第4話 紙の匂い

沢口家へ戻った朝、囲炉裏の火種は消えていた。
消えたというより、見つからなくなっていた。昨夜まで灰の下で明滅していた三つの赤い芯は、細かな炭の粉へ変わり、灰の表面に黒い斑点だけを残している。火箸は仏間の方角を向いたままだった。
私は土間へ下り、しばらく火床を見ていた。
火がないことに安堵した。だが、その安堵の底には、別の不安が沈んでいた。火が残っているあいだは、少なくとも観察すべき対象があった。理由の分からない現象でも、灰の湿り気や炭の配置を記録できた。消えてしまえば、私はまた、記憶と推測だけを相手にしなければならない。
私はしゃがみ込み、灰を少量採った。
指先に触れた灰は、昨朝より乾いていた。けれど完全な乾燥ではない。表面は粉っぽく、奥にはまだわずかな重さがある。火が消えたあと、誰かが灰をならしたのかもしれない。私はそう考え、すぐにその考えを保留した。
誰か。
この言葉を使うたび、私は観察者の位置から一歩ずつ外れていく。
土間に広げた敷物の上へ、調査ノートと索引カードを並べた。火箸の位置、炭の数、足跡の歩幅、灰の湿り気。時系列に沿ってカードを置くと、ばらばらだった異変が、細い線でつながっていくように見える。
私はさらに、仏間から持ち出した古写真を一枚、カードの横へ置いた。
写真には、沢口家の前に立つ人々が写っている。顔の多くは判別できない。光が白く飛び、端の二人は肩から外れている。それでも、背後にある囲炉裏の位置だけは分かった。写真の中の囲炉裏は、現在のものより少し奥にある。仏間との境も、今より狭い。
私は立ち上がり、写真を手にしたまま仏間へ入った。
畳の目を数え、仏壇までの距離を測る。写真の中では、位牌が三列に分かれている。現在は二列しかない。古いものをまとめたのか、移されたのか。私は仏壇の前に膝をつき、位牌の背面を一つずつ確かめた。
背面には、家名や戒名ではなく、細い鉛筆の跡が残っていた。
数字だった。
表には何も書かれていない位牌の裏に、二、四、六。別のものには三、五。規則性があるようで、途中から崩れている。私はノートへ書き写し、古写真の人物の数と照合した。
写真に写る人間は八人。
位牌の数は十一。
その差を、私は死者の数だと決めつけられなかった。位牌は家族だけのものとは限らない。供養のために預かったものかもしれない。村の外へ出た人間の名を、家の仏間に残すこともある。
それでも、写真にいない三つの位牌が、なぜか気になった。
位牌の一つへ指を伸ばす。表面の塗りは乾いている。だが角だけが、ほかのものより滑らかだった。何度も手で撫でられた跡だ。誰かが、名前を読むためではなく、触れるためにそこへ手を置いていた。
私は指を引いた。
そのとき、背後で紙の擦れる音がした。
振り返ると、仏間の入口に一冊の薄い帳面が落ちていた。先ほどまで襖の脇に積まれていたものだろうか。私は近づき、表紙についた泥を払った。
表紙には題名がない。紐で綴じられた紙束で、端は湿気を吸って波打っている。開くと、古い聞き書きの断片が現れた。
〈炭火送り、十二月二十九日より三日間〉
その下に、別の筆跡で書き足されている。
〈家ごとに炭を分ける。受けた家は、翌朝まで火を絶やさない〉
私は続きを読んだ。
〈火を分ける者は、分けた家の戸口に炭を置く。受けた者は、同じ炭を火床の東側へ入れる。火を見た者は、次の家へ知らせる〉
年越しの行事にしては、細かすぎた。炭をどこへ置くか、誰が受け取るか、翌朝までどう守るか。祝い事なら、もっと人の声や食べ物の記述があっていい。だが帳面に残るのは、手順ばかりだった。
ページの端に、後から挟まれた小さな紙片がある。
〈炭を受けられない家には、沢口が持っていく〉
その一行の下には、何度も消された跡があった。濡れた布でこすったのか、紙の繊維が毛羽立っている。
私は紙片を光にかざした。
消された文字の一部が、斜めに残っていた。
〈帰れない――〉
そこから先は読めない。
私は息を止めた。帰れない家。帰れない人。言葉の続きを考えた途端、昨夜の足跡が浮かんだ。囲炉裏から三歩だけ伸び、土間の途中で切れていた跡。どこかへ向かったのではなく、帰ることができなかった者の歩みだったのかもしれない。
私はその考えをノートに書かなかった。
書けば、それが仮説ではなく、私の記憶の一部になってしまう気がした。
昼前、林道管理小屋から黒田が来た。
戸を叩く音は一度だけだった。私は返事をし、土間へ出た。黒田は濡れた靴を脱ぐと、泥を落とすために敷石の上で靴底を二度擦った。手には紙袋があり、中から乾いた米と味噌、缶詰が見えている。
「食べるものが足りないと思ってな」
