第9話 湯気の立つ食卓

家へ戻ると、玄関の内側に、朝とは違う静けさがあった。
朝はまだ、僕が学校へ出ていくための気配が残っていた。母さんの声、味噌汁の鍋、紙袋へ入れられた握り飯。今はそれらが一度片づけられ、夕方の支度へ向かう途中の空白だけが家の中に漂っている。靴を脱ぐと、足の裏に一日分の疲れがまとわりついているのが分かった。
台所から、湯気の匂いがした。
味噌汁と、炊きたての米。洗った茶碗の湿った陶器の匂い。部室で洗ったクーラーボックスや、濡れた雑巾の匂いとは違う。家の匂いは、使われたものを片づけたあとにも、次に使うための場所を残している。
「おかえり」
母さんは流しの前に立っていた。こちらを振り向く前に、火を弱める。鍋の蓋の隙間から白い湯気が細く漏れ、換気扇へ吸い込まれていった。
「ただいま」
声が掠れた。
母さんは振り返り、僕の顔を見た。目元、口元、立ち方。朝と同じように、試合の結果より先に、僕の身体を見ている。
「食べる?」
「うん」
返事をしてから、僕は少し驚いた。朝なら、いらないと言っていた。学校へ戻るときも、昼食を勧められれば、あとでいいと答えていた。けれど今は、腹が空いていることを認められた。
母さんは何も言わず、茶碗を出した。箸を揃え、味噌汁をよそう。豆腐とわかめ、それから薄く切った葱。朝と同じ具だった。
「朝の残り?」
「そう。昼に蒼が戻ってくるかと思って、少し取っておいたの」
「戻るって言ってない」
「言ってなくても、戻ってくる顔をしてたから」
僕は椅子を引いた。
母さんは向かいには座らず、流しに残っていた皿を洗い始めた。水が陶器に当たる音が、台所の壁に跳ね返る。部室でボールをケースへ戻した音や、クーラーボックスの底をこすった音と似ていた。何かを洗い、汚れを落とし、元の場所へ戻す。その手順の中に、言葉にならない時間が含まれている。
僕はしばらく、湯気の向こうを見ていた。
白い湯気の向こうで、母さんの肩が動いている。窓の外はもう夕方の色になりかけていた。朝の白い光ではなく、薄い橙色が台所の床へ伸びている。部室を出たときには、まだグラウンドの土が昼の光を返していた。あの場所に残してきたものが、今も胸の中で熱を持っている。
「食べないなら、冷めるわよ」
「食べる」
「なら、湯気を見てないで」
僕は箸を取った。
一口目は、味がよく分からなかった。舌に熱さだけが残った。二口目で出汁の味が戻り、三口目で葱の苦みが分かった。喉の奥に張りついていた砂の感触が、少しずつ温かいものに押し流されていく。
母さんは皿をすすぎながら、こちらを見なかった。
「学校、どうだった」
「片づけ」
「そう」
「部室の」
「うん」
母さんはそれ以上、試合の話を聞かなかった。僕も、しばらくは言葉を探さなかった。話そうとすると、最後の打席が先に浮かぶ。けれど、今日の僕の中には、あの打席だけではないものも残っていた。
凛のノート。
〈失敗した人を、その場に置き去りにしない〉と書いた余白。
湊が、悔しさを自分のものとして口にした声。
牧野さんの、失敗を抱えることと、失敗に持たれることは違うという言葉。
それらを順番に思い出そうとすると、頭の中がまた忙しくなる。母さんは、僕が箸を止めたのに気づいたらしい。味噌汁の鍋を見て、火を少しだけ弱めた。
「今日、何か言われた?」
「誰に」
「学校で」
「別に」
「別に、のときは、だいたい何かあるわね」
僕は返事をしなかった。
母さんは濡れた皿を布巾で拭き、食器棚へ戻した。茶碗を置く位置が少しずれると、指で押して隣と揃える。その動作を見ているうちに、僕は部室でホワイトボードの端をなぞった感触を思い出した。木の棚も、紙の箱も、食器も、置く場所を失えば乱れて見える。けれど、場所を決めることは、消すことではない。
