3話 紙の欠け目

黒田が霧の向こうへ消えてから、私はしばらく戸口に立っていた。

沢口家の庭は白く塞がれていた。杉の幹も、笹の葉も、その先にあるはずの林道も見えない。けれど沢の音だけは、霧に遮られるどころか、かえって近くなっていた。水がどこかで絶えず何かを削っている。目に見えない場所で、形のあるものが少しずつ失われていく音だった。

私は戸を閉め、囲炉裏の前へ戻った。

火種はまだ残っている。昨夜、自分が消したはずの火床に、赤い芯が三つ。炭は三角形に寄せられ、中心だけが薄く明滅していた。私は火箸を手に取った。先端には湿った灰が絡みついている。指でこすると、黒い筋が皮膚に残った。

黒田の言葉が、耳の奥に引っかかっていた。

紙に残すと、そこへ戻る人間がいる。

私はノートを開き、今朝の記録を見直した。時刻、灰の湿り気、炭の配置、足跡の数。どれも事実として書いた。だが、最後の一行だけが異質だった。

〈誰かが手入れした可能性あり〉

誰か。

この言葉のために、私は町へ降りることにした。

火を見つけたことを黒田の記憶へ預けたままにするのは、調査者として許せなかった。怪異かどうかを決める必要はない。ただ、見たものの形を、見なかったことにしないために記録が要る。

私は火床の写真を撮り、灰の一部を小さな袋へ採った。採取用の袋に日付を書こうとして、鉛筆の先が止まる。袋の表には、すでに薄い煤がついていた。どこで付いたのか分からない。昨夜、炭を扱ったときのものかもしれないし、今朝、火床へ手を入れたときのものかもしれない。

私は袋を閉じた。

戸締まりを確認し、囲炉裏の周囲を見回す。火箸は仏間の方角を向いている。私はそれを動かさず、そのままにした。黒田が言った「使ったものを元の位置に戻す」という言葉が、今は別の意味を帯びているように感じられた。

家の中にあるものは、私が来る前から、誰かの手順の中に置かれていた。元の位置というのは、私が決めてよいものではないのかもしれない。

林道へ出ると、霧は少し薄くなっていた。濡れた笹が道の両側からせり出し、歩くたびに裾へ水を落としてくる。長尾沢へ入ったときには気づかなかった小さな石が、帰り道では目についた。丸いもの、角の欠けたもの、泥の中へ半分沈んだもの。私はそれらを避けながら歩いた。

道は下りになるほど沢へ近づいた。水音が大きくなり、斜面の向こうから冷たい風が上がってくる。風には杉の樹皮と腐葉土の匂いがあった。その奥に、かすかな炭の臭気が混じっている。

私は立ち止まった。

背後を振り返る。

沢口家は霧の中に隠れていた。けれど、そこからこちらへ続く道の上に、濡れた足跡が一つだけ残っていた。

私の靴跡ではない。

足跡は林道の中央にあり、つま先が町の方角を向いている。踵の輪郭は薄く、泥の粒も少ない。人が歩けばもっと深く残るはずなのに、その跡は水面へ落とした影のようだった。

私は近づかなかった。

写真を撮ることもできなかった。レンズを向けた瞬間、それがこちらへ歩き出すような気がしたからだ。私は足跡を見なかったことにはしなかったが、記録することもできず、その脇を通り過ぎた。

