5話 火箸の向き

翌朝、仏間へ入ると、火箸の向きが変わっていた。

昨夜、私は二本を揃え、仏壇から三寸ほど離れた畳の上へ置いた。柄は南を向け、先端は仏壇の中央へ向けた。写真を撮り、索引カードにも図を描いた。火床の灰を確かめたあと、仏間の襖を閉めたことも覚えている。

それなのに、火箸は仏壇の奥へ、ほんの指幅だけ寄っていた。

動いたと断じるには小さすぎる変化だった。畳の目をまたいだわけでもない。誰かが手に取った証拠があるわけでもない。けれど、私はこういう些細なずれを見逃せなかった。違和感は、大きな音を立てて現れるとは限らない。むしろ、何事もなかったような顔をして、物の縁や継ぎ目に残る。

私はしゃがみ込み、火箸の陰を覗いた。

畳には埃が薄く積もっていた。火箸の柄があった場所だけ、埃の線が途切れている。そこから仏壇へ向かって、細い擦れ跡が伸びていた。火箸が自分で滑ったのなら、畳の目に引っかかり、もっと不規則な跡になるはずだった。誰かが持ち上げ、置き直した。その動きのほうが自然だった。

私は火箸へ触れず、周囲を見た。

仏壇の下段には、昨夜と変わらず、煤けた位牌が並んでいる。中央の一体だけ、台座の周囲に新しい擦れがあった。埃の上に、指先でなぞったような半月形の跡がある。

その跡を追って畳へ目を落とすと、囲炉裏へ続く廊下の手前に、黒い点がいくつか落ちていた。

煤だった。

私は火箸の柄を見た。表面に、薄い黒ずみが残っている。昨夜の火床へ移した覚えはない。仏間へ置く前に、火箸を囲炉裏で使った記憶もない。私は指先を近づけ、触れる寸前で止めた。

煤の匂いがした。

古い炭ではない。湿った灰を撫でたときに立つ、冷たく重い匂いだった。

私は手袋を取り出したが、結局はめなかった。痕跡を保存するなら触れないほうがいい。それでも、指先の感覚を確かめたかった。私は灰の乱れや炭の欠け方を見るとき、まず手で残り方を想像する。誰かがどの角度から手を入れ、どこに重心を置き、何を避けたのか。目で見るより先に、指が動きを組み立てる。

火箸の先端へ、指を伸ばす。

その瞬間、熱い灰に触れたような感覚が走った。

私は息を止めた。

実際の火箸は冷たい。金属の冷えが、皮膚の奥へ入り込むほどだった。けれど指の腹には、別の熱が残っている。火箸を握った誰かの体温。短い指が柄の端をつまみ、力を入れすぎないように持っている。火を崩さないため、手首を少し浮かせている。

知っている手つきだった。

私は反射的に手を引いた。爪の間へ、何も触れていないのに煤が入り込んだような気がした。

囲炉裏へ戻ると、灰の表面は平らだった。火種は残っていない。けれど中央に、指先ほどの湿った窪みがある。そこへ細かな煤が集まり、黒い筋を作っていた。

昨夜、誰かが火を見ていた。

その考えが浮かび、私はすぐにノートを開いた。

〈午前六時〇二分。仏間の火箸、昨夜の記録位置から約一指幅移動。畳上に擦過痕。柄に煤の付着。囲炉裏灰、中央部に湿潤痕〉

そこまで書いて、筆先が止まった。

〈人為的な移動の可能性〉

私はその一行を書き、しばらく見つめた。人為的という言葉は便利だった。怪異という語を使わずに済む。だが、人為的なら、誰が、いつ、どうやって入ったのかを説明しなければならない。家の戸は閂がかかっていた。窓も閉めた。夜中に聞いた床板の音は、夢ではなかった。

私は鉛筆の先で、その一行を二重線で消した。

誰かが手を入れた。

代わりに、そう書いた。

黒田が来たのは、その三十分後だった。

戸を叩く音は一度だけ。返事をする前に、もう一度叩くことはなかった。私は土間へ下り、閂を外した。

黒田は濡れた合羽を着ていた。雨は降っていないのに、肩や袖に細かな水滴がついている。片手には管理手帳、もう片方には工具袋を持っていた。私の顔を見ると、名前を呼ぶ前に一拍置く。その癖が、今朝は妙に長く感じられた。

