第8話 記録表の余白

湊と一緒にクーラーボックスを物干し台へ伏せたあと、僕たちはしばらく何も言わずに部室へ戻った。
廊下の窓から差す光は、朝より高いところへ移っていた。白い筋だった光が、床いっぱいに広がっている。歩くたび、乾いた靴音がその上を横切った。僕の影と湊の影が並んで伸び、曲がり角でいったん離れ、部室の前でまた重なった。
扉を開けると、牧野さんが机の前にいた。
いつ来たのか、やはり分からなかった。記録表の束を端から揃え、紙の角を指先で押さえている。机の隅には、古いマーカーと、名前の消えかけたメモが一枚置かれていた。
牧野さんは僕たちを見た。
「洗ったか」
「はい」
湊が答えた。
「干したか」
「それも」
「なら、記録」
牧野さんは机の上にあった二冊のノートを、僕の前へ滑らせた。試合記録と、用具点検の記録だった。紙の表面は何度もめくられたせいで柔らかく、端には鉛筆の跡が幾重にも残っている。
僕は椅子を引いた。
「また俺ですか」
口に出してから、少し強く聞こえた。牧野さんは気にした様子もなく、ノートの一冊を開いた。
「嫌なら、湊に渡す」
「いや、俺はいいよ。昨日から蒼が数字とにらめっこしてるし、ここで俺が取ったら、友情の再構築がまた事務作業に戻る」
湊はそう言いながら、作業台の向こうへ回った。ボールケースをひとつ持ち上げ、底に残った砂を手のひらで払う。軽口は戻っていたが、さっきまでのものとは少し違っていた。何かを隠すためではなく、言葉の置き場所を探すために使っているように聞こえた。
「お前は黙ってろ」
「はい。黙ってボールを数えます」
湊はボールを一つ取り出し、机へ置いた。
「一」
「声に出すな」
「二」
「湊」
「分かった、静かにやる。三」
僕はノートを開いた。
一番上には、昨日の試合のスコアがある。九回裏。走者一塁。アウト一つ。打者、久世蒼。結果、遊ゴロ。数字は変わらない。何度見ても、そこだけは同じ形で僕を待っている。
指が紙の上で止まった。
湊がボールを置く音が、少し遠くなった。
僕はその欄を飛ばし、二回表の記録へ移った。守備位置の変更。二塁走者の進塁。相手打者の打球方向。数字と短い記号が、試合の流れを細く繋いでいる。
そのなかに、自分の字を見つけた。
〈二死一塁。次打者、初球から振る可能性あり。内野、一歩前〉
僕が書いたものだった。誰かの打席のために、ベンチの端で走り書きした指示だ。実際、その打者は初球を打ち、三遊間へ強い打球を飛ばした。凛が一歩前へ出て捕球し、僕が一塁へ送った。記録には、遊ゴロ、二死、とだけ残っている。
その一行の外側に、僕たちが立っていた場所があった。
僕は頁をめくった。
〈八回裏、三塁線寄り。湊、送球に注意〉 〈九回表、投手交代。相手四番、変化球に遅れる〉 〈九回裏、凛、声出し継続〉
数字にならないものまで、牧野さんは書き留めていた。
「これ、牧野さんが書いたんですか」
「見たものを」
「凛の声出しまで」
「必要だった」
「公式記録じゃないのに」
「部の記録だ」
牧野さんは、それ以上説明しなかった。
僕は紙の上の文字を指でなぞった。凛の声は、昨日の試合中、何度も聞こえていた。高く、よく通る声だった。僕はそれを、ただの後輩の声だと思っていた。自分が守備位置へ戻るための背景にしていた。
湊がボールケースの蓋を閉めた。
「俺の字もある?」
「飲み物の本数なら」
「それは記録じゃなくて、俺の食欲の記録だな」
「最後の欄、途中で切れてた」
僕が言うと、湊の手が止まった。
「見たのか」
「紙が入ってた」
湊は作業台へ両手をついた。
「最後、何本必要だったか分からなくなったんだよ。みんなが何本飲んだか数えてたら、九回の途中でクーラーボックスが空になって。足りないって思って、でも取りに行く時間もなくてさ。だから、数字が途中で終わってる」