林道管理小屋へ着くと、黒田は軒下で合羽を干していた。私の姿を見ると、釘に掛けていた布を外し、代わりに古いタオルを絞り始めた。

「町へ降りる」

「そうか」

「今朝の火のことを、役場の資料と照合します」

「役場は火を知らん」

「知らないから、照合するんです」

黒田は絞ったタオルを二つ折りにし、合羽の肩へ掛けた。言葉を探す代わりに、濡れた道具を手入れしている。

「沢口家で、昔の避難名簿を見たい」

「斎藤さんに頼めば出してくれる」

「黒田さんは、斎藤さんが何を知っているか知っていますか」

「役場の人間が何を知っているかなんて、俺には分からん」

「でも、長尾沢のことを話すとき、黒田さんはいつも役場の紙を軽く扱う」

「軽く扱っているんじゃない。紙には重さがないだけだ」

「名前が書かれている紙にも?」

黒田の手が止まった。

軒先から、合羽の裾を伝った水が落ちている。一滴、また一滴。地面に黒い点をつくり、すぐに泥へ吸われていく。

「名前は重い」

「なら、紙に残すべきでしょう」

「残せばいい名前と、残さないほうがいい名前がある」

「誰が決めるんですか」

「決めた人間がいたんだろう」

「その人間が間違っていたら?」

黒田は顔を上げた。目が合うまでに、やはり一拍あった。

「間違いだったとしても、時間が経てば、間違いのほうが村の形になる」

「だから、そのままにするんですか」

「そのままにしたほうが、まだ崩れないこともある」

「私は、崩れたものを調べに来ています」

「松原さん」

黒田は濡れた帽子を脱いだ。髪の生え際に、細かな水滴が残っている。

「記録は、壊れたものを直す道具じゃない。壊れた場所を、壊れたまま見えるようにするものだ。そこへ手を入れたら、今度は誰が壊したのか分からなくなる」

「それでも、空白は空白のままです」

「空白には、空白になった理由がある」

「理由を隠した人間のために、残された人間が黙る必要はありません」

言い終えたあと、声が少し震えていることに気づいた。怒りではない。白紙の欄を見たときから、胸の中に細い針が残っている。その針が、黒田の言葉に触れるたび、奥へ押し込まれていった。

黒田は何も言わず、作業台の上に置かれていた小さな金属製の携帯灰皿を手に取った。ひびの入った蓋を開け、中を確かめてから閉じる。

「町へ行くなら、日が落ちる前に戻れ」

「戻れなかったら?」

「役場に泊まるか、下の宿を取れ」

「沢口家へ戻ってはいけない?」

「そうは言っていない」

「では、戻ってもいいんですね」

「戻る理由があるなら」

黒田はそう言って、私へ鍵を差し出した。

「沢口家の鍵です」

「持っていてください」

「いや。戻るつもりなら、持っていたほうがいい」

鍵は濡れていた。私が受け取ると、掌に冷たさが移った。その冷たさの下に、かすかな鉄の匂いがある。沢口家の戸を開けたときと同じ匂いだった。

町へ下りる道では、雨が戻り始めた。

最初は杉の葉から落ちる雫と区別がつかなかった。やがてフロントガラスに細かな点が増え、ワイパーを動かすたび、山の輪郭が白く崩れた。私は運転しながら、沢口家の囲炉裏を思い出していた。灰の下で息をする三つの赤い芯。火箸の向き。三歩で途切れた足跡。

誰かが、私に見せようとしている。

そう考えた直後、私はその考えを退けた。火や足跡に意志を与えるのは早すぎる。観察した事実に、私の恐怖が形を与えているだけかもしれない。

けれど、合理的な説明を探そうとすると、手のひらに残る灰のざらつきだけが強くなった。

町役場は、山の雨が届かない場所にあるように見えた。入口の自動扉が開くと、乾いた空調の匂いと、床を磨いた洗剤の匂いが鼻へ入ってきた。長尾沢の湿った木や煤とは正反対の、何も残さないための匂いだった。

斎藤由里子は、前回と同じ机に座っていた。濃紺のカーディガンを着て、書類の角を揃えている。私が近づくと、顔を上げる前に、机の上に置かれていた朱肉の蓋を閉めた。

「松原さん。お戻りだったんですね」

「資料を見せてください」

「どの資料でしょうか」

「長尾沢の避難名簿。災害当日のものと、その後の離村確認に使われたものです」

「先日お渡しした写しでは不足でしたか」

「不足しているから来ました」

由里子は私の濡れた袖口へ目をやった。次に、手元の索引カードへ視線を落とす。私のカードには、沢口家で写し取った火箸の位置と、今朝の足跡の簡単な図がある。由里子はそれを見て、唇をわずかに結んだ。

