第5話 夜の供え火

翌朝、私は囲炉裏の前にしゃがみ、昨夜の炭片を撮影した。
三つに割れた炭は、今朝も同じ位置にあった。大きいものが奥、小さいものが左右。割れ口は向かい合い、灰の筋はその外側を囲むように伸びている。火はない。温度も、赤外線計の表示では室温とほとんど変わらなかった。
それでも煤の匂いだけが残っていた。
乾いた炭の匂いではない。雨を含んだ梁の内側から、長い時間をかけて染み出してくるような、湿った黒さのある匂いだった。鼻の奥へ入ると、祖母の家の土間が一瞬だけ近づいた。鍋の蓋、濡れた薪、火の前で低くなる祖母の声。
私は記憶を追わず、ノートへ湿度と匂いを書いた。
追えば逃げる。記憶というものは、そういう動きをする。
午前の終わりに、北沢が来た。
彼は玄関の戸を叩かなかった。外の軒下に立ち、私が気づくまで山道の方を見ていた。雨はまだ降っていないが、杉の枝から細かな雫が落ちている。北沢の手袋は乾いていた。山道の点検をしてきたと言うには、靴の泥が少なすぎた。
「村外れへ行く」
挨拶の代わりに、彼はそう言った。
「火鎮め様ですか」
「道の確認だ」
「道の確認に、私も必要ですか」
「一人で行かせると、戻り道を間違える」
「私が山道を間違えるほど、複雑な場所ですか」
「道は複雑じゃない。戻るときに、同じ道に見えなくなる」
北沢はそう言って、私の返事を待たずに歩き出した。
私は手帳と懐中電灯をポケットへ入れ、玄関を施錠した。囲炉裏の火は起こしていない。炭片はそのままにしてある。誰かが触れるなら、触れたあとの変化を見たかった。
家を出ると、山の空気は湿っていた。
雨の前の森では、音が遠くなる。沢の流れも、鳥の声も、樹上から落ちる雫の音も、厚い布の向こうで鳴っているようだった。北沢は斜面の高い側を歩き、私はその後ろをついていく。彼は歩幅を変えない。ぬかるみに差しかかると、足を置く場所を一瞬だけ見て、そこに靴底を沈める。土の固い部分を知っているというより、崩れる場所を身体で避けている歩き方だった。
「火鎮め様という名前は、いつから使われていたんですか」
私が尋ねると、北沢はすぐに答えなかった。前方の倒木をまたぎ、二歩進んでから、唾を飲み込んだ。
「古い」
「どのくらい」
「俺が生まれる前から古い」
「それでは年代が分かりません」
「年代を調べて、何になる」
「祠の成立時期が分かれば、真柴家との関係を考えられます」
「関係を考えるために、名前を並べるのか」
「名前がなければ、記録の上では存在しません」
「名前があれば、存在したことになるのか」
「少なくとも、誰かがそう呼んだ証拠にはなります」
北沢は立ち止まった。木の根が道を横切り、雨に濡れた表面を黒く光らせている。彼はそこへ足を置く前に、私の方を振り返った。
「証拠ってのは、残ったものを拾う言葉だ。山では、残らなかったものの方が多い。家が消え、人が出て、道が崩れる。何も残らん。それでも、そこにあったことまで無くなるわけじゃない」
「無くならないなら、なぜ記録する必要があるんですか」
「忘れるからだ」
「あなたは、忘れたくないんですか」
北沢は視線を斜面へ逃がした。
「忘れた方が歩きやすい道もある」
それだけ言い、再び歩き出した。
道は次第に細くなった。杉の根が地表へ露出し、濡れた苔が靴の側面へ触れる。斜面の下から、沢の音が低く続いている。道の脇に古い石が並び始めた。墓標ではない。人の背丈より低く、表面に何かを置くための平らな面がある。
その先に、祠があった。
屋根は黒ずみ、板壁の隙間から草が伸びている。けれど正面の石段だけは、周囲の土と違って崩れていなかった。誰かが掃いているのかもしれない。段の中央に落ちた杉葉が、左右へ分けられている。
私は立ち止まり、石段を数えた。
七段。
数え終わると、祠の前に細い木の台が見えた。炭俵を置くためのものだろう。台の上には何もない。苔も薄く、木肌の中央だけが擦れていた。何度も同じ位置へ重いものを置き、持ち上げた跡だった。
