4話 炭の割れ方

朝、目を覚ますと、家の中に音がなかった。

雨は止んでいた。沢の流れも、屋根から落ちる雫も、まだ眠りの底にあるように遠い。私は寝袋の中で手を伸ばし、枕元の手帳を探った。紙の角を親指で押さえ、昨夜の記録が残っていることを確かめる。

火は、消した。

少なくとも、私の目の前では。

寝袋から出ると、足裏に畳の冷たさが染みた。土間へ降りる段差の手前で、私は一度立ち止まった。囲炉裏は視界の端にある。見ようと思えばすぐ見られる。けれど、確認する前に予測してしまうことを避けたかった。

予測は観察を汚す。

私はそう考え、玄関、裏口、窓、囲炉裏の順に目を動かした。

戸は閉じている。掛け金も昨夜のまま。裏口の細い隙間から朝の白い光が差し込んでいるが、床に新しい土は落ちていない。窓の障子にも触れた跡はない。

そして、囲炉裏。

昨夜、自分で平らにした灰の表面は、また整えられていた。

火の赤みはなかった。炎もない。熾火が残っているわけでもない。ただ、灰の中央に炭が三つ、等間隔に並んでいた。

私は膝をついた。

三つの炭は、昨夜までひとつだった。少なくとも、私が灰をかぶせる前には、長さ十センチほどの炭が一本、炉の奥寄りに横たわっていた。それを火箸で中央へ寄せ、燃え残りがないことを確かめた。写真にも残っている。

今朝は、その炭が三つに割れていた。

割れ目は新しい。表面の黒さに対して、内側だけが白く乾いている。炭の粉は湿気を吸っていない。炉の中は山の朝の湿度を抱えたままなのに、割れ口の粉だけが乾いていた。

私は手を触れず、まず写真を撮った。

そのあと、黒い手帳を開く。

午前六時十一分。灰表面、再整形。炭、一個から三分割。割れ口に白色粉末。湿度七十八パーセント。火気なし。煤の匂い、昨夜より強い。

最後の一行を書き、鉛筆を止めた。

炭が割れること自体は珍しくない。火の中で乾燥した木が冷えると、内部の繊維に沿って裂ける。灰をかぶせたあとに熱が移動し、時間をかけて割れることもある。

だが、三つの破片は、割れたあとに並べられていた。

大きいものを奥に、二つの小さいものを左右に置く。割れ目が互いに向かい合うように、白い粉の面だけが内側へ向いている。

偶然にしては、整いすぎている。

私はピンセットを取り出し、炭の周囲の灰を少しずつ採った。灰は昨夜より細かく、表面には灰ならしの筋が二本ある。昨日は三本だった。真ん中の一本を消し、左右から中央へ寄せた形だった。

誰かが、炭を割ってから灰を整えた。

そう考えたところで、床を見た。

足跡はない。泥の跡も、衣服から落ちた繊維もない。戸は閉じている。家の中には、私以外の人間が入った形跡がない。

それでも、炭は割れている。

私は火箸へ視線を移した。

昨夜、炉縁と平行に置いたはずの火箸が、半寸ほど右へ寄っていた。柄の先はそろっているが、先端だけが炉の中央へ向いている。乱雑に蹴られたのでも、灰の重みで滑ったのでもない。持ち上げられ、置き直された角度だった。

私は火箸の先を見た。

黒い煤が薄く付着している。炭に触れた痕だ。だが、煤の付き方は先端の片側に偏っていた。右手で持ち、手首を内側へ返したときに生じる付き方に見えた。

私は自分の右手を見た。

昨日から、同じ手順を繰り返している。

火箸を持つ。炭を中央へ寄せる。灰をかぶせる。火箸を炉縁へ戻す。その前に、指先で木の縁をなぞる。息を止める。

私はわざと、昨夜とは逆の手で火箸を持った。

左手で柄をつまみ、炭の破片のひとつへ近づける。腕の筋が不自然に張った。持ちにくい。火箸の重さが、手の中で決まった方向へ戻ろうとする。

右手に持ち替えた。

その瞬間、身体が先に動いた。

炭の大きい破片を奥へ押し、小さい二つを左右へ分ける。灰の中央を空け、破片の白い割れ口を向かい合わせる。

私は動きを止めた。

息をしていなかった。

火箸を置く前に、親指が炉縁へ触れた。木の表面は冷たい。けれど、指の腹には古い手触りが返ってきた。幼い頃の台所。祖母の背中。冬の朝の薄暗さ。何かをしてはいけないと言われた記憶はない。ただ、火の前では騒がず、手を急がせず、置いたものを乱さないことだけは知っていた。

その知識が、頭ではなく腕の内側に残っている。

「これは作法ではない」

私は声に出していた。

誰に向けた言葉かは分からない。

「作法なら、同じ条件で再現できる。誰が行っても同じ結果になる。これは、私の記憶に似た動作でしかない」

言い終えたあと、家の中が少し広くなった気がした。

誰もいないからではない。言葉を置いたことで、何かがこちらを聞いているような余白が生まれた。

私は手帳の余白に、炭の位置を図にした。三つの破片を丸で囲み、割れ口の向きを矢印で示す。さらに、火箸の角度を分度器で測った。昨夜より四度。昨日の朝より三度。少しずつ内側へ寄っている。

