第9話 役場の沈黙

役場へ着いたとき、雨は止んでいた。
濡れたアスファルトの上に、薄い午後の光が溜まっている。山から下りてきたばかりの身体には、町の空気が乾きすぎていた。排気ガス、濡れた傘、入口脇の自動販売機から漏れる甘い缶コーヒーの匂い。そのどれにも、長尾沢の煤は混じっていない。
それなのに、私は自分の指先から炭の匂いを嗅いだ。
洗っていないからだ、と考えた。沢口家で灰を触り、車の中で暖房を当てた。煤は爪の間や皮膚の線に残る。説明はつく。説明がつくことに、私は一度だけ安心した。
その安心は、役場の自動扉が閉じる音で崩れた。
斎藤由里子は、前と同じ机にいた。濃紺のカーディガンの袖口から白い手首がのぞき、書類の角を一枚ずつ合わせている。机の上は整然としていた。朱肉、鉛筆、付箋、綴じ紐。だが、その整然さの中央に、薄い白紙の束が置かれていた。
由里子は私を見ると、顔を上げる前に朱肉の蓋へ指を置いた。
「松原さん。戻られたんですね」
「別冊を見せてください」
「先日、かなりの資料をご覧になったと思いますが」
「足りません」
「どの部分がでしょう」
「全部です」
自分でも乱暴な言い方だと思った。由里子は眉を動かさず、机の端に重ねていた紙を一枚持ち上げた。紙の綴じ目が緩み、角には深い折れ跡がある。彼女はそれを他の紙の上へ戻し、何度も角を揃えた。
「災害当日の避難確認表なら、閲覧申請が必要です」
「申請します」
「原本ではなく、整理後の写しになる可能性があります」
「整理前のものを見せてください」
「それは、許可できません」
「なぜですか」
「個人情報が含まれています」
「長尾沢は無人です」
「無人になったからといって、そこにいた人の情報が無くなるわけではありません」
「誰かの家族が、名前を見られることを嫌がっているんですか」
「家族が残っていれば、そういうこともあります」
「残っていない人間の名前は、見てもいい?」
由里子の指が止まった。
役場の奥で、複写機が動き始めた。紙を吸い込む音が一定の間隔で続いている。人間が迷いながら一枚を選ぶのとは違い、機械は与えられたものをためらわず写し、吐き出していく。
「火が、今朝も残っていました」
私は言った。
由里子は複写機の音を聞いていた。こちらを見ない。
「沢口家の囲炉裏です。昨夜、火を消しました。灰をならし、炭の数を確認し、火箸を決めた場所へ戻しました。それでも朝には、火種が三つ残っていた。炭は寄せられ、灰は湿っていた。仏間の火箸も動いていました」
「松原さんご自身が、無意識に火を起こされた可能性はありませんか」
「ありません」
「睡眠中に、という意味です」
「ありません」
「古い家では、記憶が曖昧になることがあります。自分で行ったことを、誰か別の手の仕事だと思い込むこともある」
「その可能性は記録しています」
「では、なぜ私に話されるんですか」
由里子は初めて顔を上げた。目の下に、眠れていない人間の薄い影がある。
「火が入る理由を、あなたが知っていると思うからです」
「私は、火のことを調べているだけです」
「そういう言い方をされると思っていました」
「どういう意味ですか」
「調べる側の人は、自分を当事者から外して話します。村を対象にして、伝承を資料にして、空白を欠損として扱う。そうしないと、記録が歪むからです。でも、長尾沢の資料を見た人は、誰でも少しずつ自分の立っている場所を失います」
「私が長尾沢の出身者だと言いたいんですか」
「私は、そう言っていません」
「言っているのと同じです」
「違います。私は、あなたを一つの名前へ押し込めたくないんです」
由里子は引き出しを開けた。中には何冊ものファイルが並び、その間に、細い紙片が何枚も挟まっている。彼女は一冊を取り出し、机の上へ置いた。表紙には、災害関係資料とだけ印字されている。
「これは、整理前の控えです。原本ではありません。正式な資料として扱えないものも混じっています」
「見せてください」
「持ち出しはできません」