私は手袋をはめ、台の表面へ指を滑らせた。
黒い粉が付いた。
炭の粉だ。
粒は細かいが、土の黒さとは違う。指先で潰すと、乾いたまま皮膚の皺へ入り込んだ。
「古いものです」
私が言うと、北沢は祠の屋根を見上げた。
「古い」
「でも、一度だけではありません。台の中央だけ摩耗が深い。俵を置いた位置が毎年ほとんど変わっていない」
「置く人間が同じなら、同じ場所になる」
「真柴家が置いていたんですか」
「そうだ」
今度は答えが早かった。
「誰が?」
「家の者だ」
「当主ですか。イネさんですか」
北沢は黙った。
私は台の端に残る麻縄の切れ端を見つけた。黒ずんだ繊維が木の割れ目に挟まっている。結び目を解いたあと、濡れて固まったものらしい。火箸を扱うときと同じように、縄にも結ぶ人間の癖が出る。締める方向、余った端の折り方、最後に残す長さ。
麻縄の端は、二本とも同じ長さに切られていた。
「炭俵を置いて、何をしていたんですか」
「供えた」
「それは見れば分かります。何を供えたのかではなく、なぜ炭を供えたのかを聞いています」
北沢は手袋の指先を引いた。糸が一箇所ほつれ、そこを親指で押さえている。
「昔は、火を家から出す日があった」
「火を出す?」
「火を炭にして、俵へ詰める。囲炉裏の火を、いったん家の外へ戻す」
「戻すというのは、火がもともとここにあったという意味ですか」
「火は山から来る。薪も炭も、山から取る。家で使った火を、家だけのものにしないために、外へ返す」
「それが火納めですか」
「名前を知っているのか」
「役場の祭礼費に記録がありました。炭俵という言葉も、同じ日付の横に残っている」
北沢は祠の正面へ顔を向けた。札の文字は風雨に削られ、読めるのは「火」と「鎮」の一部だけだった。
「火納めは、消す儀礼じゃない」
「では、何をする儀礼ですか」
「火を家に留めるために、一度だけ外へ出す。火は使えば減る。減った分を足せばいいと思うだろう。でも、足すだけでは火が家の中で増えすぎる。そうなると、人が火を使うのではなく、火に家を使われる」
「それは比喩ですか。それとも、村では本当にそう考えていたんですか」
「考えていたんじゃない。そう扱っていた」
北沢の声は低かった。
「囲炉裏の火を落とし、炭を選ぶ。割れたものではなく、芯の残ったものを俵に詰める。家の者は、火箸を右に置いて、灰を三筋ならす。それから炭俵を持って、ここへ来る。祠の前で俵を開け、火の匂いを山へ返す。戻るとき、家には新しい炭を一つだけ残す」
「一つだけ?」
「家を空にしないためだ」
「つまり、火を完全には消さない」
「消したら、家が終わる」
私は台の中央へ視線を落とした。
そこに、今朝の囲炉裏で見た三つの炭片が重なった。割れたものを左右へ置き、中央を空ける灰の筋。火がないのに、火を扱った形だけが残っていた。
「真柴家では、今もそれを続けているんですか」
北沢は返事をしなかった。
「毎朝、囲炉裏が整えられています。炭の位置が変わる。灰がならされる。火箸が少しずつ内側へ寄る。誰かが、家を終わらせないようにしている」
「家が終わるかどうかを決めるのは、人じゃない」
「では、何ですか」
「残された火だ」
「火に意思があると?」
「意思があるかどうかは知らん。ただ、家の者がいなくなっても、火を扱った手順は残る。残った手順が誰かの手を取ることがある」
「誰かというのは」
北沢は私を見た。
その視線が、初めて斜面でも祠でもなく、私の手元へ向いた。
「今朝、炭を並べたのはあんたか」
「触れていません」
「触れたかどうかを聞いているんじゃない」
私は答えなかった。
北沢は一歩、祠へ近づいた。屋根から落ちた雫が、石の上で小さく弾ける。
「真柴の家では、火の前で余計なことを言わん。火が何を聞いているか分からないからじゃない。言葉にしたものは、家の中に置かれるからだ。怒りも、恨みも、死んだ者の名前も、口に出したら火が覚える。だから、必要なことは手でやる。灰をならす。炭を選ぶ。俵を結ぶ。手順にすれば、個人の気持ちを越えて続く」
