第2話 湊の冗談、凛の手

グラウンドへ出た瞬間、僕は喉の奥に流れ込んでくる空気の質が、部室のそれとは違うことに気づいた。木と土の匂いが薄れ、代わりに芝の青さと、遠くから漂ってくる誰かの朝食の匂いが混じっている。白い光は部室で見たときよりも幾分強く、フェンスの金網に反射して、目の奥にちりちりとした痛みを残した。
まだ朝練が始まる時刻には早い。それでも土の上には、すでに動いている人影があった。
早瀬湊だ。
湊はバックネット裏で、一年生二人を相手に何か身振り手振りを交えて話していた。片手に持った空のクーラーボックスを、爪先で軽く小突きながら、後輩たちを笑わせている。声は大きくないのに、よく通る。それが湊の話し方だった。
「だからさ、あの日の牧野さんの采配は、多分メシのメニューで決まってたと思うんだよな。カレーの日は強気、生姜焼きの日は慎重。俺、統計取ってたから」
一年生の一人が噴き出した。もう一人は半信半疑の顔をしながらも、口元が緩んでいる。湊はその反応を確かめるように、ちらりと僕の方へ視線を寄越した。
その一瞬だけ、湊の目の奥が、笑っている口元から少しだけ浮いて見えた。
僕は他人の表情を読むのが、昔から得意だった。誰かが笑うとき、それが本当に楽しくて笑っているのか、場を持たせるために笑っているのか、輪郭の違いがなんとなく分かる。湊の笑いは、いつもの湊の笑いのはずなのに、今朝はどこか乾いていた。まるで水分を抜かれた洗濯物のように、形は保っているのに、重さだけが違う。
「よう、蒼」
湊が僕に気づいて片手を上げた。一年生たちは会釈をして、そそくさとベンチの方へ散っていく。空気を読んだのだろう。三年生同士の間に、彼らがまだ踏み込めない領域があることを、後輩たちはちゃんと知っている。
僕は何も言わず、頷き返した。
湊はクーラーボックスを足でずらしながら、こちらへ歩いてきた。近づくにつれて、昨夜の疲れが目の下に薄く残っているのが分かった。それでも湊は、疲れを見せまいとするように、いつも通りの歩き方を崩さない。
その時、地面を蹴る乾いた音が別方向から聞こえた。
佐伯凛だった。
凛はベンチ裏から、使い終えたボール袋を両手に抱えて運んでいた。飲み残しのスポーツドリンクのボトルを片方の脇に挟み、器用にバランスを取っている。走っているわけではないのに、動きに無駄がない。忘れ物を見つけると、腰を落として拾い上げ、迷わず所定の場所へ運ぶ。その一連の流れは、まるで何百回も繰り返してきた儀式のようだった。
「おはようございます!」
凛は僕に気づくと、大きな声で挨拶をした。声量だけなら、朝の静けさを一瞬で壊してしまいそうなほどだったが、なぜか耳障りではなかった。むしろその声の勢いだけが、部室からグラウンドまで引きずってきた重たい空気を、少しだけ押し返してくれるようだった。
凛は返事を待たずに、また作業に戻る。手を止めない。昨夜のことも、僕の凡退のことも、まるで話題にする気配すら見せない。ただ、目の前にある仕事を、順番通りに片付けていく。
僕はその背中を見ながら、少しだけ息がしやすくなるのを感じた。
慰めの言葉より、こういう沈黙の方が、今の僕には楽だった。
「まだ朝なのに顔が墓石みたいだぞ」
湊が僕の正面に立って、そう言った。いつもの調子だった。軽く、少し馬鹿げていて、聞いた瞬間に肩の力が抜けるはずの冗談だった。実際、これまでの三年間、僕はこの手の軽口に何度も救われてきた。練習がきつい日も、試合に負けた日も、湊のこういう一言が、僕たちの間に流れる空気をちょうどいい重さに調整してくれていた。
けれど今朝は、その言葉が僕の耳の中で、思ったよりも大きく響いた。
昨夜の凡退が、まだ喉の奥に張りついたまま乾いている。打球の感触、審判の上がった腕、ベンチへ戻る足の重さ。それらすべてが、湊の軽い一言で軽くされることを、僕のどこかが拒んでいた。
「うるさい」
言葉は、考えるより先に口から出ていた。
自分でも、思っていたより鋭い声だった。喉から出た瞬間、それが刃物のような形をしていることに気づいたが、もう戻せない。
湊の笑いが、一拍遅れて止まった。
止まる、というより、行き場を失ったという方が近かった。口元に浮かべていた笑みの形だけが、そこに取り残されている。目の奥にあった乾いたものが、さらに乾いて、ひび割れたように見えた。
グラウンドの空気が、急に薄くなった気がした。
風が止んだわけでもないのに、僕の周りだけ音が遠のいたような感覚があった。遠くでフェンスが軋む音、後輩たちの控えめな話し声、そういうものが、急に膜一枚隔てた向こうから聞こえてくるみたいだった。
