第4話 空の棚と、残る手つき

引退試合の翌々朝、旧館へ続く廊下の前で、僕は一度だけ立ち止まった。
窓から差す光は、昨日より薄かった。夏の朝なら、もっと早くから校舎の壁を白く焼くはずなのに、旧館の窓にはまだ夜の名残が貼りついている。磨かれた床に伸びた光の筋は細く、そこへ踏み込むたび、靴音が乾いて跳ね返った。
部室の扉に手をかけると、金属の冷たさが掌へ移った。
開ける前から、中の匂いが分かった。乾いた木と、金属の冷えた匂い。その底に、昨日までの汗が乾いたような、少し鈍い重さが沈んでいる。空気は冷たいのに、胸の奥だけがまだ熱を持っていた。
鍵を回す。
扉が軋み、部室の暗がりがゆっくりと開いた。
「おはようございます」
返事はなかった。
昨日と同じだった。けれど、昨日は誰もいないことに驚いていた。今日は、誰もいない部屋で、もう何かが始まっていることに気づいた。
佐伯凛が、窓際のロッカーを開けていた。
凛は僕に気づくと、こちらへ顔を向けた。いつも通り姿勢がまっすぐで、眠そうな様子も、試合のあとを引きずっている様子も見えない。だが、その目元には薄い疲れが残っていた。見ようとしなければ見落とす程度のものだった。
「おはようございます、久世先輩」
「早いな」
「先輩に言われたくないです」
凛はそう言って、すぐにロッカーへ向き直った。声は明るかったが、明るさを押しつける感じはなかった。言葉を長く続ける代わりに、手を動かしている。
ロッカーの中から、古いタオルが出てきた。名前の刺繍が半分ほど擦れている。凛はそれを一度広げ、匂いを確かめるように鼻をわずかに動かしたあと、廃棄用の袋ではなく、部室の奥に置かれた箱へ入れた。
「それ、残すのか」
「洗えば使えます」
「誰のか分からないだろ」
「分かります。三年前の備品です」
「見ただけで?」
「端の縫い方が違います。牧野さんが買ったものじゃなくて、前の代がまとめて注文したやつです」
凛は箱の蓋を閉める前に、タオルの端をきちんと揃えた。
「使えるものを、名前が消えたからって捨てるのは、もったいないので」
その言い方は、物の話だけをしているようで、僕には別のところへ触れてきた。
部室の棚には、昨日まで三年生の荷物が詰まっていた。グローブ、練習着、読みかけの雑誌、誰かが買ったまま置き忘れた菓子。今日はロッカーの扉がいくつも開き、空いた棚が白い光を受けている。中身がなくなった場所は、そこに何があったかをかえってはっきり見せていた。
凛は次のロッカーを開けた。
中から、折り畳まれた紙が落ちた。床に触れる前に凛が拾う。紙の端は茶色く変色していて、開くと、乱れた字で「声、最後まで」と書かれていた。
「それも残すのか」
「はい」
「ただのメモだろ」
「ただのメモじゃないです」
凛は紙を手のひらで伸ばした。皺が消えるわけではない。けれど、何度も指で撫でてから、卒業アルバム箱の脇に置いた。
「こういうのがあると、次の人が見られます。誰が書いたか分からなくても、何を大事にしてたかは分かるので」
「次の人は、そんなの見ないかもしれない」
僕が言うと、凛はすぐには返さなかった。
ロッカーの金具を閉じる音が、部室の中で小さく響いた。凛は開いた扉を押さえたまま、僕のほうを見た。
「見ないかもしれません。でも、あるのとないのとでは違います」
その目は、昨日の僕を責めていなかった。ただ、僕が簡単に捨てようとしたものを、黙って拾い直しているだけだった。
僕は自分のロッカーの前に座った。
中には、試合で使ったユニフォームが残っていた。昨日、家へ持ち帰るつもりでいたのに、結局そのままにしていた。白い布地には汗の跡が薄く残り、背番号の縁へ土が入り込んでいる。洗えば落ちる汚れだ。けれど、洗うことができなかった。
膝の上へ広げる。
布地は、見た目より重かった。両手で持ち上げたとき、湿気を含んだように沈む。僕は縫い目を探し、左右を揃え、袖を内側へ折った。角を合わせる。少しずれる。開く。もう一度、畳み直す。
背番号の部分だけが、どうしても平らにならなかった。
指先で押さえれば、その瞬間は整う。けれど、力を抜くと布がわずかに戻る。昨日の打席で踏み込んだ足の形が、そのまま布に残っているようだった。
「先輩」
凛の声がした。
「それ、洗わないんですか」
「洗う」
「いつ」
「……そのうち」
「そのうちは、だいたい来ません」
「分かってる」
返事が少し鋭くなった。
凛は僕の顔を見た。けれど、何も言わない。代わりに、僕の隣へ置いてあった空のクーラーボックスを持ち上げた。蓋を開けると、中には乾いた土と、溶けた氷の水跡が残っている。底の隅に、丸まった紙片がへばりついていた。
凛は指先でそれを剥がした。
「これは捨てていいですか」