「牧野さんに、記録の確認を任された」
僕が言うと、母さんは「そう」と返した。
「何の記録?」
「試合。道具。忘れ物」
「蒼は、そういうのを任されるのね」
「他にできることがないから」
母さんの手が止まった。
僕は自分の言葉を聞いて、箸を置いた。口にしたあとで、それが今日一日、自分の中に残っていた考えだと分かった。打てなかった。だから、他に何をしても、最後には意味がない。記録を確認しても、道具を洗っても、後輩へノートを渡しても、僕にはできることがない。
母さんは、すぐには返事をしなかった。
皿を一枚、棚へ戻してから、こちらを向いた。
「それ、誰かに言われたの?」
「言われてない」
「じゃあ、どうしてそう思うの」
「最後に打てなかったから」
「最後に打てなかったら、できることがなくなるの?」
「試合では、そうだった」
「試合の話をしているの?」
僕は黙った。
母さんは、僕の前にある味噌汁の椀へ目を落とした。表面に浮いた葱が、湯気の動きでゆっくり揺れている。
「蒼は、試合が終わったあとも、ずっと打席にいるみたいね」
その言葉に、喉の奥がひりついた。
「そうかもしれない」
「打席にいるなら、そこで何をしているの」
「打てなかった球を、何度も見てる」
「何度見ても、打球は戻ってこないでしょう」
「分かってる」
「分かっていても、見ているのね」
「……うん」
母さんは椅子を引き、ようやく向かいに座った。向かいに座ることは珍しかった。いつもなら、食事の途中でも皿を下げ、台所と食卓を行き来している。けれど今日は、僕の前に腰を落ち着けた。
「蒼。お母さんは、試合のことを詳しく言えるほど、野球を分かっているわけじゃないわ。昨日の球がどんな球だったのかも、あの場面でどう打つべきだったのかも分からない。だから、打てなかったことを大丈夫とは言わない。大丈夫じゃないでしょう」
僕は目を伏せた。
「うん」
「悔しいでしょう」
「うん」
「自分だけが壊したように思う?」
僕は、すぐには答えられなかった。
母さんは急かさなかった。僕の返事を待つ間、テーブルの端に置かれた進路資料を一枚だけ、指先でまっすぐに直した。
「……思う」
ようやく言うと、声が低くなった。
「僕が打てていれば、まだ続いた。みんながつないだものを、僕が止めた。湊も、凛も、牧野さんも、誰も何も言わなかったけど、たぶん、言えなかっただけで、同じことを思ってる」
「みんながそう思っているかどうかは、聞いたの?」
「聞いてない」
「じゃあ、どうして分かるの」
「顔を見れば」
「蒼は、人の顔を見るのが得意なのね」
「……たぶん」
「でも、自分の顔は見えないでしょう」
母さんの声は穏やかだった。責めるような強さはない。それでも、逃げ道を少しずつ塞いでくる。
「人の沈黙を失望だと決める前に、その人が何を言えなかったのかを聞くことはできる。蒼がいつもしているのは、聞かずに決めることよ」
僕は湯気の消えかけた椀を見た。
部室で湊が言ったことが重なった。
俺の気持ちを勝手に失望にするなよ。
凛の声も重なった。
先輩が一人でやろうとすると、僕たちはそばに立てません。
母さんは、二人の言葉を知らない。それでも同じ場所へ触れてくる。
「それは、仲間に失礼なのかな」
僕が尋ねると、母さんは少し考えた。
「失礼かどうかは、私には分からない。でも、蒼が全部悪かったことにしてしまえば、ほかの人が感じたことまで、蒼の判断で決めることになるでしょう。相手を思いやっているようで、相手の気持ちを聞かないことになる」
「聞くのが怖い」
「何を言われるか分からないから?」
「違う。何も言われなかったら、もっと怖い」
母さんの目が、わずかに細くなった。
「そうね」