「それも書くのか」
「書かなくていいだろ。俺が飲み物の管理を失敗した記録なんて、誰が読むんだよ」
牧野さんは、湊のほうを見た。
「書く」
「本当に?」
「足りなかったなら」
湊は一度、僕へ視線を寄越した。
「ほら。牧野さん、こういうところだけ容赦ないんだよ」
「足りなかったのは、飲み物だけじゃない」
牧野さんの声が、部室の中央へ落ちた。
湊が黙った。
僕もノートから目を上げた。
牧野さんは、机の上の記録表を一枚取った。昨日のスコアではなく、練習試合の細かな記録が並んだ紙だった。
「声。判断。準備。全部、足りないことがある」
「でも、書き残すんですか」
僕が尋ねると、牧野さんは一拍置いた。
「足りなかったことも、あったことだ」
その言葉は、胸の内側へまっすぐ入った。
僕は自分の凡退だけを、あったこととして残そうとしていた。守備のミスも、声が途切れたことも、飲み物が足りなかったことも、湊が声を出せなかったことも、全部を僕の一打の後ろへ隠していた。そうすれば、試合は簡単な形になる。僕が打てなかった。だから終わった。誰もが理解できる、ひとつの結論になる。
けれど、記録表はそれを許さなかった。
紙の上には、足りなかったものと、足りていたものが同じ濃さで残っている。凛の声も、湊の判断も、僕が拾ったボールも、最後の凡退も、どれも同じ試合の中にあった。
「僕が全部、自分のせいにしたら」
僕は言った。
「それは、みんなの分まで引き受けることになるんですか」
牧野さんはすぐには答えなかった。
窓の外で、グラウンド整備のレーキが土を擦った。金属の歯が砂を均し、ざ、と長く鳴る。部室のなかでは、湊が手にしたボールを一度だけ握り直していた。
「違う」
牧野さんは言った。
「全部、自分のせいにするのは、引き受けることじゃない。奪うことだ」
僕の指が、記録表の端をつまんだ。
「奪う?」
「他人が背負うはずだった悔しさまで、自分のものにする。誰かが返したかった言葉も、謝りたかったことも、次に直したかったことも、全部お前の失敗にまとめる。それで一人になって、責任を取ったつもりになる」
声は淡々としていた。怒鳴っていない。だから、ひとつひとつの言葉が逃げ道を塞いだ。
「それは、仲間を信じていないのと同じだ」
湊が、ボールを机へ置いた。
「牧野さん、それ、俺にも刺さるんですけど」
「刺さるなら、覚えておけ」
「俺は蒼を責めたくなくて黙ってたんです。蒼が全部悪かったってことにしたほうが、余計なことを言わずに済むと思って」
「それも同じだ」
湊は口を閉じた。
僕は湊を見た。湊の目が、初めて真正面からこちらを向いた。さっきまでなら、すぐに冗談へ逃げていたはずなのに、今は逃げなかった。
「俺も、蒼に預けてたんだよ」
湊は言った。
「最後の打席の悔しさを、お前が持ってくれるなら、俺は何も言わなくて済む。俺は俺で悔しかったけど、お前のほうが苦しそうだったから、そっちを見ていれば、自分の悔しさを見なくて済んだ。蒼が全部引き受けたみたいな顔をしてくれたから、俺はそれに乗っかった」
「湊」
「だから、さっき言った。俺もあの回の外側にいたって。蒼だけに持たせたのは、蒼のせいだけじゃない」
湊の声は、早くなかった。言葉を選ぶたびに、少しずつ遅れる。その遅れが、今は不器用さではなく、確かめながら話している時間に思えた。
僕はノートを閉じた。
「俺は、仲間を信じてないわけじゃない」
「分かってる」
「でも、信じてるなら、渡せばよかった」
「何を」
「悔しかったってことを」
湊の顔から、笑いが消えた。
「それだけ?」
「それだけが言えなかった」
喉の奥が熱くなる。声を出す前から、そこに残っていた砂が動いた。
