第10話 第10話「戻れない道」

長尾沢へ戻る途中、林道の手前で車を止めた。
道は、昨日より狭くなっていた。
斜面から落ちた土砂が路肩を覆い、杉の根が濡れたまま剥き出しになっている。大きな岩が一つ、道の中央に転がっていた。車で脇を抜けることはできる。けれど、その先の路面にも新しい亀裂が走っていた。
黒田が言った。
今日は戻れない。
その声を思い出しながら、私はエンジンを切った。
車内に、町で買った紙袋がある。食料と電池、それから新しいノート。役場を出る前に、由里子が最後まで見せなかったメモ帳のことを考えていた。彼女は、何かを隠しているのではない。隠したものに触れれば、自分もその場所へ戻されると知っているのだ。
私も同じだった。
フロントガラスの向こうで、霧が道を細くしていく。沢の音は見えない場所から聞こえ、時折、地面の底で低く鳴った。
車を降りる。
靴底が濡れた土へ沈んだ。落石の脇を歩いて越えようとしたとき、石の下から白いものが覗いているのに気づいた。手袋をはめ、土を払う。
古い布だった。
焦げた跡があり、端に赤い糸が一筋だけ残っている。布の中には、黒く変色した炭が三つ包まれていた。
私はそれを持ち上げた。
炭は濡れているはずなのに、掌へ微かな熱を返した。
すぐに放り出すこともできた。けれど、指は動かなかった。布の結び目を見たとき、幼い頃の手つきが戻ってきたからだ。
炭を三つ。
一つは火床の中央へ置く。
一つは灰の下へ隠す。
残りの一つは、帰ってくる者のために残す。
その順番を、私は知っていた。
知っていることが、怖かった。
背後から枝の折れる音がした。
「拾うな」
黒田だった。
崩れた斜面の上に立ち、片手に折り畳み式のスコップを持っている。帽子のつばから水が落ちていた。
「これは何ですか」
「置いていけ」
「誰のものですか」
「聞くな」
「私は、もう聞かないわけにはいきません」
黒田は斜面を下りてきた。布を見た瞬間、顔の筋肉がわずかに固くなる。
「それは、火を運ぶ布だ」
「晴人が使っていた?」
「名前を出すな」
「もう出しました」
「出したから、道が崩れた」
「落石と名前に、何の関係があるんですか」
「関係があると思うなら、そう思えばいい。だが、山は思い込みに合わせて崩れたりしない」
「では、なぜ拾うなと言ったんですか」
黒田は布へ手を伸ばした。しかし、私が先に握り込んだ。
「返してください」
「返せません」
「お前が持つものじゃない」
「私の名前が書かれているわけでもないのに?」
「名前がなくても、持った人間のところへ寄ってくる」
「何がですか」
黒田は答えなかった。
沈黙のあいだ、杉の梢から水滴が落ち続けた。布の中の炭が、私の手のひらで一度だけ小さく鳴った。
「沢口家へ戻ります」
「戻ってどうする」
「火を確認します」
「確認して、何を記録する」
「火が残っていた事実を」
「その事実を書いたら、火は消えるのか」
「分かりません」
「分からないものを、持ち帰るのか」
「分からないから書くんです」
黒田は目を細めた。
「学者は、知らないものを知らないまま置いておけないんだな」
「黒田さんは置いておけるんですか」
「置いてきたつもりで、ずっと拾い直している」
その言葉のあと、黒田は道の先へ目を向けた。
崩れた土砂の向こうに、長尾沢へ続く道がある。見えているのに、足を進めるほど遠くなるようだった。
「今夜は管理小屋へ来い」
「嫌です」
「道が危ない」
「沢口家のほうが危ないかもしれない」
「だからだ」
「火を消せと言うんですか」
「消せるなら、もう消えている」
黒田は、そこで初めて声を荒らげた。
すぐに顔を背け、帽子のつばをなぞる。怒りを隠すときの仕草だった。
「お前が戻れば、あの家はまた二人分の火を焚く」
「二人分?」
「聞かなかったことにしろ」
「できません」
「できないんじゃない。しないだけだ」
私は布を胸元の鞄へ入れた。
「晴人は、まだ火の前にいるんですか」
「たえさんに聞け」
「たえさんは、答えません」
「答えないことで、答えていることもある」
「そんなやり方では、誰も名前を取り戻せない」
黒田はしばらく私を見ていた。やがてスコップを地面へ突き立て、低い声で言った。
「取り戻した名前は、元の場所へ帰りたがる」
それだけ言うと、彼は道端の倒木へ腰を下ろした。
「俺はここにいる。日が落ちるまでだ」
「見張るんですか」
「道を見ている」
「私を?」
「両方だ」
私は返事をせず、土砂の脇を進んだ。
歩くたび、鞄の中の炭が布越しに重さを変えた。実際には変わっていないのだろう。けれど、坂を上るほど、何かが内側へ寄ってくる感覚が強くなった。
沢口家の戸は開いていた。
玄関の土間には、濡れた足跡が一つだけ残っている。大人のものではない。つま先が細く、踵が浅い。足跡は土間の中央まで続き、そこで消えていた。
私はしゃがみ込み、指を近づけた。
泥はまだ柔らかい。
新しい。
外から入ってきた者がいる。だが、戻る足跡はない。
家の奥で、火箸が床へ触れる音がした。
かち、と乾いた音だった。
「たえさん?」
呼びかけても返事はない。
私は囲炉裏へ近づいた。灰は平らに均されている。その中央に、昨日までなかった窪みがあった。小さな手のひらを押しつけたような形だった。
鞄から炭の包みを取り出す。
布の結び目は、いつの間にかほどけていた。
三つの炭が、灰の縁へ並んでいる。
一つは中央。
一つは灰の下。
残りの一つは、私の足元に置かれていた。
その炭だけが、赤く息をしていた。
背後で戸が閉まる。
振り返ると、土間の足跡が一つ増えていた。
私の靴の隣に、小さな裸足の跡がある。
それは私の足元から始まり、囲炉裏の前まで続いていた。
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