数字にすれば、異常はただの変化になる。

ただの変化なら、私は扱える。

午前九時を過ぎた頃、戸の外で足音がした。湿った土を踏む、重い音だった。北沢だと思ったが、声はかからなかった。

私は立ち上がり、玄関へ向かった。

戸を開けると、北沢が斜めに立っていた。手には古い懐中灯を持っている。昼間なのに点いていた。薄い黄色の光が、彼の腰のあたりで揺れている。

「朝から、囲炉裏を見ていたな」

「見ていました」

「火は」

「ありません」

「炭は」

「割れていました」

北沢は返事をせず、私の肩越しに家の中を見た。囲炉裏へ目を向けた瞬間、軍手の指先を引く。いつもの癖だった。

「入りますか」

「入らん」

「では、ここから見える範囲で答えてください。炭が一つから三つに割れることは、この家では普通ですか」

「炭は割れる」

「並べられることも?」

「風が動かすことはある」

「戸も窓も閉まっています。風の流れはありません」

「家は、閉めても息をする」

「それは建物の話ですか」

北沢は斜面へ目をやった。杉の枝から落ちた水滴が、彼の肩へ一つ落ちた。

「炭の割れ方まで記録するのか」

「割れた結果ではなく、割れたあとに何がされたかを見ています」

「何がされた」

「誰かが、三つに分けて並べた」

「誰かが、とは言わんことだ」

「では、何と呼べばいいんですか。風ですか。湿気ですか。家の呼吸ですか」

「言葉を選べ」

「選んでいるから尋ねています。北沢さんは、真柴家で同じものを見たことがあるんでしょう」

彼は懐中灯を消した。昼の光の中で、灯りを消す必要はない。それでも、何かを納めるような手つきだった。

「子どもの頃に、一度だけだ」

「何を」

「夜明け前の囲炉裏だ」

「火がありましたか」

「火はなかった」

「では、何を見たんです」

「炭が、並んでいた」

北沢の声は低かった。

「一つの炭が、三つに割れていた。イネさんは、それを見てから灰を整えた。俺は土間の外から見ていた。中へ入るなと言われていたからだ」

「誰に?」

「親父に」

「理由は聞かなかったんですか」

「聞いた。親父は、家の中で見たものを外へ持ち出すなと言った」

「それで、あなたは守った」

「守ったつもりだった」

北沢は自分の手を見た。荒れた指の間に、黒い土が残っている。

「でも、守るというのは、忘れることじゃない。毎年、同じ日に山へ入るたび、あの家の屋根が見える。見えるたびに、炭の白い割れ目を思い出す。口にしないだけで、消えたわけじゃない」

「イネさんは、何をしていましたか」

「灰をならしていた」

「それだけですか」

「それだけだ。火もない。家族も見えない。ただ、家族の分の茶碗が並んでいた」

私は黙った。

家族の分の茶碗。人の数より多く並べられた食器。旧・真柴家で見た、使われていない棚の整い方。誰もいないのに、誰かのために場所が空けられている。

「北沢さんは、真柴一家が死んだと思っていますか」

「死んだかどうかを、俺が決めることじゃない」

「では、どこへ行ったと思っていますか」

「家に残った」

短い言葉だった。

私は聞き返さなかった。聞き返せば、彼はまた口を閉ざすだろう。

北沢はしばらく立ったまま、家の中を見ていた。やがて、私の手帳へ目を落とす。

「書くなら、炭の数だけにしろ」

「それでは足りません」

「足りないものを、勝手に埋めるな」

「空白を残せということですか」

「空白には、空白のまま残す理由がある」

「その理由を知っている人が、誰も話さないから空白になるんです」

「話せば埋まると思うか」

「少なくとも、形は分かります」

「形が分かると、触りたくなる。触ると、持ち帰りたくなる。持ち帰ったものは、別の場所で名前をつけられる。そうやって、家のものが外へ出ていく」

「記録することが、奪うことだと言いたいんですか」

「奪うつもりがなくても、持っていけば同じだ」

「では、北沢さんは何をしているんです。私を案内し、話をし、ここへ来ることを止めながら、結局は私を家の前に立たせている」

北沢の肩がわずかにすくんだ。

「帰れと言えば、帰るのか」

「帰りません」

「なら、せめて間違った道へ行かせない」

「間違った道とは」

「火を、火だけとして見る道だ」

その言葉を残して、北沢は背を向けた。

山道へ下りていく彼の足音は、数歩で湿った地面に吸われた。私は戸口に立ったまま、彼が見えなくなった斜面を見つめた。

家の中へ戻る。

囲炉裏の炭は、三つのままだった。

私は新しい写真を撮り、灰の温度を測った。冷たい。科学的には、火が消えてから十分に時間が経っている。だが炭の割れ口だけは、指を近づけるとわずかに乾いた熱を感じた。

錯覚だと思う。

そう書きかけて、やめた。

錯覚と断じるには、私の手があまりに正確に同じ動作を知っている。

私は火箸を元の位置へ戻した。炉縁と平行に、先端をそろえて置く。今度は、指で木の縁をなぞらない。息も止めない。意識して、別の手順を選んだ。

それでも、火箸から手を離す直前、右の柄がわずかに内側へ滑った。

私は手を引いた。

土間の奥で、炭の一つが小さく鳴った。

割れたのではない。

割れた三つが、互いの位置を確かめるように、乾いた音を立てた。

私は手帳を開き、その音を記録した。

午後二時十六分。炭片、三個。接触音、一回。発生原因不明。

書き終えたとき、紙の端に黒い粉が付いていることに気づいた。

私の指は、まだ炭に触れていない。

粉は三本の細い筋になっていた。灰ならしの跡と同じ長さで、手帳の余白から、書いたばかりの文字へ向かって伸びている。

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炭の割れ方 - 灰の家 - 誰でも作家life