8話 北沢の口が開くまで

日記を手帳に挟み、私は旧・真柴家の戸を出た。

雨は上がっていたが、山はまだ濡れていた。軒先から落ちる雫が、土間の敷居を越えたところで潰れている。湿った木の匂いに、囲炉裏から移った煤の匂いが重なっていた。私は一度だけ振り返った。

玄関。裏口。囲炉裏。座敷。

いつものように数えた。

囲炉裏の灰は暗く、火は見えない。けれど、あの家を背にすると、背中の中央に小さな熱が残っているように感じた。日記に書かれていた言葉が、まだ耳の奥にある。

次の者が来たら、名を問うな。  火の前に立てるかだけを見よ。

私はその文を、真柴イネの遺言として扱うべきか、古い作法の断片として扱うべきか決められずにいた。記録者なら、まず出典を確かめる。紙質、筆跡、保存状態。書かれた時期と、書かれた人間の位置を分けて考える。

それなのに、梁裏から箱を取り出したとき、私の手は何の確認もせず、箱を囲炉裏の右側へ置いた。

何かを仕舞う前に、息を止める。

火箸を右へ置き、灰を三筋ならす。

その動作を、私は知っていた。

杉林の中へ入ると、道のぬかるみが靴底を掴んだ。前夜の雨で土は柔らかくなり、足を抜くたび、吸い込まれた水が小さく鳴る。斜面からは細い水が何本も流れ落ち、苔の上で一つになって沢へ向かっていた。

北沢健は、山道の曲がり角に立っていた。

いつものように、真正面を避けている。肩を斜めにし、視線を私の顔ではなく、足元と斜面の境目へ置いていた。濡れた軍手の指先を、何度も引っ張っている。

「待っていたんですか」

「通っただけだ」

「ここは、旧・真柴家へ戻る道ではありません」

北沢は返事の前に唾を飲み込んだ。山の地形について尋ねたときには、分岐の数も沢の深さも迷いなく答えるのに、家の話になると、言葉を選ぶ時間が長くなる。

「祠へ行く」

「火鎮め様の祠ですか」

「道の確認だ」

「雨上がりの斜面を、わざわざ確認する必要が?」

「崩れたら困る」

「誰が」

北沢の目が斜面へ逃げた。

「道を使う奴が」

「今、この山道を使うのは私たちだけです」

「だから、確認する」

私は彼の手元を見た。軍手の親指のあたりに黒い粉が付いている。土にしては乾いていた。煤か、炭か。指で擦れば分かるはずなのに、私は尋ねるだけにした。

「火納めについて、もう一度聞かせてください」

「話した」

「十分ではありません」

「十分でないから、聞き続けるのか」

「分からない部分を、そのままにできません」

「分からないものを、分からないまま置くのも記録だ」

「それは、記録ではなく放棄です」

北沢の指が止まった。

「放棄と保留は違います」

「違いを決めるのは、書く側か」

「書かれたものを読む側です」

「読んだ人間が、勝手な意味を足したら」

「だから、事実と解釈を分けます」

「分けられないものもある」

「分けられないなら、分けられないと書きます」

私は手帳の角を親指で押さえた。

「私は、あなたが何かを隠していると考えています。けれど、隠している理由までは決めていません。怖いからなのか、誰かを守っているのか、村の掟に縛られているのか。私はまだ、そこまでしか書けない」

北沢は私を見なかった。

「それでも、聞くのか」

「はい」

「聞いたことを持ち帰るのか」

「持ち帰らずに、どう記録するんです」

「記録にした時点で、別の場所へ移る」

「紙に移さなければ、真柴家の人たちは二度消えます」

沢の音が、私たちのあいだを流れた。水は見えないのに、音だけが斜面の下から上がってくる。

北沢はゆっくり息を吐いた。

「消えたんじゃない」

そこで一度、言葉が途切れた。

「……消したんでもない」

「では、何ですか」

「まだ、家の中にいる」

その言葉を聞いた瞬間、背中の内側が冷えた。

「真柴一家が、ですか」

「家族のことを、俺が決めるな」

「では、何が家の中にいるんです」

「火だ」

「火は消えたはずです」

「見える火だけが火じゃない」

北沢はそう言って、斜面の先を指した。指先は案内の形をしていたが、同時に、そこから先へ進むなという制止にも見えた。

「行きます」

「帰れ」

「あなたが案内するなら」

「案内するとは言っていない」

「道を指しました」

「道を間違えないようにしただけだ」

「それは案内です」

北沢は肩をすくめた。何かを隠すときの動作だった。

「……昼までだ」

私たちは並ばずに歩いた。北沢が先に立ち、私は二歩ほど後ろをついていく。彼は足を置く前に、土の色を見た。濡れた黒土の上に薄い茶色が混じっている場所は踏まず、根が露出したところだけを選ぶ。私はその足取りを追いながら、彼が山を歩いているというより、山に許された場所だけを渡っているように感じた。