「早いですね」

「朝の見回りだ」

「毎朝ここへ来るんですか」

「毎朝ではない」

黒田は私の横を通り、土間へ入った。最初に囲炉裏を見た。次に仏間を見た。最後に、私の手元のノートへ目を落とす。

「火は?」

「今朝は入っていません」

「そうか」

「火がないことより、火箸の位置が変わっています」

私は仏間を指した。黒田はそちらへ歩きかけたが、土間の中央で止まった。途切れた足跡の跡を避けるように、靴先をわずかに外へ向ける。

「昨日と同じ場所ですか」

「足跡は消えています。床板の跡を残したかったので、触らずにおきました」

「火箸のほうは?」

「触っていません。こちらです」

黒田は仏間へ入り、火箸の前でしゃがんだ。人の顔ではなく、まず手元を見る。たえの仕草を思わせる動きだった。火箸の柄、畳の擦れ、煤の粒。黒田は指を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。

「動いたと思うか」

「思うのではなく、動いた形跡があります」

「形跡は、動いたあとに残るものだ」

「同じことです」

「同じじゃない」

黒田は帽子のつばを指でなぞった。何かを隠すとき、彼は先に笑う。だが今は笑わなかった。指だけが、つばの縁を何度も撫でている。

「この擦れ方なら、火箸は持ち上げられている。引きずっただけなら、畳の目に沿ってもっと長く跡が出る」

「そうだな」

「仏壇の中央に向けて置き直された。偶然ではありません」

「偶然じゃないことと、人間がやったことは別だ」

「では、誰がやったんですか」

「俺に聞くな」

「聞いています。黒田さんは、沢口家の火箸が動くことを知っている」

「知っているとは言っていない」

「知らない人間は、動いた火箸の前で、そこに触れようとしない」

黒田は仏壇から目を離した。視線が襖の外へ流れ、庭の笹の先で止まる。外は霧が薄く、杉の幹の間に白い空が見えていた。沢の音は近い。水が流れているというより、山の中で何かを引きずっているようだった。

「山では、残るものだけ見ていたほうがいい」

黒田は言った。

「それは昨日も聞きました」

「昨日と同じ意味だ」

「私は、残ったものを見ています。灰、煤、火箸、足跡。どれも人間がいなくなったあとに残るものです」

「残ったものを見ていれば、なくなったものまで分かると思うか」

「分かるとは言っていません。近づけるとは思っています」

「近づきすぎると、残ったもののほうが、お前を見始める」

私はノートの角を指で押さえた。

「それは、警告ですか」

「そう聞こえるなら、警告だ」

「学問的な調査を止めたいんですか」

「止めたいわけじゃない。お前が何を調べているのか、自分で分かっているのかを聞いている」

「長尾沢の炭火送りです。火を分け、家々の境を保つ習俗。送り火との関係。災害前後に誰が残り、誰が出たのか。記録と口伝のずれを照合しています」

「ずいぶんきれいに言うな」

「きれいに言っているつもりはありません」

「いや、きれいだ。研究計画書に書けば、誰も文句をつけない。過疎化、災害、共同体の消滅、伝承の変容。どれも正しい。正しいが、正しい言葉は、時々、人が何を怖がっていたかを隠す」

「何を怖がっていたんですか」

黒田はすぐには答えなかった。仏間の火箸へ視線を戻す。

「火が消えることだ」

「火が消えれば、寒くなる。食事も作れない。生活の問題でしょう」

「それだけなら、炭を分けるだけで済む。消えたら起こせばいい。だが、長尾沢の人間は、火を消したことを家の不在とは考えなかった。火が消えた家には、誰かが戻れなくなったと思った」

「死者ですか」

「死者だけじゃない」

「生きているのに戻れない人間もいる?」

「山から出た人間が、二度と帰らないことはある。町で暮らし、別の家を作り、名前も変える。それでも、こちらの火は、その人間がまだ帰る可能性を捨てない。火を消せば、帰る場所をこちらからなくすことになる」

「それは、保護というより執着です」

黒田は私を見た。目の奥が遅れて揺れた。

「執着で人を生かすこともある」

「逆に、縛ることもある」

「そうだ」

「分かっているなら、なぜ続けるんですか」

「続けた人間がいたからだ。続けることをやめた人間もいた。どちらが正しかったかは、今も決まっていない」

「沢口家は、最後まで続けた」

「そう言われている」

「黒田さん自身が見たんでしょう」

彼の手が帽子のつばから離れた。

「何を?」

「夜の沢口家から炭の匂いがしていたことを」

黒田は黙った。

「昨日、あなたは見回りのときに匂いを嗅いだと言いました。家には誰もいないはずだった。翌朝には火が消えていた。あなたはそれを勘違いだと思うことにした。でも、今朝、私の火箸が動いているのを見たとき、最初に足跡を確認しなかった。誰かが触れた可能性を考えたからです」

