第6話 背中で教わるもの

昼前になると、旧館の廊下に差し込む光は、朝の白さを少しずつ失っていた。窓の外では雲の切れ間から陽が落ち、グラウンドの土だけが熱を持って赤く見える。部室の中には、洗った道具の水気と、古い木の匂いが混ざっていた。
僕は卒業アルバム箱の中身を、机の上へ一度すべて出していた。
集合写真。名前の消えかけたメモ。誰かが試合前に書いた、意味の分からない掛け声。端の折れた記録用紙。三年分どころか、もっと前の時間が、薄い紙の束になって重なっている。
物は黙っている。
だから、僕には扱いやすかった。
言葉なら、相手の声の高さや間を読んでしまう。笑っているのか、困っているのか、こちらへ何かを求めているのか。余計なものまで拾ってしまう。けれど紙は、書かれたこと以外を要求しない。折り目を伸ばし、順番を揃え、箱へ戻せばいい。
凛はベンチ裏の棚を整理していた。空になったバットケースを一つずつ引き出し、底にたまった砂を逆さにして落としている。砂は床へ細い音を立ててこぼれ、擦り切れたマットの隙間へ入り込んだ。
「久世先輩」
呼ばれて、僕は顔を上げた。
凛が一冊のノートを持って立っていた。表紙は濃い青だったはずだが、角が擦れて灰色になっている。背表紙には、白いペンで小さく「守備」と書かれていた。文字の一部は剥げている。それでも、その字には見覚えがあった。
僕の字だった。
「これ、片づけてたら出てきました」
凛はノートを僕の前へ置いた。
僕は表紙を撫でた。紙が湿気を含んで少し柔らかくなっている。指先に、古い鉛筆の粉のようなざらつきが残った。
「まだあったのか」
「先輩のですか」
「多分」
「多分って」
「俺が書いた字だから、俺のだと思う」
「ずいぶん自信がないですね」
凛の声には、からかう響きが少しだけあった。湊の冗談とは違う。空気を軽くするためではなく、僕がノートを前に固まっているのを、立ったままにしないための言葉だった。
僕は表紙を開いた。
最初の頁には、日付と対戦相手の名前が書かれている。中学から使っていた癖で、日付の数字だけが妙に大きい。頁をめくると、見慣れた文字が並んでいた。
〈一死二塁。三塁線寄り。打者の肩が開いたら一歩下がる〉
〈二塁手、送球が高い。無理に一塁へ投げない〉
〈凛、右打者のとき一歩前。打球が速い〉
自分の名前を見つけて、指が止まった。
凛は僕の肩越しに頁を見た。
「それ、僕が一年のときのです」
「覚えてるのか」
「覚えてます」
「そんな細かいこと」
「細かいことじゃないです」
凛はバットケースの取っ手を持ったまま、僕の隣へ腰を下ろした。ベンチの木が、体重を受けて低く鳴る。凛が座ると、汗の乾いたシャツから、グラウンドの土と洗剤の匂いがした。
「この日、僕、守備位置を間違えました」
僕は頁の端に書かれた日付を見た。去年の春だった。相手は、今では名前も思い出せない練習試合の相手だった。
「一死一塁で、打者が左だったから、僕は二塁のカバーへ寄りすぎた。次の打球が三遊間へ抜けて、走者を三塁まで進めました」
「それは覚えてない」
「僕は覚えてます」
凛はノートの文字を指で押さえた。
「そのあと、先輩が僕のところへ来て、『次は一歩だけ戻れ』って言いました。怒らなかった」
「怒るようなことじゃないだろ」
「僕には、怒られることでした。自分のミスで走者を進めたので」
「でも、次の打球を止めればいい」
「先輩は、そう言いました。『今の一球はもう終わった。次に立つ場所だけ考えろ』って」
僕は頁から目を離した。
そんなことを言った記憶はなかった。言ったとしても、何かの拍子に口から出ただけだと思う。凛がその言葉を覚えていることのほうが、不思議だった。
「そんなの、誰にでも言ってた」
「そうかもしれません」
「特別なことじゃない」
「僕にとっては、特別でした」
凛は淡々と話した。声は大きくない。それでも、部室の奥にいる牧野さんへ届きそうなほど、言葉の輪郭がはっきりしていた。