僕は湊の顔を見ていられなくて、視線を落とした。
視線の先には、湊が足でずらしていた空のクーラーボックスがあった。蓋が半分開いたままで、中には氷の解けた跡だけが薄く残っている。昨日まで、あの中には冷たい麦茶やスポーツドリンクが詰まっていて、イニングの合間に誰かがそれを飲み、また誰かが空にした容器を放り込んでいた。今はもう、その循環は止まっている。中身のない箱が、ただそこに転がっているだけだ。
「……悪い」
僕はようやくそれだけを言った。だが、謝罪にしては軽すぎて、言い訳にしては足りなすぎる言葉だった。湊はそれに対して、何も返さなかった。
代わりに、視線を逸らした。
僕はその横顔を見た。湊が視線を外すとき、いつも髪の毛の生え際あたりに指を這わせる癖がある。今もその指が、無意識に首筋のあたりをかいていた。何かを飲み込もうとしている喉仏の動きが、朝の光の中でやけにはっきりと見えた。
凛はその沈黙を、崩そうとはしなかった。
僕たちのやり取りを見ていたはずなのに、凛はボール袋を担ぎ直すと、そのまま倉庫の方へ歩き出した。空のクーラーボックスの取っ手に手をかけ、迷いのない動きで持ち上げる。重いはずのそれを、軽々と抱えているように見えるのは、凛が力を入れる場所を知っているからだろう。
「俺も運ぶよ」
湊が言った。声は普段の調子に戻っていたが、どこか無理に絞り出したような硬さが残っていた。湊は凛のあとを追うように歩き出したが、倉庫の入り口の手前で、一度だけ足が止まった。
肩越しに、こちらを振り返るでもなく、ただ視線だけをグラウンドの隅、誰もいないベンチの方へ向けた。それは一瞬のことで、すぐにまた歩き出したから、気のせいだと言われれば、そう思うしかない動きだった。
けれど僕は、その一瞬を見逃さなかった。
湊の軽さは、本当に軽いものではない。
その事実が、腹の底にゆっくりと沈んでいくのを感じた。分かっていたはずのことだった。三年間、同じベンチで同じ夏を過ごしてきたのだから、湊が本気で悔しいときほど笑うことも、痛いところを突かれると急に静かになることも、僕はとっくに知っていた。
知っていたのに、今朝の僕は、自分の凡退のことしか見えていなかった。
倉庫の扉が開く音がした。凛が先に中へ入り、湊がクーラーボックスを抱えたまま続く。二人の姿が薄暗い倉庫の中に消えていくのを、僕はグラウンドの真ん中で見送った。
風が、また動き始めた。
フェンスの向こうから聞こえていた金属の軋みが、いつの間にか止んでいる。代わりに、遠くの道路を走る車の音が、切れ切れに届いてくる。学校の外では、いつも通りの朝が続いている。試合に負けたことも、引退したことも、誰かの凡退も、この町にとっては何も変わらない一日の一部でしかない。
そのことが、少しだけ僕を楽にして、少しだけ僕を苦しくさせた。
僕は空になったクーラーボックスが置かれていた場所を見た。土の上に、四角い跡がうっすらと残っている。日焼けのムラのような、そこだけ色の違う土。誰かがそこに何かを置いていた証拠は、こんなふうに、置いていたものが無くなったあとにしか、はっきりとは見えない。
倉庫の中から、凛の声がした。何かを指示するような、短くてよく通る声。湊が何か答える声も、続いて聞こえた。内容までは聞き取れなかったが、声の調子だけで、ふたりの間に僕がさっき壊しかけた空気とは違う、実務的な平静さが戻っているのが分かった。
凛にはできて、僕にはできないことがある。
沈んだ空気を、無理に晴らそうとせず、かといって重さに飲まれもせず、ただ次にやるべきことへ手を伸ばす。その手つきの軽さと確かさに、僕はまだ追いつけていない。
朝のグラウンドには、声より先に片づけの音だけが残っていた。ボールが袋の中でこすれる音、ケースの蓋が閉まる音、金属の脚立が土の上で擦れる音。どれも小さな音だったが、その一つひとつが、昨日までの熱を少しずつ、確実に過去の場所へ運んでいっているようだった。
僕はしばらく、その場所に立ち尽くしていた。
ホワイトボードの一文が、また頭の中に戻ってきた。
ここで終わらないでくれ。
終わらせているのは、もしかしたら、僕自身の視線の向け方なのかもしれない。そう思いかけて、僕はまだその考えを最後まで追うことができなかった。ただ、倉庫の暗がりから漏れてくる、湊と凛の低いやり取りの声だけが、いつまでも耳に残っていた。
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