5話 冗談のほどけ目

空のクーラーボックスの底には、乾いた土が薄く貼りついていた。

僕は濡らした布を押し当て、角の溝を指先でなぞった。水を含んだ布から、冷えたプラスチックの感触が伝わってくる。昨日までなら、ここに氷が詰まっていた。スポーツドリンクのボトルが揺れ、誰かが蓋を開けるたびに、冷気と水滴がこぼれた。

今は、土と、溶けた氷の跡だけが残っている。

布を絞ると、流し台に茶色い水が落ちた。水滴が一つ跳ね、僕の手首へ触れる。冷たかった。けれど、その冷たさはすぐに消え、代わりに昨日の打席の熱が皮膚の内側へ戻ってきた。

三球目。

バットの先に残った、あの鈍い感触。

僕はクーラーボックスの底をさらに強くこすった。

そのとき、部室の扉がきしんだ。

「お、まだ磨いてんの?」

振り向かなくても、誰かは分かった。

早瀬湊が、入口に立っていた。片手にはコンビニの甘いコーヒー牛乳がある。ストローは刺さっていたが、まだ飲んだ形跡はなかった。目の下には薄い影があり、髪はいつもより乱れている。それでも、口元には普段と同じ笑いを置いていた。

「そんな顔してると、ボールじゃなくて自分まで磨き始めそうだな」

湊はそう言って、少しだけ笑った。

いつもの冗談だった。

練習で誰かが道具を丁寧に扱いすぎると、湊はすぐにこういうことを言った。僕がグローブの紐を何度も締め直していたときも、試合前にスパイクの泥を落としていたときも、同じような軽口を飛ばしてきた。

それで、僕は何度も笑った。

笑えない日には、笑ったふりをした。湊も、それ以上は踏み込まなかった。

だから、今度も同じように返せばよかった。

けれど、口から出たのは別の言葉だった。

「そういうの、今いらない」

湊の笑いが、途中で止まった。

音が消えたというより、投げたものが空中で行き先を失ったようだった。部室の天井近くに、笑いの残骸だけがしばらく浮いている気がした。

凛は部屋の奥で、ロッカーから出したタオルを畳んでいた。こちらを見なかったが、手の動きがわずかに遅くなった。

湊はコーヒー牛乳のストローを指で押さえた。

「……そっか」

声の調子は軽かった。軽くしようとしているのが分かった。

「じゃあ、いるやつにする。クーラーボックス、俺がやるよ」

「いい」

「いや、俺の字で書いた飲み物の本数も入ってるし。最後の一箱、俺が責任持って洗わないと、湊家の名誉が」

「いいって」

僕は布を絞り、また底をこすった。

湊が黙った。

濡れた布がプラスチックの底を擦る音だけが、部室の中で細く続いた。ロッカーの扉が風に押され、金具がかすかに鳴る。窓の外では、まだ朝練前のグラウンドに誰かのスパイクが触れる音がした。

「蒼」

「何」

「昨日のこと、まだ怒ってる?」

布を持つ手が止まった。

僕はクーラーボックスの底から目を上げなかった。

「誰に」

「俺に」

「何で」

「さあ。俺が余計なこと言ったから?」

「いつものことだろ」

「そうなんだけどさ。いつものことが、今日は駄目な日もあるじゃん」

湊はそこで一度笑った。けれど、笑い方が薄かった。口の端だけが動いて、目は動かなかった。

「昨日の打席のことを言ったつもりはない」

「言ってない」

「なら、何でそんな顔するんだよ」

「どんな顔」

「今にもクーラーボックスを二つに割りそうな顔」

「割らない」

「そこじゃないだろ」

湊の声から、冗談の膜が少しずつ剥がれていくのが分かった。僕はそういう変化に気づくのが早い。声の高さが半音下がったとき、相手が本当に尋ねているのか、それとも答えを欲しがっているのかも分かる。

分かるのに、答え方は分からなかった。

「……悪い」

「謝らなくていい」

「じゃあ、何」

「それを俺に聞く?」

「聞いてる」

湊は一度、視線を外した。手持ち無沙汰になると、髪や首筋へ触れる癖がある。今も親指で首の横を擦っていた。

「俺が知りたいのは、怒ってるかどうかじゃない」

「じゃあ何だよ」

「お前が、俺のことをどう見てるか」

その言葉は、部室の狭さに比べて大きすぎた。

僕は布を流し台の縁へ置いた。

湊はコーヒー牛乳を飲まなかった。ストローの先が、紙パックの蓋に刺さったまま揺れている。

「どうって」

「昨日からずっと、俺の顔を見てるだろ」

「見てない」

「見てるよ。俺が笑ったか、黙ったか、凛と話したか。牧野さんが何を持ってるか。ずっと見てる。でも、見たあとに何も言わない」

「……お前だって言わないだろ」

「俺は言ってる。くだらないことなら」

「くだらないことしか言わない」

湊の指が止まった。

言ったあとで、強すぎたと分かった。分かったが、取り消すには遅かった。

凛が畳んでいたタオルを、静かに箱へ入れた。こちらを見ないまま、次のタオルを手に取る。何か言うこともできたはずなのに、言わなかった。その判断が、僕にはありがたくもあり、苦しくもあった。