「失望していたら、それを聞けばいい。でも、何も思っていなかったら。俺が勝手に大事にして、勝手に苦しんで、みんなはもう次へ行っていたら。そうだったら、僕だけがあの試合に取り残されてることになる」
母さんは、しばらく何も言わなかった。
外を車が通り過ぎた。タイヤが濡れてもいない道路を滑る音が、窓の向こうへ流れていく。台所の時計が一秒ずつ時を刻み、味噌汁の湯気が薄くなっていく。
「取り残されていても、戻る場所はあるわ」
母さんが言った。
「家にもあるし、部室にもある。戻ったからといって、昨日の自分に戻らなくていいの。戻るというのは、同じところへ座り直すことではなくて、今の自分で、その場所を見直すことでしょう」
「簡単に言うなよ」
思わず声が鋭くなった。
「俺は、まだ全然納得してない。打てなかったことを、誰かに分けて楽になりたいわけじゃない。僕のせいだったものを、みんなのせいにもしたくない。そんなことをしたら、僕が守備で見てきたものも、湊が声を出そうとしていたことも、凛がずっと支えてくれていたことも、全部同じ重さにしてしまう気がする」
言葉が止まらなくなった。
「だから、僕が持っていたほうがいい。少なくとも、僕が打てなかったことは僕のものだ。誰かに渡して、軽くしてもらうものじゃない。そう思ってた。でも牧野さんは、それは引き受けることじゃなくて、奪うことだって言った。湊も、凛も、僕が一人で終わろうとするから困るって言った。僕は、何が正しいのか分からない」
母さんは、黙って聞いていた。
言葉を挟まない。励まさない。大丈夫とも言わない。その沈黙が、僕にはありがたかった。母さんがもし、そんなに考えなくていい、もう終わったことだ、と言っていたら、僕はきっと箸を置いていた。
母さんは、僕が話し終えるまで待った。
「正しいかどうかは、今決めなくていいんじゃない?」
「でも」
「蒼は、試合が終わる前に、試合の意味まで決めようとしている。打てなかった一球を、これから何年どう覚えるのかまで、今日中に決めようとしている」
僕は息を呑んだ。
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「できないから、食べて、眠って、明日にするのよ」
母さんは、僕の茶碗へ味噌汁を足した。冷めかけた表面へ、熱い汁が注がれる。葱が浮き上がり、湯気がもう一度、顔の近くまで立ちのぼった。
「失敗したことは残る。悔しかったことも残る。でも、残ったものの置き方は、あとから変えられる。最初は傷でも、時間が経てば支えになることがある。逆に、今は支えだと思っているものが、あとで重荷になることもある。暮らしは、そうやって少しずつ置き場所を変えていくものよ」
湯気が目に触れた。
涙なのか、熱のせいなのか、分からなかった。僕は視線を落とし、箸で豆腐を崩した。
「母さんは、負けた試合のことなんて、覚えてないだろ」
「覚えているわよ」
「どれを?」
「昨日の試合」
「昨日のだけじゃなくて」
母さんは、少しだけ笑った。
「全部は覚えていない。でも、蒼が帰ってきた日の顔は、だいたい覚えている。勝った日も、負けた日も。勝ったのに黙っている日もあったし、負けたのに冷蔵庫を勝手に開けて、残り物を食べた日もあった」
「そんなの、覚えてるのか」
「母親だから」
「結果は?」
「結果より、靴下の泥の量を覚えてる」
僕は、初めて少しだけ笑った。
母さんはそれを見ても、嬉しそうな顔を大きくはしなかった。ただ、空になった茶碗を見て、そこへご飯を少し足した。
「まだ食べられる?」
「うん」
「なら、食べなさい」
「進路の資料は」
母さんは、テーブルの端へ寄せていた紙を僕の前へ戻した。
「見る?」