「僕は、ミスしたら、その場で終わりだと思ってました。次の打球が来ても、さっきのミスを取り返さなきゃいけない。だから、取り返せないまま、また遅れる。先輩は、取り返せとは言わなかった。次の場所へ立てと言った」
僕は、ノートの頁を指で押さえた。
紙の下に、昨日の打席があるような気がした。
僕は三球目を打ち損じたあと、次の場所へ立たなかった。ベンチへ戻り、名前を呼ばれ、仲間の肩や声が近くにあったのに、僕はその全部から目を逸らした。終わったという判断を、誰より先に自分へ下した。
「先輩の指示、見てましたよ」
凛はそう言った。
「ずっと」
僕は返事をしなかった。
「試合のときだけじゃないです。練習中、誰がどこに立っているか。誰の足が遅れているか。声が出ていない人が誰か。先輩は、いつも見てました」
「見てただけだ」
「見て、言って、動いてました」
「それくらい、誰でもやる」
「僕はできません」
凛は即座に答えた。
「今も、できません。昨日の最後だって、先輩の名前を呼ぶだけでした。何を言えばいいか分からなくて、声が止まりました」
その告白は、あまりに簡潔だった。悔しさを飾る言葉も、責任を逃れる言い訳もない。ただ、できなかったことを、できなかった形のまま置いている。
僕は、凛が昨日の打席のあと、目を合わせなかったと思っていた。失望しているのだと決めつけていた。けれど実際には、凛もまた声を失っていた。僕の失敗を見ていたのではなく、僕がその場から消えていくのを見ていたのかもしれない。
「だったら、声を出せばよかっただろ」
言ってから、喉が硬くなった。
「先輩みたいに」
凛は僕を見た。
「先輩みたいには、まだできません」
責められたわけではない。だからこそ、その言葉は深く入ってきた。
「俺だって、昨日は声が聞こえなかった」
「聞こえていたと思います」
「聞こえなかった」
「聞こえていても、受け取らなかったんじゃないですか」
凛の指がノートの頁を閉じた。
「先輩は、誰かに支えられるとき、いつも一度、自分の中で拒みます。飲み物を渡しても、いらないと言う。守備位置を伝えても、自分で考えると言う。手伝おうとすると、先に自分の分を終わらせる。僕たちは、先輩が一人でやりたい人だと思っていました」
「違う」
「違いますか」
「一人でやりたいわけじゃない。迷惑をかけたくないだけだ」
「同じです」
凛は言った。
「先輩が一人でやろうとすると、僕たちは先輩のそばに立てません。手を出していいのか分からなくなる。だから、支えるつもりでも、見ているだけになる」
僕は、ノートの表紙へ視線を落とした。
紙の上には、僕が見ていたものが残っている。打球の方向、走者の足、ベンチの立ち位置。誰かが少し遅れれば書き留め、誰かが迷えば次の練習で伝えた。僕は仲間を見ていたつもりだった。
けれど、見ていることと、預けることは違う。
僕はずっと、人の変化には気づいても、その気づきを相手へ返していなかった。湊が無理に笑っていることも、凛が声を失っていたことも、分かっていながら、分からないふりをした。余計なことを言わず、道具を整え、相手が困らないように先回りする。そのやり方で、僕は仲間を守っているつもりだった。
本当は、仲間が僕を支える余地まで片づけていた。
「このノート、凛が持ってたのか」
「借りてました」
「いつから」
「去年の春からです」
「返せよ」
「何度か返そうとしました。でも、先輩が『使うなら持ってていい』と言ったので」
僕は眉を寄せた。
「俺が?」
「覚えてないんですか」
「覚えてない」
「先輩は、覚えていないことが多いですね」
凛は少し笑った。
「僕は覚えています。先輩がノートを渡して、『守備は立つ場所で半分決まるから』と言ったこと。僕はその意味が分からなくて、何度も読みました」
「そんな大したことは書いてない」
「だから、書いてあることじゃないです」
凛はノートを持ち上げた。
「先輩が、自分の見ていたものを僕に渡したことです」
その言葉の前で、僕はうまく呼吸ができなくなった。
