6話 台帳の抜け

役場へ下りる道は、朝から降り続く細い雨で、山そのものがゆっくり溶けているように見えた。

ワイパーがフロントガラスの水を払うたび、杉の幹と白い霧が交互に現れる。沢筋から離れているのに、水の音が車内まで追いついてきた。道路脇の斜面を流れ落ちる水が、泥と腐葉土を細く運んでいる。その流れの中に、炭の粉に似た黒い粒が混じっていた。

私は信号待ちのあいだ、ハンドルから手を離し、指先を見た。

黒い粉は付いていない。

それでも、爪の際に残っている気がした。何度洗っても取れない煤の感触が、皮膚の内側へ入り込んでいる。

昨夜、北沢に言われたことが頭から離れなかった。

火は、家の者がいなくなっても残る。

それが伝承なのか、比喩なのか、彼自身の記憶なのか、私はまだ区別できていない。区別できないものをそのまま抱えることは、私にとって苦手な作業だった。観察には境界が必要だ。現象と解釈、証言と推測、記録と記憶。その線を引けなくなれば、私は研究者として立っていられない。

だから役場へ向かった。

紙なら、紙の上で確かめられる。

美咲は庁舎の正面玄関ではなく、裏手の通用口で待っていた。濡れたコンクリートの上に立ち、片手に薄い手袋を持っている。傘は差していなかった。髪の表面に細かな水滴が付いていたが、服の襟も袖口も乱れていない。

「早いですね」

「閉架を使える時間が限られています」

「休日でも?」

「休日だからです。人が少ないので」

美咲は返事をする前に、一拍置いた。

「それに、見つけたものを見つけたままにしておくと、明日には別の場所へ移されているかもしれません」

「誰かが動かすんですか」

「人は、書類を動かしたことを忘れます。忘れた書類は、誰かにとって都合のいい場所へ移ります。故意かどうかは、あまり重要ではありません」

通用口のドアが閉まると、外の雨音が一段遠くなった。代わりに、床用洗剤と古紙の匂いが鼻へ入ってくる。美咲は廊下を歩きながら、壁際の掲示物の角が浮いているのを見つけ、指で押さえた。何気ない動作だったが、紙の乱れを放置しない性格がそこに出ていた。

閉架書庫の鍵を開ける。

中は昼間より冷えていた。蛍光灯を点けても、棚の奥までは明るくならない。背表紙の並んだ書架が、濡れた杉林のように奥へ続いている。私は入口で立ち止まり、出入口と窓を確認した。窓は一つ、鉄扉が一つ。火元はない。

「そこまで確認するんですね」

美咲が言った。

「癖です」

「火元がない場所でも?」

「火元がない場所ほど、確認します」

美咲は何も言わず、書架から一冊の台帳を引き抜いた。埃はほとんど落ちなかった。誰かが最近、触れている。

「真柴家の改製原戸籍です。前回見せたものより古い」

机の上に置かれた台帳は、表紙の布が湿気で波打っていた。美咲は薄い手袋をはめ、ページを傷めないように端をつまむ。角を揃え、台帳の下に白い紙を敷く。その手つきは、何かを扱うというより、何かを寝かせる手つきに近かった。

「前回の記録では、真柴家の女性系譜が途中から空白になっていました」

「はい」

「今回は、空白の前後を見ます。書かれていない部分そのものより、周囲の書かれ方に痕跡が残ります」

美咲はページを数えた。

「記録は、消されたものを直接示しません。消す人間は、消した箇所を見えなくするために周囲を整える。行間を詰める、継ぎ紙を貼る、別の名前を寄せる。けれど、整え方には癖が出ます」

「火箸と同じですね」

口にしてから、私はその比較を後悔した。

美咲は眼鏡の奥から私を見た。

「そうですね。置き直した手は、置き直す前より多くを残します」

台帳の中ほどに、数行だけ紙の色が違う部分があった。古い紙の間に、そこだけわずかに白い紙が挟まっている。紙質も、墨の滲み方も異なっていた。継ぎ紙の端はきれいに切られているが、右下だけがほんの少し浮いている。