僕は資料の表紙を見た。大学や専門学校の名前、提出期限、必要な書類。朝なら、目に入れたくなかった。野球が終わったばかりなのに、すぐ次の道を選べと言われているようで、紙の一枚一枚が急かす声に見えた。
けれど今は、少し違っていた。
次の道を選ぶことは、昨日までを捨てることではない。部室へ戻るために廊下を歩いたように、終わった場所から別の場所へ移るだけだ。引退したからといって、僕の時間が空になるわけではない。空いた棚に、次に置くものを考える時間が始まるだけだ。
「少しだけ見る」
「少しでいいわ」
母さんは資料を僕のほうへ滑らせた。
紙がテーブルの木目を擦る。部室で牧野さんが記録表を差し出したときと同じ音がした。役目を渡される音。すぐに答えを出さなくてもいいが、手元へ置いておくための音。
僕は資料を開いた。
「まだ、野球を続けるかどうかも決めてない」
「続けなさいとは言わないわ」
「でも、続けないと、三年間がなくなる気がする」
「なくならないわよ」
母さんは皿を下げながら言った。
「続けるかどうかと、過ごした時間が残るかどうかは別でしょう。蒼が野球をやめても、三年間が蒼の中から出ていくわけじゃない。逆に、続けたからといって、昨日の悔しさが消えるわけでもない」
「じゃあ、何を選べばいい」
「今すぐ選ばなくていいものを、今すぐ選ばないことも選択よ」
母さんは流しへ皿を運んだ。
「ただ、何も見ないままにするのはやめなさい。資料も、部室も、自分の気持ちも。決めるのはあとでいいから、見ておくこと」
僕は資料をめくった。
文字の列を追っていると、胸の奥にまだ残る打席の映像が、少しずつ遠くなったわけではない。けれど、それ以外のものが視界へ戻ってきた。母さんが朝、僕の顔色を見ていたこと。牧野さんが食事を尋ねたこと。凛がノートを抱えていたこと。湊が空のボトルを鞄へしまったこと。
僕はずっと、自分の失敗だけを見ていた。
けれど、僕を見ていた人たちは、失敗の後に残ったものまで見ていた。
「母さん」
「何」
「ありがとう」
言葉にしてしまうと、思っていたより短かった。短いのに、喉の奥がひどくひりついた。
母さんは、すぐには返事をしなかった。
水を止め、手を布巾で拭き、僕のほうを見る。
「ご飯の途中で言うこと?」
「今しか言えない気がした」
「そう」
「明日になったら、言えないかもしれない」
「明日になったら、また言えばいいでしょう」
「何度も?」
「何度でも。言えるときに言えばいいし、言えないときは茶碗を洗えばいいの」
僕は、目を伏せた。
感謝を言葉にするのは、やはり苦手だった。言葉にした瞬間、胸の中で守っていたものが外へ出てしまう気がする。けれど、出てしまったものは消えるわけではない。母さんはそれを受け取り、特別な顔をせず、いつもの場所へ置いた。
部室で、僕が後輩へノートを渡したときと同じだった。
受け取ったものは、すぐに返ってこなくてもいい。誰かの中で、別の形になるまで待っていればいい。
僕は進路資料の最初の頁へ、鉛筆で小さく印をつけた。
母さんがそれを見た。
「そこ、気になるの?」
「少し」
「分かった。説明会の日、書いておくね」
「まだ行くとは言ってない」
「行ってから決めればいいでしょう」
「母さんは、いつも先に予定を決めるな」
「予定がないと、蒼は部室へ行ってしまうから」
「行くかもしれない」
「そうね」
母さんは、空になった味噌汁の鍋を覗き込んだ。
「でも、朝は少し遅く起きなさい」
「起きられない」
「起きられる。部活がないなら、起きる理由を別に作ればいいの」
「そんなに簡単じゃない」
「簡単だとは言ってないでしょう。難しいから、朝ご飯を作るのよ」
僕は資料を閉じた。
