1話 白い部室の指先

目が覚めたとき、喉の奥に砂が残っていた。

水を飲めば流れるはずなのに、台所へ行く前から、それがただの乾きではないと分かっていた。昨日、打席に立ったときに吸い込んだグラウンドの土。打ち上げた打球を見失った一瞬。三塁側から上がった相手の声。ベンチへ戻る途中、足の裏にまとわりついた細かな砂。

眠っているあいだも、あの一打だけは眠らなかったらしい。

枕元の時計は、朝練に出るには早すぎる時刻を示していた。スマートフォンには、昨夜のままの通知がいくつか残っている。試合後のグループには、誰かが送った「お疲れ」の文字と、湊が貼ったふざけたスタンプ。そこから先は、誰も何も書いていなかった。

僕は画面を伏せた。

制服に袖を通す。シャツの襟を直し、ベルトを締め、昨日のユニフォームを入れた袋を持ち上げる。持ち帰って洗うつもりだったのに、結局、部室のロッカーに残したままだった。母さんには何も言わず、玄関で靴を履いた。

「朝ご飯、どうするの」

台所から声がした。

「学校で食べる」

「学校に朝ご飯はないでしょう」

味噌汁の湯気が、廊下まで流れてきていた。母さんは流しの前に立ったまま、こちらを見た。試合の結果を尋ねるときより、眠れたかどうかを確かめる顔だった。

「少しだけでも食べていきなさい。顔色が悪い」

「平気」

「平気な人は、朝から靴紐を三回結び直さないわよ」

言われて初めて、僕は足元を見た。結び目は確かにほどけていた。いつから触っていたのか分からない。

母さんはそれ以上追及しなかった。小さな紙袋に、握り飯を二つ入れた。海苔の匂いがした。

「持っていきなさい。食べられなかったら、あとで食べればいいから」

「いらない」

「いらないと言う人に、持たせるのが母親の仕事なの」

その言葉に返事をする前に、紙袋が手渡された。温かさが掌に移った。僕は礼を言いかけたが、喉の奥で言葉が引っかかり、結局、紙袋を鞄へ押し込んだ。

外へ出ると、朝の空気は薄く冷えていた。夏の終わりにはまだ遠いはずなのに、肩口へ触れる風だけが季節を先取りしている。住宅街の屋根は白く、電線の上に並んだ鳥が、僕の通り過ぎる気配を避けるように一羽ずつ首を動かした。

学校までの道は、いつもより長かった。

昨日までは、早くグラウンドへ着きたいと思って歩いていた。今日は、着いたあとに何をすればいいのか分からないまま、足だけが道を覚えていた。信号が青になる。横断歩道を渡る。角の自動販売機の前で、無意識に立ち止まる。いつもなら冷たい飲み物を買うところを、今日は何も買わなかった。

引退したのだから、朝練に出る必要はない。

そう考えるたび、胸の中で何かが小さく音を立てた。

県立北丘高校の正門は開いていた。守衛室の窓には明かりがついていたが、人の姿は見えなかった。校舎へ続く道には、昨日の応援で使った紙片が一枚だけ落ちていた。誰かが踏んだらしく、端に土がついている。僕は拾い上げ、近くのごみ箱へ入れた。

旧館へ向かう廊下は、朝の白い光で満たされていた。窓枠の影が床に細く伸び、歩くたびに靴音が乾いて返ってくる。教室の扉はすべて閉じていて、誰もいない校舎が、昨日までの人の多さを隠しているようだった。

部室の前で、僕は一度だけ立ち止まった。

扉の向こうには、昨日までなら誰かがいた。湊がベンチの端に座って甘いコーヒー牛乳を飲み、凛が誰より先にボールを数え、牧野さんが窓を開けてから無言で床を見回る。誰かのスパイクが入口に出ていて、誰かのタオルが棚から落ちていて、それを見つけた人間が舌打ちをする。

そういう小さな乱れが、部室には必要だった。

僕は鍵を取り出し、扉を開けた。

木が擦れる音がした。中には、昨日までの匂いが残っていた。土と汗、乾いた木、金属の冷えた匂い。ベンチのささくれに指を触れると、薄い棘が皮膚に引っかかった。僕は指を引っ込めず、そのまま木の端をなぞった。