「山の男が、何でも怪異に結びつけると思うか」

「思いません。だから聞いています」

「聞けば、答えが出ると思うか」

「出ないかもしれません。でも、沈黙も記録の一部です。黙っているなら、黙っている理由を書く」

黒田はしばらく私を見ていた。

「お前は、怖くないのか」

「怖いです」

言葉にした途端、喉の奥が乾いた。私は火箸の先端を見たまま続けた。

「怖いから、名前をつけるのを急ぎたくない。怪異だと決めれば、そこから先を見なくて済む。自然現象だと決めても同じです。けれど、見たものを見なかったことにはしたくない。私が不在の人間をいなかったことにするなら、研究している意味がありません」

「それが、お前の意地か」

「意地ではありません。責任です」

「責任という言葉も、きれいだな」

「きれいでなくても、必要な言葉はあります」

黒田は鼻で小さく息を吐いた。笑ったようにも、ため息のようにも聞こえた。

「俺は、名前を呼ばないことで守れるものがあると思っていた」

「誰を守るんですか」

「残った人間を」

「残った人間というのは、誰ですか」

「外へ出た者も、残った者だ。忘れた者も、覚えている者も、みんな何かを残している」

「では、名前を呼ばないことで守られるのは、記憶ですか、それとも記憶を持つ人間ですか」

黒田は答えなかった。

仏間の隅で、細い金属音がした。

私は振り返った。火箸が畳の上でわずかに震えている。風はない。襖も閉じている。音はすぐに止まったが、二本の火箸の先端が、先ほどよりさらに仏壇の奥を指していた。

黒田は立ち上がらなかった。

「今、動きました」

「見た」

「見たなら、記録します」

「書くなとは言っていない」

「では、何を言いたいんですか」

「書いたものを、火のそばへ持っていくな」

「名前が書かれていなくても?」

「名前がなくても、書いたものには見た人間の手がつく。手がつけば、たどれる」

「誰がたどるんですか」

「分からない」

「また、分からない」

「分からないものを分からないと言うのは、逃げじゃない」

黒田は火箸を見つめたまま、低く続けた。

「俺は、昔から、分からないものを分からないままにしてきた。山の道が崩れる前兆は分かる。雨の匂いも、沢の水が増える音も、木の根が浮く気配も分かる。だが、あの家の中で何が起きたかだけは、分からない。見たことはある。聞いたこともある。けれど、それらを一つにつなげると、自分がそこにいたことまで認めなければならなくなる」