「それは、守るための作法ですか」
「守るためでもある」
「でも、縛るためでもある」
北沢の指が止まった。
「家族がいなくなっても、家を守れと言われる。死んだかどうかも分からない人のために、毎朝火を起こす。そこから離れた人間まで、手だけを覚えている。そんなものを継承と呼ぶなら、呪いと何が違うんですか」
自分の声が、思ったよりも強く響いた。
祠の屋根から落ちる水音が、そのあとを埋めた。
「呪いなら、捨てればいい」
北沢が言った。
「捨てたら、誰かが困る」
「誰が」
「分からん」
「分からないものを守っている」
「分からないから、守るしかないものもある」

「それは、守っているのではなく、怖くて手放せないだけではありませんか」
北沢は長く黙った。やがて、古い煙草を胸ポケットから取り出した。火をつけかけ、しかしライターを閉じた。煙草は濡れていないのに、彼は吸わなかった。
「俺の親父は、真柴家のことを話さなかった」
彼は祠を見たまま続けた。
「夜の供え火を見た翌朝、村の大人たちは真柴の家へ行った。俺は遠くから見ていた。家の戸は開いていた。なのに、誰も中へ入らなかった。親父も、他の大人も、土間の手前に立って、囲炉裏だけを見ていた。火はなかった。煙もなかった。けれど、全員が火のある場所を見る顔をしていた」
「何があったんですか」
「それは聞いていない」
「聞かなかった?」
「聞けなかった」
「子どもだったからですか」
「子どもだったから、ではない。大人になってからも聞けなかった。聞けば、答える人間が何かを差し出さなければならなくなる。真柴の家の話は、ただの昔話じゃない。聞いた者が次の聞き手になる」
「それで、私を連れてきた」
「連れてきたのは道までだ」
「祠まで案内したのは、あなたです」
「帰り道を間違えさせないためだ」
「私が何を見ても?」
「見たものを、勝手に持ち帰らせないためだ」
言葉の最後に、北沢の声がわずかに掠れた。
祠の奥から、乾いた咳が聞こえた。
私は顔を上げた。
石垣の向こう、杉の幹が並んでいる。人影はない。けれど、木々の間に白い布のようなものが見えた気がした。視線を向けると、それは霧に変わった。低い霧が斜面を這い、祠の裏側へゆっくり沈んでいく。
北沢は見なかった。
「今の音は」
「沢だ」
「咳のように聞こえました」
「沢は、いろんな音を出す」
「火鎮め様の老女が、ここにいたという話をしましたね」
北沢の肩がわずかにすくんだ。
「話したか」
「あなたが話しました」
「老女は、火を消す人じゃない」
「では、何をする人ですか」
「火を持つ者の手を見る」
「手を?」
「顔は見ない。顔は隠せる。言葉も隠せる。でも、火箸を持つ手は隠せない。炭を置くとき、灰をならすとき、何を家に残して、何を外へ返すか。手つきに出る」
私は自分の手を見た。
指先に、朝の炭の粉がまだ残っているように感じた。実際には触れていない。だが爪の際に黒い影があり、何度こすっても消えない気がした。
「その老女は、今もいるんですか」
「人としては、もういない」
「では、祠だけが残っている」
「祠も、いつまで残るか分からん」
「それでも、誰かが掃いている」
石段の中央に分けられた杉葉を見た。
北沢は答えなかった。
帰り道、最初の雨粒が落ちてきた。
雨は細く、杉の葉へ触れても音を立てない。濡れた土の匂いが立ち上がり、その底から煤の匂いが混じってくる。私は何度も振り返ったが、祠は木々の向こうへすぐに隠れた。見えなくなっても、台の中央に残った黒い粉だけが指先の感触として残っていた。
北沢は歩みを速めた。
「今夜は外へ出るな」
突然、そう言った。
「理由を聞かせてください」
「聞かなくていい」
「聞かなくていい理由では、私は従えません」
「従うかどうかを決めるのは、あんたじゃない」
北沢は足を止めた。雨が彼の肩と髪を濡らし、頬を伝った水が顎から落ちている。
