6話 白紙の欄

翌朝、火は消えていた。

消えていた、と書くのは正確ではない。昨夜、囲炉裏の灰の中央で明滅していた赤い点は、今朝になって見つからなかった。灰を浅く掻けば、黒い炭の粉が指先へまとわりつく。赤みはない。熱もない。けれど、灰の底には水分が残っていた。

私はしばらく、火床の前にしゃがんでいた。

火がないことに、安心した。安心した直後、その安心が不自然に膨らんだ。火が戻らなければ、それでいい。何かの見間違いだった。湿った薪が偶然、長く燻っていただけかもしれない。夜中に聞いた床板の音も、古い家が湿気を吸って軋んだだけだ。

そう考えると、胸の奥が少し緩んだ。

その緩みの中へ、今度は不安が入り込んできた。

私は、火が戻ることを待っていたのだ。

火がない家へ来たはずなのに、火がない朝を失望している。私は親指と人差し指で灰をこすり合わせた。ざらつきの中に、ごく細かな炭の粒がある。粒は指の皺へ入り込み、黒い線を残した。

私はその線を見ながら、ノートを開いた。

〈午前五時四十八分。火種は確認できず。灰は表面乾燥、内部湿潤。炭粉の分布、前夜と異なる可能性〉

可能性。

その言葉で、私の手は止まった。

前夜の配置を、私は写真に残している。三つの炭が三角形に寄せられ、その中心に赤い芯があった。今朝は三角形が崩れている。誰かが触れたのか、灰が落ちたのか、それとも私の記憶のほうが形を作っているのか。

私は写真を見返した。画面の中の灰は平らで、炭は黒い。写真は何も説明しない。写っているものだけを、写っているふりで残している。

ノートと索引カードを土間へ広げた。

火箸の位置。足跡の歩幅。炭の数。灰の湿り気。黒田が言った言葉と、言っていないと言った言葉。記録されたものと、記録からこぼれたものを、私は一枚ずつ並べた。

カードの余白が、次第に白紙の欄に似てきた。

名前を待っているような空白だった。

私はその考えを振り払い、役場へ降りる支度をした。

沢口家を出る前に、仏間の火箸を確認した。二本は、昨夜と同じ向きのまま、仏壇の奥を指している。先端の下の畳には、細い煤の筋が残っていた。私は触れずに写真を撮った。

戸を閉め、閂をかける。

鍵を石の下へ戻そうとして、手が止まった。黒田から預かった鍵を、そのまま持っていくか迷った。結局、ポケットへ入れた。戻るつもりがあるのかどうか、自分でも分からなかった。

林道は朝の雨を含み、靴底を重くした。

杉の枝から落ちる雫が、一定の間隔で肩へ触れる。霧は谷の奥へ沈み、斜面の向こうにあるはずの沢を隠していた。見えない水の音だけが、私の歩く速さに合わせるようについてくる。

途中、道の中央に細い枝が落ちていた。私は避けようとして足を止めた。

枝の脇に、濡れた足跡が一つあった。

沢口家で見たものと同じだった。踵が薄く、つま先だけが町の方角を向いている。私が近づくと、跡の輪郭はすぐに泥へ吸われた。写真を撮ろうとしたが、指が動かなかった。

足跡の先には、誰もいない。

それでも、そこから誰かが町へ向かって歩いているように見えた。

私は足跡の脇を通り過ぎた。振り返らなかった。振り返れば、今度は自分の足元に同じ跡があるような気がした。

林道管理小屋には、黒田がいなかった。

軒下に濡れた合羽が掛けられ、作業台の上には、分解された携帯灰皿と工具が並んでいる。薬缶だけが火にかかり、蓋の隙間から白い湯気を吐いていた。

私は地図の脇に置かれた紙へ目をやった。黒田の字で、天候と路面の状態が短く記されている。落石の兆候はない。沢の水位も通常。けれど、長尾沢へ続く道の欄だけが空白だった。

役場から戻ったら、黒田に聞こうと思った。

何を聞くのかは決めていなかった。

町へ下りると、山の湿気は急に途切れた。道路脇のコンビニや、信号機の赤い光が目に入る。人の声、車の排気、店先から流れる揚げ物の匂い。長尾沢で途切れていたものが、町では過剰なほど続いていた。