誰もいなかった。

「……おはようございます」

言ってから、返事がないことに気づいた。

いつもなら、誰かが「おう」と返す。牧野さんなら、顔を上げずに一度だけ頷く。返事のない挨拶は、部室の中で行き場を失い、天井の低いところに留まった。

僕は鞄を置き、ロッカーを開けた。

ユニフォームは、昨日のまま吊るされていた。白い布地は汗を吸って重く、背番号の縁には黒い土が入り込んでいる。袖口には、僕が何度も手で拭った跡があった。洗えば落ちる汚れなのに、すぐには洗う気になれなかった。

まず、スパイクを取り出した。

靴底の金具に土が詰まっている。僕は濡れタオルを絞り、片方ずつ拭いた。泥は乾いて固まり、布を押し当てると、ざらざらした感触が手のひらに伝わった。昨日、最後に踏んだ土だった。

打席へ向かう前、僕は一度だけグラウンドを見た。

先頭の走者が塁に出ていた。ベンチから声が飛んでいた。湊が立ち上がっていた。誰かが僕の名前を呼んだ。僕はバットを握り直し、打席へ入った。

あとは、何度思い返しても同じだった。

初球を見送った。二球目はファウル。三球目の変化球に、体が先に動いた。芯を外れた打球は、相手の内野手の正面へ転がった。捕球の音がして、審判の腕が上がった。

アウト。

あの瞬間から、試合は僕の一打になった。

本当は、その前に守った九回があり、何度もつないだ打順があり、凛たちの声があり、湊がベンチの端で握りしめていたグリップがあった。けれど、僕の中に残ったのは、最後に打てなかったことだけだった。

スパイクの泥が落ちていく。タオルが黒く染まる。僕は靴底を拭きながら、あの一打もこうして削ればなくなるのかと考えた。考えて、すぐに違うと思った。汚れを落とすことと、なかったことにすることは同じではない。

スパイクを棚へ戻したあと、ユニフォームを脱いだ。

ベンチに広げると、布地が膝の上へ沈んだ。汗が乾いた布は、思っていたよりも重かった。僕は縫い目を探し、左右を揃えた。袖を内側へ折り、裾を合わせる。角が少しずれる。いったん開き、もう一度畳み直す。

何度やっても、背番号の部分だけがうまく平らにならなかった。

指で押さえても、布はすぐに戻ろうとする。昨日の汗と土と体温が、その場所だけに残っているようだった。

僕はユニフォームを畳み終え、ロッカーの中へしまおうとした。そのとき、部室の奥にあるホワイトボードが目に入った。

普段なら、練習メニューや集合時刻が書かれている。朝の打撃、守備の確認、走塁。牧野さんの字は細く、必要なことだけが整然と並んでいた。昨日の試合前には、先発の名前と守備位置が書かれていたはずだ。

今は、ほとんど消されている。

ただ、ボードの右端に、短い文字が残っていた。

ここで終わらないでくれ

黒いマーカーの線は、途中で力が抜けていた。「で」の払いがかすれ、「くれ」の最後だけが少し下がっている。書き慣れた連絡事項の字ではなかった。走り書きだった。誰かに見せるためではなく、誰もいない部室で、置いていくために書かれた文字に見えた。

僕は近づいた。

怒られているのかもしれないと思った。

ここで終わるな。ここで止まるな。最後の打席を言い訳にするな。牧野さんなら、もっと短く、もっと冷たく書いたはずだ。なのに、そこには「くれ」とあった。命令ではなく、頼みの形をしていた。

だから余計に、意味が分からなかった。

僕に向けたものなのか。三年生全員に向けたものなのか。それとも、これから部室を使う後輩たちへ残したものなのか。

「終わらない」とは、何がだろう。

野球か。部室か。僕たちの時間か。

昨日の試合で、僕たちは確かに終わった。三年生としての公式戦は終わり、朝練へ行く理由も、練習後に汗の匂いをまとって帰る日々も、もう戻らない。終わったものを終わっていないと言い張るのは、ただの未練ではないのか。