「火納めの夜は、家の中と外の境目が薄くなる。祠へ出した火が戻ることがある。戻るとき、火は同じ道を通らない。人が戸から入るように、入ってくるとは限らん」
「それは、村の伝承ですか」
「伝承なら、覚えておけば済む」
「では、何ですか」
「見たことがある」
その一言だけで、北沢の顔から血の気が引いたように見えた。
「何を見たんです」
「今夜は、火を消しても、消えたと思うな」
「北沢さん」
「外へ出るな。名前を呼ばれても返事をするな。戸を叩かれても開けるな。囲炉裏の灰が動いても、手を入れるな」
「それは、あなた自身が経験したことですか」
「帰れ」
「答えてください」
「帰れと言っている」
怒鳴ってはいなかった。だから私は、その言葉の底にある切迫を聞き取った。
「私が家の中で何をしても、あなたは止められない」
「止めるために言っている」
「なら、火納めの意味を最初から話してください。誰が何を納め、何を持ち帰ったのか。真柴一家はその夜、どこへ行ったのか。私の祖母がその家とつながっている可能性まで出ているのに、知らないふりをしろと言うんですか」
北沢は目を閉じた。
雨が杉林を濡らしていく。山道の両側から水が細く流れ、私たちの靴の脇を通り過ぎて沢へ落ちていく。
「知らないふりをしろとは言っていない」
北沢はゆっくり目を開けた。
「知ったものを、すぐに自分のものにするなと言っている。真柴の火は、家の者が守ったものだ。外から来た人間が、記録という形にして持ち帰れば、別の火になる。あんたの中で燃え続けるかもしれん。そうなったら、もう調査地へ戻ることも、普通の家へ帰ることもできなくなる」
「脅しているんですか」
「脅しじゃない。俺が、そうなった人間を知っているだけだ」
「誰ですか」
「名前は言えない」
「また、名前を隠す」
「名前を言えば、その人間が戻ってくる」
北沢の口から出た言葉は、雨に濡れた枝のように重かった。
私は反論しようとしたが、できなかった。
背後の斜面から、かすかな煤の匂いが流れてきたからだ。
火はどこにも見えない。なのに、匂いだけが私たちの間を通り、山道の先へ消えていった。
旧・真柴家へ戻る頃には、雨脚が強くなっていた。
北沢は玄関前で立ち止まり、戸の上部を見た。軒下の梁に黒い染みが広がっている。昨日まではなかった染みだった。
「今夜は、火を起こすな」
彼が言った。
「毎朝、火が戻っているのに?」
「起こすな」
「火が何をしているのか確かめたい」
「確かめるな」
「私は、確かめないままにできません」
「それでもだ」
北沢は一歩下がった。
「今夜、家があんたを家の者として扱うかどうかが決まる」
私は戸口で彼を見た。
「家の者かどうかを決めるのは、血筋ですか」
「血だけじゃない」
「では、何ですか」
「火の前で、逃げずに立てるかどうかだ」
北沢はそれだけ言うと、山道へ戻っていった。
雨の向こうで、彼の背中が杉の幹に重なり、見えなくなる。私は玄関の戸を閉め、内側から掛け金を下ろした。
土間には、朝のままの炭片がある。
三つの割れ目が、暗がりの中で白く浮かんでいた。
私は囲炉裏へ近づかなかった。近づけば、また手が先に動く気がした。代わりに座敷へ戻り、手帳を開いた。
祠。炭俵。火納め。家から外へ出され、また戻る火。
北沢の言葉を書き写そうとして、私は鉛筆を止めた。
紙の端に、いつの間にか黒い粉が付いていた。
粉は三本の筋になっている。
灰ならしの跡と同じ長さだった。
外では雨が降り続いている。囲炉裏には火がない。戸は閉じ、裏口の掛け金も下りている。
それなのに、梁の上から煤の匂いが濃く落ちてきた。
私は顔を上げた。
暗い梁の向こうで、何かがゆっくり擦れる音がした。誰かが、重い炭俵を床へ下ろすときのような音だった。
私は返事をしなかった。
音は一度止まり、それから土間の方で、火箸が木の上を滑る音がした。
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