杉の枝から落ちた水滴が、首筋へ入った。冷たさに息が止まる。濡れた土の匂いの底から、煤の匂いが立ち上がっていた。火は見えない。煙もない。ただ、何かが燃えたあとの黒い匂いだけが、道の先から戻ってくる。

「真柴家が消えた夜、何があったんですか」

「知らん」

「北沢さんは、その夜のあと、家へ行った」

「子どもだった」

「見たんですか」

「家を見ただけだ」

「囲炉裏は?」

北沢は答えなかった。

「火はありましたか」

「なかった」

「それなのに、今の家には毎朝火が入る」

「毎朝とは限らん」

「私が泊まってから、毎朝です」

「見間違いかもしれん」

「熾火の温度、灰の筋、火箸の位置、戸締まり。少なくとも、見間違いだけではありません」

「数字にすれば、何でも確かなものに見える」

「数字にしなければ、何でも人の記憶にされてしまう」

「記憶では駄目か」

「記憶は変わります」

「変わるから、残ることもある」

「変わった記憶を、誰かが事実として受け取るかもしれない」

「事実だけで、人が守れると思うか」

北沢が初めて足を止めた。

「村がなくなったあと、役場の帳簿は合併先へ運ばれた。家の名前は残った。土地の面積も、税の記録も残った。けれど、誰がどの家から出て、誰がどこへ行ったかは、紙の端から落ちた。数字は残ったのに、人間が残らなかった」

私は答えなかった。

それは私が、何度も見てきた空白だった。記録の形式だけが残り、生活の手触りが抜け落ちている。だから私は、灰の筋や火箸の角度まで書く。人の名前がなくても、手の動きならまだ残っている。

「私は、残ったものを見ています」

「見たものを持っていく」

「残すためです」

「残す場所を、あんたが決める」

「では、誰が決めるんですか」

「残った側だ」

「残った側は、話さない」

「話さないんじゃない」

北沢は軍手を握った。

「話せば、戻ってくるからだ」

道の先に、苔むした石段が現れた。

七段あった。

石段の脇には杉葉が積もっている。けれど中央だけが、左右へ分けられていた。誰かが掃いたのか、雨が流したのか、判断できない。私は足を止め、石段の幅と段差を記録した。

北沢が振り返った。

「祠では、手帳を開くな」

「なぜですか」

「紙を広げると、持ち帰る形になる」

「もう、ここまで来たこと自体が調査です」

「調査なら、見るだけにしろ」

「見たものを記録しない調査は、私にはできません」

「できないんじゃない。したくないだけだ」

私は石段を見上げた。

「そうかもしれません。記録できないものを前にすると、自分が無力になる。だから書く。書けば、少なくとも見たという事実だけは残る」

北沢はしばらく黙っていた。

「それは、あんた自身のためか」

「最初はそうでした」

「今は?」

「分かりません」

祠の前には、小さな木の台があった。

屋根は黒く、板壁の隙間から細い草が出ている。台の中央だけ、木肌が擦れていた。炭俵を置いた跡だろう。何度も同じ場所へ重いものを置き、同じ向きに持ち上げた摩耗だった。

私は手袋をはめ、台の表面へ指を滑らせた。

黒い粉が付いた。

炭の粉だった。

指先で潰すと、乾いた粉が皮膚の皺へ入り込む。湿った山の中で、その粉だけが時間から取り残されているように乾いていた。

「ここへ、炭俵を置いた」

私が言うと、北沢は祠を見たまま答えた。

「昔はな」

「真柴家が?」

「そうだ」

「なぜ、炭を供えたんですか」

「供えたんじゃない。戻した」

「火を?」

「家で使った火を、山へ返す」

「火は山から来るから?」

「薪も炭も山から取る。家で燃やしたものを、家だけのものにしないためだ」

「それが火納め」

「消す儀礼じゃない」

北沢は、台の中央を見た。

「火を家に留めるために、いったん外へ出す。火は使えば減る。減った分を足せばいいと思うだろう。でも、足すだけだと、家の中に火が溜まる。火が溜まれば、人が火を使うんじゃない。火に家を使われる」