「調査の進み具合はいかがですか」

「無人の家で、毎朝火種が残ります」

由里子の指が止まった。

「囲炉裏に、火が」

「私が火を使った夜の翌朝だけではありません。使っていない状態でも、灰が湿っている。炭が寄せられ、火箸の位置が変わる。今朝は足跡もありました」

「動物ではありませんか」

「足跡は土間の途中で消えています」

「湿気で跡が薄くなった可能性は」

「足跡の前後で床板の湿り方が違います。消えたのではなく、そこで途切れている」

由里子は私を見た。端正に整えられた顔の中で、目だけが揺れた。

「それを、記録されるおつもりですか」

「見たものは書きます」

「見たものと、見たと思ったものは分けたほうがよろしいかと」

「分けています。だから、誰が火を入れたかは断定していません」

「怪異だとも?」

「その言葉は使っていません」

「そうですか」

由里子は椅子の背へもたれず、書類の上へ手を置いた。指先が紙の端を何度も合わせている。机の上に積まれた書類は整っているのに、彼女の指だけが、ずれを探していた。

「この役場には、長尾沢の資料がすべて揃っているわけではありません。災害の直後は、現場確認と避難者の把握が優先されました。家ごとの記録が後回しになり、そのまま統合されたものもあります」

「全戸避難という記録だけが残っている」

「全戸避難でした」

「沢口家も?」

「はい」

「最後まで火が残っていたという話があります」

由里子は答えなかった。

「聞き取りでは、沢口家だけは火を絶やさなかったとされています。村の人たちが出たあとも、誰かが火を見ていた。そういう証言です」

「古い伝承でしょう」

「災害の直前まで、火の番を見たという証言もあります」

「誰の証言ですか」

「まだ確認中です」

「確認できていないことを、なぜご存じなんですか」

由里子は朱肉の蓋を押さえた。今度は蓋が少し鳴った。

「役場には、記録にならなかった聞き取りも残ります」

「記録にならなかったのに、残っている?」

「メモや、個人の覚え書きです。正式な文書ではありません」

「見せてください」

「お見せできません」

「なぜですか」

「個人情報が含まれています」

「長尾沢は無人です。新しい個人情報が残っているとは思えません」

「亡くなった人にも、家族はいます」

「名前を残すことが、家族を傷つける場合もある?」

「傷つけることがあります」

「では、消せば傷つかないんですか」

由里子はしばらく黙っていた。役場の奥で、複写機が作動する音がした。紙が一枚ずつ送り出される。機械は迷わない。紙を吸い、写し、排出する。その単調さが、かえってこの場所の沈黙を深くしていた。

「消しても、傷は消えません」

由里子は言った。

「ただ、名前が残っていると、そこへ何度も戻る人がいる。確認し、照合し、訂正し、別の記録へ移し替える。そのたびに、亡くなった人や、いなくなった人を呼び戻してしまう。事実を守るつもりで、遺された人の暮らしを壊すこともあります」

「だから空白にした」

「私は、そう決めたわけではありません」

「誰かが決めた」

「決めた人間がいたのかもしれません。けれど、書類の上では、いつ誰が決めたのかも消えているんです」

由里子は引き出しを開けた。中には紙ファイルが何冊も並んでいる。背表紙のラベルは整然としていたが、一冊だけ、薄い白紙が挟まっていた。

「こちらを」

彼女は一部の写しを取り出し、机の中央へ置いた。

「避難者名簿の原本ではありません。整理前の控えです。正式な閲覧許可は出せませんから、ここで確認してください」

私は椅子へ座った。由里子は向かいに座らず、机の横に立ったままだった。

紙は湿気を吸い、端がわずかに波打っている。家名と世帯主の名が並び、避難先と確認日時が記されていた。沢口家の欄だけ、日付が空いている。世帯主の名前の下に、家族欄がある。そこには二人分の線が引かれていた。

一つは、薄く消されている。

もう一つは、最初から何も書かれていない。

「この線は、削った跡ですか」

「紙の繊維が浮いています。消しゴムではありません。刃物か、濡れた布でこすったように見えます」

「専門家でいらっしゃいますね」

「紙の痕跡を見るのが仕事です」

「名前は、読めますか」

私は顔を近づけた。削られた欄には、文字の下半分だけがかすかに残っている。最初の字は、松という字に似ていた。二文字目は、凛とも、別の字とも読めない。最後の払いだけが深く沈み、紙へ傷をつけている。

