7話 空ボトルの指跡

朝の旧館廊下は、窓から差す光がまだ弱く、床にまっすぐ伸びる白い筋だけが、そこに時間が動いていることを教えていた。靴音は乾いて響き、僕はその音を数えるように歩いた。片づけが進むほど、部室は僕の知っている部室ではなくなっていく。それでいて、ホワイトボードの前に立つたび、あの一行だけは変わらずにそこにあった。

ここで終わらないでくれ。

何度読んでも、意味は少しずつずれていく。慰めだと思えば重すぎる気がして、頼みだと思えば軽すぎる気がした。僕はその言葉を、まだどこにも置けずに持ち歩いているようなものだった。

部室の隅、ロッカーとロッカーの隙間に、見覚えのあるボトルが転がっていた。空のスポーツドリンク。ラベルの端が少しだけ折れ、指の跡が薄く残っている。誰かが握りしめた形のまま、乾いていた。

僕はそれを拾い上げ、無意識に机の上へ置いた。

昨夜、誰かがここへ戻ってきた。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけ温度を持った気がした。片づけは終わっていない。誰も彼もが、まだこの部室を完全には手放していない。そう思うだけで、朝の白さがさっきより柔らかく見えた。

廊下の向こうから、足音がした。

湊だった。

いつものように口元に軽い笑みを置いていたが、僕がボトルを持っているのに気づくと、その笑みは一瞬だけ止まった。止まったというより、行き場を探して迷ったという方が近い。湊は僕の手元と、僕の顔を、交互に見た。

僕は言い出し方を探した。

だが、探せば探すほど、あの最終イニングの凡退だけが大きくなって、それ以外の言葉が全部、その影に隠れて小さくなっていく。長く考えるほど、口にできる言葉は減っていった。

「これ、お前のか」

結局、そう言うのが精一杯だった。ボトルを指で軽く弾いてから、湊のほうへ差し出す。

「ああ」

湊は短く答えて、視線を落とした。受け取るために伸ばしかけた手が、途中で止まる。ボトルはまだ僕の手の中にあった。

そこから先は、互いに何も急がなかった。

湊はもう一度手を伸ばしかけ、けれど受け取らずに、代わりに一度だけボトルを持ち直すような仕草をした。指先が触れるか触れないかのところで止まり、それから喉の奥で何かを飲み込む。喉仏がわずかに動いた。僕はその動きを見逃さなかった。

「昨日の夜、来たのか。ここに」

僕が尋ねると、湊はすぐには答えなかった。

「……ちょっとだけ」

「何しに」

「別に。ただ、鍵が開いてたから」

「牧野さんが開けたんだろ」

「かもな」

湊はそう言って、机に置かれたままのボトルを見た。僕はまだそれを渡していなかった。渡すきっかけを、自分でも掴めずにいた。

試合後の夜に、湊がここへ戻っていた理由を、僕はまだ知らない。それでも、少なくとも湊も、あの試合の後、僕と同じ場所に立ち尽くしていたことだけは分かった。誰もいない部室に、一人で来て、誰にも言わずに帰った。その事実が、これまで僕の中で凍りついていた沈黙の輪郭を、少しずつ変え始めていた。

「俺」

言いかけて、僕は一度言葉を止めた。湊は待った。急かさなかった。

「俺、あの打席だけしか見えてなかった」

声は短かったが、口に出した瞬間、喉のあたりが少しだけ熱くなった。言ってしまえば、もう取り消せない。取り消せないことを、僕はずっと恐れていたのだと、言ってから気づいた。

湊はすぐには返さなかった。

代わりに、廊下の窓のほうへ目をやった。白い光が制服の肩に落ち、湊の横顔を薄く縁取っている。眠そうな目の下に、まだ薄い疲れが残っていた。あの夜、ここで何を思っていたのか、僕には分からない。分からないまま、湊の輪郭だけが、朝の光の中で妙にくっきりと見えた。

「見えてないの、たぶんお前だけじゃない」

しばらくしてから、湊はそう言った。

その言葉の軽さの中に、僕は軽くしてしまったぶんの重さを感じた。ふざけたような声の裏に、本音をしまい込む癖があるのは、僕だけではなく湊にもある。僕はそれをずっと知っていたはずなのに、これまで自分の痛みしか見ていなかった。

「見えてないって、何が」

「打席以外の全部だよ」

湊は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

「俺だってさ、あの回、ベンチから見てたことがある。相手投手の癖とか、蒼の肩の入り方とか。見えてたのに、蒼に伝えるタイミングを何度も逃した。声を出せば良かったのに、出さなかった。だから、蒼だけが見えてなかったなんて、俺には言えない」

僕は何も返せなかった。

湊の声には、これまで聞いたことのない硬さがあった。軽口の隙間から出てくる、飾らない言い方だった。

「でも、打ったのは俺だ」

ようやく、僕はそれだけを絞り出した。

「そうだよ」

湊はすぐに認めた。

「打ったのは蒼だ。打てなかったのも蒼だ。それは変わらない。だから、その悔しさを蒼のものじゃないなんて言うつもりはない。ただ、それを蒼だけのものにしないでほしい。そうやって全部持っていかれたら、あの回にいた俺たちは、何だったんだよ」

その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

僕はずっと、仲間の努力を軽く扱わないために、自分が全部の責任を背負っているつもりだった。僕が悪かったと言えば、みんなの積み重ねは守られる。そう思い込んでいた。けれど実際には、僕がすべてを自分のものにしていただけだった。みんなの声も、守備も、走塁も、悔しさも、最後には僕一人の失敗という形へ押し込めていた。

「悪かった」

言葉が、勝手に喉から出た。

「何が」

「お前の分まで、勝手に持っていったこと」

湊は一瞬だけ驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと笑った。

その笑いは、乾いていた。けれど、昨日までのそれとは違っていた。場を保つための笑いでも、痛みを覆い隠す笑いでもない。ただ、少しだけ息を抜くような、そういう笑い方だった。

僕は空のボトルを、もう一度湊のほうへ差し出した。

今度は、湊も迷わずに受け取った。指先が触れる瞬間、冷えたプラスチックの感触が、僕の掌にわずかに残った。

「これ、まだ捨ててなかったのか」

「捨てられなかった」

「なんで」

「分からない」

「蒼らしいな」

湊はそう言って、ボトルを軽く振った。空の音が、乾いた部室の空気に短く響いた。

ふたりの間にあった氷のようなものが、初めて指先で確かめられる硬さから、少しだけ柔らかい硬さへ変わった気がした。僕はまだ何も解けたとは思わない。悔しさも、喉の奥のひりつきも、消えてはいない。それでも、昨夜の沈黙がひとり分ではなかったと知っただけで、部室の空気は、これまでとは違う重さを持ちはじめていた。

窓の外で、フェンスが小さく鳴った。朝練の支度をする誰かの声が、遠くから聞こえてくる。僕たちはまだ、その輪の外にいる。けれど、外にいながら、少しだけ近づいた場所に立っているような気がした。

湊は空のボトルを鞄へしまいながら、ぽつりと言った。

「今度、飲むときは中身入れとくよ」

「甘いやつはやめろ」

「じゃあ、蒼の分だけ苦いやつにする」

「それでいい」

短いやり取りだったが、そこには、これまでのすれ違いを埋めるだけの何かが、確かに混じっていた。僕たちはまだ、互いのすべてを分かり合ったわけではない。それでも、朝の白い光の中で、少なくとも一つだけ、昨日より近い場所に立っていた。

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空ボトルの指跡 - 一行の次戦 - 誰でも作家life