8話 白紙の欄

沢口たえが出ていったあとも、私はしばらく仏間に座っていた。

戸は閉じられていない。霧の白さが庭から流れ込み、開いた襖の向こうで薄く揺れている。囲炉裏の火種は、灰の中央で三つ、赤い芯を保っていた。炎はない。けれど炭の内部にだけ、消えることを拒む熱が残っている。

たえの言葉が、耳の奥で何度も形を変えた。

まだ、火の前にいる。

私はその言葉をノートへ書かなかった。書けば、たえの声が記録になる。記録になれば、それは私の外側に置かれた事実になる。けれど今の私は、その言葉を外側へ置くことができなかった。胸の内側に入り込んだまま、灰の下の炭のように、どこから触れても熱を返してくる。

仏間の床へ、古写真の束を広げた。

沢口家の前に立つ人々。囲炉裏を囲む大人たち。白く飛んだ顔。裏返された写真。端の擦り切れた一枚。私は写真を時系列に並べようとしたが、日付のないものが多く、並べるたびに順番が崩れた。

写真の端には、煤の付着した指跡が残っている。黒い点が二つ。誰かが火のそばで写真を持ったまま、指を汚したのだろう。私は虫眼鏡を取り出し、指跡の形を見た。

一つは大人のもの。

もう一つは、小さな指のものだった。

私は指先に付いた灰をこすり合わせた。灰は冷たい。それなのに、そのざらつきは、幼い頃の手の感覚を呼び起こした。

囲炉裏の向こうに、誰かが座っている。

その子は、火よりも灰を見ていた。炭が崩れないように火箸を立て、袖口をつまみながら、私の手元を窺っている。何かを言おうとしているのに、声を出すと大人たちに気づかれるから、黙っている。

顔だけが思い出せない。

私は古い封筒を取り出した。調査に出る前から持ち歩いていた、未送信の手紙だった。宛名は書いていない。けれど、封筒の内側には、何度も指でなぞった跡がある。私はこれを誰に宛てたのか知らない。知らないのに、捨てることもできず、研究道具の間へ入れていた。

封を開ける。

中には、折り畳まれた便箋が一枚だけ入っている。

〈あなたがまだ覚えていないなら、火の前で待っています〉

そこまでしか書かれていなかった。

署名はない。日付もない。書いた覚えはないのに、最後の一画だけが深く沈んでいる。私はその筆圧を見て、息を止めた。

広瀬晴人の字と、よく似ていた。

そのとき、玄関のほうで足音がした。

濡れた石畳を踏む音が、二つ。続いて、戸の枠へ手を置く気配がある。

「松原さん」

黒田の声だった。

私は便箋を伏せ、仏間から土間へ出た。黒田は戸口に立っていた。合羽の肩に霧が乗り、手には古い紙袋を抱えている。いつものように、私の名前を呼ぶ前に一拍置いていた。

「たえさんを見ませんでしたか」

「会った」

「そうか」

「仏間を開けました」

黒田は土間の奥へ視線を向けた。開いた襖、その向こうの灰、倒れた位牌。彼は一度だけ目を細め、それから紙袋を囲炉裏の脇へ置いた。

「これを持ってきた」

「何ですか」

「写真だ」

袋から出したのは、古い山の写真だった。褪せた色の中に、若い黒田が写っている。今より髪が多く、頬も痩せていた。背後には長尾沢の斜面があり、崩れる前の林道が細く伸びている。