美咲は赤鉛筆で、その角を囲んだ。

「この下に、別の記載があったはずです」

「剥がして確認できますか」

「できません。公文書ですから」

「では、どうやって」

「剥がさずに読むんです」

彼女は台帳を閉じ、隣の書架から別の帳簿を持ってきた。住民異動の控え、旧村の家族台帳、婚姻届の索引。机の上に並べる順番は、日付ではなく家の移動に沿っていた。

「真柴家の女性が一人、別の家へ移った記録があります。ただし、名前が一致しない」

「一致しない?」

「真柴家の台帳では空白。移った先の台帳では、桑原姓の女性として記録されている」

私は椅子に座ったまま、手帳の角を親指で押さえた。

「桑原姓なら、私の家と同じです」

「そうです」

「その女性の名前は」

美咲はすぐに答えなかった。書類の端を揃え、それから細い赤鉛筆の先を一文字へ置いた。

「イネ」

声が、書庫の冷気に吸われた。

真柴イネ。

日記や写真の中でしか知らない名前だった。真柴家の最後の当主。火を絶やさないことを家の務めとしていた女。けれど台帳にあるイネは、私が知っているイネと同一人物なのか、それとも同じ名を持つ別の女性なのか、まだ判断できなかった。

「真柴イネと、桑原家へ移ったイネが同一人物だと?」

「まだ確定していません」

「生年月日は」

「記録上、二年ずれています」

「では別人です」

「戸籍の改製時期と、届出の時期がずれている可能性があります。記載ミスも考えられる」

「二年のずれを、可能性で処理するんですか」

「処理していません。保留しています」

美咲は赤鉛筆を置いた。

「桑原さんは、結論が欲しいときほど、証拠の不足を嫌いますね」

「当然です」

「当然という言葉で、怖さを隠していませんか」

私は美咲の顔を見た。

彼女の表情は変わっていない。けれど、指先が紙の端で止まっていた。

「怖いかどうかは、まだ判断していません」

「その言い方も、前に聞きました」

「何を」

「北沢さんに対して、同じ顔をしていました」

美咲は台帳へ視線を落とした。

「怖いものを怖いと認める必要はありません。ただ、怖くないふりをすると、見えたものまで別の名前に変わります」

「私は、見えたものを記録しています」

「記録には、書いた人間の位置が残ります」

「それは、あなたの信条ですか」

「仕事上の経験です」

美咲は別の複写紙を取り出した。紙の上端が破れ、端に古い朱印の一部だけが残っている。

「新人の頃、住民票の記載漏れを一件処理しました。小さな誤りでした。姓の漢字が一字違っていただけです。訂正すれば済むと思って、手順どおりに流しました」

「何か問題が?」

「その人は、別の家族として扱われました。保険も、学校の記録も、税の通知も、全部少しずつずれた。誰か一人が間違えたのではなく、みんなが正しい手順で間違いを引き継いだ」

美咲の声は淡々としていた。だからこそ、その話が彼女の内側でまだ終わっていないことが分かった。

「書類は、人を守るためにあります。ですが、一度空白ができると、人はその空白に合わせて生きることになる。家族が名前を失い、別の名前で呼ばれ、いつか本当の名前を知る人がいなくなる。私はそれを仕事の不備で片づけたくない」

「だから、真柴家の空白を追っている」

「空白が、何度見ても同じ場所にあるからです」

美咲は、継ぎ紙の端を指でなぞった。

「ここには誰かがいます。名前の形ではなく、消され方の形で」

「真柴家から桑原家へ移った女性が、私の祖母だという証拠は」

「ありません」

「私の祖母の戸籍を、もう一度見せてください」

美咲は一拍置いた。

「見せます。ただし、見せるだけです。結びつけるのは桑原さん自身になります」

祖母の旧姓が記された複写を、彼女は机の中央へ置いた。

私は紙面へ顔を近づけた。文字は薄い。墨の一部が滲み、画数の多い字ほど輪郭が崩れている。それでも、名前の最後の一画だけは妙に強く残っていた。筆を置く前に、書き手が一度だけ力を込めた跡だった。