町役場の自動扉が開く。

乾いた空調の匂いがした。床を磨く洗剤の匂いと、古紙を保管する倉庫の黴臭さが薄く混ざっている。私はその匂いの中に、炭の気配を探してしまった。なかった。なかったはずなのに、鼻の奥には、沢口家の湿った灰が残っていた。

斎藤由里子は、前と同じ机に座っていた。

書類の角を揃え、綴じ目の緩い紙を一枚ずつ確かめている。私に気づくと、顔を上げる前に朱肉の蓋を閉じた。

「松原さん。今日は早いですね」

「避難名簿の別の写しを見せてください」

「先日お渡ししたものでは、不足でしたか」

「不足しています」

「どの部分が必要でしょう」

「災害当日の名簿と、離村後に作成された確認表。家ごとの避難日時が分かるものです」

由里子は手元の紙へ視線を落とした。指先が、書類の端を合わせている。きっちり揃えようとしているのに、何度やっても一枚だけが少しずれる。

「正式な閲覧請求が必要になる資料もあります」

「手続きはします」

「調査期間は、いつまでの予定ですか」

「決めていません」

「長尾沢に、どれくらい滞在されるおつもりですか」

「火が入る理由が分かるまで」

由里子の指が止まった。

「火、ですか」

「誰もいないはずの沢口家で、毎朝、火種が残ります」

役場の奥で、複写機が動き始めた。紙を吸い込む音が、由里子の沈黙を細く切っていく。

「火を使われたのは、松原さんご自身ではありませんか」

「初日に一度、食事のために使いました。それ以外は消したあとに戻っています。灰の湿り気、炭の配置、火箸の位置が変わっている」

「動物が入り込んだ可能性は?」

「戸は内側から閂をかけています。窓も閉めています。足跡は土間の途中で途切れていました」

「湿気で消えたのかもしれません」

「消えたのではありません。三歩目の先から、床板の状態が違う。濡れた足がそこまでしか届いていない」

「その足跡を、見たと思われた」

「見ました」

私の声は、自分が思っていたより強く響いた。

由里子はようやく私を見た。端正な顔の中で、目だけが少し遅れて揺れた。

「見たものを、事実として書くことに異論はありません。ただ、見たものが何であるかを決めるのは、もう少し後にしたほうがよろしいかと」

「決めていません。だから記録しています」

「記録は、決めることに似ています」

「では、記録しないほうがいいんですか」

「そうは言っていません」

「黒田さんにも似たことを言われました。書いたものを火のそばへ持っていくな、と」

由里子の顔色が変わった。

「黒田さんが、そう言ったんですか」

「なぜ驚くんですか」

「驚いてはいません」

「朱肉の蓋を押さえています」

由里子は自分の指先を見た。蓋を押さえていた手を離し、代わりに紙の角を揃え始めた。

「黒田さんは、長尾沢のことを話したがらない人です」

「話したがらないだけではありません。話したあとで、話していないと言うことがあります」

「それは、どういう意味でしょう」

「私が聞いたことを、記録していない。彼が言ったと覚えているのに、ノートには残っていない。本人に確認すると、そんな話はしていないと言う」

「松原さんは、眠れていらっしゃいますか」

「眠りの問題にしたいんですか」

「問題にしたいのではありません。記憶は、疲労や恐怖で形を変えます」

「知っています。だから、私は手で確かめ、写真を撮り、時刻を書いています。それでも説明がつかないものを、説明がつかないまま残している」

「説明がつかないものを、記録という形に固定してしまう危険もあります」

「固定しなければ、最初からなかったことになります」

由里子は目を伏せた。

「松原さんは、いなかったことにされた人間の話をしているんですね」

「そうです」

「誰のことですか」

「長尾沢にいた人たちです」

「全戸避難の記録があります」

「全戸避難なら、なぜ沢口家の欄だけ日付がないんですか」

由里子はすぐには答えなかった。

机の上に置かれたファイルを一冊引き寄せる。表紙には「長尾沢 災害関係」と印字されていた。由里子はそれを開き、何枚かの書類を抜いた。紙の束は整っている。だが一枚だけ、綴じ穴の位置が違った。

「こちらは整理前の控えです。原本ではありません」

「見せてください」

「ここで確認してください。持ち出しはできません」

私は椅子へ座った。由里子は向かいに座らず、机の横に立ったままだった。

名簿には、家名、世帯主、人数、避難先、確認日が並んでいる。ほとんどの欄は埋まっていた。数字の筆跡も、日付の形式も揃えられている。けれど沢口家の行だけ、確認日の欄が空いていた。