「黒田さんが撮ったんですか」

「俺が撮った。たえさんに渡すつもりだったが、渡せなかった」

「なぜ、今になって?」

「お前が戻ってきたからだ」

私は写真を受け取った。紙は湿気を吸って柔らかくなっている。表面を指で押さえると、写真の中の景色が少し沈んだ。

「ここに何が写っていますか」

「見れば分かる」

「私には、斜面と家しか見えません」

「よく見ろ。沢口家の軒先だ」

写真の右端に、古い家の屋根が写っていた。その前に、何か小さなものが二つ立っている。最初は薪束だと思った。けれど、目を凝らすと、それは子どもだった。

一人は、黒い火箸を持っている。

もう一人は、布に包んだ炭を抱えている。

私は写真を持つ手に力を込めた。

「この二人は、誰ですか」

「それを聞くために、持ってきた」

「黒田さんが知らないはずはありません」

「知っていると思っていた。だが、長尾沢のことを思い出すたびに、顔の順番が変わる。背の高さも、服の色も、どちらが先に火箸を持ったかも変わる。残っているのは、二人いたという感覚だけだ」

「一人は広瀬晴人です」

「そうだろうな」

「もう一人は?」

黒田は答えなかった。帽子のつばを指でなぞり、写真の中央を見ている。

「私ですか」

「そうかもしれない」

「そうかもしれないでは、記録になりません」

「記録にできないものがある」

「私は、それを許せません」

声が土間へ硬く落ちた。黒田は反論せず、紙袋からもう一枚、薄い紙を出した。写真の裏に挟まれていたらしい。便箋の切れ端で、煤が何度も擦られている。

〈りんへ〉

その二文字だけが残っていた。

私は目を閉じた。

名前を呼ばれる感覚が、耳ではなく、指先から入ってくる。火箸を持つ手。灰をならす手。誰かが隣で布包みをほどき、炭を三つだけ火床へ置く。

「私の名前です」

「そうだな」

「この写真を撮ったとき、私はここにいた」

「写真がそう見せている」

「黒田さん」

私は写真を畳の上へ置いた。

「この子どもは、私です。そうでないと言うなら、別人だと証明してください。名前も、家も、記録もない人間を、どうやって別人だと証明するんですか」

「証明できない」

「では、私だと認めるんですか」

「認めるという言葉は、簡単すぎる。お前がここにいたことは、写真が残している。だが、今のお前が、写真の中の子どもと同じ人間かどうかは、俺には決められない」

「私は同じです」

「そう言い切れるか」

私は答えられなかった。

記憶は途切れている。名前は残っている。身体だけが、火の手つきを覚えていた。自分を自分だと言い切るためのものが、私の中ではどれも不確かだった。

私は畳の上へ、写真と便箋と避難名簿の写しを並べた。

白紙の欄。削られた文字。広瀬晴人の写真。私の名前だけが残る便箋。黒田の若い頃の写真に写った、二人の子ども。

紙の端が湿気を吸い、少しずつ波打っていく。写真の角が反り、名簿の白紙の一行が、光を受けて妙に明るく浮かび上がった。

「この二本の線は、二人の子どものために引かれたんですか」

「災害の日、沢口家には二人いた」

黒田が言った。

「一人は晴人。もう一人は、お前だ」

声が遠くなった。

私は名簿の白紙を押さえた。紙は薄く、指の下で頼りなくたわんだ。

「なぜ、私の名前がないんですか」

「避難したことにするためだ」

「私は避難したんですか」

「していない」

囲炉裏の火種が、灰の下で小さくはぜた。

「では、私はどうして今ここにいるんですか」

「たえさんが、お前を外へ出した」

「晴人は?」

「残った」

「なぜ、私ではなく彼が?」

黒田は写真から目を離さなかった。

「お前が、火を消そうとしたからだ」

胸の奥で、何かが崩れた。

赤い火床。雨の音。土砂の崩れる低い音。大人たちの声。誰かが戸を開けようとしている。私は火箸を握り、灰をかけようとしていた。隣で晴人が私の手首をつかんでいる。

まだ、消さないで。

今度は、その声がはっきり聞こえた。

「私が火を消そうとした?」

「お前は、村から出るために火を消そうとした。晴人は、消したら誰も帰れなくなると言った。二人で、火箸を取り合った」

「そして?」

「土砂が来た」

黒田の声は低かった。

「家の裏手が崩れ、沢口家の土間まで泥が入った。たえさんは、お前を抱えて外へ出た。晴人は、火床の前に残った。誰かが残らなければ、火は消える。火が消えれば、戻れない者まで、戻る場所を失う。そう言っていた」

