9話 空白の継ぎ目

土間の奥で、火箸が木の上を滑る音がした。

細く、乾いた音だった。

私は玄関の前で立ち止まった。雨は上がっている。けれど屋根の端から落ちる雫はまだ止まず、敷居の前の土を黒く濡らしていた。鞄の中には、真柴イネの日記を写した手帳と、木札、それから藤堂美咲が渡してくれた祖母の名の複写が入っている。紙の重さしかないはずなのに、歩いているあいだずっと、鞄の底へ炭俵を入れているような重みがあった。

もう一度、音がした。

火箸が、今度は少し長く滑った。

私は戸へ手をかけた。内側から掛け金を下ろしたはずだった。だが、戸は抵抗なく開いた。

土間の空気が、外よりも冷たかった。

囲炉裏には火がない。灰は暗く沈んでいる。けれど、表面には三本の筋が残っていた。昨日、私が祠の台の上で見たものと同じ長さで、炉の奥から手前へ伸びている。

火箸は、炉の向こう側に置かれていた。

私から最も遠い位置。誰かが座る場所へ、先端を向けて。

私は戸を閉めた。掛け金には触れなかった。

囲炉裏の前へ座ると、梁の上から煤の匂いが落ちてきた。湿った木と古い炭の匂い。鼻の奥へ入った瞬間、祖母の家の土間が、記憶の底から浮かび上がった。

冬の朝。白く曇った窓。祖母の背中。火箸を置く音。

その背中の前に、幼い私がいる。

「手を急がせないで」

祖母は、そう言ったような気がした。

声は思い出せない。けれど、言葉の形だけが残っていた。私は炉縁へ指を置き、すぐに手を引いた。指先が勝手に動く前に、袖の中で両手を握り合わせる。

鞄から複写を出した。

祖母の旧姓が記された紙。真柴家の女性系譜から消えた行と、別の家の記録にだけ残った名。紙の上ではつながっている。だが、つながりを証明する線はどこにもない。

そのとき、戸が二度、叩かれた。

私は返事をしなかった。

しばらくして、外から美咲の声がした。

「桑原さん。私です。戸を開けてもらえますか」

声を聞いてから、私はようやく立ち上がった。戸を開けると、美咲は濡れた髪を後ろへまとめ、片手に薄い封筒を持っていた。眼鏡のレンズに細かな水滴が付いている。彼女は土間へ入る前に、敷居の位置を見た。

「北沢さんは」

「山道の下です。ここまで来ませんでした」

「入れなかった?」

「入らなかった、と言っていました」

美咲は一拍置き、封筒を差し出した。

「追加の資料です」

「まだあったんですか」

「資料というより、資料になり損ねたものです」

私は封筒を受け取った。中には、古い住民異動届の控えと、焼却文書の目録が入っていた。目録の一行に、真柴家戸籍補記、火納め関係書類、昭和六十三年処分、と記されている。

「焼却されたんですか」

「処分理由は、保存年限満了です」

「真柴家の記録だけが?」

「目録上は、他の祭礼資料も一緒です。ただ、真柴家の戸籍補記だけ、焼却前に誰かが一枚抜いている」

美咲は赤鉛筆を取り出し、目録の余白を示した。

「この線です。書類を束ねていた針金の跡と、抜き取った紙の跡が一致しません。つまり、処分前に一枚だけ外された」

「誰が外したのかは」

「分かりません」

「また、分からない」

「はい。ただ、今回は少しだけ分かります」

美咲は別の紙を重ねた。

「住民異動届の控えに、桑原姓の女性が村を出た記録があります。届出人の署名は、真柴イネです。移動先は町の南側。そこに、桑原家の旧住所がありました」

私は紙を見た。

日付は、真柴一家が消えたとされる夜の三日前だった。

「祖母の名前は?」

「この控えにはありません。女性の名前は、空欄です」

「空欄のまま届け出た?」

「通常なら受理されません」

「では、なぜ残っているんですか」

「受理されたからです」

「名前がないのに?」

「名前がないことを問題にしない人間が、そこにいた」

美咲の声は乾いていた。だが、紙の端を押さえる指に力が入っていた。

「制度は、人を登録するために作られています。名前のない人間を通すことはできない。けれど、村が消える前の役場では、記録より先に共同体の判断があった。家から出す必要がある。出した者を残してはいけない。そう判断されれば、紙の方が合わせられる」

「祖母は、名前を消された」

「可能性があります」

「真柴家から出るために」

「可能性があります」

「あなたは、分かっているんでしょう」

美咲は私を見た。

「分かっているのは、誰かが消されたということだけです。桑原さんのお祖母さまだと断定する資料はありません」

「それでも、あなたはここまで持ってきた」

「持ってこなければ、桑原さんは自分で別の記憶を埋めるでしょう。記録のない場所に、最も都合のいい物語を置く。私はそれを防ぎたい」

「都合がいい?」

「血筋があると分かれば、すべての違和感を血のせいにできます。火がついたのも、手が動いたのも、祖母が黙ったのも、真柴家の血だから。そうすれば、考えなくて済む」

「では、血筋でなければ、私は何を考えればいいんですか」

「あなたが見たものを、あなたの責任で残すことです」

「私の祖母が誰だったのか分からないまま?」

「分からないままでも、消された人がいたことは書けます」

私は複写を机へ置いた。

「あなたは、記録を信じすぎています」

「信じていません」

美咲は眼鏡を外し、濡れたレンズを布で拭いた。

「記録は人を守らないことがあります。誰かを別の家の人間にして、誰かを空欄にして、共同体の都合を正しい手続きに見せることもある。だから私は、記録を信じるのではなく、記録が何を隠そうとしたかを見ます」