喉の奥に、砂とは違うひりつきが生まれる。感謝を言われると思っていなかった。僕は何かを教えたつもりも、残したつもりもなかった。ただ、練習中に見えたことを伝え、使わなくなったノートを置いてきただけだ。
それでも、凛は受け取っていた。
自分が渡したと思っていないものまで、誰かの中に残っている。
「返す」
僕はノートへ手を伸ばした。
凛はすぐには渡さなかった。
「先輩が持って帰るんですか」
「いや」
「じゃあ、どうしますか」
僕は答えに詰まった。
ノートを自分のロッカーへ戻すこともできる。持ち帰って、机の引き出しへしまうこともできる。けれど、それでは凛から取り上げるだけになる気がした。
「凛が持ってろ」
「いいんですか」
「もう、俺には必要ない」
言ってから、違うと思った。
必要がないわけではない。僕がもう一度、そこに書かれた自分の視線を読む必要はある。けれど、ノートは僕だけのものではなくなっていた。
「……いや、必要かもしれない」
「どっちですか」
「使うなら、持ってていい」
「前と同じですね」
「そうだな」
僕は表紙から手を離した。
凛はノートを胸元へ引き寄せた。抱きしめるほど強くはない。ただ、落とさないように両手で支えている。その仕草が、僕には妙にまっすぐに見えた。
「先輩」
「何」
「この頁、今日の練習で試してもいいですか」
「朝練はもう終わってる」
「自主練です。牧野さんに聞いてきます」
凛は立ち上がった。
「待て」
「はい」
「俺も行く」
凛は、ほんの少しだけ目を見開いた。
僕は自分でも驚いていた。部室の中でノートを眺めているだけなら、きっとまた同じところを回り続ける。打席の記憶と、そこから逃げるための片づけを、何度も繰り返す。
外へ出て、土の上に立つ。
そのほうが、今は必要だった。
牧野さんは、卒業アルバム箱の横で記録表を整理していた。僕たちが立ち上がると、顔を上げる。
「グラウンドを使ってもいいですか」
僕が尋ねた。
牧野さんは、僕と凛、それから凛の手元のノートを見た。
「何をする」
「守備の確認を」
「引退した選手が?」
「……はい」
牧野さんは一度、ペン先で机を叩いた。
「十分」
それだけだった。
僕と凛は部室を出た。
廊下へ出ると、空気が変わった。部室にこもっていた木と紙の匂いが薄まり、代わりに、陽に温められた土の匂いが鼻へ入ってくる。窓の外では、白い雲が高く流れていた。階段を下りると、靴底が古い床を離れ、土の柔らかさへ触れた。
グラウンドは、朝より広く見えた。
誰もいないわけではない。校舎の向こうでは、別の部の掛け声が聞こえる。フェンスの外を車が走り、遠くで工事の音がしている。それでも、僕たちのいる内野には、昨日の試合のあとに置き去りにされた静けさが残っていた。
凛はノートを開いた。
「ここです」
〈左打者。二塁手は一歩前。三遊間が空くので、遊撃手は深くしすぎない〉
「覚えてるか」
「覚えてます」
「じゃあ、立ってみろ」
凛は二塁手の位置へ走った。
僕は打席のあたりへ歩き、足元の土をスパイクで均した。土は乾いていたが、表面の下にはまだ湿り気がある。昨日、何度も踏まれた場所だけが硬く、靴底の金具を押し返した。
凛が構える。
「一歩前」
「ここですか」
「半歩。前に出すぎると、二遊間が狭くなる」
凛が足を戻した。
「先輩、これ、去年と同じです」
「そうか」
「先輩も同じ場所に立ってました」
僕は周囲を見た。
ベンチ。三塁線。外野のフェンス。昨日の最終イニングとは違う時間なのに、景色の配置だけが重なっている。あのときも、僕は誰かの位置を見ていた。誰かが一歩遅れれば声を出し、誰かが深ければ手を振った。
自分の打席へ入るまでは。
「打者が打ったつもりで走れ」
凛がうなずいた。
僕は手にしたボールを、内野の間へ転がした。凛が一歩前へ出て捕球する。送球の姿勢が少し高い。
「低く」
凛が投げ直す。
今度は、ボールが一塁へまっすぐ伸びた。
「どうですか」
「いい」
短い返事をしてから、僕は言葉を足した。
「最初の一歩が少し遅れた。打球を見てから動いてる。打者が振る前に、肩の向きを見ろ」
凛はすぐに頷いた。
「はい」
そして、もう一度、同じ位置へ戻った。
