第3話 牧野の無言、母の湯気

倉庫の中から聞こえていた声が途切れたあと、僕はようやく歩き出した。
グラウンドの土は、朝の光を吸ってまだ湿っていた。昨日の試合で何度も踏み固められた場所だけが黒く、周囲の乾いた土とは違う色をしている。僕はそこへ足を置き、靴底でわずかに表面を削った。細かな砂が靴の縁へ入り込み、歩くたびにざらついた。
部室へ戻ると、牧野さんが窓を開けていた。
いつ来たのか分からなかった。窓際に立つ背中は、昨日までと同じようにまっすぐで、白いシャツの肩に朝の光が乗っている。部室の空気が外へ流れ、代わりに冷えた風が入ってきた。土と汗の匂いが薄まり、古い木と金属の匂いが浮かび上がる。
牧野さんは僕を見た。
視線が一度、顔に触れた。それから、僕の手元へ落ちた。まだ指先に残っている白い粉を見たのかもしれない。けれど、何も言わなかった。
机の上に、紙の束が置かれていた。
試合の記録表だった。
牧野さんは、その束を僕のほうへ滑らせた。
「確認」
声は低く、短かった。
僕は紙を受け取った。昨日のスコアが、一番上にある。九回裏。打者、走者、アウト数。数字はどれも変わらず、紙の上に整然と並んでいた。僕が何度思い返しても、記録は同じところで止まる。
「何をですか」
問いかけてから、聞くまでもないことだと気づいた。
牧野さんは、机の横に置かれた用具点検表を指で叩いた。
「全部」
「昨日の試合の記録も?」
「全部」
それだけ言うと、牧野さんは棚のほうへ向かった。古いボールケースを引き出し、底にたまった土を裏返して落とす。金属の留め具が乾いた音を立てた。
僕は記録表に目を落とした。
打順。守備位置。交代。走者の進塁。後輩たちの声出しについては、数字にならないから記録には残らない。けれど、試合の途中で凛の声が何度も聞こえていたことや、湊がベンチの端で相手投手の癖を伝えていたことは、紙の外側に確かにあった。
数字だけを追えば、僕の最後の打席は、一つの欄に収まる。
その欄を見ないようにしながら、僕は点検表へ進んだ。
ボール、三十六個。
ボールケース、二つ。
バット、九本。
ヘルメット、七つ。
クーラーボックス、一つ。
空欄に数を書き込む。ペン先が紙を擦る音だけが、部室に細く響く。数えることは簡単だった。目の前にある物を一つずつ拾い、決められた場所へ戻す。試合の記憶と違って、道具には動かす手がある。
「ボール、ひとつ足りません」
「ベンチ裏」
牧野さんは棚の下を見た。僕もしゃがみ込み、ベンチの影へ手を伸ばした。指先に触れたのは、乾いた土と、誰かが落とした輪ゴムだった。さらに奥へ手を入れると、硬いものが掌に当たった。
ボールだった。
表面に黒い擦り跡がついている。僕はそれを取り出し、土を払った。
「ありました」
「そこへ戻せ」
僕はボールをケースへ入れた。
その動作を見届けると、牧野さんは次の棚へ移った。何も褒めない。間違いも責めない。僕が見つけたものを、僕の手で戻させる。
それが、ひどく重かった。
「牧野さん」
声をかけると、牧野さんの手が止まった。
「昨日の……」
言葉の先が、喉の途中でほどけた。最後の打席。凡退。僕が試合を終わらせたこと。どれを言っても、同じ場所へ戻ってしまう。
牧野さんは急かさなかった。棚に手を置いたまま、こちらを見ている。目は穏やかでもなかったし、厳しくもなかった。ただ、僕が言葉を選び終えるまで、そこにあるものを動かさずに待っていた。
「昨日の記録、これで全部ですか」
僕は別の言葉に逃げた。
「公式記録は」
「じゃあ、僕が見落としてるものは?」
牧野さんは少しだけ眉を動かした。
「ある」
「どこに」
「見ろ」
それ以上は続かなかった。
僕は記録表を持ったまま、もう一度最初から頁をめくった。数字の脇に、牧野さんが小さく書き込んだ文字がある。守備位置の変更、走者の判断、ベンチからの指示。あの一打へ至るまでに、僕は何度も誰かの声を聞き、誰かの動きに合わせていた。