「ありがとうございます。でも、今日は町へ降りるつもりでした」
「道が悪い」
「雨は降っていません」
「降ったあとの道が悪い」
黒田は紙袋を流しの脇へ置き、囲炉裏へ目を向けた。火の消えた灰を見てから、仏間の方へ視線を移す。その動きは自然だったが、私には、何かを確認しているように見えた。
「昨夜の火は?」
「今朝は消えていました」
「そうか」
「火が入る日と、入らない日があるんですか」
「毎朝入るとは言っていない」
「でも、以前にも見たことがあるんですね」
黒田は返事の代わりに、味噌の袋を棚へしまった。袋の向きを揃え、賞味期限が見えるように並べている。私はその手つきを見ながら、彼が答えを避けるときほど、周囲のものを整えることを知った。
「炭火送りについて、古い聞き書きを見つけました」
私は帳面を持ち上げた。
「火を分けた家は、翌朝まで火を絶やさない。炭を受けられない家には、沢口が持っていく。これは、どういう意味ですか」
「書いてある通りだ」
「通りでは分かりません。なぜ炭を分ける必要があるんですか。火なら、各家で起こせばいい」
「自分の家の火だけでは足りないときがある」
「燃料の話ですか」
「燃料だけじゃない」
「では、何のための火ですか」
黒田は帽子を脱ぎ、濡れた髪を手のひらで撫でた。窓の外では沢が鳴っている。水量は増えていないのに、音だけが遠く厚く聞こえた。
「火は、家の中に置くものだ。だが、家の中だけに置いたら、家は孤立する。隣の家の火が消えたとき、自分の火を分ける。そうすれば、家と家のあいだに、細い道ができる」
「道?」
「火の道だ。目に見える道じゃない。どの家がまだ人を置いているか、どの家が閉じたか、火を見れば分かる」
「それは、共同体を維持するための仕組みですね」
「学者らしい言い方をする」
「違いますか」
「違わない。ただ、維持という言葉は明るすぎる」
「明るすぎる?」
「火がある家には、人がいると思う。人がいる家には、帰る場所があると思う。そういう思い込みを、村の人間は火でつないでいた。けれど、火があるのに誰もいない家もあった」
「沢口家ですか」
黒田は私を見た。目が合うまでに、一拍あった。
「沢口家だけじゃない」
「聞き書きには、沢口が炭を持っていくとあります。火を受けられない家へ、沢口家が火を運んだ」
「そうだ」
「火を受けられない家というのは、住人がいない家ですか」
「人がいない家もある。人はいるのに、火を受けられない家もある」
私は帳面を閉じた。
「それはどういう意味ですか」
「火を受けるには、家の中に人がいるだけじゃ足りない。帰る者が必要だ」
「帰る者?」
「朝になれば戻る者。夜になれば戸を閉める者。火を消したあと、翌朝また起こす者。そういう者がいなければ、火はただの熱だ」
「では、誰も帰れない家に火を置くのは」
「火が置かれた家に、帰れない者を置くためだ」
黒田の声は淡々としていた。だが、その言葉の形だけが、囲炉裏の灰に落ちた炭のように重かった。
「それは、送り火と関係がありますか」
黒田は答えなかった。
「炭火送りは、生きている家同士で火をつなぐ行事だった。でも送り火は、違う。帰れないものを送るのではなく、帰れないものが帰ってこないようにするための火だった。そういうことですか」
「そこまで書いてあったのか」
「書かれてはいません。だから聞いています」
「なら、聞かないほうがいい」
「聞かないことを選べるなら、私はここへ来ていません」
私は帳面を膝の上へ置いた。
「黒田さんは、役場の記録が不完全だと言いました。由里子さんは、名前を足すと別の名前が余ると言った。沢口家の位牌は写真と数が合わない。火箸は毎朝動く。足跡は土間の途中で途切れる。これらを、別々のものとして扱うほうが無理です」
「無理でも、別々にしておいたほうがいい」
「なぜですか」
「一つにまとめた瞬間、誰かの名前になるからだ」
「名前が必要です」
「名前をつけると、その名前の人間が戻る」
「戻ってほしくないんですか」
言ったあと、私自身がその問いに驚いた。
黒田はすぐに答えなかった。火の消えた囲炉裏を見つめ、灰の中央へ手を伸ばす。指先で表面を軽く撫でる。灰は乾いているのに、彼の指には黒い湿り気がついた。
「戻ってほしいと思う人間もいる」
「黒田さんは?」
「俺は、戻らないほうがいいと思っている」
「自分のために?」
「戻ってくるのが誰か分からないからだ」
その言葉に、私は黒田の顔を見た。
「村にいた人が戻るのではなく、村に残されたものが、人の形を借りて戻るかもしれない。そういう意味ですか」
「知らない」
「また、知らないと言う」
「知らないものを、知っているふりはできない」