世帯主の名前の下に、家族欄がある。

二本の横線が引かれていた。

一つには、薄い削り跡が残っている。もう一つは白紙だった。

「この線は、もともと二人分の記入欄ですか」

「家族が二人いたという意味ではありません。整理のために、人数分の線を引くことがあります」

「では、なぜ一つだけ削られているんですか」

「訂正されたのでしょう」

「何を訂正したんですか」

「分かりません」

「斎藤さん」

「分かりません」

由里子は丁寧に同じ言葉を繰り返した。けれど、その声には、事務的な拒否より疲れがあった。

私は紙へ顔を近づけた。

削られた欄には、文字の下半分が残っている。最初の字は「松」に似ていた。二文字目は、縦に長い線と、沈み込んだ最後の一画だけが見える。

指先が冷えた。

その紙の上に、自分の名前が書かれているように見えた。正確には、書かれていない名前の形が、私の手の中へ入り込んでくるようだった。

「この名前は、何と読めますか」

「読めません」

「読める範囲で答えてください」

「松原、という姓に似ているようには見えます」

「名は?」

由里子は黙った。

「私の旧名に似ています」

「……そうですか」

「知っていたんですか」

「何をでしょう」

「私の旧名です」

由里子は紙の角を揃えた。何度も合わせ、ずれを直し、それでも紙はまっすぐにならない。

「大学の調査依頼書には、現在のお名前しかありません」

「戸籍を見たことがある人間の顔をしています」

「そのような判断は、記録に基づくものではありませんね」

「では、顔色の変化は何に基づけばいいんですか」

由里子は息を吐いた。蛍光灯の白い光が、頬の薄い血色を奪っていた。

「長尾沢の名簿を整理したのは、私が今の部署へ来てからです。災害から何年も経っていました。原本はすでに傷み、聞き取りをした人の中には亡くなった方もいた。誰が書いたか分からない訂正、日付の違う同じ書類、避難先の住所が存在しないもの。最初は単純な事務の不備だと思いました」

「違ったんですか」

「不備だけなら、直せます。ところが、一つ直すと別の場所が合わなくなる。沢口家の世帯人数を二人にすれば、別の家の人数が一人多くなる。名前を戻せば、避難先の欄が余る。余った欄を消すと、今度は写真に写っている人間が足りなくなる」

「写真を見たんですか」

「何枚かは」

「子どもの写真も?」

由里子の沈黙が、答えの代わりになった。

「私の顔に、誰か別の子どもを重ねていますか」

「重ねているのではありません」

「では、何を見ているんですか」

「分からなくなったものを見ています」

由里子は静かに言った。

「記録を直す仕事をしていると、名前は人間より先に動きます。書類から抜け、別の欄へ入り、違う家の名前と重なる。そうしているうちに、名前を呼ぶことが怖くなりました。呼べば、そこにいるはずのない人が、返事をするかもしれない。返事をしたあとで、こちらの名前まで持っていかれるかもしれない。馬鹿げていると思いますか」

「思いません」

私はそう答えてから、少し驚いた。

「私は、思いません。馬鹿げていると思わないから、なおさら記録したいんです。怖がった人がいたことも、消した人がいたことも、消された名前があったことも。正しいかどうかを決められないなら、決められなかった事実を残すべきです」