喉の奥が乾いた。

私は自分の名前を口の中で反復した。

りん。

りん。

その音に重なるように、幼い声が聞こえた気がした。

火を見てて。

私は目を閉じた。赤い火床。袖口をつまむ小さな手。隣で誰かが息を殺している。顔を思い出そうとすると、記憶は灰のように崩れた。

「松原さん」

由里子の声で、私は目を開けた。

「大丈夫ですか」

「この名前は、何と書かれていたんですか」

「断定できません」

「断定する必要はありません。読める範囲で教えてください」

「その欄は、正式には空白です」

「あなたは、今、読めるかと聞きました」

由里子は私の目を見た。整った顔から、少しずつ事務的な薄皮が剥がれていくようだった。

「松原、という字に似ています」

「似ているだけですか」

「はい」

「子どもの欄ですか」

「年齢欄がありません」

「でも、家族欄に二つの線がある」

「線があるだけです」

「一つは削られていて、もう一つは空白です」

「そうです」

「もう一つの空白は、誰のためですか」

由里子は答えなかった。

私は机の上の紙を押さえた。指先に紙の乾いたざらつきが伝わる。そのざらつきの奥から、煤の匂いがした。濡れた灰を指でこすったときと同じ臭気だった。役場の乾いた空調の下で、ありえない匂いが立ち上がっている。

「長尾沢に、松原という子どもはいましたか」

「町の記録では、確認できません」

「記録ではなく、あなたが知っている範囲で」

「知っている範囲というものが、もう私には分かりません」

「斎藤さん」

「記録を整理すると、順番が入れ替わります。先に避難した人が後の日付になり、残った人が先に出たことになる。家名が変わり、世帯が一つにまとめられ、子どもの数が合わなくなる。最初は誤記だと思いました。次に、現場の混乱だと思いました。そのうち、誰かが意図して直したのだと思うようになった。でも、直した人間の名前も残っていない」

由里子の声は大きくなかった。けれど、長く閉じ込められていた水が、紙の綴じ目から滲み出すように続いた。

「私は、正しい記録を作りたいと思っていました。誰がどこへ避難したのか、どの家が残り、どの家が崩れたのか。数字を合わせれば、少なくとも、いなくなった人の数は分かると思った。でも数が合わない。名前を足すと別の名前が余り、余った名前を戻すと、別の家の欄が空く。まるで、村そのものが一枚の紙から逃げていくみたいでした」

「だから、空白を残したんですか」

「残したのではありません。残ってしまったんです」

「同じことです」

「違います。残すと決めた空白には、責任があります。これは、責任を取る人間がいない空白です。誰かが削ったのか、紙が傷んだのか、記入されなかったのか。確かめるたびに、別の証言が出てくる。だから私は、分からないものを分からないまま保管してきました」

「それは、事実を守ることですか。それとも、沈黙を守ることですか」

由里子は目を伏せた。

「両方だったのだと思います」

その答えに、私は反論できなかった。

机の上の紙が、わずかに震えた。空調の風だろう。そう考えたが、書類の端に置いた索引カードだけは動いていなかった。

「この写しを、持ち帰ってもいいですか」

「できません」

「では、写真を撮ります」

「それも、許可できません」

「研究者として、記録に残す必要があります」

「記録に残した結果、誰かがここへ戻るかもしれません」

由里子は、黒田と同じ言葉を使った。

胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。

「黒田さんにも同じことを言われました」

「そうですか」

「斎藤さんも、沢口家の火を知っているんですね」

「知りません」

「知らない人間は、同じ言葉を使いません」

「同じ言葉が、同じ意味とは限りません」

由里子は写しを取り上げた。紙が机から離れると、そこに薄い煤の跡が残っている。私は反射的に指を伸ばした。だが触れる前に、由里子が紙を引いた。

「これ以上は、今日はお渡しできません」

「私の名前が書かれているかもしれないのに?」

由里子の顔色が変わった。

「あなたの名前は、書かれていません」

「では、なぜ私を見たときに、いつも一拍置くんですか」

由里子は答えなかった。

私は自分の声が、次第に硬くなっているのを感じた。怒っているわけではない。けれど、白紙を見るたびに、そこへ自分の輪郭が押し込まれていく。名前がないのに、名前を呼ばれている。知らないはずの家の匂いが、身体の中に残っている。