「でも、怖がっている」
黒田は笑った。笑顔は口元に浮かんだが、目は少し遅れた。
「怖がっているように見えるか」
「怖がっていない人間は、沢口家の火箸を見て、そこから先へ歩きません」
「山では、歩かないほうがいい場所がある」
「私は歩きます」
「そうだろうな」
黒田は紙袋の口を折り、二度、指で押さえた。
「松原さん。火を調べるなら、火のことだけ調べろ。人の名前を拾うなとは言わない。だが、名前を火床へ置くな」
「名前を火床へ置く?」
「紙に書いた名前を、火の近くへ持っていくな。読み上げるな。呼ぶな」
「その決まりは、どこに書いてありますか」
「書かれていない」
「では、なぜ黒田さんは知っているんですか」
黒田は答えず、戸口へ向かった。
「明日から、天気が崩れる」
「それで話を終わらせるつもりですか」
「話は終わっていない。終わっていないから、ここで切る」
「私には、切る権利がありません」
「ある。まだ外から来た人間だからな」
黒田は靴を履き直し、立ち上がった。
「外から来た人間でいられるうちに、戻ったほうがいい」
「私が長尾沢の出身者かもしれないからですか」
黒田の手が、戸の閂へ触れた。
「誰に聞いた」
「誰にも。記録と、匂いと、あなたの反応から考えただけです」
「考えすぎだ」
「そうかもしれません。でも、考えすぎだと言う人は、普通なら笑います。黒田さんは笑わない」
長い沈黙が落ちた。
黒田はようやくこちらを振り返った。顔には疲れがあった。山道を歩いた疲れではない。何年も同じ場所を避け続けた者の疲れだった。
「昔、沢口家に子どもが二人いた」
声は低く、沢の音にまぎれそうだった。
「二人とも、火の前に座っていた。火箸を持つのがうまい子と、炭を運ぶのがうまい子だ。どちらがどちらだったか、俺にはもう分からない」
「名前は?」
「名前を覚えているから、分からなくなる」
「意味が分かりません」
「同じ日に、二人の名前が呼ばれた。片方は村の外へ出るため、片方は火を残すためだった。けれど、呼ばれた子が返事をしたかどうか、俺は見ていない。見ていないのに、見たような気がする」
「土砂災害の日ですか」
黒田は目を伏せた。
「雨が降る前の夜だ」
「二人はどうなったんですか」
「朝には、一人しかいなかった」
私は息を吸った。
「もう一人は?」
「それを、沢口家の火が知っている」
黒田はそれ以上話さなかった。戸を開けると、冷たい風が室内へ入り、灰の表面をわずかに揺らした。火はない。けれど煤の匂いが立ち上がった。
黒田が外へ出たあと、私は動けなかった。
二人の子ども。
火箸を持つ手。
袖口をつまむ癖。
私の記憶の中にある、顔のない誰か。
私はゆっくりと仏間へ戻った。古写真をもう一度、畳の上へ置く。写真の端に、子どもが二人写っていた。片方は顔が白く飛び、もう片方は横を向いている。今まで私は、二人目を人影だと思っていた。
違った。
子どもは小さな火箸を持っていた。もう一人の子どもは、布に包んだ炭を胸へ抱えている。
写真の裏を返す。
乾いた紙の匂いがした。
裏書きには日付だけがある。その下に、煤で汚れた指跡が二つ残っていた。指の向きが違う。大人のものと、子どものもの。さらに端の余白へ、薄い鉛筆の字が見えた。
〈火を預ける。名前は書かない〉
私はその一文を何度も読んだ。
名前は書かない。
書かなければ、消えないのか。書かないことで、そこに留めるのか。紙に残さない代わりに、火の手つきや、灰のならし方や、毎朝の火種へ移すのか。
私は囲炉裏の前へ戻った。
火のない灰へ、指を入れる。乾いた表面の下に、わずかな湿り気があった。昨夜から誰も触れていないはずなのに、灰は完全には冷えていない。
私は指先の灰をこすり合わせた。
炭の匂いが、鼻の奥から胸へ落ちてくる。
その瞬間、誰かの声がした。
今度は、意味だけではなかった。
「凛」
低く、近い声だった。
私は顔を上げた。
仏間の襖は閉じている。土間には誰もいない。戸口の外では沢が鳴り、杉林から落ちた雫が屋根を叩いている。
私は自分の名前を、口の中で小さく反復した。
りん。
りん。
名前は、確かに私のものだった。
けれどその呼び方を、私は知らなかった。
囲炉裏の灰の中央で、赤い点が一つだけ明滅した。火種と呼ぶには小さく、見間違いと呼ぶには長く続いた。
私はノートへ手を伸ばした。
そして、書き始める前に、匂いを確かめた。
湿った灰。古い紙。煤で黒ずんだ指先。
その三つが混じった匂いは、長尾沢へ来てから初めて、私の記憶の中にある場所と同じものになった。
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