それでも、最後にアウトになったのは僕だった。
僕はその事実を消したくなかった。消してしまえば、仲間の積み重ねまで軽く扱うことになる。けれど、そこだけを見続ければ、今度はすべてを僕一人の失敗にしてしまう。
その境目が、まだ分からなかった。
「牧野さんは、あの言葉を書いたんですか」
ホワイトボードのほうを見ずに尋ねた。
「どの言葉だ」
「ここで終わらないでくれ、っていうやつです」
牧野さんは返事をしなかった。
机の上で、ペン先が一度だけ軽く鳴った。考え事をするときの癖なのだろう。牧野さんはしばらく黙っていたが、やがて棚の奥から古いマーカーを一本取り出した。キャップを外し、インクの残り具合を確かめる。それから、ホワイトボードに残った文字を見た。
「書いた」
「僕に向けて?」
「誰か一人に書いたわけじゃない」
「じゃあ、三年生全員に?」
「それも違う」
短い返答が、かえって僕を迷わせた。
「だったら、何のために書いたんですか」
牧野さんはマーカーを机に置いた。
「書かないと、消すからだ」
「何をですか」
「昨日を」
僕は息を止めた。
牧野さんは、ボードの文字を見たまま続けた。
「試合が終わる。三年は引退する。記録は閉じる。だが、そこで全部消したら、次のやつらに渡せるものがなくなる」
「でも、僕は打てませんでした」
自分でも驚くほど早く、言葉が出た。
牧野さんの目が、初めて正面から僕に向いた。
「知っている」
「試合を終わらせました」
「それも記録にある」
「だったら、僕が責任を取るべきです」
「何の責任だ」
「負けた責任です」
「負けは、お前一人の所有物か」
声は荒くなかった。だから逃げられなかった。
僕は記録表を握った。紙の端が指へ食い込む。
「最後に打席へ立ったのは僕です。あそこで打てていれば、まだ続いた。みんながつないだものを、僕が止めたんです」
「打てていれば、という話はできる。だが、打てなかったことだけで、そこまでの全部をお前のものにするな」
「僕が軽く扱っているみたいに言わないでください」
「軽く扱っているのは、誰だ」
牧野さんの言葉は、ボールが投げ込まれるようにまっすぐだった。僕は反論しようとしたが、喉の奥に熱が上がってきて、声にならなかった。
牧野さんは僕から目を逸らさなかった。
「結果を引き受けるのは必要だ。だが、引き受けることと、抱えて動けなくなることは違う。お前は今、失敗を持っているんじゃない。失敗に持たれている」
部室の外で、グラウンド整備の音がした。金属のレーキが土を撫で、乾いた音が窓から入り込んでくる。
僕は視線を落とした。
「……どうすればいいんですか」
初めて、自分からそう尋ねた。
牧野さんはすぐには答えなかった。代わりに、机の端に積まれた記録表を整えた。紙の角を揃え、上下を確かめ、僕の前へ戻す。
「確認を終わらせろ」
「それだけですか」
「今は」
「それで、何か変わるんですか」
「変わらないかもしれない」
その言葉に、胸の内側が少しだけ緩んだ。簡単に救うつもりがないことだけは分かった。
「でも、やることはある」
牧野さんはそう言って、用具点検表の空欄を指した。
「空のクーラーボックス。洗って干せ」
「分かりました」
「終わったら、三年のロッカーを確認する。忘れ物があれば名前を書く」
「はい」
「凛に渡すものも分けろ」
「……後輩に?」
「次に使う」
牧野さんはそれだけ言い、窓際へ戻った。
僕は点検表の続きを埋めた。ペン先はまだ少し震えていたが、数字を間違えないように書いた。空のクーラーボックスを持ち上げると、底から冷えた水の匂いがした。氷は溶けていた。昨夜まであれほど冷たかったものが、今は何も残さず、薄い水になっている。
流しへ運び、蓋を開けた。
中には、細かな土と、破れた紙片が一枚だけ入っていた。紙片には、試合前の飲み物の本数が書かれている。湊の字だった。最後の欄だけ、数字が途中で途切れている。
僕は紙片を捨てず、机の端へ置いた。