湊はしばらく、僕を見ていた。

「そうだな」

やがて、彼はそう言った。

「俺はくだらないことしか言わない。そうしてれば、誰も俺に何か聞かないから」

僕は顔を上げた。

湊の笑いは消えていた。普段なら、ここでまた冗談を挟む。自分で重くした空気を、自分で軽くするために。けれど、今朝は笑わなかった。

「試合のあと、みんなが黙ってただろ」

湊は続けた。

「俺、あれが嫌だったんだよ。負けたから黙ってるのか、蒼が打てなかったから黙ってるのか、誰も分からないまま、全員が自分の中で勝手に決めてる感じがして。だから、何か言わなきゃと思った。どうでもいい話でも、変な冗談でもいいから、声が出てれば、まだ部室が部室のままでいられる気がしたんだ」

僕は何も言わなかった。

「でも、お前にいらないって言われたら、俺のやってたことって、本当にいらなかったのかなと思うだろ」

「そういう意味じゃない」

「分かってる。分かってるけど、分かってるだけで済むなら、俺もこんな顔してない」

湊は笑おうとした。

失敗した。

口元が歪んだだけで、声にはならなかった。

「俺だって悔しいんだよ」

その一言だけが、妙にまっすぐだった。

湊はコーヒー牛乳を机へ置いた。紙パックの底が木の天板に触れ、こつ、と小さな音がした。

「打てなかったのはお前だけど、あの試合を落としたのはお前一人じゃない。俺はあの回、ベンチから相手投手の癖を見てた。見えてたのに、蒼へ伝えるタイミングを逃した。次の球が変化球だと思ってたのに、声を出せなかった。打席へ入る前のお前の顔を見て、今さら何を言っても遅いと思った。そうやって黙った俺も、あの打席の外側にいたんだよ」

「でも、打ったのは俺だ」

「そうだよ」

湊はすぐに認めた。

「打ったのは蒼だ。打てなかったのも蒼だ。だから、その悔しさを蒼のものじゃないなんて言うつもりはない。でも、それを蒼だけのものにするなよ。そこまで勝手に持っていかれたら、俺たちは何だったんだよ」

胸の奥が、強く押された。

僕はずっと、仲間の努力を軽く扱わないために、自分が責任を背負っているつもりだった。僕が悪かったと言えば、みんなの積み重ねは守られる。僕が試合を終わらせたと言えば、ほかの誰かの失敗まで責めずに済む。

けれど、それは違った。

僕がすべてを自分のものにしていた。みんなの声も、守備も、走塁も、悔しさも、最後には僕一人の失敗という形へ押し込めていた。

「……お前に責められてると思ってた」

言葉が、喉の奥からようやく出た。

「俺が?」

「昨日から。黙ってたから」

「黙ってたのは、責めたくなかったからだよ」

「同じに見えた」

「それは、蒼が勝手に見てたんだろ」

湊の声は少し強かった。初めて、こちらへ向けて感情の角が出た。

「俺が何も言わなかったからって、俺の気持ちを勝手に失望にするなよ。俺はそんなに器用じゃない。悔しいときは悔しいし、言えないときは言えない。お前みたいに、全部を一人で片づけて、何もなかったみたいな顔をされるほうが、よっぽど腹が立つ」

「何もなかった顔なんかしてない」

「してるよ。ユニフォームを畳んで、ボールを拭いて、忘れ物を拾って。そうやって手を動かしてれば、誰もお前の中へ入ってこないから」

僕の指が、流し台の縁を探った。

冷たい金属に触れる。角には小さなへこみがあり、指の腹に引っかかった。

「入ってこられたくないんだよ」

「だったら、そう言えよ」

「言えない」

「なんで」

「言ったら、面倒になる」

「誰が?」

「お前らが」

「俺らが面倒だって?」

「そうじゃない。俺が面倒なんだよ」

声が掠れた。

「俺が悔しいって言ったら、お前は何か返さなきゃいけなくなる。凛も、牧野さんも、みんな俺に気を遣う。そうなるくらいなら、俺が悪かったことにして、俺が黙ってればいい。そうすれば、誰も困らない」