「ここで見ます」
由里子は頷いた。
ファイルを開くと、古い紙の匂いが立った。乾いているのに、どこか湿っている。紙そのものが、長いあいだ暗い倉庫で息を止めていたような匂いだった。
避難名簿には、家名、世帯主、人数、避難先、確認日時が並んでいる。数字は揃っている。筆跡も、後から整えられた部分はよく似ていた。
ただ、沢口家の欄だけ、確認日時が空白だった。
その下の家族欄には、二本の線が引かれている。一つは削られ、もう一つは何も書かれていない。
私は紙へ顔を近づけた。
「これは、二人分の欄ですか」
「欄の数だけでは、人数は確定できません」
「では、なぜ削ったんですか」
「訂正の跡でしょう」
「何を訂正したんですか」
「分かりません」
「由里子さん」
「本当に分からないんです」
由里子の声は丁寧だった。丁寧なまま、底に疲れが沈んでいる。
私は削られた欄の紙繊維を見た。文字はほとんど失われている。けれど、最初の字の下半分が、松という字に似た形で残っていた。次の字は縦に長く、最後の一画だけが紙へ深く沈んでいる。
喉が乾いた。
私は自分の名前を、口の中で繰り返した。
りん。
りん。
その音に、別の声が重なった。
火を見てて。
私は目を閉じた。赤い火床。灰をならす小さな手。すぐ隣で、誰かが袖口をつまんでいる。顔は見えない。けれど、私はその子の沈黙を知っていた。
「松原さん」
由里子の声で目を開ける。
「大丈夫ですか」
「この欄に、何が書かれていたんですか」
「読めません」
「読めるところだけでいい」
「松原という姓に似ている。それ以上は言えません」
「名は?」
由里子は朱肉の蓋を押さえた。指が白くなる。
「私の旧名に似ています」
「そうですか」
「あなたは、以前から知っていたんですか」
「知っている、という言い方は正確ではありません」
「では何ですか」
「見たことがあるのです」
由里子はファイルのページから目を離さなかった。
「名簿を整理していたとき、同じような筆跡を見ました。削られた欄、空白の欄、別の家の余白に移された名前。最初は、単純な転記ミスだと思いました。災害のあとで混乱していた。古い紙は傷み、聞き取りの人も疲れていた。そういう事情なら、数字が合わないことはあります」
「でも、合わなかった」
「一つ直すと、別の場所が合わなくなりました。沢口家の人数を二人にすると、避難先の欄で一人余る。広瀬という名前を戻すと、別の世帯の家族欄が空く。写真に写っている人数を合わせようとすると、位牌の数が増える。逆に、位牌を死者の数として整理すると、写真から人が消える」
「誰かが意図して直したんですか」
「誰かが意図して、直したのだと思います」
「では、なぜ断定しないんですか」
「直した人間が、何を守ろうとしたのか分からないからです」
由里子は、ファイルの下から一枚の紙を取り出した。紙の端に、細い鉛筆で走り書きがある。正式な様式ではない。誰かが作業の途中で残した覚え書きのようだった。
〈沢口家 全戸避難として処理〉
その下に、別の筆跡で書き足されている。
〈ただし、火は残る〉
私は紙を見つめた。
「これは、誰の字ですか」
「分かりません」
「見覚えは?」
「ありません」
「あなたは、この資料をずっと隠していた」
「隠していたのではありません。戻せなかっただけです」
「戻す?」
「別冊へ戻す。原本へ戻す。あるべき綴じ目へ戻す。そういう意味です」
由里子は紙の角を揃えた。だが一枚だけ、どうしても揃わない。彼女はそれを何度もやり直した。
「この資料を整理したとき、ある名前を消し忘れました」
「誰の名前ですか」
「子どもの名前です」
声がさらに小さくなった。
「確認欄に、名前が一つだけ残っていた。削られた欄の隣です。私はそれを見つけて、上司へ報告しました。上司は、消し忘れだと言いました。記録上は存在しない子どもだから、削除するように、と」
「その名前を、あなたは消したんですか」
「私が消したのではありません。消すように言われました」
