第10話 白いボードの前で

翌朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。
窓の外はまだ青く、カーテンの隙間から入る光が、机の上の進路資料を薄く照らしている。昨日、鉛筆で印をつけたページが開いたままだった。
閉じようとして、手を止めた。
母さんに言われたことを思い出した。
顔を洗って、朝ご飯を食べなさい。
僕は布団を出た。
台所には、もう湯気が立っていた。母さんは味噌汁の鍋を火にかけ、弁当箱へおかずを詰めている。僕を見ると、時計ではなく顔を見た。
「今日は早いわね」
「学校、行く」
「そう」
「朝ご飯、食べてから」
「そうして」
母さんは、それ以上何も言わなかった。けれど、味噌汁を椀へよそう手つきが、いつもより少しだけ軽かった。
食卓につくと、スマートフォンが震えた。
湊からだった。
〈もう来てる。ボールの数、逃げずに確認しろ〉
僕は短く返した。
〈お前も来てるのか〉
すぐに返信が来た。
〈俺は逃げる場所がない〉
画面を見ていると、母さんが湯気の向こうから言った。
「笑ってる?」
「笑ってない」
「そう」
母さんは、僕の前へ焼いた卵を一切れ置いた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関を出ると、空気は昨日より冷たかった。朝の道路には人影が少なく、靴の裏が地面を擦る音だけが耳に残る。
北丘高校の旧館へ着くと、部室の扉が少し開いていた。
中から、ボールの当たる音がする。
「一個足りない」
湊の声だった。
「さっきからそれだけ?」
「いや、二個足りない。数えるたびに増える」
「それは数え方が悪い」
「蒼、朝から厳しいな。引退してから監督みたいになってるぞ」
扉を開けると、湊が床にボールを並べていた。昨日まで置かれていた道具のいくつかは棚へ戻され、部室の中央が広くなっている。窓も開いていて、木と土の匂いに、冷たい朝の空気が混じっていた。
湊は僕を見ると、いつものように笑おうとした。
けれど、笑い切る前に目を逸らした。
「昨日のこと、考えた」
「俺も」
「そっか」
湊はボールを一つ持ち上げ、指の間で回した。
「俺さ、昨日、蒼が全部自分のせいにするのを見て、ちょっと安心してた」
「安心?」
「うん。変な話だけど。蒼が苦しそうにしてると、俺は何も言わなくてよくなったから。お前が全部持ってるなら、俺は隣で黙っていればいいって」
湊は笑わなかった。
「でも、あれは隣に立ってたんじゃなくて、預けてただけだった」
僕は床に並んだボールを見た。白い革の表面に、細い土の跡が残っている。
「俺も、渡さなかった」
「何を」
「悔しかったってこと」
湊の指が止まる。
「打てなかったのが悔しかった。あの球を見送ったことも、振ったことも、今でも分からない。だけど、言ったらみんなが困ると思った。俺が弱音を吐いたら、先輩として終わる気がした」
「もう終わってるけどな」
湊が言った。
「言い方」
「事実だろ。俺たち、もう引退したんだから」
その言葉は、思っていたより痛くなかった。
終わったことを認めると、そこから先にあるものまで見える。昨日までは、終わりを口にするだけで、何かを捨てるような気がしていた。
「でも、終わったから言えることもある」
僕が言うと、湊はしばらく黙った。
「蒼は、これからも野球やる?」
「分からない」
「俺も」
「続けるかもしれないし、やめるかもしれない」
「どっちでもいいのかな」
「よくはないだろ」
「だよな」
湊はボールをケースへ戻した。
「でも、決めるのは今日じゃなくていいか」
「母さんにも言われた」
「おばさん、強いな」
「食べてから決めろって」
「それは正しい。空腹で人生を決めると、だいたい後悔する」
僕は少し笑った。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。凛が記録ノートを抱えて入ってくる。髪には朝の湿気が残り、手には新しいマーカーが三本握られていた。
