7話 裏返った仏間

長尾沢へ戻る林道は、朝より狭くなっていた。

雨が降ったあとの土が路肩へ膨らみ、杉の根元から細い流れがいくつも道を横切っている。車輪が泥を踏むたび、底から鈍い抵抗が返ってきた。ワイパーを動かしても、フロントガラスの向こうの霧は薄くならない。町で拾ったはずの乾いた空気は、谷へ近づくにつれて消え、車内にまで湿った木と炭の匂いが戻ってきた。

私は役場で見た白紙の欄を、何度も思い返していた。

削られた文字。最初から書かれていなかった名前。広瀬晴人という、紙の上にだけ残る少年。由里子が見せなかった封筒。

そして、まだ、消さないでという声。

私はハンドルを握る手に力を込めた。自分の名前を口の中で反復する。

りん。

りん。

その音は確かに私のものだった。だが、長尾沢で呼ばれるたび、別の誰かの名前を重ねられているような違和感があった。

林道管理小屋の前を通り過ぎると、軒下に黒田の姿が見えた。彼は工具を磨いていた。こちらへ手を上げることもなく、ただ車が坂を上っていくのを見ていた。私は停まらなかった。

黒田に聞けば、また記憶と記録の境目を曖昧にされる気がした。沢口家へ戻れば、少なくとも火箸の位置と灰の形は、自分の目で確かめられる。

それだけが、今の私に残された確かさだった。

沢口家の前に車を停めると、玄関の戸が少し開いていた。

出るとき、私は閂をかけた。鍵も石の下へ戻した。戸が開いているはずはない。私は車のエンジンを切らず、しばらく座席に残った。

沢の音が、霧の向こうで低く続いている。

開いた戸の隙間から、細い煙が流れていた。

煤の匂いだった。

私は車を降り、泥の上へ足を置いた。玄関までの石畳には、私の出ていったときにはなかった濡れた跡がある。小さな足幅。踵は薄く、つま先だけがはっきりしている。

跡は戸口へ向かい、そこで途切れていた。

私はその先を見ないようにして、玄関の敷居をまたいだ。

囲炉裏には火が入っていた。

炎はない。灰の下に、赤い芯がひとつだけ残っている。炭は三つ。きれいな三角形に寄せられ、その中心へ薄い赤が集まっていた。

私は荷物を土間へ置いた。

火箸は、仏間の襖を指している。

先端の下に、黒い煤の筋が続いていた。筋は畳の上を渡り、襖の前で途切れている。私は写真を撮り、ノートを開いた。文章を書く前に、匂いを確かめる。

〈濡れた土。杉の皮。古い木。囲炉裏の灰。ほかに、乾いた布を長くしまっていたような匂い〉

そこまで記したとき、仏間の襖が内側からわずかに動いた。

音はしなかった。

ただ、紙のように薄い光が、隙間から土間へ落ちた。

私は火箸を手に取った。柄は冷たかったが、先端にはまだ熱があった。仏間の襖へ近づき、引手へ指をかける。

開ける前から、誰かが中にいる気配がした。

「そこへ置きなさい」

背後から声がした。

私は振り返った。

土間の戸口に、沢口たえが立っていた。

小柄な身体に、灰色の羽織を重ねている。髪は濡れていない。霧の中を歩いてきたようには見えなかった。右手には黒く使い込まれた火箸があり、左手には布の包みを抱えている。

「いつから、そこに?」

「火箸を持つ前から」

「戸は閉めて出ました」

「そうかい」

「閂もかけました」

「そうかい」

たえは私の質問に答えず、囲炉裏へ歩いた。歩幅が小さい。灰を踏まないように、昔から決められた線の上だけを選んでいるようだった。

たえは赤い芯の手前で立ち止まり、私の手から火箸を取った。

「乱れている」

「火は、私が出る前には消えていました」

「火の話じゃない」

たえは火箸の先で灰の縁を撫でた。赤い芯を崩さず、炭の角度だけを直していく。三つの炭が少しずつ回され、三角形の辺が揃った。

「誰かが手を入れた跡があります」

「誰か、ではない」

「では、誰ですか」

「お前は、名を聞くのが好きだね」

「名前のない人間を、いなかったことにしたくないんです」

「名前があれば、いなかったことにならないと思っているのかい」

たえは火箸を灰の上へ横たえた。二本の先端を揃え、柄を同じ高さに置く。

「名は、人を呼ぶためのものだ。呼ばれたものが、必ず帰ってくるとは限らない。帰れないものまで帰ってきたら、呼んだ者の責任になる」

「それでも、呼ぶ必要があります。誰がいたのかを確かめなければ、記録はただの空白です」

「記録、記録と。お前は紙の上で人を生かせると思っている」

「少なくとも、紙から消された人を戻すことはできます」

「戻して、どこへ置く」

「その人がいた場所へ」

「そこにもう家がないときは?」

私は答えられなかった。

たえは囲炉裏の前を離れ、仏間の襖へ近づいた。火箸を一本だけ持ち、襖の中央を指す。

「開けるよ」

「ずっと閉められていたんですか」

「閉めておいた」

「なぜです」

「お前がまだ、外の人間だったから」

たえは襖を開けた。

仏間の空気が、ゆっくりとこちらへ流れてきた。湿った灰の匂い。その奥に、乾いた布と古い紙の匂いがある。壁際の土は一部崩れ、竹小舞が露出していた。位牌は二列に並んでいるはずだったが、いくつかが横へ倒れ、黒い木札が戸棚の隙間へ差し込まれている。