「困ってるよ」

湊は、今度は笑わなかった。

「俺は困ってる。お前が勝手に終わろうとしてるから」

部室の外で、誰かが走った。土を蹴る音が窓の向こうを通り過ぎ、すぐに遠ざかる。朝のグラウンドはもう動き始めていた。部活を続ける後輩たちの声が、部室の壁を薄く震わせている。

凛は一枚のメモを手にしていた。

「声、最後まで」と書かれた、古い紙だった。

凛はそれを見てから、僕たちのほうへ向き直った。

「先輩」

声は静かだった。いつもの大きな返事とは違う。けれど、部室の隅までよく届いた。

「昨日の試合、僕は声を出せていたか、分かりません」

湊が凛を見る。僕も見た。

凛はメモの端を指で押さえた。

「出していたつもりでした。でも、最後の打席のとき、何を言えばいいか分からなくなって、口を閉じました。先輩が打てなかったからじゃなくて、僕が先輩の背中を見ているだけで、何かできると思っていたからです」

凛はそこで一度、息を吸った。

「僕は先輩たちから、守備位置の取り方も、声の出し方も、道具の扱い方も教わりました。でも一番覚えているのは、先輩が誰かの失敗を見たとき、すぐに次の場所を指示していたことです。『そこに立て』とか、『次は一歩前』とか。失敗した人を、その場に置き去りにしなかった」

僕は、凛の言葉を聞きながら、昨日の自分を思い出した。

打席を終えたあと、ベンチへ戻った。誰かが名前を呼んだ。僕は顔を上げなかった。次にどこへ立てばいいのか、自分で決める前に、もう終わりだと決めてしまった。

「だから、僕は先輩にも、次の場所へ立ってほしいです」

凛はそう言った。

「打てなかったことを忘れろとは言いません。忘れたら、僕たちが何を受け取ったのかも分からなくなる。でも、そこに立ったまま、次に来る人の場所まで塞がないでください。先輩が残したものを、僕たちは使います。使って、失敗して、また片づけます。そのとき、先輩が全部を自分のせいにしていたら、何を真似すればいいのか分からなくなるので」

長い沈黙が落ちた。

湊が、コーヒー牛乳の紙パックを指で押した。中身が少し揺れ、ちゃぷ、と音がする。

「凛、お前、たまに急に怖いこと言うな」

「すみません」

「いや、謝るところじゃないけど。俺、今それを言われると思ってなかったから、心の準備が」

「準備してから話すものなんですか」

「普通はするんだよ」

「先輩は、いつもしてないですよね」

「俺はいいの。俺は勢いで生きてるから」

「そうやって、また逃げる」

凛が言うと、湊は口を閉じた。

凛は僕と湊を見比べた。表情は真剣だったが、責める色はなかった。

「僕は二年なので、三年生の気持ちを全部分かるとは思っていません。でも、終わる側と続ける側で、見えているものが違うのは分かります。先輩たちは、終わるから残したい。僕たちは、続けるから受け取りたい。その間にあるものを、勝手に捨てないでほしいです」

凛はメモを卒業アルバム箱へ戻した。

「この部室、空いた棚が多すぎます。だから、先輩たちが何も残さなかったみたいに見える。そんなのは嫌です」

僕は、自分のロッカーを見た。

棚の中には、畳みかけのユニフォームと、土のついたスパイクがある。何も残っていないわけではない。けれど、僕はそれらを見ないふりをして、最後の打席だけを残そうとしていた。

「湊」

「ん」

「さっきは悪かった」

湊はすぐには返事をしなかった。

僕は続けた。

「冗談が嫌だったんじゃない。お前が軽くしてくれるのが嫌だった。あの打席を、俺の中でまだ重いままにしておきたかった。軽くしたら、俺が逃げたことになる気がして」

湊は紙パックの角を撫でた。

「うん」

「でも、お前が軽くしたかったわけじゃないのも分かった。部室が止まらないようにしてたんだろ」

「そこまで立派じゃない」

「立派かどうかは知らない。けど、俺は見てなかった」

「見てなかったのは、俺も同じだよ」

湊はようやく僕を見た。

「蒼があんなに自分を責めるとは思ってなかった。いや、思ってたけど、いつものやつだと思った。時間が経てば、勝手に道具を磨いて、勝手に戻ってくるって。でも今回は、戻ってきても自分を置いてきたままだった」