「おはようございます」
「早いな」
「先輩たちが来ると思っていたので」
「なんで分かるんだよ」
「湊先輩が昨日、明日早く来いってメッセージしていたので」
湊がこちらを見る。
「見たのかよ」
「通知が光っていました」
「プライバシー」
「部室の連絡は共有です」
凛はそう言って、ホワイトボードの前へ歩いた。
黒い文字は、昨日よりさらに薄くなっていた。けれど、まだ読める。
ここで終わらないでくれ。
凛は新しいマーカーを机へ置いた。
「牧野さんは?」
「まだです」
「じゃあ、先に掃除します」
凛が雑巾を取りに行く。湊はその背中を見送り、僕の肩を軽く叩いた。
「蒼」
「何」
「ボード、消すの、お前がやれよ」
僕はホワイトボードへ目を戻した。
「俺が?」
「書いた人が消すのが普通だろ」
「牧野さんが書いた」
「じゃあ、牧野さんに消してもらう?」
僕は首を振った。
湊は、少しだけ視線を落とした。
「昨日の記録、あれさ。俺も書きたいことがある」
「何を」
「九回裏、蒼が打席へ向かう前に、俺は名前を呼べなかった」
「呼んでた」
「声になってなかった」
湊はそこで一度笑った。けれど、その笑いはすぐに消えた。
「だから、今日は言う。蒼、あのとき、打てと思ってた。打てなくても、戻ってこいとも思ってた」
胸の奥が熱くなった。
「聞こえてた」
「じゃあ、よかった」
「でも、打てなかった」
「知ってる」
湊はボールケースの蓋を閉めた。
「知ってるけど、それだけじゃない」
牧野さんが扉のところに立っていた。
いつ来たのか分からない。手には、使い古したクリーナーがある。僕へ差し出し、ホワイトボードを見た。
「消せ」
「はい」
クリーナーを受け取る。布の表面には、黒い粉が薄く染みていた。
僕はボードの左端へ手を伸ばした。
最初の文字を拭う。
白い粉が布へ移る。文字の輪郭が崩れ、昨日から何度も読んだ一行が、少しずつ途切れていく。
ここで。
そこまで消えたところで、手が止まった。
「全部、消していいんですか」
僕が尋ねると、牧野さんは一拍置いた。
「板は使うものだ」
「文字は?」
「残る」
「どこに」
牧野さんは、僕ではなく記録ノートを見た。
「書いたところに」
僕はもう一度、布を動かした。
終わらないでくれ。
最後の文字が消える。板面には薄い曇りが残り、窓から差す光をぼんやり返していた。完全な白ではない。何度も書かれ、消され、拭かれてきた白だった。
凛が新しいマーカーを一本、僕の前へ置いた。
「何か書きますか」
僕は空いたボードを見た。
以前なら、次の言葉をすぐに決めなければいけないと思っただろう。けれど今は、白いままの時間があってもいい気がした。
「今日は、まだいい」
凛は頷いた。
「分かりました」
湊がボールケースを持ち上げる。
「じゃあ、次に来たやつが書くってことで」
「誰が書くか分からないだろ」
「それでいいんじゃない? 余白なんだろ」
牧野さんは何も言わなかった。ただ、窓を閉める前に、朝の空気を一度だけ深く吸った。
僕は机の上の記録ノートを手に取った。最後の頁には、まだ余白がある。
ペンを開き、そこへ書いた。
〈引退の翌朝。ボードを消した。次の記録は、まだない〉
書き終えると、湊が横から覗き込んだ。
「それ、提出するのか」
「分からない」
「またそれかよ」
「でも、書いた」
湊は呆れたように笑った。
部室の外で、凛の声が響く。
「グラウンド、整備します!」
返事をする者は、もういない。
それでも凛は、レーキを引く音を朝の土へ残していった。
僕は記録ノートを閉じ、部室の扉へ向かった。白いボードの前を通るとき、指先に残った粉が、制服の袖へかすかについた。
外の光は、昨日より明るかった。
終わった場所は、消えていない。
ただ、そこに立ち続ける理由だけが、もうなくなっていた。
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