水を流すと、クーラーボックスの底に残った土が渦を巻いた。指でこすれば落ちる汚れもあれば、角に入り込んで何度も布を押しつけなければ取れない汚れもある。僕はスポンジを持ち、底の溝を一つずつ洗った。
しばらくして、背後で牧野さんが言った。
「久世」
「はい」
「母親に連絡は」
「してません」
「飯は」
答えられずにいると、牧野さんはそれ以上聞かなかった。ただ、壁にかかった時計を見た。針は昼に近づいている。
「帰れ」
「まだ片づけが」
「午後に続く」
「僕がやります」
「続きは逃げない」
その言葉が、ホワイトボードの一文と同じ場所から出てきたように聞こえた。
僕は濡れたクーラーボックスを逆さにし、布巾で水気を拭いた。牧野さんは窓を閉めなかった。白い光が流し台まで伸び、水滴の一つひとつを浮かび上がらせている。
部室を出るとき、僕はホワイトボードを見た。
ここで終わらないでくれ。
まだ、意味は分からない。
ただ、あの言葉が僕を部室から追い出しているのではなく、いったん外へ出して、戻ってくる場所を残しているように思えた。
旧館を出ると、廊下の光は朝より強くなっていた。窓の外では、グラウンドの土が白い陽射しを返している。僕は階段を下り、校門へ向かった。足取りは軽くなっていなかったが、さっきまでのように、どこへ行くのか分からない歩き方でもなかった。
家の玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。
「おかえり」
台所から、母さんの声がする。
「ただいま」
自分の声が、少し掠れていた。
母さんは振り向く前に、火を弱めた。鍋の蓋の隙間から、白い湯気が細く立ちのぼっている。
「食べてきた?」
「食べてない」
「そう」
驚きも責める気配もなく、母さんは茶碗を一つ出した。箸を揃え、味噌汁をよそう。具は豆腐とわかめ、それから薄く切った葱だった。朝と同じ匂いなのに、今は少しだけ濃く感じた。
僕は椅子に座った。
母さんは向かいに座らず、流しに残っていた皿を洗い始めた。水の音が、部室で聞いた道具の音と重なった。何かが擦れ、流され、決められた場所へ戻されていく。
「昨日のこと、聞かないの」
僕が言うと、母さんは皿をすすぎながら答えた。
「聞いてほしい顔をしていないから」
「聞かれたら、話せるかもしれない」
「聞かれなくても、話したくなったら話すでしょう」
「話したくなっても、話せないときは」
母さんは水を止めた。濡れた手を布巾で拭き、こちらを見た。
「そのときは、食べてから考えなさい」
「食べても、考えることは変わらない」
「変わらなくても、考える人の身体が少し違うでしょう」
母さんはそう言って、僕の前へ味噌汁を置いた。湯気が顔へ触れ、朝から乾いていた喉の奥へ湿り気が戻ってくる。
僕は箸を取った。
一口目の味は、ほとんど分からなかった。熱さだけが舌に残った。二口目で、出汁の味がした。三口目には、わかめの柔らかさが分かった。
母さんは急かさなかった。
「進路の資料、机の上に置いてあるから」
「今、見たくない」
「そう」
「部活が終わったばかりなのに、すぐ次の話をされると、置いていかれるみたいで」
母さんは洗った皿を立てかけながら、少し考えた。
「部活は終わったのね」
「……うん」
「じゃあ、終わったものを終わったままにするか、持っていくかは、蒼が決めればいい」
「持っていったら、ずっと苦しいかもしれない」
「置いていっても、消えるわけじゃないでしょう」
母さんの声は、味噌汁の湯気より静かだった。
「野球をしていた時間は、試合に勝った日だけのものじゃない。泥のついた靴下を洗った日も、朝早く起きて眠そうに出ていった日も、帰ってきて何も言わずにご飯を食べた日も、全部蒼の時間よ。最後に打てなかったからって、そこだけ残して、あとは捨てることはできないでしょう」
僕は碗の中を見つめた。
「でも、最後に打てなかった」
「そうね」
母さんは否定しなかった。