「それで、あなた自身の名前が空白に重なっても?」

由里子の声が、初めてわずかに震えた。

私は答えられなかった。

紙の削り跡に目を落とす。文字は読めない。読めないのに、自分の名前を呼ばれたような感覚だけが残る。

りん。

誰かが、近くで私を呼んだ。

私は顔を上げた。

役場の窓は閉じている。空調の風が紙を撫で、複写機が遠くで止まった。由里子は私を見ていたが、口は動いていない。

「今、誰か呼びましたか」

「いいえ」

「聞こえませんでしたか」

「何も」

由里子は机の引き出しを開けた。中には、折り目の深い小さなメモ帳が入っている。彼女はそれを手に取り、開きかけてから閉じた。

「これは、正式な資料ではありません」

「何が書いてありますか」

「聞き取りの断片です」

「見せてください」

「見せられません」

「どうしてですか」

「あなたが読むと、長尾沢へ戻る理由が増えるからです」

「私は、もう戻ると決めています」

「火がなくても?」

「火がない朝のほうが、不自然でした」

由里子は目を伏せた。

「火があることだけが、誰かがいる証拠ではありません」

「分かっています」

「火があることで、誰かが帰れない場所に留められている可能性もあります」

「送り火のことを知っているんですね」

「知りません」

「知らない人間は、その言葉を使いません」

「言葉を使っただけです。意味までは知りません」

由里子はメモ帳を引き出しへ戻した。けれど、完全には閉じなかった。紙片の端が、引き出しの隙間からわずかに覗いている。

「沢口家の子どもの欄には、最初から名前がありませんでした」

「最初から?」

「私が見た控えでは、そうです」

「削られた名前は?」

「子どもの名前とは限りません」

「では、何の名前ですか」

「分かりません」

「二本の線のうち、一つは削られ、もう一つは白紙です。白紙のほうが、むしろ怖い。削られたなら、そこに何かがあった。最初から書かれていないなら、誰もその子どもを記録しようとしなかったことになる」

「書こうとした人間が、書けなかったのかもしれません」

「なぜ?」

「名前を書けば、避難したことになるからです」

「実際には避難していなかった?」

由里子は答えなかった。

「沢口家には、災害の日に二人の子どもがいたんですか」

由里子の指が、朱肉の蓋へ伸びた。押さえる。離す。また押さえる。

「写真では、二人に見えるものがあります」

「見えるもの?」

「光の具合で、人影が二つあるように写っている写真です」

「子どもです」

「そうかもしれません」

「名前は?」

「片方は、広瀬晴人という名前が残っています」

その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

私は、古写真の端でいつも少し遅れて笑っている少年を思い出した。煤のついた指。封筒の端をなぞる癖。火箸を持つ私の手元を見ながら、何も言わずに灰をならしていた気配。

「もう一人は?」

由里子は、私の顔ではなく、私の手を見た。

「分かりません」

「私ではない、と言えますか」

「言えません」

それだけ言うと、由里子は写しを閉じた。

紙と紙が重なる音が、乾いた部屋の中で大きく響いた。

「この資料を、持ち帰ってもいいですか」

「できません」

「写真を撮っても?」

「それも許可できません」

「では、私は何を持ち帰ればいいんですか」

由里子はしばらく私を見ていた。やがて、机の端に置いていた小さな封筒を手に取る。

封は開いていた。紙は煤で薄く汚れ、右下の角だけが何度も触られたように柔らかくなっている。

「これは、名簿の間に挟まっていました」

「誰の手紙ですか」

「子どもの字です」

「宛先は?」

「最後の一文字が潰れています」

私は封筒へ手を伸ばした。指先が紙に触れる前に、由里子が引いた。

「今日は、ここまでにしてください」

「中身を見せてください」

「読まないほうがいいかもしれません」

「なぜですか」

「書いた子どもが、まだ返事を待っているように見えるからです」

言葉が途切れた。

役場の空調が低く唸っている。封筒の紙から、微かな匂いが立ち上った。古紙の匂い。湿った木の匂い。そして、火を消した直後の灰の匂い。

「返事を待っているのは、誰ですか」

由里子は答えなかった。

私は封筒を見たまま、ポケットの中の鍵を握った。冷たい鉄が掌へ食い込む。長尾沢へ戻るための鍵なのか、そこから出られなくなるための鍵なのか、もう判断できなかった。

由里子が封筒を引き出しへしまう。

そのとき、紙の端から黒い粉が一粒落ちた。

机の白い表面に、煤が残った。

私はそれを指で拾い上げた。乾いているのに、指先へ湿り気が移った。

由里子は何も言わなかった。

私は拾った煤を洗い流さず、役場を出た。

外の空気は冷たく、雨上がりの道路には薄い光が溜まっていた。町には人がいる。車が走り、信号が変わり、店の自動扉が開閉している。けれど、私の手の中には、誰にも見えない長尾沢の空白が残っていた。

車へ乗り込み、エンジンをかける。

暖房の風が指先へ当たると、煤の匂いが強くなった。

私は自分の名前を、口の中で小さく反復した。

りん。

りん。

どこからか、もう一度呼ばれた気がした。

今度は、名前のあとに続く言葉まで聞こえた。

まだ、消さないで。

私はハンドルを握ったまま、しばらく動けなかった。

長尾沢へ戻る道は、山の上へ続いている。

沢口家の囲炉裏に火が入っているかどうかは、まだ分からない。

けれど、白紙の欄だけは、私が戻るのを待っているように見えた。

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白紙の欄 - 火種の記憶 - 誰でも作家life