私は足を止めた。

床の中央に、灰があった。

風で散ったものではない。畳の目に沿って薄く広がり、その中心だけが指先でならされたように平らになっている。灰の縁には、細い円が残っていた。誰かが何度も同じ場所を撫で、外側へ押し出した跡に見える。

「この灰は、いつから?」

「お前が来る前から」

「誰がならしたんですか」

「見れば分かるだろう」

「人の指の跡です」

「そうだね」

「たえさんが?」

「私なら、もっと平らにする」

たえは灰の縁を火箸で撫でた。私が見てきた囲炉裏の灰と同じ手つきだった。力を込めず、表面を壊さず、内側にあるものを隠したまま形だけを整える。

「火のない仏間に、なぜ灰があるんですか」

「ここにも火を置いたからだ」

「いつですか」

「いつ、という聞き方をすると、火が一度しかなかったように聞こえる」

たえは崩れた土壁へ目をやった。

「炭火送りは、家から家へ炭を分ける。火を受けた家は、翌朝まで絶やさない。朝になれば、隣の家へ知らせる。火が続いているか、消えているか。それだけで、村の中に誰がいるか分かった」

「それは、これまで聞いた話と同じです」

「同じ話を聞いても、まだ同じところにいるのかい」

「何が違うんですか」

「炭火送りは、帰る者のための火だ。夜に出た者が、朝、戻ってこられるようにする。家と家のあいだに道をつくる。目に見えない道だが、火を見れば分かる」

「では、送り火は?」

たえは火箸を二本揃えた。

その沈黙は、今までのものより長かった。沢の音が遠くなり、仏間の壁の中で湿った土がゆっくり沈む音まで聞こえた。

「送り火は、帰れない者のための火だ」

「死者を送る火ではないんですか」

「死者なら、送れば済む。名を呼んで、戸口から出して、道の先で消す。そういう送り方なら、まだ簡単だ」

「帰れない者は、死者とは限らない?」

「生きていても、帰れない者はいる。村を出た者。名前を変えた者。帰る場所を失った者。帰ることを許されなかった者。そういう者を、火の外へ出さないための火だ」

「留めるために?」

「留めるために」

たえの声は乾いていた。けれど、囲炉裏の前に立つ所作だけが、妙に若かった。

「火を絶やさなかった家は、村の出口を塞ぐ鍵だった。誰かが出ていくとき、火を消してはいけない。消せば、その者は本当に戻れなくなる。けれど火を残せば、戻らない者の道が、家の中へつながったままになる」

「それは保護ではなく、拘束です」

「そうだよ」

「そんな掟を、なぜ続けたんですか」

「続けなければ、もっと早く村がなくなったからだ」

たえは灰を見つめたまま言った。

「人は、家を出るとき、荷物だけ持っていくと思うかい。名前も、匂いも、手つきも置いていく。置いていかれたものは、家の中に残る。残ったものが火を欲しがる。火がなければ、隣の家へ移る。隣も消えていれば、その先へ行く。やがて、村じゅうの火が一つの家へ集まる」

「沢口家へ?」

「ここが最後まで残ったからね」

たえは囲炉裏のある土間へ戻った。

「火を絶やさなかった家は、村を守った。けれど同時に、村を外へ出さなかった。帰れない者のために火を残し、帰れない者がいることを忘れないようにした。忘れなければ、火は消えない。火が消えなければ、帰れない者も消えない」

「それでは、火を守る人間は、永遠に終われない」

「終わらせるには、誰かが火を引き受けなければならない」

たえの言葉が、胸の奥へ沈んだ。

「引き受ける?」

「火を見て、灰をならし、炭を継ぐ。誰がいたかを、名前ではなく手順で覚える。そうすれば、村は消えない。だが、引き受けた者も外へ出られなくなる」

「誰が、そんなものを選ぶんですか」

「選んだと思っているうちは、まだ選べる」

「では、どうなるんですか」

「火の前に座った者が、次の朝も火を見ていたら、その者はもう半分、こちら側だ」

私は仏間の灰へ目を向けた。

その平らさが、誰かを待つために整えられているように見えた。空白の中央。指先でならされた円。そこへ置かれるものを、灰はまだ知らないふりをしている。

「たえさんは、誰を留めたんですか」

「火箸が指している」

たえは答えの代わりに、火箸の先を位牌の列へ向けた。

二本の先端が、中央から少し外れた位牌を示している。黒ずんだ木札で、表面の文字は煤に覆われていた。ほかの位牌より小さい。戒名も読めない。けれど台座の角だけが、何度も撫でられたように光っている。