「打てなかったことは、打てなかったこととして残る。でも、それを何にするかまで、打席の中で決めてくる必要はないのよ。昨日の夜に決められなくても、今日の朝に決められなくてもいい。食べて、眠って、明日になってからでも遅くない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけ位置を変えた。
なくなったわけではない。痛みも、悔しさも、まだそこにある。けれど、それを抱えたままでも、箸を動かすことはできる。味噌汁を飲むこともできる。午後になれば、また部室へ戻って、空のクーラーボックスを棚へしまうこともできる。
「牧野さんに、確認を任された」
僕が言うと、母さんは「そう」と返した。
「何を確認するの」
「道具。記録。忘れ物」
「蒼らしいわね」
「そうかな」
「自分のことを考えたくないとき、いつも誰かのものをきれいにするから」
僕は箸を止めた。
母さんは、僕の顔を見たあと、すぐに視線を皿へ戻した。言い当てたことを誇るつもりも、追い詰めるつもりもないらしい。ただ、ずっと見てきたことを、必要な場所へ置いただけだった。
「それでいいなら、今はそれでもいいと思う。でも、片づけたものの中に、自分までしまわないようにしなさい」
返事をしようとして、言葉が出なかった。
喉の奥がひりついた。泣きそうだと気づいたときには、もう泣く理由すら分からなくなっていた。悔しいのか、疲れているのか、母さんの言葉がありがたいのか。そのどれもが少しずつ重なって、うまく名前をつけられない。
母さんは何も言わず、麦茶を注いだ。
冷たすぎない麦茶が、喉をゆっくり通った。部室で飲み残されたスポーツドリンクの甘さとは違う。甘くないのに、あとから身体へ残る味だった。
食べ終えると、母さんは茶碗を受け取った。
「午後、学校へ戻るの?」
「戻る」
「そう」
「まだ片づけが残ってるから」
母さんは茶碗を重ねた。
「じゃあ、帰ってくる時間だけ教えて」
「分からない」
「分からなくても、だいたいでいいの」
「……夕方」
「分かった。夕飯は置いておくから」
それだけのやり取りで、部活の終わりが生活の中へ置き直されたような気がした。引退したからといって、家の食卓まで空になるわけではない。朝練へ行かなくなっても、味噌汁は湯気を立てる。洗った茶碗は、いつもの場所へ戻される。
僕は席を立ち、鞄を持った。
玄関へ向かう前に、台所を振り返る。母さんは、僕が使った箸を洗っていた。細い水音の向こうで、鍋の蓋からまた湯気が漏れている。
「母さん」
呼びかけたあと、言葉が止まった。
ありがとう、と言えばいいだけなのに、その一言が妙に遠かった。
母さんは振り向かずに、蛇口を閉めた。
「何」
「……午後、帰ったら、進路の資料を見る」
「そう」
「それから、昨日の試合の話も、少しする」
母さんは布巾を掛けながら、短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。顔は見えなかった。
「ご飯のときにね」
「うん」
外へ出ると、昼の光が廊下より強く目に入った。朝の白さは、もう薄れている。校門の向こうでは、車が走り、近所の家から掃除機の音が聞こえていた。昨日の試合を知らない人たちの生活が、何事もなかったように続いている。
僕は一度、立ち止まった。
胸の中にはまだ、凡退の場面がある。審判の腕も、転がる打球も、ベンチから呼ばれた自分の名前も消えていない。
それでも、午後には部室へ戻る。
牧野さんに任された確認を終えるために。空のクーラーボックスを干すために。忘れ物の名前を書くために。ホワイトボードの前で、もう一度あの一行を見るために。
僕は歩き出した。
背中へ風が触れ、朝とは違う温度の空気が喉を通った。まだ少しひりついたが、砂の味だけではなかった。
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