「同じことです」
「ええ」
由里子は否定しなかった。
「違うと言えば、自分が少し楽になります。でも、紙を押さえたのは私の手です。刃を入れたのも、濡れた布でこすったのも、私ではないとしても、消えるところを見ていました。だから、同じです」
「名前は?」
「言えません」
「なぜですか」
「まだ、その子がここへ戻ってきていないからです」

私は由里子を見た。
蛍光灯が、彼女の顔を白く照らしている。机の上には人の名前を扱う道具が並び、朱肉は蓋を閉じたまま、押された指の跡だけを残していた。
「戻るというのは、どういう意味ですか」
「あなたが、そういう言葉を使うのではありませんか」
「火の話です」
「火だけの話ではないと思います」
由里子はゆっくりと息を吐いた。
「記録を直すことは、存在を固定することです。ここにいた。この家に属していた。この日に避難した。この日に亡くなった。名前を書くというのは、その人を一つの場所へ縫い止めることです。それで安心する人もいます。けれど、縫い止められたくない人もいる。生きている人間なら、なおさらです」
「消された人間は、縫い止められる場所すらない」
「だから、戻すことが正しいとは限りません」
「正しいかどうかを決めるのは、誰ですか」
「決めた人間が、もういない場合もあります」
「それなら、残された人間が決めるべきです」
「残された人間は、いつも正しく決められるでしょうか」
「少なくとも、消すよりはいい」
由里子は私を見た。
「あなたは、名前を残すことで誰かを救えると思っていますか」
「救えるとは言っていません。ただ、いなかったことにはしない」
「そのために、あなた自身が戻れなくなっても?」
私は答えられなかった。
長尾沢の囲炉裏。湿った灰。仏間の火箸。消したはずの火が朝になると戻っている。私はそれを調査対象として見てきた。けれど、火は私を見ていた。私の手つきを測り、私の名前を待ち、私がどこから来たのかを、私より先に知っているようだった。
由里子はファイルを閉じた。
「この別冊は、お渡しできません」
「では、私がここで書き写します」
「それも許可できません」
「なぜですか」
「書き写したものには、あなたの手がつくからです」
その言葉が、黒田の声と重なった。
書いたものには、見た人間の手がつく。
「黒田さんにも同じことを言われました」
「黒田さんは、あの家へ何度も戻っています」
「本人は、昨日の会話を覚えていないと言いました」
「覚えていないのではなく、覚えないことにしているのかもしれません」
「あなたも、そうなんですか」
由里子は答えなかった。
引き出しの奥から、小さなメモ帳を取り出す。表紙は擦れ、角が丸くなっている。彼女はそれを開きかけ、やめた。折り目の深いページに、何か名前が書かれているらしい。
「このメモ帳には、正式な記録にできなかった聞き取りが残っています」
「見せてください」
「見せれば、あなたは長尾沢へ戻る理由を一つ増やします」
「私は、もう戻ります」
「火がなくても?」
「火がない朝のほうが、怖かった」
由里子は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そうでしょうね」
彼女はメモ帳を閉じた。紙を扱う指は正確だったが、最後の一頁を押さえたとき、指先が震えた。
「沢口家の子どもの欄は、最初から空白だったんです」
「削られた名前とは別に?」
「はい」
「二人いた?」
「その可能性があります」
「一人は広瀬晴人ですか」
由里子は名前を聞く前に、一拍置いた。
「その名前は、残っています」
「もう一人は?」
「残っていません」
「私ですか」
「そうだと、私は言えません」
「違うとも言えない」
「ええ」
そのとき、役場の蛍光灯が一度だけ明滅した。
空調の風が紙の表面を撫でる。けれど、閉じたファイルの隙間から、黒い粉が一粒落ちた。机の白い天板に、煤が残る。
私は指で拾った。
乾いているはずなのに、指先へ湿り気が移った。
由里子が私を見た。