「それは、比喩ですか」

「この村では、比喩で暮らしていなかった」

北沢の声は低かった。

「囲炉裏の火を落とし、芯のある炭を選ぶ。割れたものは俵へ入れない。火箸を右へ置き、灰を三筋ならす。それから炭俵を持って、ここへ来る。俵を開け、火の匂いを山へ返す。戻るとき、家には新しい炭を一つだけ残す」

「完全には消さない」

「消したら、家が終わる」

私は手帳を開きかけた。

北沢の手が伸び、私の手首を止めた。力は強くない。けれど、林業の仕事で鍛えられた指が、逃げ道を塞ぐ位置にあった。

「ここでは、書くな」

「記録させない権利が、あなたにありますか」

「ない」

「なら、手を離してください」

「離したら、あんたは書く」

「書きます」

「だから止めている」

「それは、私を守っているんですか。それとも、村を守っているんですか」

北沢は私の手首から手を離した。

「どっちも、同じだと思っていた」

「違います」

「違うのか」

「村を守るために私を黙らせるなら、それは共同体の都合です。私を守るために黙らせるなら、私が判断するべきです」

「外から来た人間に、判断できるのか」

「判断するために来ました」

「火のことを知らずに?」

「知らないから、聞いている」

「聞いたことを分かったつもりになる」

「分かったつもりにならないために、何度も確かめています」

北沢の顔に疲れが浮かんだ。怒りではない。長く閉めていた戸を、内側から押されている人間の顔だった。

「俺の親父は、真柴家のことを話さなかった」

彼は祠の脇にある濡れた石へ視線を落とした。

「真柴一家が消えた翌朝、大人たちは家の前に集まった。戸は開いていた。中へ入れるのに、誰も入らなかった。親父も、村の年寄りも、土間の手前に立って囲炉裏を見ていた。火はなかった。煙もなかった。なのに、全員が、そこに火がある人間の顔をしていた」

「何を見ていたんですか」

「分からん」

「本当に?」

「分からんと言うしかない」

「見たことを話せない?」

「話せば、俺が次に見ることになる」

「何を」

北沢は答えなかった。

祠の奥から、乾いた咳が聞こえた。

私は顔を上げた。

石垣の向こうに人影はない。杉の幹が濡れたまま並び、枝の間を白い霧が流れている。霧の中に、煤で黒くなった指先が一瞬見えた気がした。袖口から手を出し、何かを確かめるように炭俵の置き台へ触れる手。