その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。

湊は目を逸らし、首筋へ触れた。それから、一度だけ笑った。

「俺もさ、昨日、家に帰ってからバットを握ったんだよ」

「バットを?」

「何となく。寝る前に、まだ部室にいるみたいな気がしてさ。そしたら、手のひらにマメの跡が残ってて。三年間、こんなもの握ってたんだなと思ったら、急に腹が立ってきた」

「何に」

「全部に。相手投手にも、審判にも、俺自身にも。蒼にも、ちょっとだけ」

僕は黙って湊を見る。

「でも、お前を責めたかったわけじゃない。俺が打席に立てなかったことまで、お前のせいにしたくなかっただけだ」

そのとき、湊の声が初めて震えた。

「だから、何も言えなかった」

僕は流し台から布を取り、クーラーボックスの底へ戻した。さっきまで強くこすっていた場所には、白い筋が残っている。汚れは完全には消えていない。

「これ、まだ落ちない」

「落ちないなら、落ちるまでやる?」

「分からない」

「蒼らしいな」

「笑うな」

「笑ってない」

湊はそう言ったが、今度の声にはわずかに温度があった。

僕は布を置いた。

「……一緒にやるか」

湊は目を瞬いた。

「クーラーボックスを?」

「片づけ」

「今さら?」

「今さらだから」

湊はしばらく僕を見て、それから紙パックを持ち上げた。

「じゃあ、俺はこれを飲む。糖分がないと、友情の再構築に必要な脳みそが働かない」

「甘すぎるやつだろ」

「そこがいいんだよ。苦い現実には甘いコーヒー牛乳」

「そういうのが、今はいらない」

「はいはい」

湊はストローをくわえた。少し吸い、眉をしかめる。

「ぬるい」

「冷蔵庫に入れてなかったのか」

「昨日からずっと持ってた」

「飲めよ」

「飲む。飲むけどさ」

湊は紙パックを見つめた。

「こういうのも、昨日で終わると思ってたんだよな。朝に部室へ来て、誰かの飲み物を勝手に飲んで、まずいって言って、蒼に怒られるやつ」

「怒ってない」

「怒ってる顔だった」

「いつもだろ」

「それもそう」

ふたりの間に、短い笑いが落ちた。

大きな笑いではなかった。昨日までのように空気を押し流すためのものでもない。ただ、張りつめていたものが一度だけ緩み、そこから息が漏れたような笑いだった。

凛は棚へタオルを戻した。

「クーラーボックス、洗い終わったら干してください」

「分かってる」

「あと、湊先輩」

「何?」

「コーヒー牛乳の空きパックは、燃えるごみです」

「最後まで現実的だなあ」

「部室はごみ分別から続きます」

湊は僕を見た。

「だってさ、蒼。俺たちの次の試合は、ごみ分別らしいぞ」

僕は、ほんの少しだけ口元を動かした。

「負けられないな」

言ってから、自分で驚いた。

次の試合という言葉が、野球の試合ではない形で、自然に口から出た。ホワイトボードの一行が、胸の中でかすかに位置を変えた。

ここで終わらないでくれ。

その言葉は、笑うなという意味ではなかった。悔しさを片づけるなという意味でもない。重いものを重いまま抱え、それでも次の手を動かせ、と言っているように思えた。

湊は空になった紙パックを潰し、凛の示した袋へ入れた。僕はクーラーボックスを持ち上げ、流し台の水を切った。底に残った土が、まだ細い線になって流れていく。

部室の外では、後輩たちの声が増えていた。

誰かがボールの数を読み上げ、誰かが返事をする。凛がそれに応じて、いつもの大きな声を返す。湊は棚の端を整えながら、何か言いかけて、今度は飲み込まなかった。

「蒼」

「何」

「昨日の打席さ」

僕の手が、クーラーボックスの取っ手を握り直した。

湊は一度だけ笑った。逃げるための笑いではなく、言葉の前に置くための小さな笑いだった。

「次に会ったとき、もう一回聞かせてくれ。どの球が一番嫌だったか」

「今じゃなくて?」

「今は、まだクーラーボックスが優先」

「お前が聞いたんだろ」

「そうだけど、俺も心の準備がいる」

「さっき、準備してから話すものじゃないって言ってた」

「凛に言われたから訂正した。人は成長するんだよ」

「早いな」

「引退したからな。成長の速度を上げないと、部室に置いていかれる」

その言葉に、僕は返事をしなかった。

けれど、クーラーボックスを持って部室の外へ出るとき、湊が後ろからついてくる足音を聞いた。凛は先に物干し台の位置を確かめている。窓から差す白い光は、さっきより高いところへ移っていた。

僕たちの影が、廊下の床に並んで伸びた。

長さも、歩く速さも違う。それでも、しばらくは同じ方向へ進んでいた。

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