その動きに迷いがない。僕が以前そうだったように、ではない。凛は凛の速さで、受け取ったものを自分の身体へ移している。
僕は三度、ボールを転がした。
凛は三度、位置を変えた。最初は半歩遅れ、次は前へ出すぎ、最後にようやく打球と送球の線が揃った。土を蹴る音、グラブへボールが入る音、遠くで誰かが呼ぶ声。どれも、試合の記憶を消してくれはしなかった。
ただ、記憶の中へ別の音が重なっていった。
「先輩」
三度目の送球を終えた凛が、こちらへ戻ってきた。
「今の、昨日の最終打席の前に教えてくれたらよかったのに」
「昨日は打撃の話だろ」
「そうでした」
「守備の話をしてる場合じゃない」
「でも、先輩なら何か言ってましたよね。僕が打席に立つ側なら」
僕は答えられなかった。
凛はノートを閉じた。
「先輩は、誰かが打てないとき、打てなかったことだけを見ないです。次に守る場所とか、走者の戻り方とか、ベンチの声とか、すぐに別のことを見ます」
「それが普通だろ」
「先輩にとっては、そうなんでしょうね」
凛は、グラウンドの中央へ視線を向けた。
「でも、先輩自身が打てなかったときは、自分だけを見ます」
風がフェンスを揺らした。金網が低く鳴り、白い雲の影が土の上をゆっくり横切った。
「僕は、先輩のそういうところを真似したくないです」
「……そうか」
「はい。守備の位置取りや、声のかけ方は真似したい。でも、自分を一人で終わらせるところは、真似したくない」
凛の言葉は、強くはなかった。むしろ静かだった。だから、僕はそこから目を逸らせなかった。
僕はグラウンドの土を靴先で撫でた。乾いた表面が崩れ、細い筋になる。昨日の打席で踏んだ土と、今踏んでいる土は同じ場所から運ばれたものなのに、感触が少し違っていた。
「俺は、先輩として何か残せたと思うか」
口にしてから、聞く相手を間違えた気がした。
凛はすぐに答えなかった。ノートの角を親指でなぞり、頁の端を揃える。僕と同じ癖だった。誰かから受け取ったものを、乱れたままにしておけないのだろう。
「残ってます」
「何が」
「場所です」
「場所?」
「どこに立てばいいか。何を見ればいいか。失敗したあと、どこへ戻ればいいか。先輩が教えたのは、そういう場所です」
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「俺は昨日、戻れなかった」
「でも、今日は戻ってきました」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
僕は昨日の自分を思い出した。打席を終え、ベンチへ戻り、名前を呼ばれた。僕は顔を上げなかった。戻る場所がなかったのではない。戻ることを、自分でやめたのだ。
そして今、僕は凛の前に立っている。まだ悔しさはある。喉の奥もひりついている。けれど、土の上でボールを転がし、凛の一歩を見て、言葉を返している。
戻るというのは、傷がなくなることではなかった。
傷を抱えたまま、立つ位置を探すことだった。
部室へ戻る廊下は、来たときより明るかった。窓から入る風が、汗ばんだ首筋へ触れる。凛はノートを脇へ挟み、空になったバットケースを片手で持っていた。僕が持つと言う前に、凛は歩き出している。
「それ、俺が持つ」
「大丈夫です」
「大丈夫とは言ってない」
凛は足を止めた。
僕はバットケースの取っ手へ手を伸ばした。
「半分持つ」
「半分?」
「お前が持ってるから、俺も持つ」
凛は一瞬だけ僕の顔を見た。それから、取っ手を少しずらした。僕の手がそこへ入る。冷えた金属が二人の指の間へ触れた。
「重いですか」
「重くない」
「じゃあ、僕一人で」
「そういう話じゃない」
凛は何も言わなかった。
二人で持つと、ケースは思ったより安定した。歩く速さが違えば揺れる。片方が急げば、もう片方が引かれる。自然に歩調を合わせなければ、持ち続けることができない。
廊下の窓から、グラウンドが見えた。