次の瞬間には、ただの枝影だった。

「今の音は」

「沢だ」

「咳に聞こえました」

「沢は、いろんな音を出す」

「火鎮め様の老女ですか」

北沢の肩がわずかにすくんだ。

「老女は、火を消す人じゃない」

「では、何をする人ですか」

「火を持つ者の手を見る」

「手を?」

「顔は隠せる。言葉も隠せる。でも、火箸を持つ手は隠せない。炭を選ぶとき、灰をならすとき、何を家に残して何を外へ返すか。手つきに出る」

私は自分の手を見た。

炭には触れていない。それなのに、爪の際に黒い影があるように感じた。指を擦ると、乾いた粉の感触だけが残った。

「その老女は、今もここにいるんですか」

「人としては、もういない」

「人としては、という言い方をするなら」

「それ以上は言わん」

「言わないのではなく、言えない?」

北沢は祠の屋根を見上げた。

風はないのに、屋根の下に掛けられた古い布が一度だけ揺れた。

「名前を呼ぶな」

彼が言った。

「誰の名前を?」

「誰のでもだ」

「真柴家の人間の名前を呼ぶと、戻ってくる」

「そう言ったのは、あなたですか」

「俺じゃない」

「誰が」

「火の前に立つ者だ」

北沢はそこで言葉を切った。

私は、日記の最後の一行を思い出した。名を問うな。火の前に立てるかだけを見よ。

偶然だと考えるには、重なりすぎていた。

「真柴一家は、死んだんですか」

北沢は長いあいだ答えなかった。

雨上がりの山では、音が遠い。沢の流れも、枝から落ちる雫も、湿った布の向こうで鳴っている。彼の呼吸だけが、私のすぐそばにあった。

「消えたんじゃない」

「それは聞きました」

「消したんでもない」

「では、どこへ」

「火を納めた」

「家族を、火と一緒に?」

「言葉を選べ」

「選んでいます。あなたが選ばせている」

北沢の手が、軍手の指先を引いた。

「家を残すには、家族を出すしかない夜がある」

私は息を止めた。

「出ていった?」

「そう簡単に言うな」

「逃げたんですか」

「逃げた者もいる。逃がされた者もいる。戻れなくなった者もいる」

「真柴家の人間は?」

「それを、俺が言うのか」

「あなたは見た」

「見たのは、夜の供え火だ」

「その火のそばに、誰がいたんです」

北沢は目を閉じた。

「イネさんだ」

初めて、彼の口からその名が出た。

「真柴イネさんが、炭俵を運んでいた。後ろに家族がいた。子どもが一人、男が一人。もう一人、女がいた」

私は手帳を握った。

「女?」

「顔は見ていない」

「誰ですか」

「名前は言えない」

「その女が、私の祖母かもしれない」

「だから言えない」

「私の祖母が、真柴家から出た人間だと知っているんですか」

「知らん」

「また、知らない」

「顔を見ていない。名前を聞いていない。だから、知っているとは言えない」

「けれど、可能性はある」

「可能性を口にすれば、それがあんたの中で名前になる」

「名前がなければ、私は誰のためにここまで来たんです」

声が震えた。

震えを隠すため、私は親指の腹を爪で押さえた。痛みが掌へ広がる。けれど、その痛みさえ、昔から知っている手順の一部に思えた。

「私は調査者です。あなたたちが黙るなら、残されたものを拾うしかない。灰を見て、炭を測って、紙の継ぎ目を読む。そこに人がいたと書くために」

「書くために、ここへ来た」

「はい」

「なら、書いたものを、あんたはどうする」

「公開します。検証できる形で残します」

「真柴の火も?」

「確認できた範囲で」

「火が家を家として残すためのものだと書くのか」

「書きます」

「家族がいなくなっても、火を絶やさないことを?」

「書きます」

「その火を、あんたが継ぐことになるかもしれないと?」

私は答えられなかった。

北沢の声は低かったが、初めて真正面から私へ向けられていた。

「記録する人間は、見たものを外へ出す。継ぐ人間は、見たものを内側へ置く。どちらも、残すことには変わりない。ただ、置く場所が違う」

「私は、何も継ぐと決めていません」

「決める前に、手が覚えることがある」

「それを血筋のせいにしないでください」

「血だけじゃない」

「では、何ですか」

「家で育った時間だ。火の前で見た背中。灰をならす音。誰かが黙ったときに、聞いてはいけないと覚えたこと。そういうものは、戸籍には書かれない」

「だから、私の手が覚えている」

「手は、名前より先に家を覚える」

その言葉に、反論できなかった。

祠の台へ視線を落とす。中央の窪みは、何度も炭俵を受け止めてきた。供えは途絶えている。村もない。人もいない。それでも木だけが、置かれる重さを覚えている。

私の手も、同じなのかもしれなかった。

北沢は脇道の先を見た。

「今夜は、外へ出るな」

「理由を聞かせてください」

「火納めの夜は、家の中と外の境目が薄くなる」

「今日は火納めの日なんですか」

「日付が同じだ」

「役場の地図に書かれていた日付?」

北沢は黙った。

「毎年、同じ日。最後の年だけ、真柴家の記録が途切れている。あなたは知っていたんですね」

「知っていた」

「なのに、私を家へ戻した」

「帰すつもりだった」

「今も?」

「今なら、まだ戻れる」

「どこへですか」

「自分の家へ」

私はその言葉を聞いて、胸の内側が空洞になるのを感じた。

私の家は、東京にある。書棚と机と、調査資料の積まれた狭い部屋。祖母の裁縫箱を置いた引き出し。火のない電気コンロ。そこを自分の家だと思って生きてきた。

けれど、真柴家の土間に立ったとき、私は初めて帰ってきたような匂いを嗅いだ。

「私の家が、どこにあるかを決めるのは私です」

「そう言うと思った」

「あなたは、私を止められない」

「止めるために話している」

「話したのは、止めるためだけですか」

北沢は私を見た。

斜めに立つ癖が崩れ、ほんの一瞬だけ、真正面に向いた。

「俺は、誰にも話さなかった。親父にも、村の外へ出てからも。話さなければ、あの夜は俺の中で終わると思っていた」

「終わりましたか」

「終わらん」

「だから、私に話した」

「違う」

「では、なぜ」

北沢は唇を結んだ。やがて、軍手を外した。荒れた指の間に、古い黒ずみが残っている。

「黙っていたせいで、あんたが火の前に立った」

私は息を呑んだ。

「私がここへ来たのは、あなたが案内したからです」

「だからだ」

「責任を感じているんですか」

「責任なんて、外の言葉だ」

「では、何ですか」

「見てしまった者の始末だ」

その言葉の重さが、雨の残る山道へ沈んだ。

「俺は、あんたの祖母を知っているとは言えない。顔も見ていない。名前も聞いていない。ただ、あの夜、イネさんが炭俵を祠へ運ぶ前に、女の子を一人、家の裏手へ押し出したのを見た。女の子は泣かなかった。振り返りもしなかった。火箸を右へ置くような手つきで、何度も袖を直していた」

