7話 梁裏の箱

家の中から、火箸が木の上を滑る音がした。

細く、乾いた音だった。

私は玄関の前で立ち止まり、鞄の中の手帳を握った。指先に力を込めたせいで、封筒の角が掌へ食い込んでいる。中に入っているのは、役場で受け取った複写紙だけだ。紙以外のものは入っていない。そう確認してから来たはずなのに、歩いているあいだじゅう、封筒は小さな炭を包んでいるように重かった。

もう一度、音がした。

火箸が、今度は少し長く滑った。

私は戸へ手をかけた。掛け金は外れている。出るとき、確かに下ろしたはずだった。

指先が冷えた。

戸を開ける。

土間は暗かった。雨の残りを含んだ空気が、家の内側から押し返してくる。囲炉裏には火がない。けれど灰の中央に、三本の細い筋が浮かんでいた。昨夜、手帳の余白へ勝手に引かれていた線と同じ長さだった。

火箸は、炉の向こう側に置かれていた。

私から最も遠い位置。誰かが座る場所に向けるように、先端が斜めに揃えられている。

私は玄関の戸を閉め、掛け金には触れずに土間へ入った。

雨上がりの家は、音をよく通す。屋根のどこかから落ちる雫、壁板の内側を流れる水、杉の枝が擦れる音。それらの奥に、木がゆっくり乾いていくときの軋みがある。家が目を覚ますときの音に似ていた。

囲炉裏のそばへ膝をつき、灰に指を近づける。

触れる前に、煤の匂いが濃くなった。

梁の上から落ちてくるような、湿った黒い匂いだった。鼻の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。私は親指の腹を爪で押さえた。痛みを確かめながら、天井を見上げる。

梁の数を数えた。

一、二、三、四。

その奥に、横木と板の継ぎ目がある。前に見た白いものは、そこへ隠れていた。

私は鞄から懐中電灯を取り出した。光を梁裏へ向けると、細かな埃が落ちてくる。白いものは布ではなかった。薄い板の端が、周囲よりわずかに明るく見えていた。

踏み台を持ってくる前に、私は家の中を見回した。

玄関。裏口。囲炉裏。座敷。

四つ。

初めて入ったときと同じ数だった。けれど、いまは四つの位置が、誰かに見られている場所のように思えた。

私は座敷の隅から踏み台を運び、囲炉裏の脇へ置いた。木の脚が土間に触れ、小さく鳴る。その音に応えるように、灰の奥で炭が一つだけ割れた。

私は動きを止めた。

赤い光はない。

だが、炭の割れ目から白い粉がわずかにこぼれた。乾いた粉が灰の上へ落ち、三本の筋の一つを途切れさせる。

「そこを乱すな」

誰かにそう言われた気がした。

声ではなかった。古い家の中に残った手順が、私の記憶へ直接触れたような感覚だった。

私は踏み台へ乗った。

梁は手を伸ばせば届く高さにある。板の継ぎ目へ指をかけると、木の表面に細かな凹凸があった。釘で固定された板ではない。何度も外され、戻された跡がある。爪の先に黒い粉が入り込んだ。

板を少し持ち上げる。

閉じ込められていた空気が、頬へ落ちた。

冷たい湿気の中に、古い炭と乾いた布の匂いが混じっている。何年も誰にも触れられなかった場所の匂いではない。むしろ、触れる者が来ることを待っていたような、妙に整った匂いだった。

板の奥に、小さな木箱があった。

煤で黒くなった布が箱全体を包んでいる。麻紐は硬く乾いていたが、結び目には一度ほどかれた痕がなかった。結び目の端は二本とも同じ長さで揃えられている。

私は箱を両手で取り出した。

受け取った瞬間、身体が先に動いた。

一度だけ息を止める。

箱を置く場所を探す。

囲炉裏の右側、炉縁から手のひら二枚分離れたところに置く。

そこまでして、私は自分の手を見た。

真柴家の作法だった。

そう断定するには、まだ早い。だが、北沢が語った手順と一致していた。火箸を右へ置き、灰を三筋ならす。何かを仕舞う前に息を止める。私はそれを知らないはずだった。

木箱の底が、土間に触れた。

中で何かが擦れた。

私は麻紐をほどいた。結び目は固かったが、力を込める必要はなかった。指が結び目の裏側を探り、締めつけの弱い箇所を見つけていた。まるで以前にも、同じ結び方をほどいたことがあるように。

蓋を開ける。

最初に見えたのは、薄い布だった。次に、黒ずんだ小さな木札。札の表面には文字がない。裏側に、三本の線が刻まれている。

私は息を吸った。

祖母の裁縫箱に入っていた木札と同じだった。

同じだと考えた直後、指先が震えた。私は定規を取り出し、線の長さを測ろうとした。だが、目盛りを合わせる前に、手が止まった。

測れば、物証になる。

物証になれば、祖母の名と真柴家の空白がつながる。

つながれば、もう「似ているだけ」とは言えなくなる。

私は木札を布の上へ戻した。

箱の中には、ほかに日記帳、焼けた写真、炭の欠片が一つ収められていた。どれも乱雑に放り込まれてはいない。日記の下に写真、その下に木札。炭は箱の隅ではなく、布の折り目に包まれている。