「打てなかった。悔しい。あの一球を取り返したい。そう言えばよかった。でも、言ったら、お前らが困ると思った。俺に何か言わなきゃいけなくなる。だから、俺が全部悪かったことにして、片づければいいと思った」
「俺たちは、困ってよかったんだよ」
湊が言った。
「困って、何を言えばいいか分からなくなって、変なことを言って、また黙ればよかった。そういう時間も、俺たちのものだったんだから」
僕は、そこで返事ができなくなった。
凛が、机の端に卒業アルバム箱を置いた。箱の蓋には新しいテープがまっすぐ貼られている。凛はその端を爪で押さえ、浮いていた部分を丁寧に潰した。
「先輩」
「何だ」
「これ、残していいですか」
凛が見せたのは、古いメモだった。
〈声、最後まで〉
以前見たものと同じ紙だった。けれど、今日は裏面に小さな文字があることに気づいた。消えかけた鉛筆で、誰かが書いている。
〈声が出ない日も、隣に立つ〉
僕はしばらく、その文字を見つめた。
「誰が書いた」
「分かりません」
凛は答えた。
「でも、僕は残したいです」
「どうして」
「声が出ない日があることを、次の人に渡せるからです。声を出せないなら終わり、ってことにしないで済むので」
凛はメモを箱へ戻した。
「先輩も、昨日は声が出なかった。湊先輩も、言いたいことを言えなかった。僕も、何も言えなかった。でも、だからといって、あの試合に何もなかったわけじゃないです」
凛の指が、箱の蓋の上で止まった。
「声が出なかったことも、隣に立っていたことも、全部残ります。残るなら、次に使える形にしたいです」
牧野さんは記録表の束を、僕の前へ戻した。
「書け」
「何を」
「お前が見たものを」
「もう、いろいろ書いてあります」
「書かれていないものを」
僕はペンを取った。
紙の上には、まだ広い余白が残っていた。公式記録の数字の脇。走者の進塁と、アウトの数のあいだ。誰かがそこに何かを書かなければ、空白のまま終わる場所。
僕はペン先を置いた。
最初に浮かんだのは、最後の打席だった。変化球。芯を外した打球。審判の腕。けれど、それだけを書けば、また同じところへ戻ってしまう。
その前に、何があったか。
九回の守備。凛の声。湊がベンチで伝えようとしていた相手投手の癖。牧野さんが前夜から整えていた記録。空になったクーラーボックス。誰かが冷たい飲み物を運び、誰かが飲み、誰かが最後に洗う。
僕は、少しずつ書いた。
〈九回表、凛の声が続いていた〉
〈九回裏、湊は相手投手の癖を見ていた〉
〈打席へ向かう前、ベンチから名前を呼ばれた〉
そこで、ペンが止まった。
僕はその声を、ずっと失敗の前触れとして覚えていた。けれど、名前を呼ばれたということは、誰かが僕を見ていたということだ。打てるかどうかではなく、そこへ向かう僕を。
ペン先を紙へ戻す。
〈凡退のあとも、声は消えなかった〉
書き終えた文字を、僕はしばらく見た。
湊が作業台から離れ、僕の横へ来た。紙を覗き込みながら、すぐには何も言わない。凛も向かいの棚からこちらを見ていた。牧野さんは、少し離れた場所でマーカーのキャップを閉じた。
「それ、提出するのか」
湊が尋ねた。
「分からない」
「じゃあ、なんで書いた」
「書かないと、消える気がした」
自分の声を聞いて、ホワイトボードの一行が胸の奥で重なった。
ここで終わらないでくれ。
牧野さんが、記録表の余白へ視線を落とした。
「それでいい」
「何が」
「すぐに提出しなくていい」
僕は顔を上げた。
牧野さんはホワイトボードを見た。黒い文字は、朝から少しずつ薄くなっている。けれど、完全には消えていない。白い粉がその周囲に残り、文字の輪郭をかえって浮かび上がらせていた。
「余白は、空けておくものでもある」
牧野さんは言った。
「あとから書けるように」
「でも、空白のままだと、何もなかったみたいになります」