「私も、灰を見ているつもりでした」

「灰は、紙より正直ですか」

「分かりません。灰も、整えられます」

「整えた手は残る」

その言葉に、囲炉裏の奥で炭が小さく鳴った。

火はない。

それでも、灰の中央がわずかに赤く見えた。

私は立ち上がり、火箸を手に取った。美咲は止めなかった。ただ、私の手元を見ていた。

火箸を右へ置く。

灰を三筋、ならす。

その動作が終わったとき、私は自分の手を見た。震えている。けれど、初めてその震えを止めようとは思わなかった。

「火を起こすんですか」

美咲が尋ねた。

「いいえ」

「では、なぜ整えたんです」

「残すためです」

「何を」

「ここに、誰かがいたことを」

私は炭の欠片を炉の中央へ置いた。祖母の裁縫箱から持ってきたものではない。梁裏の箱にあった欠片でもない。手元に残った、旧・真柴家の灰の中から拾ったものだった。

美咲が息を浅くした。

「それを置くと、戻せなくなります」

「もう戻れません」

「桑原さん」

「私は、真柴家の名を名乗りません」

言葉にすると、胸の奥で何かが軋んだ。

「祖母が真柴の人間だったとしても、私が同じ家の人間になるとは限らない。血は、記録の空白を埋める理由にはなっても、私の生き方を決める理由にはならない」

「では、火は」

「火は、消します」

私は灰ならしを手にした。

囲炉裏の奥の赤みが、一度だけ明るくなった。

美咲が私の手首を掴んだ。力は弱かったが、指先が冷えていた。

「消していいんですか」

「あなたは、記録を残せと言った」

「消すことも記録になります」

「ええ」

「消したあと、何も残らなかったら?」

「残らなかった事実を残します」

私は美咲を見た。

「火を残すことが愛情だったとしても、残された人間に同じ愛情を強いるなら、それはもう別のものです。私は祖母が何を守ったのかを書きます。でも、祖母が守ったものを、私が守り続けるとは書きません」

美咲は手を離した。

「それは、継がないということですか」

「分かりません」

「また、保留ですか」

「保留ではありません。選ぶのを急がないだけです」

私は灰ならしを炭へ向けた。

その瞬間、土間の奥から乾いた咳が聞こえた。

美咲が振り返る。

誰もいない。裏口も、座敷も、梁の影も動いていない。ただ、煤の匂いだけが濃くなり、二人の間を流れていった。

私は灰ならしを止めなかった。

炭を灰の中へ押し込み、赤みを覆う。灰は細かく崩れ、三本の筋を消していく。火は抵抗しなかった。炎も上がらず、煙も立たない。ただ、乾いた熱だけが指先から手首へ伝わった。

最後に、私は灰を平らにした。

囲炉裏は黒くなった。

美咲は机の上の複写を封筒へ戻し、角を揃えた。

「明日の朝、また火が入るかもしれません」

「そうかもしれません」

「入らなかったら?」

「その場合も、記録します」

「入ったら?」

私は暗い灰を見つめた。

「その場合も」

外で、沢の音がした。雨は止んでいる。杉林の枝から落ちる雫が、一定の間隔で土を打っていた。

美咲が戸口へ向かう。

「桑原さん」

「はい」

「祖母の名前を、報告書にはどう書きますか」

私は答える前に、火箸の位置を見た。

右側にそろえたはずの二本が、わずかに内側を向いている。

「確認できた名前として書きます」

「真柴家との関係は?」

「断定しません」

「それで、いいんですか」

「いいかどうかではなく、そうしか書けません」

美咲は頷いた。

「それが、記録係の答えです」

「私の答えでもあります」

美咲が戸を開けると、湿った山の匂いが流れ込んできた。煤の匂いは、その風に押されるように梁の奥へ戻っていく。

私は一人になった。

玄関。裏口。囲炉裏。座敷。

四つを数えた。

初めてこの家へ入った朝と同じ数だった。けれど、もう同じ場所ではない。私の手が知ってしまった作法も、祖母の名が残った紙も、火を消したあとの黒い灰も、すべて私の中に残っている。

それらを、真柴という名でまとめるつもりはなかった。

名前は人を残す。けれど、名前だけでは人の選択までは残らない。

私は手帳を開き、最後の記録を書いた。

午前五時四十六分。囲炉裏の火を消火。灰、三筋を消去。炭片、一個を炉内に残す。家屋に人影なし。戸締まり異常なし。煤の匂い、継続。

書き終えて、鉛筆を置いた。

その直後、灰の中央に小さな赤みが生まれた。

私は立ち上がらなかった。

火箸にも手を伸ばさなかった。

赤みはゆっくりと脈打ち、やがて灰の下へ沈んでいった。代わりに、平らになった灰の表面へ、細い線が一本だけ現れた。

三本ではない。

誰かを呼ぶための筋でもない。

ただ、消えた火の跡のように、炉の奥から手前へ伸びている。

私はその線を見つめながら、祖母の名を口にしなかった。

名前を呼ばなくても、消えた人がいたことは書ける。

そして、書いたからといって、私がその人の家になる必要はない。

外の杉林で、風が一度だけ向きを変えた。

古い家の梁から、最後に薄い煤の匂いが落ちてきた。私はそれを手帳の余白へ記した。

火、消火後も匂いのみ残存。

その下に、もう一行を加えた。

朝火の正体は、火そのものではなく、火を残そうとした者の手である。

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