのりなら、もっとくだらない名前を花につけたり、恋愛相談みたいに騒いだりするはずだった。けれど、彼女は私の手元を見たまま、ゼリー飲料の蓋を開けた。

甘い匂いがした。

その匂いの中に、また夏草の青さが混ざった。

私は花を捨てるために、筆箱の横へ置いた。次の授業が始まっても、黒板の数式が頭に入らなかった。先生の声は聞こえている。二次関数の頂点がどうとか、解の範囲がどうとか、ノートも取っている。けれど、視線は何度も机の隅へ戻った。

白い花弁は、罫線よりも薄い。

少し風が入れば飛んでいきそうなのに、机の上から動かなかった。

昼休みになっても、私は花を鞄へしまえなかった。教科書に挟み直すこともできず、かといって捨てることもできない。指で触れると、乾いた草の感触が残った。押し花になった花は、もう咲いているとは言えない。けれど、死んでいると言い切るには、匂いが残りすぎていた。

放課後、私は昇降口へ向かった。

部活へ行かないのだから、帰るだけでいい。靴を履き替え、校門を出て、駅へ行く。母に言われた通り、六時までには帰れる。

そう考えながら、私はいつもの廊下を歩いた。

部室のある棟へ近づくにつれ、空気が変わった。汗と土の匂いが、開け放たれた窓から流れてくる。グラウンドでは、誰かが大きな声を出していた。短い掛け声のあと、ボールを打つ音が響く。

乾いた音だった。

私は足を止めた。

窓の向こうには、夏の光に白く焼かれたグラウンドがある。バックネットの影が土の上へ伸び、脇の草むらだけが濃い緑色をしていた。風が吹くたび、細い茎や葉が擦れ合い、こちらまで青い匂いを運んでくる。

帰るつもりだった足は、廊下の中央で止まったままだった。

鞄の中で、数学の教科書がわずかに動いた。ページに挟んだわけではないのに、あの花がそこにいることが分かる。

私は窓の外を見た。

見ていただけなのに、喉の奥が詰まった。部活を辞めた人間は、もうあちら側へ戻れない。そう思っていた。けれど、戻れない場所を、私はまだこんなにも正確に聞き分け、嗅ぎ分けている。

グラウンド脇の夏草が、夕方の風に一斉に揺れた。

私は息を止めたまま、しばらく動けなかった。

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白い花弁 - 夏の返事 - 誰でも作家life