「子ども一人を残して?」

「大人たちは、もう誰も決められなかった」

黒田は紙袋の口を折った。指先が震えている。

「村の大人たちは、火を守ることを掟にした。掟にしてしまえば、誰か一人を残す判断を、個人の責任にしなくて済む。沢口家が最後まで火を絶やさなかったという話は、聞こえはいい。だが実際には、誰かを残して、残された者を名前から外しただけだ」

「晴人は死んだんですか」

「分からない」

「黒田さん」

「遺体は見つからなかった。土砂が家の半分を埋めた。朝、火だけが残っていた。晴人の名前は、名簿から消された。お前の名前も、別の場所へ移された。生きているお前まで、長尾沢に残ったことにされないように」

「私は、何を覚えていたんですか」

「晴人のことを」

「だから、消された?」

「忘れたほうが外へ出られると思った人間がいた」

「忘れれば、外へ出られる?」

私は笑いそうになった。声にはならず、喉の奥で乾いた息になった。

「では、私が忘れたのは、私が弱かったからですか」

「違う」

「火を消そうとしたから?」

「違う」

「晴人を置いて出たから?」

黒田はようやく私を見た。

「お前は、出たんじゃない。出された」

「同じです」

「違う。出された者が、自分を捨てたと思わないために、大人は記録を作るべきだった。だが、あの村の大人たちは、記録を作らず、名前を消した。消せば、残された者の責任も、逃げた者の罪悪感も、なかったことにできると思った」

私は写真の中の自分を見た。

幼い私は、火箸を握っていた。顔はよく見えない。けれど、隣の晴人を見ている。その目には、今の私が抱えているのと同じ、何かを確かめたい焦りがあった。

「この写真を、なぜ今まで隠していたんですか」

「隠していたわけじゃない。見つけられなかった」

「そんなことがありますか」

「ある。俺は何度も探した。けれど、探すたびに写真の場所が変わった。管理小屋の手帳に挟まっていたこともあれば、沢口家の仏間に戻っていたこともある。持ち出そうとすると、写真の中の顔が見えなくなる」

「それは、怪異だと思いますか」

「思わないようにしている」

「私も、そうしたい」

「だが、今のお前は、もう思わないようにする場所にいない」

私は写真のざらつきを指先で確かめた。紙の上の二人は、火の前で何かを待っている。迎えを待っているのか、朝を待っているのか、それとも、どちらかが戻ってくるのを待っているのか。