「書く人がいればな」
「誰が書くんですか」
「次の人間かもしれない」
凛が、箱の蓋を押さえながら言った。
「僕、書きます」
牧野さんは凛を見た。
「何を」
「今日の続きです。先輩たちが残したものを使ったら、その結果を書きます。失敗したら、それも書きます」
湊が笑った。
「凛、記録魔になる気か」
「湊先輩の飲み物の本数も記録します」
「それはやめてくれ。俺の食生活が後世に残る」
「必要な記録です」
「どこが?」
「足りなかったものが分かるので」
湊は困ったように頭を掻いた。けれど、その顔にはさっきまでの硬さがなかった。
僕は記録表を机の端へ置いた。
紙の上に書いた言葉は、まだ僕のものだった。感謝でも反省でもない。誰かへ返すには不器用で、記録としては曖昧すぎる。それでも、最後の一打だけで閉じようとしていた視線を、ほんの少し外へ向けることはできた。
牧野さんが点検表を僕の前へ置いた。
「クーラーボックス」
「洗って干しました」
「確認しろ」
僕は立ち上がった。
「もう一度ですか」
「乾いているか」
「分かりました」
湊がボールケースを持ち上げた。
「俺も行く」
「ボールは?」
「あとで数える。蒼が一人で行くと、クーラーボックスに話しかけるかもしれないから」
「話しかけない」
「じゃあ、俺が話しかける」
「いらない」
「そう言うと思った」
凛は卒業アルバム箱を棚へ戻した。箱の背表紙に、彼の字で新しい紙が貼られている。
〈記録・メモ〉
以前なら、何を残すか決めるだけで疲れていた。今は、その文字があることに少しだけ安堵した。箱は閉じられている。けれど、閉じたからといって終わったわけではない。次に開ける人間のために、場所と名前が残されている。
僕たちは部室を出た。
廊下の白い光が、目の奥へ流れ込んでくる。湊の持つボールケースが、歩くたびに小さく揺れた。僕の手には、記録表の紙の感触が残っている。指先にインクがつき、親指の腹が少し黒くなっていた。
グラウンド脇の物干し台では、クーラーボックスが伏せられたまま、陽を受けていた。底の水はすっかり落ちている。けれど、角には薄い土の線が残っていた。
僕は指でそこをなぞった。
消そうと思えば消せる。布を押しつければ、いずれ薄くなるだろう。けれど、完全に消す必要はない気がした。汚れが残っているからこそ、誰かが使ったことが分かる。使われたものは、次に渡す前に、少しだけ傷んでいる。
その傷みまで含めて、続きになる。
「乾いてる」
僕が言うと、湊が横から覗き込んだ。
「じゃあ、合格?」
「何の」
「次の試合」
僕は返事をしなかった。
けれど、物干し台からクーラーボックスを下ろすとき、今度は湊へ取っ手の片側を渡した。もう片方を僕が持つ。空の箱は軽かったが、歩調を合わせなければ、かえって運びにくかった。
部室へ戻る廊下の途中で、僕は一度だけ振り返った。
グラウンドの土は、昼の光を受けて白く乾き始めている。昨日の試合の跡は、遠目にはほとんど見えない。それでも、そこへ立った足の裏の感触は、まだ僕の中に残っていた。
部室のホワイトボードには、あの一行がある。
ここで終わらないでくれ。
僕はその意味を、まだ完全には言葉にできない。
ただ、記録表の余白へ書いた文字を見れば、少しだけ分かる。終わらないとは、失敗を消すことではない。失敗だけを残さないことだ。誰かの声や、隣に立った時間や、渡された手のぬくもりまで、同じ紙の上へ置いておくことだ。
僕は記録表を机の端へ戻した。
まだ余白は残っている。
そこには、これから書けることがある。僕だけではなく、湊にも、凛にも、次にこの部室へ入る誰かにも。
そのことを、初めて空白のまま受け入れられた。
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