その筆圧を見た瞬間、別のものが重なった。

祖母の裁縫箱に入っていた、小さな木札。

表には何も書かれていなかった。裏に、黒い線が三本だけ刻まれていた。私は子どもの頃、それを傷だと思っていた。祖母は訊ねても答えず、木札を布の底へ戻した。あの三本の線は、灰ならしの筋と同じ長さだった。

私は息を浅くした。

「この字は、祖母のものです」

「筆跡が似ていると?」

「似ているというより、筆を置く前に一度だけ強くなる癖が同じです」

「桑原さんのお祖母さまの字を、どのくらい見ていますか」

「買い物のメモ程度です」

「それでも分かる」

「分かります。私は、文字の癖を記録してきたので」

「では、分かることと、信じることを分けてください」

その言い方が、妙に腹立たしかった。

「信じていません」

「信じたくない、ではなく?」

「私は、証拠を見ているだけです」

「証拠を見ている人間の手が震えることもあります」

私は右手を握った。手帳の角が掌に食い込む。

「私の祖母が真柴家とつながっているなら、なぜ誰も話さなかったんですか」

「話せなかったのかもしれません」

「同じことです」

「違います。話さないのは選択ですが、話せないのは状態です」

「では、誰が話せない状態にしたんですか」

美咲は答えなかった。

書庫の奥で、空調の音が一度だけ途切れた。静けさが急に厚くなり、古紙の湿った匂いが濃くなる。私は台帳の上に落ちた自分の影を見た。影の端が、紙の継ぎ目で途切れている。

「真柴家の女性の系譜は、意図的に切られています」

美咲が言った。

「家から出た女性を記録から外すことで、血筋の移動を隠した。そう考えると、桑原家の記録に名前が現れる時期と、真柴家の空白が生じる時期が重なります」

「誰が隠したんですか」

「真柴家の人間か、村の誰かか、役場の前身の人間か。それは分かりません」

「分からないことばかりですね」

「記録というのは、分からないことを分からないまま残す仕事でもあります」

「それでは、私が真柴家の血を引いているかどうかも、分からないままです」

「今は」

美咲はその二文字を、紙の上へ置くように言った。

「今は、分かりません。ただ、つながっていないと言い切る根拠もありません」

「あなたは、私に何をしてほしいんですか」

「何も」

「何も?」

「私は資料を見せています。桑原さんが何を選ぶかは、私の仕事ではありません」

「選ぶ?」

「調べ続けるか、ここで止めるか。家の名前を自分の問題として扱うか、研究対象に戻すか。記録するか、忘れるか」

「忘れることを選べると思いますか」

「選べない人もいます」

「あなたは?」

美咲は初めて、私の目を正面から見た。

「私は、見つけた空白を元の場所へ戻したいだけです」

「空白を埋めるのではなく?」

「名前を勝手に入れることはできません。けれど、誰かが消したという事実なら戻せる」

彼女の声は乾いていた。だが、その乾きの下に、長く紙を見つめ続けてきた人間の疲れがあった。

私は複写紙をスマートフォンで撮影した。シャッター音が小さく鳴る。画面に祖母の名が映った。白い紙の上の黒い文字は、現実よりも鮮明だった。

撮影を終えたとき、書庫の奥で紙が一枚落ちた。

美咲が振り向く。

「風ですか」

「窓は閉まっています」

「棚の傾きでしょう」

彼女は立ち上がり、書架の奥へ歩いた。私はその背中を追った。落ちた紙は床に伏せていた。拾い上げると、古い地図の裏面だった。真柴集落の家々が鉛筆で記されている。旧・真柴家の位置には、他の家より濃い丸印がついていた。