昨日まで僕が守っていた場所。これからは凛たちが立つ場所。土の上には、さっき僕たちがつけた足跡が残っている。風が吹けば消える程度の浅い跡だったが、確かにそこへ立ったことだけは分かった。
部室の扉を開けると、牧野さんが机の前にいた。
僕と凛がバットケースを運び込むのを見て、牧野さんは短く頷いた。
「戻したか」
「はい」
凛が返事をする。
僕はノートを凛へ渡した。
「これ、持ってていい」
「ありがとうございます」
「ただし、書き足せ」
凛の眉がわずかに上がった。
「先輩の続きに?」
「お前の続きに」
凛はノートを胸元へ抱えた。
「分かりました」
その返事は、昨日までの「はい」と少し違っていた。受け取るだけではなく、返すつもりのある声だった。
僕は机の上の卒業アルバム箱へ向かった。さっき出した写真やメモを、順番に戻していく。名前のないメモを一枚、箱の底へ置いた。後輩が拾った手袋を、使える道具の箱へ入れた。空の棚には、まだ何も置かない。
それでも、空白を見る目は変わっていた。
空いた場所は、失われたものの形を残すだけではない。誰かが次に立つための場所にもなる。凛が言ったように、受け取ったものは使い、汚し、また片づけていく。その繰り返しの中で、部室は同じ形を保ちながら、少しずつ別の時間を抱えていくのだろう。
ホワイトボードへ目を向けた。
ここで終わらないでくれ。
文字は、まだ消されていない。
僕は右手を上げ、白く曇った文字の下へ指を置いた。粉が指先へ移る。朝に触れたときよりも、その白さは薄かった。
僕はまだ、意味を完全には言えない。
けれど、凛のノートを見て、土の上で一歩を教え、同じケースを運んだあとなら、少なくとも一つだけ分かる。
終わらないというのは、昨日の続きをそのまま続けることではない。
昨日の中から、誰かが次に立つ場所を見つけることだ。
僕はノートの表紙へ、もう一度目をやった。そこには、僕が忘れていた自分の字が残っている。守備位置。声かけ。次の一歩。
最後の頁には、まだ何も書かれていなかった。
その白い頁を見つめながら、僕は鉛筆を手に取った。書くべき言葉は、すぐには浮かばない。感謝と書くには、まだ照れくさい。反省と書けば、また自分だけのものにしてしまいそうだった。
だから、まず日付を書いた。
その下へ、短く一行だけ記す。
〈失敗した人を、その場に置き去りにしない〉
書き終えたあと、僕は鉛筆を置いた。
凛がその文字を覗き込む。何も言わなかった。けれど、ノートを閉じる前に、その頁の角を丁寧に揃えた。
部室の外で、後輩たちの声が上がった。誰かがボールの数を読み、別の誰かが返事をする。白い光が床を横切り、ロッカーの金具を淡く光らせている。
僕はバットケースの取っ手へ手を伸ばした。
今度は、一人で持ち上げなかった。凛が反対側を持つまで、少し待った。
その待つ時間を、僕は以前なら無駄だと思っていたかもしれない。けれど、誰かが手を伸ばすためには、こちらが先にすべてを持っていかないことも必要だった。
二人でケースを棚へ戻す。
床に残った土を、凛がほうきで掃く。僕はそのあとを雑巾で拭いた。乾いた土が水を含み、茶色い線になって床へ伸びる。凛のほうきの音と、僕の布が木を擦る音が、交互に部室へ響いた。
ホワイトボードの一文は、まだそこにある。
けれど今は、僕を立ち止まらせる言葉ではなかった。部室の奥から、次の作業を待つ声のように聞こえた。
僕は立ち上がり、白く汚れた指先を見た。
それから、凛へ向かって言った。
「次、どこを片づける」
凛はすぐに答えた。
「ベンチ裏です」
「分かった」
僕たちは並んで歩き出した。
部室の奥には、まだ片づけきれないものが残っている。名前のないメモ。片方だけの手袋。乾ききらないクーラーボックス。誰かの時間が、まだいくつも、そこに置かれている。
僕はそれらを一つずつ拾い上げるために、凛の少し後ろを歩いた。
背中が教えてくれることは、言葉より静かで、言葉より長く残る。
その背中を、今度は見失わないようにした。
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