紙片には、試合前の飲み物の本数が書かれていた。湊の字だった。数字は途中で途切れ、最後の欄には何も記されていない。
「……置いといて」
「何に使うんですか」
「分からない」
「分からないのに?」
「分からないから」
凛は少しだけ目を細めた。納得したわけではないらしい。それでも、紙片をすぐには捨てず、机の端へ置いた。
「先輩は、残すものを決めるのが苦手ですね」
「そうかもな」
「捨てるのが苦手なんじゃなくて?」
僕はユニフォームの折り目から目を上げた。
凛の声は平らだった。からかっているわけではない。大きな声で問い詰めるでもなく、ただ手元に置いた紙片と同じように、その言葉を僕の前へ置いている。
「何が違う」
「捨てるものなら、決められると思います。先輩は、残すものを決めるときに迷ってる」
「同じだろ」
「違います。捨てるのは、なくすことです。でも残すのは、次に渡すことなので」
凛は空のクーラーボックスを流し台のほうへ運んだ。歩くたび、中に残った細かな土がさらさらと鳴った。
「僕たちは、三年生のものを全部そのまま取っておきたいわけじゃないです。ユニフォームも、タオルも、メモも、いつかは古くなる。でも、使えるものまで片づけたふりをして消したくはない」
「部室は博物館じゃない」
「知ってます」
凛は流し台の前で立ち止まり、クーラーボックスの蓋を開けたまま僕を見た。
「だから使うんです。残したものを、使って、汚して、また片づける。そうやって続くんじゃないですか」
水道の蛇口をひねると、冷たい水が細く流れ始めた。凛はスポンジを濡らし、クーラーボックスの底をこすった。水と土が混ざり、茶色い筋になって排水口へ落ちていく。
僕は膝の上のユニフォームを見た。
「俺のは、誰かに使わせるものじゃない」
「そうですね」
凛はあっさり答えた。
「じゃあ、先輩が持って帰ればいいです」
「持って帰っても、何をすればいいか分からない」
「洗って、干して、しまえばいいです」
「それで終わる」
「終わります」
凛はスポンジを止めなかった。
「終わったら、終わったものとしてしまえばいいです。でも、先輩が今やってるのは、終わらせないために畳んでるように見えます」
僕は何も言えなかった。
布の折り目を揃え、手のひらで押さえる。そうしていれば、背番号の下に残る土も、最後の打席の形も、しばらく動かずにいる。けれど、僕が畳んでいるのはユニフォームだけではなかった。昨日から何度も繰り返している場面を、角の揃った形に押し込めようとしていた。
部室の奥で、紙をめくる音がした。
牧野さんが来ていた。
いつ入ってきたのか、僕には分からなかった。窓が少し開いている。朝の白い光が、床に置かれた箱の縁を照らしていた。牧野さんは記録表を一枚ずつ確認し、必要なものと処分するものを分けている。
僕が立ち上がると、牧野さんは顔を上げた。
「終わったか」
「まだです」
「そうか」
牧野さんはそれだけ言って、次の紙へ視線を戻した。
僕は部屋を見回した。空になったロッカー。箱へ移されたメモ。蓋の開いた卒業アルバム箱。昨日まで誰かの生活が詰まっていた場所が、少しずつ棚へ戻されている。
「牧野さん」
「何だ」
「これ、全部片づけるんですか」
「全部ではない」
「何を残すんですか」
牧野さんは記録表から目を離さなかった。
「必要なもの」
「誰にとって?」
そこで初めて、牧野さんの手が止まった。
僕の問いは、部室の道具についてではなかった。自分でも分かっていた。何を残せばいいのか。何を捨てれば、昨日を終わらせられるのか。凡退の記憶を残したまま進めるのか、それとも、なかったことにしてしまうのか。
牧野さんは、紙の束を机の端へ揃えた。
「決めるのは、お前だ」
「僕が決めていいんですか」
「三年のものだ」
「僕が決めたら、誰かのものまで捨てるかもしれない」
「だから、見て決めろ」
「見ても、分からないことがあります」
「分からないまま決めることもある」
牧野さんの声は、昨日と同じく低かった。けれど、今日の僕には、その短さが突き放しではなく、こちらへ返される重さだと少しだけ分かった。
「もし、間違えたら」
「戻せないものもある」
「それでも?」
「それでも、決める」
牧野さんはそう言って、部室の隅に置かれていた卒業アルバム箱を僕の前へ押し出した。
箱の底が床を擦った。中には、古い集合写真や、何年も前の部員が残したメモが重なっている。端には、色の褪せたリストバンドもあった。誰のものか分からない。けれど、それを見た瞬間、部室の窓際で湊が笑っていた姿や、凛が初めてベンチ周りを整えた日のことが、別々の時間から静かに浮かんできた。
僕は写真を一枚手に取った。