写真の裏へ手を伸ばす。

そこには、今まで見えなかった薄い文字があった。湿気で浮き上がったのか、煤の下から線が現れている。

〈凛は外へ。晴人は火の前へ。朝になったら、名を戻す〉

私は息を止めた。

「朝になったら、名を戻す」

声に出すと、囲炉裏の炭が一つ、ぱちりと鳴った。

「誰が書いたんですか」

「たえさんだろう」

「名を戻す約束が、守られなかった」

「たえさんは戻そうとした。だが、役場の記録は先に閉じられた。災害後の避難名簿には、全戸避難と書かれた。晴人は消え、お前は別の姓で登録された」

「松原という姓は?」

「お前を引き取った家の姓だ」

私は自分の両手を見た。研究者として文書を照合し、空白を嫌い、名前を残すことに執着してきた。その執着は、学問から生まれたものだと思っていた。

違った。

私は、ずっと自分の名前を探していた。

そして、その名前を探すことは、同時に、晴人の名前を呼び戻すことだった。

囲炉裏のほうから、かすかな衣擦れがした。

私は顔を上げた。

土間には誰もいない。灰の下の火種だけが、三つの赤い点を保っている。けれど、写真の中の晴人が、こちらを見ているように感じられた。

いつも少し遅れて笑っている少年。

呼ばれる前に振り向く癖を持つ少年。

手紙の最後の一画を、深く沈める少年。

私は未送信の便箋を取り上げた。

「この手紙は、私が書いたんでしょうか」

「分からない」

「晴人が書いた可能性は?」

「ある」

「宛先は?」

「お前だろう」

私は便箋の余白へ鉛筆を置いた。

書き足すことはできた。宛名を書き、名前を書き、晴人へ返事をすることもできた。けれど黒田の言葉がよみがえった。

書いたものには、見た人間の手がつく。

名前を呼ぶな。

私は鉛筆を置いたまま、紙の上に手を伏せた。

「私は、名前を戻したい」

「戻せば、火が強くなる」

「それでもです」

「晴人が帰ってくるかもしれない」

「帰ってきてほしい」

言葉にすると、胸の奥の空洞が初めて形を持った。

「私は、彼を忘れていた。置き去りにして、外へ出た。私が覚えていないあいだ、彼はこの家の火の前にいた。もしそれが本当なら、私は記録を残すだけでは足りません。彼がいたことを、私自身が覚えなければならない」

「覚えることは、呼ぶことだ」

「呼びます」

「戻った者を、また外へ出せなくなる」

「それでも、呼びます」

黒田は目を伏せた。

「お前は、あの頃から変わらないな」

「何を知っているんですか」

「火を消そうとして、同時に消せなかった子どもだ。誰かを助けたいのに、別の誰かを置いていく。その両方を抱えたまま、何も決められない顔をしていた」

「今も、決められていません」

「決める必要はない。今度は、見なかったことにしなければいい」

黒田は立ち上がった。

「写真と手紙を持っていけ」

「黒田さんは?」

「俺は、ここに置いていくものが多すぎる」

彼は戸口へ向かい、そこで一度だけ振り返った。

「松原さん。火の前に座るなら、名前を一つだけ持っていけ。いくつも持てば、誰のために火を守っているのか分からなくなる」

「私の名前を?」

「それは、お前が決めろ」

黒田が出ていったあと、私は写真と手紙を畳の上へ残した。

避難名簿の白紙の欄に、鉛筆で名前を書くことはできなかった。書けば、紙の上で晴人を呼び戻すことになる。けれど、書かずにいることも、もう消すことと同じではなかった。

私は白紙の一行へ指を置いた。

「広瀬晴人」

声に出した。

仏間の奥で、何かが振り向いた気配がした。

沢の音が一瞬だけ遠のき、囲炉裏の灰がゆっくりと崩れる。赤い芯が一つ、二つ、三つと明るくなった。火箸が畳の上でかすかに動き、写真の中の晴人を指した。

私は目をそらさなかった。

「私は松原凛です」

自分の名前を、今度は誰かに呼ばれるのを待たずに言った。

「あなたを、いなかったことにはしない」

返事はなかった。

ただ、灰の下から上がった熱が、指先へ静かに移ってきた。熱いというほどではない。けれど、長いあいだ冷えていた手を、誰かが両手で包んだような温度だった。

私は写真の二人を、もう一度見た。

囲炉裏の前にいる幼い私と晴人は、何かを待っている。

その待つ姿は、恐ろしいものではなかった。恐ろしいのは、待っている者を忘れたまま、私が外の世界で生きてきたことだった。

私はノートを開いた。

文章を書く前に、匂いを確かめる。

古い紙。湿った灰。煤けた火箸。長く閉じ込められていた記憶の、かすかな熱。

そして、初めてそこへ、名前を書いた。

〈長尾沢、沢口家。災害時、沢口家には二人の子どもがいた。広瀬晴人と、松原凛。記録上の空白は、欠落ではなく、意図的に作られた可能性がある〉

書き終えたとき、囲炉裏の火が小さく揺れた。

誰かが、隣で灰をならしている。

その手つきだけが、私の記憶の底から、静かに戻ってきた。

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