私は膝をつき、その位牌へ顔を近づけた。

煤の下に、細い文字が見えた。

広。

その下の一画は削られている。濡れた布で拭ったように、木目だけが白く浮いていた。

「広瀬……」

声に出した途端、仏間の奥で何かが擦れた。

たえが、すぐに火箸を下ろした。

「呼ぶな」

その声だけは鋭かった。

私は口を閉じた。喉の奥に、呼びかけの続きが引っかかる。晴人、と言えば、その名が返ってくる気がした。返事を待っている誰かが、壁の向こうで耳を澄ましている。

「この位牌は、広瀬晴人のものですか」

「名を読み上げるなと言った」

「確認したいだけです」

「確認は、呼ぶこととよく似ている」

「たえさんは、晴人を知っているんですか」

「知っているよ」

「生きていたんですか」

「火の前に座っていた」

「質問に答えてください」

「お前は、死んだか生きていたかだけで、人を分けたいのかい」

たえの声は静かだった。責めるようではない。けれど、その静けさのほうが、私の焦りを露わにした。

「私は、彼の名前を写真と手紙で見ました。役場の記録にも残っている。けれど、災害の日を境に消えている。私は彼を探しているわけではありません。何があったのかを知りたいだけです」

「それは、探すのと同じだよ」

「同じではありません」

「名前を探す。いた場所を探す。最後に見た人間を探す。火を残した理由を探す。お前は、もう十分に探している」

「では、たえさんは私に何をさせたいんですか」

たえは、私の顔ではなく手を見た。

「覚えさせたい」

「何を」

「自分が、どちら側の人間だったかを」

指先が冷えた。

仏間の灰から、古い匂いが立ち上る。湿った灰より深く、何年も閉ざされていた布のような匂い。そこに炭の熱が混じり、鼻の奥から胸へ広がった。

私は、幼い手を見た。

火箸を握っている。隣に、煤のついた指がある。誰かが小さな布包みを抱えている。囲炉裏の向こうで、少年が袖口をつまみながら私を見ている。

晴人。

声にはならなかった。けれど、名前の形だけが浮かんだ。

私は火箸を落としそうになった。

「思い出したかい」

「……分かりません」

「分からないのではなく、戻りたくないんだろう」

「勝手に決めないでください」

声が震えた。

「私は、記憶を失った理由を知りたい。何が消され、何が残されたのかを確かめたい。私が長尾沢の出身者なら、そう書く。違うなら違うと書く。あなたの掟や恐れのために、白紙を白紙のまま残すつもりはありません」

「紙に書けば、終わると思っている」

「終わらせるためではありません。残すためです」

「残すことと、縛ることは、とても近い」

「だからこそ、記録する側が選ばなければならない」

私は位牌から目を離さなかった。

「誰かをいなかったことにするための記録にはしない。あなたたちが何を恐れ、誰を守ろうとして、誰を置き去りにしたのか。それを曖昧にしないために書きます」

たえは長く黙っていた。

やがて、火箸を灰の縁へ置いた。

「置き去りにしたのは、誰だと思う」

「晴人ですか」

「そう思うなら、位牌を見なさい」

私はもう一度、中央の位牌へ手を伸ばした。

煤を指で払う。表面の木は湿っていた。文字の一部が現れる。広瀬という姓の下に、削られた跡がある。名は読めない。けれど最後の一画だけが、深く木へ沈んでいた。

その筆圧に、覚えがあった。

手紙の最後の一画。写真の裏書き。封筒の端をなぞる癖。いつも最後だけ、字が沈む。

私は指先を引いた。

「この位牌に、晴人の名前があった」

「ある、とは言っていないよ」

「でも、消された跡があります」

「名を消しても、人は消えない。名を残しても、人が戻るとは限らない」

「たえさんは、誰を送ったんですか」

問いは、仏間の奥へ落ちた。

たえは火箸を二本揃えた。何度も見てきた仕草なのに、その日は意味が違って見えた。二本の先端が一つの方向を指し、二本の柄が同じ場所へ戻される。

「送ったのは、帰れる者だよ」

「帰れない者は?」

たえは私を見た。

目尻だけが、ほんの少し緩んだ。驚いたときの顔に似ていた。

「まだ、火の前にいる」

その瞬間、土間の囲炉裏で炭が小さくはぜた。

私は振り返った。

灰の下に、赤い芯が三つ戻っていた。

たえはそれを見て、何も言わなかった。火箸の先だけが、ゆっくりと仏間の位牌へ向きを変えていく。

私はノートを開いた。

書き始める前に、匂いを確かめる。

湿った灰。煤けた木札。古い布。そして、誰かが長いあいだ火の前で待っていたとしか思えない、かすかな体温。

私はその匂いを、今度は追い払わなかった。

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