「旧名を知っていますか」

「松原さん」

「私が今の姓を名乗る前の名前です。大学の記録にも、戸籍にも残っています。あなたが見たことがあるような顔をする理由を、教えてください」

由里子は朱肉の蓋へ手を置いた。押さえる指が白くなる。

「知りません」

「本当に?」

「本当に、分かりません」

「分からないのか、言えないのか、どちらですか」

「その二つを分けられなくなった人間に、記録の仕事をさせてはいけなかったんです」

由里子はそこで初めて、私の目をまっすぐ見た。

「あなたの名前に似た文字を、以前にも見ました。けれど、それがあなたと同じ人を指すのか、別の子どもを指すのか、私には判断できません。写真も、名簿も、聞き取りも、少しずつ違う。あなたが長尾沢の出身者だと、私は言えません。あなたが違うとも言えません。だから、ここで私が何かを言えば、それは記録ではなく、私の記憶の押しつけになります」

私は言葉を失った。

由里子は引き出しから、古びた封筒を一枚取り出した。宛名は伏せられ、封は開いている。中身は見せず、封筒だけを机の上へ置いた。

「これを、昨日の資料の間に挟んでしまいました」

「誰宛てですか」

「子どもが書いた手紙です」

「長尾沢の?」

「そうかもしれません」

「差出人は」

「ありません」

「宛名だけ?」

「宛名も、最後の一文字が潰れています」

私は封筒へ目を落とした。紙は煤で薄く汚れ、右下の角に折り目がある。指先で封筒の端をなぞったとき、胸の奥に鋭い痛みが走った。

私はこの手触りを知っている。

誰かが、封筒の端を何度も指でなぞっていた。考えながら、言葉を選びながら、出せない手紙をしまい込んでいた。

「見せてください」

「今日はできません」

「なぜですか」

「あなたが読めば、戻るかもしれないからです」

「誰が?」

由里子は答えなかった。

その沈黙の向こうで、役場の蛍光灯が一つ、低く唸った。乾いた空気の中に、かすかに炭の匂いが混じる。

私は封筒から目を離せなかった。

「明日、また来ます」

「松原さん」

「資料を見せてもらうまで、何度でも来ます」

「長尾沢へ戻るのですか」

「戻ります」

「なぜですか」

私は自分でも、すぐには答えられなかった。

火を記録するため。名簿の空白を確かめるため。自分の旧名に似た文字の正体を知るため。どれも本当だった。けれど、もっと手前に、別の理由があった。

あの家の火は、私が消したあとにも残っていた。

そして私は、消えたものを、なかったことにするのが嫌だった。

「誰かが、まだ火を見ているからです」

由里子の指が、封筒の端から離れた。

「誰もいない家で?」

「誰もいないと、まだ断定できません」

私は立ち上がった。濡れた窓の向こうで、町の道路を車が走っている。タイヤが水をはね、白い音を残して過ぎていく。ここには人がいる。店があり、役所があり、紙を複写する機械がある。それなのに、長尾沢の一枚の空白だけが、町全体から切り離されずに残っていた。

役場を出ると、雨は止んでいた。

雲の切れ目から薄い光が落ち、濡れたアスファルトを鈍く照らしている。私は車へ向かいながら、手袋を外した。指先には、沢口家の灰をこすった黒い筋が残っていた。

水道で洗えば落ちる汚れだった。

けれど私は、洗わなかった。

車へ乗り込み、エンジンをかける。暖房の風が手元へ当たり、煤の匂いが少しだけ強くなった。

その匂いの中で、誰かが私の名前を呼んだ気がした。

振り返っても、役場の入口には誰もいない。自動扉が開き、閉じる。その向こうで、由里子の机の上に置かれた封筒だけが、私の見えない場所へ戻されていく。

私はハンドルを握った。

長尾沢へ戻る道は、山の上へ続いている。

そこには、誰もいないはずの家と、毎朝残る火と、記録から欠け落ちた名前がある。

そしてその空白は、私が目を向けるたび、少しずつ私の形に近づいていた。

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