見知らぬ三年生たちが、今より古いユニフォームで並んでいる。後ろには、同じホワイトボードが写っていた。端の一部が欠けているが、そこに何か文字が残っている。読むことはできない。
「これは、捨てないんですか」
「残っている」
「残しているんじゃなくて?」
「残ったものを、使えるようにしている」
牧野さんの言葉を、僕はすぐには理解できなかった。
凛が水を止めた。流し台の中には、土の跡が薄く残っている。凛は布巾を絞り、底の隅まで拭き取っていた。空のクーラーボックスは、洗われたことでかえって軽く見えた。中身がないのではなく、次に入るもののために空けられている。
僕は写真を箱へ戻した。
「これは残します」
牧野さんは頷かなかった。ただ、次の写真を僕のほうへ寄せた。
「それは?」
「……残す」
「理由は」
「分からない。でも、捨てる理由もない」
牧野さんは、そこで初めて僕を見た。
何かを言いかけたように見えたが、結局、口を閉じた。代わりに、机の上に置いてあった古いマーカーのキャップを拾い、ホワイトボードの端へ置く。黒い文字の脇に、白く曇った消し跡が広がっている。
ここで終わらないでくれ。
その一行は、今日も残っていた。
僕は写真の束を整え、卒業アルバム箱の蓋を閉めた。指先に紙の乾いた感触が残る。ユニフォームはまだ膝の上にある。畳まれた布地は、胸の内側に押し込めたものと同じ形をしていた。
「先輩」
凛がクーラーボックスを持ってきた。
「これ、干しておきます」
「俺がやる」
僕は立ち上がった。
凛は一瞬だけ僕を見た。それから、持っていた箱をこちらへ渡した。冷えた金属の留め具が掌に触れる。さっきまで凛が洗っていた水の匂いがした。
「じゃあ、お願いします」
「……ああ」
部室の外へ出ると、廊下の白い光が目に刺さった。窓を開けたままの部室から、土と洗剤の匂いが流れてくる。僕はクーラーボックスを抱えて、グラウンド脇の物干し台へ向かった。
廊下を歩くたび、空になった箱の中で水滴が小さく揺れた。昨日まで詰まっていた冷たさは、もう残っていない。けれど、箱が空だからといって、何もなかったことにはならない。誰かが飲み、誰かが運び、最後に誰かが洗った。その手つきが、底の薄い傷や、蓋の内側の水垢に残っている。
グラウンドへ出ると、陽射しは朝より強くなっていた。土の表面から熱が上がり、靴底を通して足の裏へ伝わる。昨日の試合で踏み固められた場所は、まだ少し黒い。僕はその上を避けずに歩いた。
物干し台へクーラーボックスを伏せる。
底から、細い水が一筋流れ落ちた。土の色をした水が、白い光の中で一瞬だけ光り、地面へ吸い込まれていく。
僕は手のひらを見た。
そこには、ユニフォームの布の感触と、古い箱の紙の粉、それからクーラーボックスの金属の冷たさが混ざって残っていた。どれも洗えば落ちるものなのかもしれない。けれど、落とすことが正しいのかどうか、まだ僕には分からなかった。
部室へ戻ると、凛は次のロッカーを開けていた。
「何か出たか」
「手袋が片方だけです」
凛は、古びた練習用の手袋を持ち上げた。
「名前がありません」
「残す」
僕はそう言ってから、少し考えた。
「次に使えるかもしれない」
凛の顔に、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。
「はい」
それだけで、凛は手袋を箱へ入れた。物を置く位置をきちんと揃え、蓋を閉める。僕はその手つきを見ていた。凛は、終わりを急いでいない。終わったものを終わった場所へ置き、残すものを次へ渡すために、ひとつずつ手を動かしている。
僕も、もう一度自分のロッカーの前へ座った。
ユニフォームを畳み直す。今度は、背番号を外側へ向けた。折り目は完全には揃わなかったが、何度も開いてやり直すことはしなかった。
少し曲がったままの布を、ロッカーの棚へ置く。
その上に、土のついたスパイクを並べた。洗うために持ち帰るのではなく、明日、もう一度手入れするために残しておく。そんなふうに考えたのは、初めてだった。
部室の空の棚には、白い光が溜まっていた。
何もない場所は、空白ではなかった。そこには、次に置かれるもののための余地があり、昨日まで置かれていたものの形が、薄い影として残っている。
僕は指先で棚の端をなぞった。
木のささくれが皮膚に触れた。痛みは小さかった。けれど、指を引っ込めず、そのまま端を一周した。
ホワイトボードの文字は、まだ消えずに残っている。
ここで終わらないでくれ。
僕はその言葉を見ながら、空の棚へ手を伸ばした。そこに何を置くのかは、まだ決まっていない。けれど、何も置かないまま立ち去るつもりは、少しずつ薄れていた。
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