私の指先が冷えた。

幼い頃、祖母の家で見た背中。

火の前で背筋を伸ばし、私の手を取って、何も言わずに指の位置を直した人。

「その子は、どこへ行ったんですか」

「山を下りた」

「真柴家から?」

「戻らなかった」

「あなたは見送った」

「見送っただけだ」

「どうして助けなかったんですか」

北沢は顔を伏せた。

「子どもだったから、ではない。村の大人が、誰も動かなかったからだ。火鎮め様の老女が祠の前に立っていた。イネさんは炭俵を開き、火の匂いを返していた。誰もが、あれは必要なことだと思っていた。必要だと思えば、人は手を出さない」

「それは、掟ですか」

「掟にすれば、誰か一人の責任にならん」

「ひどい」

「そうだ」

北沢は否定しなかった。

「だから、俺は火の話をしなかった。話せば、あの夜に立っていた全員の顔が戻る。俺の親父も、イネさんも、老女も、そして、何もできなかった俺も」

私は言葉を失った。

山の静けさが、さっきまでとは違っていた。音がないのではない。誰かが長く黙っていた分だけ、音の輪郭が残っている。

祠の屋根から、水滴が一つ落ちた。

その音に重なるように、乾いた咳が聞こえた。

北沢は振り返らなかった。

「今のを、聞いたか」

「はい」

「書くな」

「聞いたことは、書きます」

「人の咳として書くな」

「では、何として?」

「発生源不明でいい」

私は手帳を開いた。

北沢は止めなかった。

祠前、午後三時二十七分。発生源不明の咳。煤の匂い、継続。

書き終えると、風もないのに、台の上の黒い粉がわずかに動いた。三本の細い筋になり、台の中央からこちらへ伸びている。

北沢の視線が、私の手元へ落ちた。

「それ以上は書くな」

「これ以上は、まだ何も分かりません」

「分からないまま、戻れ」

「あなたは?」

「俺も戻る」

「真柴家まで?」

「家の前までだ」

「中には入らない」

「入れない」

「なぜですか」

北沢は祠を見た。

「火の前に立てるかどうかを、俺はもう試された」

「結果は?」

「逃げた」

「それでも生きている」

「生きているから、逃げたことが消えるわけじゃない」

私は手帳を閉じた。

「私は、逃げるかどうかをまだ決めていません」

「決めなくていい」

「決めないまま、家へ戻るんですか」

「火の前に立てば、手が決める」

「私は、自分で決めます」

北沢は、ほんの少しだけ頷いた。

帰り道、雨がまた降り始めた。細い雨だった。杉の葉に触れても音を立てず、濡れた土へ吸い込まれていく。私たちは黙って歩いた。北沢の足音が前を行き、私はその跡を追った。

旧・真柴家の屋根が見えたところで、北沢が立ち止まった。

軒下の梁に、朝にはなかった黒い染みが広がっている。

「今夜は、火を起こすな」

「毎朝、火が戻っているのに?」

「起こすな」

「火が何を守っているのか、確かめたい」

「確かめるな」

「私は、確かめないままにはできません」

「それでもだ」

北沢は戸口を見た。

「今夜、家があんたを家の者として扱うかどうかが決まる」

「家の者かどうかを決めるのは、血筋ですか」

「血だけじゃない」

「では、何ですか」

「火の前で、逃げずに立てるかどうかだ」

北沢はそれだけ言って、山道へ戻った。

雨の向こうで、彼の背中が杉の幹に重なり、やがて見えなくなる。

私は玄関の戸に手をかけた。

内側から掛け金が下りているはずだった。

けれど、戸は抵抗なく開いた。

土間の奥で、火箸が木の上を滑る音がした。

私は名前を呼ばなかった。  返事もしなかった。

ただ、濡れた手帳を胸へ抱え、暗い家の中へ戻った。

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