その丸印の脇に、小さな字がある。

読めない。

美咲が紙を裏返した。

「火納めの日付です」

「地図の裏に?」

「誰かが、ここへ書き残した」

紙の隅には、年と月日だけが並んでいた。毎年同じ日。最後の年だけ、日付の横に黒い線が三本引かれている。

私は線へ指を近づけた。

触れる前に、煤の匂いがした。

書庫の中には火元がない。それなのに、濡れた梁のような匂いが、棚の間からゆっくり流れてきた。

美咲も気づいたらしい。彼女の指が紙の端で止まった。

「ここは、火の匂いがする場所ではありません」

「そうですね」

「だから、記録しておきます」

美咲は無地の手帳を開き、日付と時刻を書いた。文字はいつも通り整っている。だが最後の一画だけ、わずかに筆圧が強かった。

私は自分の黒い手帳を開いた。

役場閉架、湿度。台帳の継ぎ紙。祖母の名。地図裏の火納めの日付。煤の匂い。

そこまで書いたところで、鉛筆の先が紙面から滑った。

余白に、三本の線が引かれていた。

私が書いた覚えはない。

美咲はそれを見ていた。何も言わず、線の長さを自分の赤鉛筆で測った。一本目と二本目の間隔、二本目と三本目の間隔。測り終えると、彼女は鉛筆を置いた。

「灰の筋と同じです」

「偶然です」

「そう記録しますか」

「……まだ、判断できません」

美咲は頷いた。

「その言い方でいいと思います」

書庫を出る頃には、雨が少し強くなっていた。私は複写と地図の写真を手帳へ挟み、鞄の中で動かないように木製の定規で押さえた。紙を守るためだった。けれど、祖母の名を押さえつけているようにも感じた。

通用口の前で、美咲が呼び止めた。

「桑原さん」

「はい」

「今夜、真柴家へ戻るんですか」

「戻ります」

「北沢さんから、何か言われましたか」

「外へ出るなと」

「守りますか」

「調査対象を目の前にして、家に閉じこもれという意味なら、守れません」

「そういう答えをすると思っていました」

美咲は眼鏡の位置を直した。

「では、せめて記録を二か所に分けてください」

「二か所?」

「手帳と、別の場所へ。もし手帳が濡れたり、失くなったりしても、片方が残るように」

「縁起でもないですね」

「記録係ですから。縁起より保存性を優先します」

乾いた言い方だったが、彼女の手には小さな封筒があった。中には、祖母の名が載った複写の控えが入っている。

「これは?」

「予備です。桑原さんが持っていてください」

「あなたの手元には」

「同じものを残します」

「なぜ、そこまでするんですか」

美咲は一拍置いた。

「紙は、燃えます」

その言葉のあと、通用口の向こうから、かすかな煤の匂いが流れてきた。

「でも、燃えた紙の端にも、文字の跡は残ります」

彼女は封筒を私の手に渡した。

受け取った瞬間、紙の中に小さな炭が入っているような重みを感じた。もちろん、封筒は薄く、何も入っていない。そう確かめるために触れた指先が、わずかに黒ずんでいた。

庁舎を出ると、山の方角は雨雲に沈んでいた。

車へ向かう途中、私は一度だけ振り返った。二階の閉架の窓に、人影が立っているように見えた。白い蛍光灯を背にしているせいで、顔は分からない。美咲かと思ったが、窓の位置は書庫のものより一つ奥だった。

瞬きをすると、窓には誰もいなかった。

私は車へ乗り込み、エンジンをかけた。

真柴家へ戻る道で、祖母の名前を何度も思い出した。呼び慣れた名前なのに、今日は知らない人の名のようだった。あるいは、私が知らないまま呼んできた名前だった。

山道へ入ると、雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーが動くたび、杉の幹の間に旧・真柴家の屋根が見え隠れする。

私は囲炉裏のことを考えた。

毎朝、誰もいない家に火が入る。

火箸は少しずつ内側へ寄り、灰は整えられ、炭は置き直される。家は、誰かが帰るための場所としてではなく、誰かを帰すための場所として、形を保っているのかもしれない。

そう考えたとき、車内に煤の匂いが満ちた。

暖房は入れていない。窓も閉じている。

私は運転を続けた。

役場で撮った写真を確認するため、赤信号でスマートフォンを取り出した。祖母の名が映っている。名前の右端に、黒い点が一つ付いていた。画面の汚れかと思って指で拭う。

黒い点は消えなかった。

その下に、線が三本伸びていた。

私はスマートフォンを伏せた。

雨の向こうで、沢の音が近づいてくる。

旧・真柴家へ戻る頃には、日が落ちていた。玄関の戸は閉じている。掛け金は、外から見た限りでは下りていない。

私は車を降り、鞄から手帳を取り出した。

中に挟んだ複写紙が、かすかに温かかった。

家の中から、火箸が木の上を滑る音がした。

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