指先が、文字の下のボードに触れた。

消し残しの白い粉が爪の腹に引っかかる。乾いた粉は簡単に崩れ、皮膚の溝へ入り込んだ。僕はその白さを見つめた。昨日のグラウンドの土とは、まるで違う色だった。けれど、どちらも手につけば、すぐには落ちない。

「ここで終わらないでくれ」

小さく、声に出してみた。

自分の声になると、文字で見たときより近かった。近すぎて、胸の奥に隠していたものへ直接触れた。僕は反射的に口を閉じた。

怒られているのかもしれない。

そう考える一方で、見捨てられていないのかもしれないとも思った。試合が終わったあと、誰も僕を責めなかった。だから僕は、誰も何も言わないことを、失望の形だと決めつけた。湊の沈黙も、凛が目を合わせなかったことも、牧野さんが記録表を閉じたことも、全部、自分への判定だと思った。

けれど、そうではない可能性もある。

可能性という言葉を考えただけで、胸の奥がざわついた。僕は他人の表情なら読める。湊が笑っているとき、その笑いが本当に軽いのか、無理をしているのかも分かる。凛が返事を大きくするとき、誰かを励ましたいのか、ただ作業を進めたいのかも、だいたい分かる。

なのに、自分がどうしてほしいのかだけは、ずっと分からなかった。

ホワイトボードの前で、僕は指を下ろした。

文字を消すことはできる。マーカーを持って、何度も往復させれば、黒い線は白く濁り、最後には何も読めなくなるだろう。牧野さんなら、そうするはずだった。終わった練習のメニューを残しておかない。次の日のために、ボードは空けておく。

けれど、僕はマーカーに手を伸ばさなかった。

窓の外で、グラウンドから金属の音がした。まだ誰も来ていないはずなのに、風でフェンスが揺れたらしい。乾いた音が一度、二度と響き、すぐに静かになる。

その静けさの中で、僕は昨日の最後に聞いた声を思い出した。

自分の名前だった。

誰が呼んだのかは、はっきり覚えていない。湊だったかもしれない。凛だったかもしれない。ベンチの向こうから、複数の声が重なっていたのかもしれない。打球が転がったあとも、誰かが何かを叫んでいた。僕はそれを聞きながら、もう終わったのだと思った。

けれど、声は終わったあとにも残っていた。

僕の耳の奥に、今も残っている。

ホワイトボードの文字を、もう一度見た。

ここで終わらないでくれ。

その言葉は、昨日の僕を責めるためには少し弱すぎた。失敗を切り捨てるためには、あまりにも長く残る。頼まれたのか、待たれているのか、まだ判別できない。ただ、僕が何かを決めるまで、そこに置かれている。

朝の白い光が、窓から部室へ斜めに差し込んでいた。埃が細い光の中を漂っている。棚の金具が淡く光り、床の土が小さな影を作る。誰もいない部室は、昨日までの熱を吐き出しながら、それでも完全には冷えきっていなかった。

僕は畳んだユニフォームをロッカーへしまった。

背番号が内側へ隠れるように、けれど折り目は崩さずに置く。扉を閉める前、指先で布を一度だけ押さえた。そこに何かを置いていくような気持ちだったのに、実際には何も置けていない気がした。

それでも、扉を閉めた。

ホワイトボードの前から離れると、床に落ちた白い粉が靴先に触れた。僕はしゃがみ込み、指でそれを拾おうとした。粉は細かすぎて、うまくつまめない。指先に白さだけが残った。

部室を出る前に、僕は振り返った。

誰もいない。昨日までなら当たり前だったその光景が、今はひどく新しかった。空のベンチ。戻されていないボールケース。壁に立てかけられたバット。まだ使えるものと、役目を終えたものの区別が、僕にはつかなかった。

扉へ向かいかけて、足が止まる。

「……行ってきます」

返事はなかった。

けれど、白い光の中で、ホワイトボードの一行だけが消えずに残っていた。

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白い部室の指先 - 一行の次戦 - 誰でも作家life