「洗わないのですか」
「洗えば、消えるから」
「消えたほうがいいものもあります」
「私は、そう思いません」
「それでも、残すことで誰かを呼ぶかもしれない」
「呼ばれたくない人間がいるんですか」
「呼ばれたくないのではなく、呼ばれる場所を失った人間がいます」
由里子の声は、そこで途切れた。
私は机の上の黒い粒を見つめながら、沢口家の火床を思い出した。三つの炭。中央の赤い芯。誰かの手で整えられた灰。呼びかけを待つような、空白の形。
「この資料を、持ち帰ることはできない」
「はい」
「写真も撮れない」
「はい」
「でも、あなたは見た」
「見ました」
「なら、記憶へ書くしかありません」
「記憶は、紙より不確かです」
「だから、あなたの手で確かめてください」
由里子は、ファイルを引き出しへ戻した。
「名前を読むとき、声に出す前に一拍置くんです。昔からそうしてきました。名前を間違えないためだと思っていました。でも、たぶん違う。呼ぶ前に、戻ってきていい名前かどうかを確かめていたんです」
「そんなことをしても、名前は戻ってくる」
「ええ。だから、私は記録の番人にはなれませんでした」
「あなたは、沈黙の番人だった?」
由里子の手が引き出しの取っ手で止まった。
「そうかもしれません」
「それでも、あなたは私に見せた」
「見せてはいません」
「見せたのと同じです」
「私は、何も断定していません」
「でも、空白が事故ではないと教えた」
由里子は目を上げなかった。
「空白は、事故ではありません。ただ、誰か一人の意思でもありません。怖がった人、守ろうとした人、忘れたかった人、仕事を終わらせたかった人。その全部の手が重なって、名前を消した。だから、誰か一人を責めれば済む話ではないんです」
「では、誰も責任を取らない」
「責任を取る人間がいなくても、消されたものは消えません」
「だから火が残る?」
由里子は答えなかった。
役場の外で、車が水をはねた。白い音が壁を越えてきて、すぐに遠ざかる。町の時間は流れている。紙は複写され、書類は綴じられ、空白は別の書類へ移されていく。
私は手の中の煤を見た。
「明日、また来ます」
「松原さん」
「何度でも来ます。資料を見せてもらうためではありません。あなたが消し忘れた名前を、あなた自身が忘れないために」
由里子は私を見た。顔色がわずかに変わった。
「忘れたほうが、生きていけることもあります」
「忘れたまま生きることと、生きていくことは違います」
言い終えたあと、自分の声が震えていることに気づいた。怒りではなかった。長尾沢へ戻ってから、ずっと胸の中にあった空洞が、初めて言葉の形を取ったのだ。
由里子は引き出しを閉じた。
鍵はかけなかった。
「沢口家へ戻るなら、夜の火に名前を近づけないでください」
「それは忠告ですか」
「お願いです」
彼女がそう言ったのは、初めてだった。
私は返事をせず、役場を出た。
外の空気は冷たかった。雲の切れ目から落ちた光が、濡れた道路の上で薄く震えている。私は車へ向かいながら、手袋を外した。指先の煤は残っていた。
水道で洗えば、落ちる汚れだった。
けれど、私は洗わなかった。
車内へ乗り込み、エンジンをかける。暖房の風が手元へ当たり、煤の匂いが強くなった。
その匂いの中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。
「凛」
私は振り返らなかった。
役場の入口には誰もいない。自動扉が開き、閉じる。由里子の机も、引き出しも、もう見えない。
それでも、呼ばれた名前だけが、指先の湿った煤の中に残っていた。
私はハンドルを握った。
長尾沢へ戻る道は、山の上へ続いている。
そこには、誰もいないはずの家と、毎朝残る火と、記録から欠け落ちた名前がある。
そしてその空白は、私が目を向けるたび、少しずつ私の形に近づいていた。
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