「そこにいたんですか」

「子どもの頃、長尾沢へ来た。沢口家の前で、火の番をしている子どもを見た」

「二人ですか」

黒田の顔が固まった。

「なぜ、二人だと思う」

「昨日、あなたがそう言ったからです」

「昨日は言っていない」

私は言葉を失った。

黒田は私の顔を見たまま、ゆっくりと眉を寄せた。彼の声が変わる。静かだが、今までより深いところから出ていた。

「俺は、そんな話をしていない」

「しました。沢口家に子どもが二人いた。火箸を持つのがうまい子と、炭を運ぶのがうまい子。朝には一人しかいなかった。あなたは、そう言いました」

「言っていない」

「では、私は誰から聞いたんですか」

「俺は、今朝ここへ来たのが初めてだ」

沢の音が遠のいた。

私は黒田の顔を見た。見間違いではない。声も、服も、手帳も、ここにいる。けれど彼の言葉だけが、私の記憶に残る会話を否定していた。

「黒田さんは、昨日、ここへ来ました」

「昨日は管理小屋にいた。昼から雨が強くなったから、道の見回りもしていない」

「そんなはずはありません」

「なら、ノートを見せろ」

私はノートを開いた。黒田との会話を逐一記録していたわけではない。だが、彼が「朝には一人しかいなかった」と言った直後、私はページの端へ、乱れた字で書きつけていた。

〈二人の子ども。片方は火箸、片方は炭。朝に一人〉

その文字を黒田へ見せる。

黒田はしばらく黙っていた。指先がノートの端へ触れそうになり、触れずに止まる。

「これは、私の字です」

「そうだな」

「あなたの話を聞いて書いた」

「そう思っている」

「思っているのではなく、事実です」

「事実は、紙に書かれたものだけか」

「少なくとも、私はそう信じています」

「だから危うい」

黒田は立ち上がった。仏間の火箸を見下ろし、そこから一歩下がる。

「昨日のことを、俺が言ったと書くなら書けばいい。だが、俺に言わせたのがお前自身でないと、どうして言える」

胸の奥が冷えた。

私はページをめくった。前日の記録には、黒田との会話がない。火箸の位置、足跡、役場で聞いた話。黒田の証言だけが、私の記憶の中に鮮明に残り、紙から抜け落ちている。

書いていない。

書いたと思っていた。

私はノートの角を強く押さえた。紙が指の下でたわむ。

「私は、会話を捏造していると?」

「そうは言っていない」

「では、何を言っているんですか」

「火のそばでは、見たものと、見せられたものの区別がつかなくなることがある」

「それを私のせいにするんですか」

「せいにはしていない。お前だけのことでもない」

「私だけでないなら、誰のことですか」

「村にいた人間のことだ」

黒田は戸口へ向かった。そこまで行ってから、思い直したように振り返る。

「火箸の向きには意味がある」

「どんな意味ですか」

「帰る方角を示す」

「仏間の奥が、帰る方角?」

「家の中にいる者にとってはな」

「外から来た人間には?」

「外から来た人間が、いつまでも外にいるとは限らない」

黒田はそこで口を閉じた。

私は火箸を見た。二本の先端は、仏壇の裏側、さらにその奥の土壁を指している。壁の向こうには何もないはずだった。けれど、火箸の向きが、家の中の何かを探しているように見えた。

「黒田さん」

「なんだ」

「この家に、隠し部屋はありますか」

「ない」

「仏壇の裏に空洞は?」

「ない」

「調べても?」

「調べる必要がない」

「それは、ないからですか。それとも、見つけたくないからですか」

黒田は答えず、帽子をかぶった。

「夜、火箸の位置を直すな」

「なぜですか」

「戻すなら、朝にしろ」

「それは、今の位置を認めろという意味ですか」

「今の位置を覚えておけという意味だ」

「何を示すか確かめるために?」

「何を示しているかは、動いたあとでしか分からない」

「動いたあとには、もう遅いかもしれません」

「遅いかどうかを決めるのも、外にいる人間の考えだ」

黒田は戸を開けた。冷たい風が入り、仏間の火箸がまた小さく鳴った。

「黒田さん。あなたは昨日のことを、本当に覚えていないんですか」

彼は外へ出たまま、振り返らなかった。

「覚えていないことと、なかったことは違う」

それだけ言って、霧の薄い庭へ歩き出した。

私は戸口に立ち、黒田の背中が杉林の向こうへ消えるのを見ていた。彼の足跡は濡れた石畳に残った。二歩、三歩、四歩。玄関から庭へ続き、笹の影へ入るところで見えなくなった。

今度は、途切れなかった。

私は仏間へ戻った。

火箸は動かさず、そのままにしてある。囲炉裏の灰には火がない。なのに、黒田が出ていったあとから、煤の匂いが少しずつ濃くなっていた。

私はノートを開いた。

〈黒田守、火箸の移動を確認。移動の意味について「帰る方角を示す」と発言。ただし、前日の会話記録との間に不一致あり。私の記憶と記録のどちらかが誤っている〉

書き終えてから、最後の一文を見つめた。

どちらかが。

私は鉛筆を置き、指先をこすり合わせた。黒い煤が薄く伸び、皮膚の線へ入り込んでいく。

仏間の奥で、誰かが袖口をつまんだような音がした。

布が、かすかに擦れた。

私は振り返らなかった。

代わりに、火箸の向きだけを見た。

先端は、私の背後ではなく、仏壇の奥を指している。

その向こうに誰かがいるのか、それとも、私が帰るべき場所を示しているのか。まだ判断できない。けれど、判断できないまま記録することが、今の私にできる唯一の抵抗だった。

私は新しい索引カードを取り出し、火箸の角度を描いた。

線を引くたび、鉛筆の芯が紙へ沈む。

最後の一画を書き終えたとき、囲炉裏の灰の中央で、赤い点が一つだけ灯った。

火箸は、その赤い点のほうへ、ほんの少しだけ向きを変えた。

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火箸の向き - 火種の記憶 - 誰でも作家life