窓の外は、もう夕方の色になっている。空が薄く青から灰色へ変わり、向かいの家の窓に明かりが灯った。誰かが帰宅し、誰かが夕飯を作り、誰かが洗った食器を棚へ戻している。僕の知らない場所でも、終わった一日のあとに、次の生活が整えられている。
それは、部活動の終わりとは関係なく続いている。
けれど、関係がないわけではない。
今日、部室で拾ったものも、聞いた言葉も、胸の内側に残った悔しさも、これからの生活へ持っていける。持っていくかどうかを、僕が一人で決めなくてもいい。誰かに渡し、誰かから受け取り、時々は茶碗を洗いながら話せばいい。
母さんが食器を片づける。
僕は立ち上がり、空になった自分の茶碗を流しへ運んだ。
「置いといて」
「いい」
「今日はもう食べたでしょう」
「洗うだけ」
僕は蛇口をひねった。
冷たい水が指先へ当たり、陶器の縁を滑っていく。母さんが隣へ立った。僕が茶碗を持ち、母さんが布巾を受け取る。どちらが何をするか、言わなくても自然に決まった。
白い泡が流れ、茶碗の底から味噌の匂いが消えていく。
「蒼」
「何」
「明日の朝、学校へ行くの?」
「分からない」
「分からなくてもいいわ。でも、起きたら、顔を洗って朝ご飯を食べなさい」
「部室へ行くかもしれない」
「行ってもいい」
母さんは、洗い終えた茶碗を僕から受け取った。
「帰ってくる場所を忘れなければ」
その言葉を聞いたとき、ホワイトボードの一行が、胸の中でもう一度形を変えた。
ここで終わらないでくれ。
部室で見たときは、そこに立ち止まるなという命令に思えた。今は、終わった場所だけを見て、自分まで置き去りにするなという頼みに聞こえる。何かを終えたあとも、食べ、眠り、また朝になれば、別の場所へ行ける。行って、戻って、誰かと同じ食卓につける。
それは、野球の続きではない。
けれど、野球をしていた僕の続きではある。
僕は布巾を受け取り、洗った茶碗の水気を拭いた。底に残った水滴を一つずつ取り、食器棚のいつもの場所へ戻す。隣の茶碗と少しずれていたので、指で押して揃えた。
「きれいに置くのね」
母さんが言った。
「ずれると気になる」
「部室でもそうだった?」
「たぶん」
「たぶんばかりね」
「覚えてないから」
母さんは小さく笑った。
僕も、今度は笑い返した。
夕飯の匂いはまだ台所に残っていた。湯気は消え、窓の外には夜の色が増えている。けれど、喉の奥に残っていた砂の味は、もうほとんどしなかった。
完全に消えたわけではない。
明日、ふいに戻ってくるかもしれない。眠っているあいだに、またあの三球目を思い出すかもしれない。悔しさがなくなるわけでも、凡退が別の結果へ変わるわけでもない。
それでも僕は、朝の部室へ戻ることができる。
ホワイトボードの前で立ち止まり、残った文字を見て、必要なら自分の手で消す。そのあとに残る白い粉を、指先につけたまま、次にやるべきことを探す。
家の明かりを背にして、僕は台所を出た。
机の上には、開いたままの進路資料がある。紙の一角には、僕がつけた小さな鉛筆の印が残っていた。
僕はそれを閉じずに、椅子へ戻った。
ページの白さを見つめながら、今日の部室のことを、最初からではなく、途中から話し始める。
凛の声がよく通っていたこと。
湊が変な冗談を言って、誰も笑えないときでも、部室を止めないようにしていたこと。
牧野さんが、記録表の余白を空けていたこと。
母さんは、相槌を打ちながら、空いた茶碗を一つずつ重ねていった。
食卓の上に残ったのは、試合の結果ではなかった。
湯気の消えた味噌汁の椀。水気を拭かれた茶碗。開かれた進路資料。そして、まだ言葉になりきらないまま、明日へ持っていく僕の手つきだった。
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