物を収めた人間の順番が、そこに残っていた。

私は日記帳を手に取った。表紙は煤で汚れ、角が丸くなっている。厚みは薄い。何年分も書かれたものではない。必要な日だけ、必要なことだけを書いた帳面だった。

最初の頁には、日付が並んでいた。

火納め。

その言葉の横に、炭俵の数と、囲炉裏に残す炭の数が記されている。数量は毎年違う。村の人数が減るにつれて、俵の数も少なくなっていた。

最後の数年だけ、記述が乱れている。

家族四人。

家族三人。

家族二人。

その次の頁には、日付だけがあり、名前がなかった。

私は頁をめくった。

灰、三筋。

火箸、右。

湯、四つ。

言葉はそれだけだった。

家族の人数より多い湯呑みを用意した、という意味だろうか。あるいは、家にいない誰かの分まで湯を沸かしたのか。私は囲炉裏の周囲を見た。棚には古い湯呑みが四つ残っている。ひとつは欠け、ひとつは煤で黒く、二つはほとんど使われていない。

それでも、置き方だけは揃っていた。

次の頁に、短い文章があった。

人が減っても、火を減らさない。

その下に、さらに一行。

火があるかぎり、家は家である。

私は頁から目を離せなかった。

家は、人間だけで出来ていない。

最初の日に北沢が言った言葉が、別の形で残っていた。あの男が自分の考えとして語ったのか、村の誰かから受け取ったのかは分からない。けれど、この家の中では、言葉よりも先に手順が残されていた。

火箸の角度。

灰の三本の筋。

誰もいない食卓に置かれた湯呑み。

それらは、死者を忘れないための記号ではなかった。忘れないように、毎朝、家を家として扱い続けるための行為だった。

けれど、私はそこで一つの不自然さに気づいた。

日記には、火を消す手順がない。

火を起こす方法も、薪の量も、炭の選び方も書かれている。だが、火を終わらせる方法だけがない。火納めの日でさえ、消すのではなく、外へ戻すと書かれている。

私は頁の端を指でなぞった。

そこに小さな黒い染みがある。文字ではない。煤が紙へ染み込んだものだ。染みの下に、消された行があった。

紙を斜めに傾け、懐中電灯を当てる。

削られている。

爪か刃物の先で、文字の表面を薄く削った跡だった。

私は箱の中から焼けた写真を取り出した。

写真には、家の前に並ぶ人影が写っている。顔の部分だけが煙か炎で曇っている。中央に立つ女の背筋がまっすぐで、手には何か細いものを持っていた。火箸に見えるが、画面の端が焼けていて断定できない。

その女の隣に、小さな子どもがいる。

子どもは顔をこちらへ向けていない。視線は囲炉裏のある家の中へ向いているようだった。

写真の裏に、墨で一行だけ書かれていた。

帰る者のために、朝火を残す。

私はその文字を見たまま、長いあいだ動けなかった。

帰る者。

真柴一家は、逃げたのではないのかもしれない。死んだのでもないのかもしれない。火納めによって、家族の一部を外へ出し、別の場所へ戻した。あるいは、誰かを村の外へ逃がすために、家そのものを残した。

その誰かが、祖母だった可能性がある。

私はすぐにその考えを打ち消そうとした。戸籍の空白。旧姓の一致。筆跡の癖。木札の三本線。どれも単独では証拠にならない。組み合わせれば仮説にはなるが、仮説は事実ではない。

それでも、身体はもう知っていた。

私は箱の底に手を入れ、炭の欠片をつまみ上げた。

熱はない。

なのに、脈の内側がじわりと温かくなる。指先から腕へ、腕から胸へ、古い熱が戻ってくるようだった。

その瞬間、背後で床板が鳴った。

私は振り返った。

土間には誰もいない。

踏み台の影が、雨上がりの薄い光の中で長く伸びている。玄関の戸は閉じている。裏口も閉じている。灰の筋は、私が触れていないのに一本だけ増えていた。

三本だった筋が、四本になっている。

私は息を止めた。

箱の中の日記が、ひとりでに開いた。

頁は最後の記述のところで止まっていた。

そこには、掠れた字でこう書かれていた。

次の者が来たら、名を問うな。

火の前に立てるかだけを見よ。

私は文字を読み終えた。

囲炉裏の奥で、何かが小さく弾けた。

炭の欠片を握ったまま、私は立ち上がれなかった。日記の文面が、真柴イネの遺した記録なのか、それとも今この瞬間に私へ向けられたものなのか、判断できない。

学者なら、出典と筆跡を確認し、紙質と年代を測定し、仮説と事実を分けるべきだった。

私はそう考えた。

考えたはずだった。

けれど、私の右手は、すでに箱の蓋へ伸びていた。木札を日記の上へ戻し、写真を布で包み、炭を最後に中央へ置く。箱の中の順序を崩さないよう、最初に見たときと同じ形へ戻していく。

ものを仕舞う前に、一度だけ息を止める。

私は、その作法を知っていた。

箱を梁裏へ戻すことはできなかった。今夜、そこへ置き直せば、何かを隠す側へ回る気がした。だから私は、日記と木札と写真を手帳の横へ並べた。炭の欠片だけは、掌の中に残した。

囲炉裏へ目を向ける。

火はない。

けれど灰の奥で、赤いものがゆっくり明滅していた。

私は火箸を取った。

先端を揃え、炉縁の右側へ置く。

それから、祖母の名を口にしようとした。

声になる前に、煤の匂いが濃くなった。

梁の上から、乾いた咳が聞こえた。

私は名前を呼ばなかった。

代わりに、手帳を開き、真柴イネの日記の最後の頁を写した。線が震えないよう、木製の定規を紙の端へ当てる。文字を一字ずつ移していく。

記録する。

だが、持ち帰るだけではない。

ここに残ったものが、誰かの手から誰かの手へ渡ったことまで書く。

それが、今の私にできる唯一の距離の取り方だった。

書き終えたとき、囲炉裏の赤みが一度だけ強くなった。

灰の表面に、三本の筋が浮かぶ。

その中央に、見覚えのない小さな文字が現れていた。

私の祖母の名だった。

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